5-5 名前のない衝動
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どたどたどた、と激しい足音を立てて、ポルはオバサンの家に戻ってきた。
転げるようについてくるスティンには目もくれず、大股でリビングを横切り、壁のはしごをむんずと掴むと乱暴に上る。
「ポル嬢……」
スティンの弱々しい声がポルの背中を追いかけてきた。ポルははしごを上りきり、二階の廊下をすっ飛ばしてポルの寝室に続くはしごへかじりついた。
バン! と横引き戸を開けると、勢いで跳ね返ってきた扉に体をねじ込んで、部屋によじ登る。立ち上がるのももどかしく、ポルは血眼になって薄暗い部屋の隅々を見渡した。
寝床にしていた木屑の袋。部屋の角に置きっぱなしにされている、ポルが昨晩使った小さなランタン。
家の主であるオバサンはあまりモノを持たないタイプなのだろう。普通の家なら倉庫同然になる屋根裏部屋には、ほとんどなんにもモノがない。捜し物をする余地すらないくらいに。
こんな部屋のどこに忘れ物をするっていうんだ。ポルは心の中で誰にともなく悪態をつくと、二歩もあれば隅々まで歩ける部屋を行ったり来たりした。
そして木屑の袋の前で足を止めると、ロープで束ねられた四つの袋を腕いっぱいに抱えて、ずる、ずる、と動かす。探すとしたら、本当に寝床の裏くらいしかない――その時。
視界の端で、何かがひらひらと舞った。寝床と壁の隙間だ。
ポルは袋を放り出すとそのまま袋の上へダイブして、その隙間へむしゃぶりつくように右手を突っ込む。指先に、薄っぺらくてかさかさした感触。
しっかり掴んで、思い切り手を引き抜く。果たして、ポルの右手にはくしゃくしゃの新聞が握られていた。
そのまま体を捩ると、寝床の上へ勢いよく仰向けになる。丸まった薄カラメル色の新聞を引っ張って伸ばし、目を皿にして文面を見た。
新聞のタイトルは〝週刊ビリエスティ新報〟。去年末の発行だから、もう三ヶ月以上も前の記事だ。
大見出しは〝密輸組織が騎士団と衝突〟。ビリエスティの港で、密輸取引していたギャングかなにかと騎士団との大規模な抗争の最中に、放たれた火が港中に回って惨事になったとか、なんとか。
そのニュースを斜め読みしたポルの目に、その下の小見出しが飛び込んできた。
〝神帝戦争 エン国の都・夏京陥落〟
イースト大陸にある二国の戦争の話か。神帝戦争――エン国やイクノ神国と直接交流のある土地では、二国間の戦争にはずいぶん物々しい名前がついているらしい。初めて知った。
ポルは記事に目を寄せた。
エン国との国境を乗り越え、エン国軍を破竹の勢いで破っては南下していた神国軍。それがついに、エン国の南にある首都、夏京を陥落した。
これで、〝現在においてはほぼエン国皇帝、もしくはエン国政府との取引は不可能になったと言っても過言ではない〟――記事に書いてあるのは、そこまでだ。
エン国から見て、神国との国境は国の北端だ。そこから攻めてきた神国軍が、南北に長くてとんでもなく広大なエン国の、南部に位置する夏京を落とす。
それがどういうことか――ポルは頭の中に地図を描く。エン国は豊かで、資源も人口も多い。そんな国内を、国境の山脈を越え、気の遠くなるような距離を行軍し、それでなお途中の兵や国民たちを制圧できるほどの戦力。
よっぽど神国軍の数が多いか、いや、行軍途中にいたエン国民をみんな寝返らせたか。新兵器でもあるのか、はたまた恐ろしいほどの名将でもいるのか、他の国の後ろ盾があるのか――どれもありそうだが、どれだったにせよ分かるのは、エン国に〝勝ち目がなさそうだ〟ということだけだ。
