5章 海風の見たもの
5-1 馬車乗り歌姫
風が吹いている。
北風だ。あたたかい。春が来たのだろう。
あたりには一面に、草原が広がっている。行く手の先はなだらかに盛り上がっていて、やがて長く横たわる緑の山脈に続く。ところどころ、遠くの方に青い麦の波打つ麦畑があって、ポルのいるところからだとまるで小さな緑色の池にも見えた。
天気はポカンとした快晴の青空。目を開けていられないくらいに白い陽光が、緑の大地をちらちら光らせている。エコールのあの控えめな晴天とは、似ても似つかぬ空模様だ。
ポル、ルズア、シェン、スティンの四人は、短い草の踏み固められた田舎道を、歩くともなくちんたらちんたら進んでいた。
エコールを辻馬車で出発して、マリーの言う通り、少し南に下った町ブールトまで。そこで一泊して、少し歩いて、また辻馬車で南に下ってきた。
次の目的地は、ベスペンツァという山あいの町。そこを越えれば、王立大学のある町ドレッドフェール。
燕宮が「ウエスト大陸の言葉に詳しい旧知の学者がいる」と話していたが、その人物はドレッドフェール王立大学にいるのだそうだ。
マリーが言うには、ブールトからベスペンツァまでは辻馬車を乗り継いで、途中で一泊しながら行くことになっていた。
しかし、運が悪かったのか、ブールトから乗った辻馬車がポルたちを下ろしたのは、何にもない草原のど真ん中。三百六十度緑ばっかりで、泊めてもらえそうな建物どころか人っ子一人いなかったのである。
仕方なく歩きながら、野宿をし、野宿をし、新しい辻馬車を探して南に下ってきた。
やっと見つけた通りがかりの人に聞く限り、ここいらには辻馬車が来るらしい。
といっても、駅舎らしいものは見当たらないし、目印があるわけでもなく、本当に「このあたりに来る」というだけなのだろう。
見渡す限り、青い空と白い雲と緑の草原。
青、白、緑、ぎらぎらした原色は目に眩しいうえに、延々同じ景色ばかりでいやになる。
からりと乾いた風。わずかに草の匂いがするほかには、なんの香りもしない空気。
あまりに広くて、人も動物もほとんどいない。ポルはさすがに少し暑くなってきて、コートを脱いでカバンに突っ込んだ。
エコールに来るときだって、同じような景色ばっかりだったのに――とポルは思う。
でも、よく考えてみれば、あの時は進むのに必死で周りをちゃんと見ていなかった。おまけに、エコール特有の強い風で前を見るのもやっとだったのである。
エコールの風と比べたら、ここいらの風の頼りないこと!
これだって、エコールから吹いてくる風のはずだ。それなのに、ここまでくる間にきっと広い草原に散り散りになって、所々にあるゴツゴツした岩場に勢いを削られ、ぼんやりとした情けない風になってしまうのだろう。
ポルはため息をついた。
つまらない。全然つまらない。
旅に出てからこのかた、こんなにつまらなかったのは初めてだ。
周りを見ると、仲間たちは今や進む気もないようだった。
スティンはポルの一歩先で、ポルと同じように遠くをぼんやり眺めながら黙りこくっている。
ルズアはというと、ポルたちのはるか後ろの方を、落ちていた石を蹴りながら歩いていた。黒いコートを脱いで肩に引っ掛け、中に着ていたグレーのシャツの袖をまくって身軽な姿だ。
シェンに至っては、ポルたちの少し先の道端にどんと座り込んでいる。草の生えていないところを見つけて、鼻歌を歌いながらそこへグリグリと小石でひたすら何か書いていた。
短調とも長調ともつかない不思議な鼻歌のメロディは、きっとシェンの母国の歌なのだろう。
ポルは目の前にいたスティンのコートの袖を、ぐいと引っ張った。
『暑くない?』
スティンは振り返って、ぐるぐると目を泳がせた。
