5-4 立つ鳥は跡を


 **********



 翌朝、ポルが眠りから覚めた時には、シェンの姿がなくなっていた。

 寝床の妙な広さを感じて、ポルはまぶたを開ける。目の前に迫る低い天井。ちょっとしたウォークインクローゼットくらいしかない、狭い部屋。

 天井のきわにある格子窓から、日の光が薄い布のように差していた。昨晩は前のよりひどい大雨だったが、今日はまた晴れているらしい。

 ポルは上体を起こした。背中がちくちくする。木くずをぎっしり詰めた大袋を四つ並べただけの寝床だから、木くずが寝間着に入りでもしたのだろう。

 不安定で狭い寝床だったのだが、不自然なほどやたら身体の自由がきく。寝ぼけた目を擦ってあたりを見回す。

 シェンが先に起きていってしまうのはいつものことだが、何かが足りない。

 ――ポルのカバンだ。いつも万が一のために、しっかり両手で抱えて寝ているカバン。

 どうりで寝床が広いわけである。困った、カバンがないと何もできない。

 いやしかし、とポルは思い直す。この町では炊事は家の外の共同炊事場でするのだから、シェンがカバンを持っていち早く朝ごはんを用意しに行ってくれているのかもしれない。

 だとすると、とってもありがたい。シェンは半分趣味でやっているのか、宿で炊事場が借りられるとよく朝ご飯をつくってくれる。それがまあ、感激するくらい美味しいのだ。思い出すだけで腹が鳴る。

 ポルはうーん、と伸びをして、寝間着の背中についた木屑を払った。寝床からもそもそ降りて、横引きの戸をがらりと開ける。

 足元はすぐに急なはしごになっていて、ずいぶん低いところに下の階の狭い廊下が見える。木のうろから抜け出るリスみたいな気分で、ポルはくるり向きを変えてはしごに足をかけると、いそいそと下りた。