勝ち目がなさそう、それどころか――この記事を読んだかぎりで想像すれば、夏京の位置から考えても、エン国全土が制圧されたといってもいい。
最悪の言い方をするなら、〝エン国は終わり〟だ。
ポルですらそう思うのだ。シェンがこの記事を読んだとき何を考えたか、もう想像に難くはなかった。
そのうえ、この新聞は何ヶ月も前のものだ。奇跡的にエン国が起死回生で神国軍を追い返してでもいなければ、それからエン国の民たちがどうなったのか考えたくもない。
いつのまにか、自分の脈が速くなっていることに気がついた。耳の奥で鼓動がうるさい。ポルは記事を舐めるように何回も読み直して、跳ね起きた。
絶対に、シェンを見つけなければならない。もはや、裏切られただとかそういう問題ではなかった。
背中についたおがくずを払うのも忘れて、ポルはすぱんっ! と部屋の戸を開けると、はしごに足をかけ、思い切り二階の廊下に飛び降りた。
「うわぁッ」
すぐそばでスティンの情けない叫び声がする。振り返ると、目と鼻の先にスティンがおろおろしながら立っていた。
「ポ、ポル嬢――」
ポルはかまわず、新聞をスティンの目の前に突き出した。とっさにのけぞったスティンはしばらく目を泳がせていたが、やがて視線が記事の文字列を追い始める。
ポルは食い入るように、スティンの瞳の動きを見ていた。神帝戦争の記事に差し掛かったところで、スティンの読むスピードが遅くなったのがわかった。
「ポル嬢……これは……?」
ポルはくしゃっと新聞を折りたたんで、自分の服にポケットがないことに思い至ると、スティンの白衣のポケットにそれを突っ込んだ。
『わかったでしょう?』
「あ、ああ」
『追いかけなきゃ』
「ま、待ってくれ」
ポルは八つ当たり気味にスティンを睨んだ。
スティンの声は困惑で震えている。
「シェン嬢はこれを読んで、急いでエン国に帰ろうと思った……と?」
『そうでしょうね』
「僕たちの荷物を全部盗んで」
『そうだってば』
「わ、わからない。今エン国に戻って、彼女になにかできるとでも……」
『できるわけないわよ。だからあの子を見つけなきゃいけないの』
「ち、違うんだ。シェン嬢が、本気で今からエン国に戻って何かしようと考えるだろうか? これを読んで、だぞ」
『これを読んだから、あの子は考えるわ。きっと……神国軍と戦うとか、そういうことじゃなくて。家族が神国軍に完全占領された母国でどんな目にあってるか分からないのに、自分だけここでのんびり暮らしていられると思う? あれだけツバメさんに食ってかかったあの子が、よ』
「そうかもしれないが……」
『そうじゃなかったら、これをうっかり部屋に置いていったからって、パフラヴさんからわざわざビリエスティの新聞を買っていくと思うの? そうでもしてこれを持っていなきゃいけない理由が他に思い当たらない』
「し、しかし、エン国に渡るのに今から役に立ちそうな情報があるようには見えない。情報が少なすぎる……そのうえ、あまりに古い」
『だからって、大事な情報に変わりないわ。私だって、同じ状況だったらこの新聞は肌身離さず持っていたいわね』
「じゃ、じゃあ、僕らの荷物を持って行く必要が必ずしもあったのか? 財布とこれだけ持っていけば、盗んだことに気づかれるまでの時間を延ばせたかもしれないのに……」
『カバンごと持って行くメリットなんて腐るほどあるじゃない。ちょっとした食料、売ったらお金になりそうなもの、毛布に油、なにより魔術書。あの子も、魔術に興味があって私たちについてきたの。あなたと同じ。あの子、やっとアルバート語が読めるようになったから、私のメモからなんとかして魔術を使えるようになるかもしれない、とか思ったのかもしれないわね』
ポルは苛立たしげに、短いため息をついた。