 狭い廊下に足を下ろす。

 振り返ると、右手にやはり質素な横引き戸があった。ルズアとスティンが寝泊まりしている部屋だ。

 とんとん、ポルは戸をノックした。

「どうぞ」

 中から、くぐもったスティンの声が聞こえる。ポルはがらりと戸を引いた。

「お、おはよう。ポル嬢」

 ポルたちの部屋よりいくぶん広くて天井の高い部屋の奥から、スティンが返した。

 寝間着の上に白衣を羽織り、部屋の隅にある小さな木枠付きのベッドに腰掛けていたスティンは、立ち上がると眠そうな目を瞬いてこちらにやってくる。

 ベッドの奥では、髪をほどいたルズアが壁にもたれた格好でうつらうつらしていた。

「どうかしたか?」

 ポルの目の前で、スティンはニコニコしながら言った。

 ううん、とポルは首を振ってみせる。彼の手を取って、綴った。

『シェン、いつ出ていったか知らない?』

「いや、知らないが……いないのか?」

『うん。朝ご飯作りに行ってくれてるのかしら』

「だろうな」

 スティンがうなずく。ポルはふわっとあくびをした。

『今日、この町を出発するからね』

「あ、ああ。心得ている」

『ドレッドフェールまで下ることを考えると、午前のうちには出発した方がいいわよね』

「そうだな。野宿もしなくて済むかもしれないし……」

 スティンは考えるような仕草をする。ポルはうなずいた。

『じゃあ、そうしましょう。ルズアにも言っておいてくれる?』

「わかった」

『それと……シェンが戻ってきたら教えて。私、眠くて……』

 ポルがもう一度、大きくあくびをした。

「もう一回寝るのか?」

 きょとん、とスティンが聞き返す。

『うん。昨日も夜更かししちゃったのよね……シェンが黙ってカバン持って行っちゃって、何にもすることがないし』

「そうなのか。もうすぐ戻ってきてくれればいいが……」

『そうね。今何時?』

 スティンは羽織っていた白衣のポケットから、懐中時計を取り出した。

「六時過ぎだ」

『まだ時間はあるわね。あなたは眠れたの?』

「いいや……うーん」

 スティンは目を泳がせて言いよどむ。

「食事を調達してから、ここを出るまでに少し眠ろうかと思っていた」

『あらまあ』

 ポルは眉尻を下げてみせる。

『あなたの方こそ眠らなきゃ。もし今から寝るなら、ルズアに言っておいてくれない? シェンが戻ってきたら起こしてって』

「わかった。僕はもう少しやりたいことがあるから、まだ起きているが」

『寝不足は研究の敵よ』

 ポルはふふ、と笑う。スティンも笑い返した。

「心得ているさ。じゃあ……おやすみ」

『ええ。おやすみ』

 ポルはそう言うと、あくびをしながら扉を閉めた。


 くるりと踵を返して、もう一度はしごを登る。がらがら……と横引き戸を開けて屋根裏部屋に入り、もう一度ゆっくりと木屑の袋に寝そべった。

 体を捩って、すわりの良い位置を探す。少し背中が痛いことを我慢すれば、それほど寝心地が悪いわけでもない。ポルは目を閉じた。

 そういえば――昨晩も魔術の研究で夜更かししていたから疲れて熟睡してしまった、とはいえ、カバンを持って行かれたことに全く気がつかなかったのはまずい。

 アーラッドで財布を盗まれた時のことを思い出す。今回は持って行ったのがシェンだからよかったものの、ルズアが知ったら絶対に目くじらを立てて怒るだろう。

 なんとかして、眠っていてもカバンに手を出されたら絶対に目が覚めるような方法を編み出さなければならない。でないと、わざわざカバンを抱えて眠っている意味がないから……

 ポルは考えながら、とろとろと眠りに落ちていった。



 **********



 こんこん。

「ポル嬢。……ポル嬢」

 どこからか、控えめなノックの音がする。

「すまない、ポル嬢……起きてくれないか」

 やわらかなスティンの声もする。まだ寝ていたい……

 こんこん。

「ポル嬢」

 ポルはぱっちり目を開けた。まぶたを強く瞬いてぼんやりする頭をはっきりさせる。

 意を決して思い切り起き上がり、とん、と寝床から降りた。手を伸ばして、がらり引き戸を開ける。

 スティンが引き戸の脇から頭だけ出して、ポルを見上げていた。

「おはよう、ポル嬢」

 ポルはごしごし目をこすると、スティンの手をつついた。

『今何時?』

「ああ……十時なんだが」

 ポルはむせ込んだ。

『十時⁉』

「ああ。シェン嬢が全然戻ってこないから起こしに来たんだ……」

 スティンは困り顔だ。

『まって。降りるわ』

 そう言うと、ポルは再び背中についた木屑を払う。先にスティンがはしごを降りたのを確認して、寝床の下に放ってあった靴を履くと、ゆっくり下の階に降りた。

『どうしちゃったのかしら』

 ポルはスティンの顔を見上げる。スティンは首を振った。

「見当もつかない」

『モナと出かけたのかしら……にしても、カバンくらい置いてってくれなきゃ困るわ。分かってるはずだけど……』

「モナって、あのバルバロ一座の?」

『そう』

 ポルは頷きながら考える。

『どこかで迷って、戻ってこられなくなったのかも』

「そうなると、こちらも探す手立てがないぞ」

 スティンの声が焦りを帯びる。

『そうなのよね……モナと出かけてるだけなら、戻ってこられないはずないからいいんだけど』

「探しに行くか?」

 スティンとポルの視線がかち合う。

『ルズアはどこ?』

「ルズア殿か? 彼ならさっき出て行ったが……」

 その時、キイィ……と玄関扉のきしむ音がした。

 ポルとスティンは慌てて、階下につながるはしごに駆け寄る。下を見ると、ルズアがどかどかと入ってきたところだった。

「ルズア殿!」

 スティンが声を上げるのと同時に、ポルはするするはしごを降りていた。ルズアが三白眼でこちらを睨め上げる。

『ねえ、今どこ行ってた?』

「どこだっていいだろ」

 ルズアはポルを追い払うように言い捨てた。ポルはかまわず、

『シェン見てない?』

「は?」

 ルズアは眉をひそめる。

「まだいねえのかよ、あいつ」

『そうなの。どこかで迷ったんじゃないかと思って』

 ポルは耳をそばだてる。オバサンはこの部屋にはいないが、家の奥から水音がする。奥の水道で、水仕事でもしているらしい。

「んーなもん、アレで探しゃあいいじゃねえか」

 面倒くさそうにルズアが言った。今度はポルが眉をひそめる。

『魔術?』

 ルズアはうんともすんとも返さない。ポルは腹をくくった。

『魔術、使えばいいんだけど……すぐには無理よ。紙もペンも、全部シェンがカバンごと持って行っちゃってて』

「あんだと?」

 ルズアの眉間に、びきびきと音がしそうなくらい青筋が立った。ポルは早くも、今言ったことを後悔した。

「てめえはまんまとあのクソチビにカバンごと盗られやがったのか? 一回はどこぞで財布盗まれてるってのに? てめえ……」

『まってよ、盗まれたとは言ってないじゃない!』

 ポルは慌てて言い返す。

『朝ご飯を用意しに行ってくれただけだと思うわ。炊事場でご飯用意するのに、いろいろ必要だし……』

「そうじゃねえから戻ってこないんじゃねえのかよ。平和ボケしやがって」

『だから、帰りに迷って戻って来れなくなったのかもって言ってるでしょ!』

「あのチビがそんなマヌケするかよ、てめえじゃねえんだぞ。だからあいつは信用ならねえっつっただろうが。てめえらがそう思っていつまでも追いかけてこねえのを見越して、黙って盗ってトンズラしやがったとは思わねえのかよ」

『逆に聞くけど、仮にそうだったとしたらどうやって追いかけろっていうのよ?』

「知るか。てめえが盗られたんだからてめえが考えろ」

『いいわよ。じゃあこれだけ教えて。シェンがそれでトンズラしたんだとしても、この家じゃ玄関まで降りないと外に出られないはずでしょう? あの子があなたの部屋の前を通る音が聞こえたりしなかった?』

「さあね」

 ルズアは吐き捨てる。

「てめえのしたマヌケの尻拭いなんか懲り懲りだ。本気で迷って帰ってこられねえだけだと思うんなら、勝手にてめえらで探せってんだよ。都合の良い時だけアテにしやがって」

『そ、それくらい教えてくれたっていいじゃない』

 ルズアはポルを無視してふいとそっぽを向くと、するするはしごを登る。はしごの上にいたスティンを押しのけて、さっさと二階の奥に引っ込んでしまった。


 ポルもスティンも、しばらくぽかんとしたままルズアの去った後を見つめていた。

 やがて、スティンが申し訳なさそうにはしごを降りてきて、ポルのそばにおずおずと立った。

『なんであそこまで言われなきゃいけないのよ……』

 ポルはスティンにぼやく。スティンは目をぐるぐる回しながら、

「ま、まあ、警戒心が強いに越したことはないのかもしれないが……」

『でも、いちいち仲間内まで疑ってたらキリがないじゃない』

「そ、そうかも……」

『だって、仮によ、本当にシェンが私たちの荷物を盗んで逃げたんだとしたら、きっと何か重大な事情があるんだと思わない? ただの悪意ある盗人じゃないわ』

「じゃあも、もししそうだとしたら、なおさら探さなきゃい、いけないな」

 はは、は……とスティンは乾いた笑い声をあげた。ポルはため息をつく。

『ええ、そうね。どのみち探しに行かなきゃ』

 そして、自分の着ている寝間着をつまんだ。

『……この格好で出歩くの嫌だけど』

 スティンもポルにつられて、自分の服を見下ろす。

「あ、あの……着替えてきてもいいか? 僕も一緒に探しに行くから……外行きの服、部屋にあるんだ」

『ええ、もちろん』

 ポルはもう一度ため息をついて、

『ねえあなた、あなたの部屋に白紙と書くものがないか見てきてくれない?』

「ああ、わかった」

 スティンは頷くと、自分がルズアに怒られたわけでもないのに、すごすごはしごを登って行った。



 待つこと数分。

 ポルはスティンが戻ってくるまで、リビングをうろちょろしながら書くものがないか探していた。いつも何気なく目にしているものにかぎって、いざ探すとなると全然見つからない。