『魔術が戦争中のエン国に帰ったとき役に立つかもしれないって、出会ったばっかりの頃言ってたわ。本当にどうする気なのかは知らないけど、何が使えそうかわからないから、とりあえず全部持って行ったんじゃないかしら。合理的だと思うわ』
スティンはいまや、眉間にしわを寄せていた。
「いや、そうだろうか……僕のあずかり知らないシェン嬢の言葉があることは百も承知だ。だが、君の論はあまりに推測の部分が大きすぎる」
『推測だったらなんだって言うの? どうやって実証しろっていうのよ!』
ポルはついにスティンに噛みついた。
『今は推測しかできないから、証拠がそろうまでここでじっと待ってようとでも? それとも、仕方ないから全部諦めてここをこのまま発つつもり?』
「そうだ。だ……だめか? もし見当違いだったときに払うコストがあまりにも大きいと思うんだ、僕は……仮に彼女を見つけることができたとしても、シェン嬢から真意を聞き出せる可能性がそうあるとは思えないし、僕たちの荷物をすんなり返してくれるとも思えない。そうなったら、力ずくで奪い返さなきゃいけなくなる。そのとき、彼女と訣別しなきゃいけなくなるのは、君なんじゃないのか」
ポルは黙った。妙にスティンの言葉がずしんと重くて、思わず視線が下へ落ちていく。
『……魔術書』
「魔術書があってもなくても、どのみち〝魔女の一族〟を探さなければならない労に変わりはないだろう。君ほどの頭脳を持っていたら、あの本の内容はほとんど頭に入っているんじゃないか」
『……あなたの大切な資料だってあの中にあるのよ』
「僕はいいんだ、大体覚えているからまた作り直せばいい」
『それに、あの本を持っていたら、誰かが奪い返しに来るかもしれない』
「返してしまえばいいんだ。そしたら、シェン嬢は危ない目を見ずに済むはずだろう。少し僕らが〝魔女の一族〟にたどり着くまで遠回りになるのかもしれないが、どのみち遠い道のりなんだろう?」
ポルはスティンの顔を見上げた。硬くて険しい顔に、氷のような青い瞳の中でゆれる光がやさしかった。
ふっとよみがえる、前髪のあたりの痛み。王立図書館の地下でエルヴィーに詰め寄られた時、彼女の黒い瞳の中に見た熱い光と、彼のこの視線はよく似ている。
「やっぱり、君は彼女を見つけた暁に、魔術書や荷物を取り戻すつもりなんだ。それができたら、無一文の彼女をそのまま放り出すことになってしまう。彼女と本当に敵対することに……」
『違うの』
きっぱりと、ポルは言った。スティンの言葉を聞きながら、ポルの中の焦りはいつの間にか霧消していた。そしてそこに、身を切るような痛みが残っている。
これは、なんだろう。悔しいのとも違う。絶望感とも違う。寂しいのだろうか。いや、そんな単純なものではない。
とても温かいのに、焼けるように内側から身体を切る感情。それが、いかに自分にとってシェンが大切だったのか思い知らせてくれる。ずっと昔から血肉に刻まれていたように本能的な――もはやどんな言葉を使っても説明のつかない、衝動だった。今『違うの』と言ったのはポルの意識でない、その衝動だったのだ。
『さっき言った推測が、全部外れてても構わないの。カバンが戻ってこなくても、魔術書が戻ってこなくても、シェンが戻ってこなくても、いっそ構わないわ。旅は続けるつもりよ。でも……』
ポルは一瞬口をつぐむ。しかし、言葉を選ぶのをやめたかのように、すぐ再び唇を開いた。
『もし万が一、私のさっきの推測が当たってたら、シェンが今エン国に戻るのだけは止めなきゃいけない。仮にあの子が船で母国に帰れたとしたって、神国軍がむこうの港を押さえていないわけがないと思うの。神国軍に見つかったらきっと――殺されちゃうわ。危なすぎる』