 部屋の奥にいるオバサンに筆記用具がないか訊いてみようとしたが、思えばそれを書いて伝える筆記用具がない。

 ポルが途方に暮れていると、スティンがペンとインク瓶を持って降りてきた。いつものきちんとしたシャツとズボンに、白衣を羽織っている。

『あなたって四六時中白衣着てるわよね。お医者様だから?』

 ポルはつまらなさそうに訊いた。スティンはへろりと笑う。

「いや、そういうわけでは……地下暮らしの時はずっと着ていたから、着ていないと物足りない気がするだけだ」

『そんなもんなのね……』

「ま、まあ。ところでポル嬢……書くものだが、これしかなかった。昨夜は前に書いた資料をチェックしていただけだから、白紙を持って行っていなかったんだ……」

 心の底から申し訳なさそうに、スティンは銀軸のペンとインクを取り出した。ポルはペンをそっと取って、

『ねえこれ、すごく高級なんじゃない?』

「あ、ああ、気に入っている。姉さんが僕の誕生日に買ってくれたんだ」

『素敵だわ』

 ポルは銀軸のペンをくるくる回して観察すると、スティンに返した。

『ありがとう。紙が調達できたら使わせていただくわね……行きましょうか。あんまりゆっくりしてられないし』

 心を決めて、玄関度の方に向かう。スティンも頷くと、ペンとインクをそうっと白衣のポケットにしまって、身を縮めるようにしてついてきた。


 きいい……とドアを開ける。日が高くなったベスペンツァのむわりと温かい空気を、いっぱいに吸い込む。

 前の通りには誰もいない。ところどころに首輪をつけた小さな犬やニワトリが、ぼちぼち歩いている。ポルはほっとした。

『モナがいればいいんだけど』

 ぴょん、と玄関前の階段を飛び降りる。隣の家の前まで駆けていき、四角い小窓のついた木の玄関戸をこん、こん、ノックする。

「はあい」

 ドアの奥から男の子の小さな声。

 パタパタ足音がして、がちゃりとドアが開く。ピンピン跳ねた短い栗色の髪を揺らしながら、色白の可愛らしい男の子がポルを見上げていた。

「だれ?」

 ポルはようやく隣に追いついてきたスティンを小突く。スティンは思い切り飛び退いた。

「え、ええええっとそ、その、この家に泊まっている客人に、よよ用があって」

「きゃくじんにってなんだ?」

 男の子はきょとんとしている。スティンは目を白黒させた。

「お、お客さん、のこと……かな?」

「あー」

 男の子は手をポン、と叩いた。

「今、うちぁ俺しかいねえで」

 きょとんとするのはスティンの番だった。

「そ、そうか……その……それならいいんだ。出直してウワッ」

 スティンの白衣の袖を、ポルが思い切り引っ張った。大げさによろける彼の手に、

『どこに行ったのか聞いて』

「あぇっ……はい」

 スティンはしゃんと両足で立ち直した。

「あの、お客さんが、どこへ行ったか知らないか?」

「知んねーぇ」

 即答である。スティンが凍りついた。

 ポルは仕方なく、うんうん頷いてにっこり笑うと男の子に手を振り、スティンを引っ張って隣の家を後にする。

 ガチャ、と男の子が玄関戸を閉める音が聞こえた。

『まずは共同炊事場と、その周辺から順番に探しましょう』

「ああ」

 二人は、連れ立って前の通りを川の方へ歩き出した。


 今日も憎たらしいくらいの快晴だ。山の斜面を駆け下りて、家と家の間を吹き抜けるさわやかな風が心地いい。寝間着姿じゃなくて、こんな状況でもなかったら、さぞいい気分になっただろうなと思うと、ポルは余計にげんなりした。

 昨日も渡った川にさしかかる。川はまた昨晩の大雨で増水して、今日はしぶきが頬にかかった。

 ちょくちょくすれ違う町人は、白い高級リネンの寝間着姿で歩くポルを決まって振り返る。不思議なものを見るような目でじろじろ眺める者もいれば、医者と病人が歩いていると思ったのか、納得したようにそっぽを向く者もいる。

 ちょっとくらいずぼらな格好で出歩く人がいたってそんなに珍しがらなくても……と、ポルはひたすら心の中でぶつぶつ文句を言った。

 いくつもの道の角を曲がり、ポルは迷わずに歩く。昨日モナと一緒に町中を歩き回った時に通った道だ。


 やがて、狭い道の脇に突然ぽっかりと小さな空き地が現れた。

 空き地の上には木で雑に組まれた屋根が架けられていて、その下に、ごつごつの石を積んだだけの竈がいくつか、広い木のテーブルがひとつ、所狭しと置かれていた。

 人影はない。

『ここが共同炊事場』

 ポルが気落ちして言った。

 スティンはゆっくり炊事場の隅から隅までを見回して、

「シェン嬢、いるか!」

 控えめに呼んでみるものの、その声は竈に跳ね返るばかり。

 答えたのは、屋根の上で鳴くけたたましい鳥の声だけだった。

『……まあ、ね』

 ポルはスティンに苦笑いを向けた。まあ、ここで見つかるのなら探しに来る必要がなかったのと同じだ、と思い直す。

「次は、どこを探そうか……」

 スティンが控えめに言った。

 ポルは頭をひねる。出てきたはいいものの、正直町のつくりが入り組みすぎていて、探す場所の見当もつけられない。ここから闇雲に歩いて、自分たちが迷ったら終わりだ。

『……モナを探しましょう』

 ポルは踵を返す。スティンが慌ててついてきた。

「シェン嬢ではなく?」

『うん。モナなら町のことよく知ってるし、ついて来てくれなくたって町の地図がどこで手に入るかくらい教えてくれると思うわ。どのみちシェンを探すったって、ここからは当てずっぽうだもの。二人一緒に探しましょう』

「なるほど」

「ふーん。なにが?」

 いきなりすぐ後ろから声がして、ポルとスティンは飛び上がった。二人して坂道を転げ落ちそうになり、すんでのところで必死に踏ん張る。

 後ろをゆっくり振り返る。

 そこには、今日も昨日と同じ格好のモナが、してやったり顔で立っていた。

「そんなにびっくりしなくてもいいじゃん」

 モナは二人の肩をパンっ! と思い切り叩く。

 ポルは渋い顔をして、首を振ってみせた。

「ポル、なんで、パジャマなの? お医者さんと、パジャマパーティ?」

 モナはすたすた二人の前に歩み出ると、振り返りながら言った。

 ポルは足を止めて、その辺りの小石を拾い、屈んで地面に書いた。

『そんなわけないでしょ』

 モナはにやにや笑った。

「そぉかなあ」

『パジャマパーティならこんなところでしなくたって……』

「ほんとだ。じゃあ、なんで?」

『シェンがいなくなったの』

「ふーん。それ、関係ある?」

 モナはポルの横にひょい、と座った。

 スティンはポルの後ろでおろおろしている。

『あるわよ。シェンが荷物を全部持って行っちゃって』

「ポルの、服も?」

『うん』

「なーるほど」

 モナは足元に落ちていた小石を拾って、投げては遊び始めた。

「ポル、それって、盗られた、んじゃない?」

『……あなたもそう思うの?』

「も、って?」

『ルズアもそう言うの。私は、朝ご飯用意しに行ってくれて、帰りに迷ったんじゃないかって思うんだけど』

「ポルって、騙されやすいでしょ」

 ポルは黙り込む。数秒して、かわりにはあぁ……とため息をつくと膝に顔を埋めた。

 モナが追い打ちをかける。

「だって、見たらわかるけど、ポルって、たぶんお金、結構持ってる、じゃん? そんで、結構、隙だらけじゃん。そりゃ、そんな子が、同じ部屋で寝てたら、持ち逃げ、したくなるよ。シェンって、抜け目ないから、そういうこと、すると思うなあ」

 ポルはむっとして反論しそうになったが、何一つ反論の言葉が出てこない。

 一昨日会ったばかりのモナにそこまで見抜かれていることが、だんだん情けなくなってきた。

 助けを求めるようにスティンの顔を見上げると、ポルの顔のほぼ前上で、銀縁眼鏡の奥にあるアイスブルーの瞳と視線が合った。スティンはにこっと困ったように微笑むと、ポルから少しだけ距離をとって隣に座った。

 やっぱり、今回も私が間抜けだっただけなのか――ポルの気分が泥沼に呑まれるように、ずぶずぶと沈んでいく。

 一体何がいけなかったというんだ。旅仲間でさえずっと心の底で疑いながら過ごすのが普通なのか。信じるのって、そんなに間抜けなことか。そんなにバカなことなのか?