「それは、そうだ」
スティンは頷く。ポルは震える指を一瞬ぎゅっと握ると、スティンの手に綴った。
『訣別なら、もうしてるも同然よ。だから私があの子を探してするべきことは、エン国に帰るつもりなのか聞く、それだけ。もしシェンが〝そうだ〟って言ったら、一緒に説得して。お願い』
「……わかった」
スティンが重々しく答える。
ポルはおもわず、ほうっとため息をついた。スティンの目を見ながら、自分に言い聞かせるように深く頷く。
『ありがとう』
「ああ。かまわない」
スティンは少しだけ笑った。
それを見て、ポルは手を伸ばすと、右の壁にあるスティンとルズアの寝室の戸をノックした。
こんこん――返事はない。
ポルはスティンを見上げた。
『……いるわよね?』
「さっき見たときはいたが……」
スティンは肩をすくめる。ポルはもう一度、戸に向き直った。
こん……
ノックをする手が少し当たったとたん、どん! どたどた……と部屋の中から荒々しい足音がして、がら、と突然横引き戸が開いた。
現れたのは、赤髪を下ろして粗末なシャツを着たっきりのルズア。鋼の刃のように冷たい軽蔑の視線で、ポルの顔あたりを見下ろしている。
輪郭を縁取る長い髪のせいで、彼はあたかも墓の下から蘇ったお化けみたいだ。平生なら話しかけたくもない顔だが、今はそうも言ってられない。
ポルはもぎ取るように、ルズアの手を掴んだ。
『やっぱり、シェンは私たちを裏切ったんだわ』
「だからなんだ」
ルズアは掠れてほとんど聞き取れないような声でつぶやく。
「分かりきったことを今更……」
『あなたの言うとおりだったって認める』
「それで?」
ポルは言葉に詰まる。だからなんだと言われれば、返す言葉がないのは確かだ。
しかし、
『カバンを取り返しに行くわ。あなたのものも入ってるもの。だから、シェンを探すのに協力してくれない?』
建前は案外すらすらと出てくるものだ、とポルは思った。
「意味がわかんねえな」
ルズアはせせら笑うと、扉を閉めようとする。ポルは両手でそれにかじりつくと、戸と壁の間に身体をねじ込んだ。
「邪魔だ」
ルズアはポルの脇腹を膝で蹴飛ばす。転びそうになったところを、ポルは痛みに顔をしかめながら戸にしがみついた。
ルズアの視線がさらに冷たくなる。
「あいつを探すかなんだか知ったこっちゃねえんだよ。俺が行って、何の役に立つってんだ? あ?」
ポルは片手で戸にしがみついたまま、ルズアの手に綴った。
『さっき教えてって言ったこと。教えて』
「はん、それだけかよ」
ルズアはくるりと背を向けて、だるそうにベッドへ歩いて行くと、枕にどっかり背を預けて足を組んだ。
「朝方、てめえらの部屋が静かになってしばらくした後だ。夜の雨が止んでなかったから、夜明け前だな。あいつの足音だけが、てめえらの部屋から下りてきて家を出て行った。わかんだろうが。あいつはお前が寝静まるのをわざわざ待って、頃をみてトンズラした。朝目が覚めてから思い立って消えたわけじゃねえんだよ。昨日の夜の時点で、そうするつもりだったにちげえねえ」
ルズアは部屋の入り口で絶句するポルにちらりと顔を向けたあと、ふん、と鼻を鳴らした。
「これで満足かよ」
ポルはしがみついていた戸からゆっくり身体を離すと、ため息をついて肩をすぼめた。一瞬ためらったあと、ゆっくり部屋に踏み入れて、ベッドに寝そべるルズアの横に立った。
『それ、何時くらい?』
「てめえは自分が床についた時間も覚えてねえのか、鈍臭女」
『あなたみたいに正確な体内時計を持ってるわけじゃないのよ。時計を見てなきゃわかんないわ』
「五時十分前」
言い切るルズアに、ポルはため息をついた。
『ほんと、バカみたいに正確ね』
「バカが吐かしやがる」
ルズアはまた鼻で笑う。
ポルはルズアを睨むと、
『ありがと』
踵を返して、部屋を出た。
少し荒っぽく横引き戸を閉めると、スティンの横を通り過ぎて一階へ向かった。
「ポル嬢」
スティンが声をかけてくる。
「どこへ?」
ポルは足を止めて振り返った。
『ちょっと、材料を調達しに行くだけよ』
言うと、ポルはさっさと一階に続くはしごを下りていった。
二階の廊下に、突っ立ったままのスティンが残された。
数秒後、スティンは夢から覚めたようにぴくりとして、そろり、静かに寝室の戸を開ける。
抜き足差し足で部屋に入ると、ルズアはまだベッドに寝そべったまま、腕で目元を隠していた。
「行けよ」
ぼそ、とルズアが言った。
「いや……」
スティンは戸にかけたままの手をもじもじさせる。
「あの、ルズア殿」
「うるせえな」
ルズアはやかましい蝿でも追い払うような口調で吐き捨てた。
それを尻目に、スティンは後ろ手で横引き戸を閉める。
「ポル嬢は、なんて言ってたんだ?」
「うるせえっつってんだろ」
「僕には、荷物やシェン嬢自身が戻ってこなくてもいいから、シェン嬢が今エン国に戻ろうとしてるのかどうかだけは確かめなきゃいけない、って言ったんだ。それで、もし戻るつもりなら、それだけは止めなければ、と」
スティンは心もち早口で一気にしゃべった。
ルズアは微動だにしない。
「話が読めねえな」
「そう、だな……」
とん、とん、と静かに歩いて、スティンは部屋の奥にあった小さな椅子の前に進むと、ゆっくり腰掛けた。
「シェン嬢がここを出て行くときに、昨日町中で手に入れた新聞を忘れていってな。エン国の都が陥落したと書いてあった。ポル嬢は、シェン嬢がそれを見て急いで国に帰ろうとしてるんだと」
「バカ言え。チビはアルバート語が読めねえはずだ」
「最近、随分頑張って読めるようになったみたいだったが」
「知るかよ。それにしたところで、今更国に帰ってどうするってんだ」
ルズアの声が少し大きくなる。スティンは至って落ち着いた声で、
「ポル嬢も言っていた。シェン嬢が今更母国に帰ったところで何もできない、と。しかし、それでもシェン嬢は帰ろうとするだろうって……」
ルズアは黙っていた。
何か考えているようだったが、しばらくしてぼそりと、
「はん、チビもマヌケじゃねえかよ」
「手がかりを残していったことが?」
「あぁ……いや、違うな」
ルズアは一瞬言葉を切った。その口の端が、徐々に嘲り笑いの形へ変わる。
「あのクソチビは本気じゃなかったんだ。本気でトンズラするつもりなら、うっかりでもそんな置き土産をするわけがねえ」
「じゃ、じゃあ、シェン嬢はわざと僕たちが追いかけてくるように仕向けたって言うのか?」
スティンが声を低めて、怪訝な顔で問う。ルズアは半分寝返りを打つと、スティンに背を向けて枕に沈んだ。
「あの鈍臭女を潔くほっぽってここに置いていくタマなんか、クソチビにゃあなかったってだけだろうが。国に帰るにしろ帰れねえにしろ、チビはそれをてめえで決めきれねえからって、あの鈍臭女に投げやがった。わざとやってんのか知らねえが、ちったぁそういう魂胆があるのに違いはねえ」
「つまり、シェン嬢はここを出て行っておいて、まだポル嬢の元を去るべきだったか迷っている……だから手がかりをうっかり残すようなミスをしたのだと」
「そうだっつってんだろ」
ルズアはこちらに背を向けたまま大あくびした。
「踏ん切りもまともについてねえくせに出て行って、ポルの野郎に万一捕まりでもするなら諦めるつもりがあんだろ。どっかにな」
「……なるほど」
スティンはまだルズアの言ったことが半分飲み込めない表情で、もっともらしく頷いてみせた。