 ルズアやモナに言ったら、今の疑問には全部イエスと返されるだろう。きっとスティンだって、横でにこにこしてはいるが、モナやルズアと同じように思っているのかもしれない。

 バカみたいだ。いっそ何も信じられなくなってきた。シェンを連れてきたことが、もうすでにヘマの始まりだったなんて思いたくない。私でもなければ、ひとり旅で身体を痛めた年下の少女に同行をお願いされても、あっさり断るものだっていうのか。

 いやいや、とポルは小さくかぶりを振る。

 仮に、彼女に同行を許したことが非常識だったとしよう。それにしても、こうなることを防ぐ手立てはいくらでもあったはずだ。

 最初から、シェンはこうするつもりだったのだろうか。じゃあ諦めさせることができればよかったんだ。それとも、道半ばでこうしようと決意することになったのか。それなら何がきっかけで?

 記憶を掘り返す。

 アーラッドの街道の入り口で、ポルの後ろを歩くシェン。あの時の顔をちゃんと見ておけばよかったのか。

 王立図書館の地下室、極寒の暗闇の中で震えるシェン。あの時ルズアとシェンを巻き込んで盛大に騙されたポルのことを、彼女はきっと心底軽蔑しているだろう。

 ポルの提案で聖書を必死に暗記するシェン。燕宮に飛び掛かったところをポルに止められ、憎悪の視線を向けるシェン。馬車に轢かれかけたポルを呆れ顔で止めるシェン。ポルと二人で、マリーの家の台所から盗み食いをしながらいたずらっぽく笑うシェン。王都の宿で、煮え切らないポルの態度に金切り声をあげて怒るシェン……

 何も信じられないなんて思ったくせに、シェンのことだけは意地でも信じようとする自分に気づいて、ポルはますます頭を抱えた。

 一体何を疑っているんだ、自分は。シェンでないとしたら誰を? 

 満足に彼女に信頼してもらえなかった自分自身を? それとも、シェンが裏切ったのだと言ってきかないモナやルズアを? 何も言わないスティンや、無数にいる未知の他人を?

 やっぱりどう考えても、シェンを疑うのがいちばん自然だ。こんな時に自分自身を疑ったって、何の問題も解決しない。何の現状も打破できないのだ。

 ポルは髪を思いきりかきむしった。

 裏切られたのだ。今のこの現状は、それ以外のなんでもない。モナやルズアの言う通りだ。

 漠然として限りなく重い後悔とやるせなさが、真っ黒な毛布みたいに上から上から圧し掛かってきて、ポルの身体をぷちりとつぶす。騙された時の身を切るような悔しさとは、似ても似つかない感覚だ。

「ポル、だいじょうぶ?」

 モナが、ポルの顔を覗き込むように声をかける。

 ポルはふらりと顔を上げた。吐き気がする。目を瞬いて、意図せず出てきそうになった涙を押し戻した。

『……どのみち、探しに行かなきゃ』

「そう。荷物全部、盗まれちゃったら、さすがに、困るもんね」

 さも他人事と受け流すモナに、ポルは頷いてみせた。正直、そんなこと今はどうだっていい――とは言わない。しかし、なんでシェンが自分たちを裏切ろうと思ったのか。何でもいいから、それだけでも知りたかった。

 藁をもつかむように、ポルは立ち上がった。後ろでモナとスティンも立ち上がった音がする。

「しょーがないな、ポルは。あたし、バルバロのとこ、行くところだったし、何かないか、聞いてみよ」

 そう言ってモナはひらりとポルの前に躍り出る。そして、たったかと坂を下って歩き出した。



 細い路地を入り、右へ、左へ。ポルたちの宿の近くにある橋とは違う、細くて危なっかしい木の橋を渡り、坂を上ってずんずん進む。

 異国風の服を着たモナに寝間着のポル、いかにも医者らしい格好のスティンが並んで歩いているものだから、宿を出てきたときより人目がきつい。すれ違った子どもが「今日ってお祭りなの?」と不思議そうにつぶやくのが聞こえた。