ルズアは見向きもしない。
しばらく、居心地の悪い沈黙が流れた。
「……あいつ」
ぼそ、と、ルズアがゆっくり口を開いた。
スティンが慌てて聞き返す。
「あいつ?」
「あの鈍臭女。俺には〝荷物を取り返しに行く〟って言いやがった」
「……え」
スティンの表情が凍り付く。ルズアは、はん、と鼻で笑った。
「クソチビを止めに行くってえのが鈍臭女の本音だったとして、あいつがクソチビを捕まえて、そこでケンカ別れすることになっても構わない、なんざ心の底から考えると思うか?」
「ど、どうだろう」
スティンはあわあわ言い出した。ルズアは少し振り返って、一瞬スティンを睨んだ。
「考えるわけねえっつってんだよ、このタマなしモヤシ野郎。ポルの野郎もポルの野郎で、チビを止めに行ったあげく、二度と口もきけねえような仲になってもいいってぇ覚悟がねえんだろ。俺の荷物が入ったカバンを取り返さなきゃいけねえなんて、もっともらしい口実をつけでもしなきゃ追いかけられねえんだ」
スティンがおそるおそる口を挟む。
「でも……」
「卑怯な女ども」
ルズアがスティンの言葉をかき消すように。大声で言った。
「まともに肚も括れねえうちから、よく考えもしねえで動きやがる。それで、肚が括れなかったぶんの後始末は他人につけさせて」
スティンは黙っていた。すると、ルズアはベッドからゆっくりと上半身を起こした。
「浅はかな野郎どもめ。だから旅の道連れだからって信用すんなっつったんだろうが。そう言うと突っかかってくるくせに、やつらはこう平気でいい加減な嘘と言い訳と御託を並べて都合のいいようにものを言いやがって」
ぶつくさ文句を垂れながら、ルズアはベッドから立ち上がった。足下に置いてあるサンダルを蹴散らし、ベッドの影に放ってあったブーツを引き寄せる。
スティンはただ彼の動きを、ポカンと眺めていた。
「どいつもこいつも猫も杓子も、バカみてえに考えもしねえで、くそったれ。だから女どもはめんどくせえつってんだ。そのうえ大して肝も据わってねえくせに、やることだけはでかくていやがる。タマなしめ。そのうえ能なしで根性が腐ってる。せめてあのクソチビはもうちょっと頭がキレるかと思ってたが、とんだ見込み違いだぜ。こんなクソみたいな出来レースの茶番をやりやがって、何の意味があんだ、あ? 時間の無駄だ。王立大学とかいうのは目の前にあるってのによお、あいつらの目の節穴にゃあウジが住み着いて脳みそまで食っちまいやがった。おかげでいつまで経っても目的地に着かねえ――おい、ボサッとすんなタマなしモヤシ。行くぞ」
「はぇ?」
突然自分に向けられた罵倒に、スティンは慌てて答える。
見ると、いつの間にかルズアは、普段の風呂上がりみたいなよれよれのシャツからきちんとした格好に着替えていた。
動き回っても絶対に脱げない、長めの黒革ブーツ。灰色の襟付きシャツに、ダークグリーンの乗馬用ズボン。
剣はきっちり革のベルトで腰から吊って、仕上げにルズアは、ボサボサの長い赤髪を乱暴にすくと、細い布きれで器用にくくり、部屋の戸に手をかけた。
「ど、どこに行くんだ」
スティンは慌てて立ち上がると、間抜けな質問をルズアの背に浴びせた。
ルズアはちらりと振り返って、気怠そうにがらがら……と戸を開ける。
何も答えず、ルズアは部屋から出て行った。
「……〝俺が行ってなんの役に立つんだ〟とは言ったくせに、行くのか」
スティンはわずかにほっとした顔で小さくつぶやくと、壁に立てかけてあった大槍を背負うと、つんのめるようにルズアのあとを追いかけた。
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