 その時、

「おーい、モナ!」

 道の先から、男の太い声が響いた。

 正面を見ると、三人の男が道を塞ぐように広がってこちらへ歩いてきている。

 ツルピカ頭を光らせたバルバロと、帽子の影で表情が読めないドニ。そして、今日はラバを連れずに自分で大きな荷物を背負っているパフラヴ。

 バルバロが、こちらに大きく手を振った。

「お嬢ちゃんたちもいるのか! モナが世話になってるな!」

「探してた!」

 モナが叫び返して、男たちに走り寄る。

 ポルとスティンもその後を追った。

「ねえ、聞いて。シェンが、ポルたちの荷物、持って逃げちゃったん、だって」

 ポルたちが追いつくと、モナがすでにバルバロに事情を話していた。それは言わなくたって……と、ポルはこっそり顔をしかめた。

 バルバロが険しい顔になる。

「シェンって?」

「あの、辻馬車で、アジサイあげた、女の子」

 モナが言うと、バルバロは目を皿のようにして、

「ああ、あのチビちゃんが。どうして?」

「わかんないから、困ってんだよ」

「そりゃそうだな。困った」

「何か、探す方法、ない? 手がかりでも、いいよ。何でも、いいから」

 モナは手を広げて力説してみせる。

 バルバロは顎に指を当てて考え込んだ。

「うーん……この町の知り合いに声かけて、伝言ゲームで情報を広めてもらう。ねずみ算式に。どうだ? それくらいしか思いつかないぞ……」

「……あのぉ」

 突然、パフラヴが口を開いた。全員がそちらを振り返る。

「その子って、昨日あんたらと一緒にいた子か? あの一番小さい」

 パフラヴが、もじゃ髭の向こうからポルを見る。ポルは何度もうなずいた。

「その子なら、朝たまたま会ったぞ」

「えっ⁉」

 スティン、モナ、バルバロが同時に叫ぶ。思いがけない情報に、全員がパフラヴの方へ身を乗り出した。

 パフラヴは全員の顔を見回すと、半分裏返ったような甲高いしわがれ声で、

「ああ。宿出てぶらぶらしてた時だから時間は分からんが。昨日あんたらにあげた新聞あっただろ? あれを〝宿に忘れたから、まだ持ってるなら一枚買い取らせてくれ〟って」

 ポルは、モナやスティンと視線をちらちら交わした。

「それで?」

 モナが言うと、パフラヴは深くうなずく。

「持ってたから三百ベリンであげたんだ。ビリエスティの新聞一枚」

 さび付いたように重かったポルの頭の中が、急にうなりを上げて動き始めるような気がした。

 ポルは古い記憶を掘り返すのをやめて、昨晩の新しい記憶を引っ張り出す。

 そういえば、シェンは寝る前、寝床でごろごろ横になりながらランタンにかざして新聞を読んでいた。部屋の隅で本や資料を広げていたポルには、あたりが薄暗すぎてシェンがどの新聞を読んでいるのかまではわからなかった。

 昨日山のようにもらった新聞は、ポルが寝るときに全部カバンに片付けた。だから、昨日もらった新聞のほとんどは今シェンがカバンと一緒に持っているはずだ。

 ビリエスティの新聞を、わざわざパフラヴから買っていったということは? 

 シェンが昨夜寝床で読んでいたのはビリエスティの新聞で、それだけポルが寝る前に片付けそびれた。だからシェンが持って行ったカバンの中にはビリエスティの新聞だけなくて、そのことに宿からトンズラした後で気がついて、それでパフラヴを探し出してビリエスティの新聞を買った。

 ポルたちがたどり着くかもしれない場所に手がかりを残してでも、昨晩読んだビリエスティの新聞が手元にないと困るから。

 本当にシェンがポルから荷物を盗んで完全に姿をくらますつもりだったとすれば、よっぽど大事な用のあるものでなければ、そんなことをするわけがない。下手したらパフラヴの情報から足が着いてしまう。

 でも、シェンがそんな危険を冒してくれたのは――こちらには好都合だと言わざるを得ない。精一杯利用するまでだ。

 ポルは屈んで道ばたの石を拾うと、一歩下がって地面に書き殴った。

『ありがとう、いい情報だわ。なんとかなりそうな気がする。情報料は次会った時言い値で払うから……本当にありがとうございます』

「お、おお。こんなんでいいのかね」

 パフラヴは首をかしげながら言った。

 ポルは激しく頷いて、石を放り投げると、スティンの白衣の袖をむんずとつかんで踵を返した。

「ねえ、また戻ってきてよお、ポル」

 モナの無邪気な声が背中にかかる。

 ポルは少し振り返って大きく手を振ると、スティンを引っ張って勢いよく元来た道を走り出した。


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