「そういえば……あ、暑い、かもな」
『コート脱いだら?』
「あ、ああ」
スティンは担いでいた大槍を下ろして、もじもじとコートを脱ぎ出した。ポルが彼の目の前にカバンを広げてあげると、スティンはそこへ自分のコートをきっちり畳んで入れる。
ポルがカバンを肩にかけ直すのと同時に、スティンも大槍を背負い直した。そして二人同時に前を向く。すると、また緑と青だけの景色が目に入って、同時にはあ……とため息をついた。
ポルとスティンは顔を見合わせる。
ポルは面白くなって、ふふふっと笑った。スティンはそれを見て、困ったような顔でそっぽを向いた。
少し笑ったおかげで、多少は気力が戻ったような感じがする。ポルはもう一度前を向くと、ちょっとだけスピードを上げて歩いた。
太陽の位置は、もう少しで天頂だ。
真昼になったら少し休もう。いくらなんでも、そろそろ足が棒になりそうだ。
「ポルさン」
ふいに、足元からシェンが声をかけた。
いつのまにか、先に座り込んでいたシェンのところまで追いついていたらしい。シェンは文字を書いていた地面を石でコツコツ、とやってみせた。
「〝干しぶどう〟って、どうやって書くんですカ?」
ポルはシェンの手元を覗き込んだ。そこには覚束ないアルファベットで、〝火を 起こして〟〝牛乳 を 煮ます〟〝オットミール を 入れる〟 〝よく まぜる〟……延々と、マリーの家で食べたオートミールのミルク粥の作り方が書いてあった。
ポルは足元にあった石をとって、シェンの横にしゃがみこむ。スティンがその上から地面を覗き込んだ。
ポルはシェンの足元に〝干しぶどう〟と書いてやる。シェンは顔をしかめて、ミミズののたくったようなポルの字を眺めていた。しばらくして、さっき書いたレシピの続きに〝干しぶどお を 入れる〟と書く。
「いてっ」
突然、隣のスティンが声をあげた。
シェンがスティンの顔を振り返る。
「どうしましたカ」
「なんか、足に石が……」
言いながら、スティンは辺りをキョロキョロする。
ポルたちもつられて見回す。
三人の少し後ろで、ルズアが石を蹴った姿勢のまま、こちらを仏頂面で睨んでいた。
ルズアは蹴り足を戻すと、ぐいっと背後を親指で指す。
ポルとシェンは、立ち上がって首を伸ばした。
すると、自分たちが今歩いてきた道のはるか後ろから、ぽつんと一台の簡素な馬車がやってくるのが見えた。
「ほ、本当に来た」
スティンがつぶやく。
「いや、本当にあれなんでしょうカ……」
シェンは猜疑の目で、馬車を睨めつけている。
ルズアがあとからゆっくり追いついてきて、四人は馬車が来るのを立ったままぼうっと待った。
果たして、それは本当に辻馬車だった。
筋骨隆々の大きな茶色い馬二頭が引くのは、大きなリヤカーに木枠をくっつけて、適当に麻布の幌をかけたような簡単な馬車。
ぎい、ごととん、ぎい……と不安な音を立てながらのんきな速さで近付いてくる。
もすん、もすん、もすん、馬の足音が聞こえるくらいの距離になると、辻馬車に先客が数人乗っているのが見えた。ポルは少し顔をしかめる。
そして思いきり背伸びをすると、辻馬車の御者に見えるようにこれでもかと手を振った。
ききぃ……ごっとん。
大仰な音とともに、馬車がポルたちの目の前へ止まった。
御者は黒いごわごわのヒゲに、巨大なツバの帽子、汚れた吊りズボンの若い男。
リヤカーのふちに板を据え付けて、クッションを敷いただけの御者台に腰を下ろしている。
御者は一、二、三、四、とポルたちを指差しながら数えた。そして四人全員を上から下までじろじろと眺め回し、重低音でボソリと言った。
「どこまで?」
「ベスペンツァでス」
シェンが答える。御者は数秒黙っていたが、やがてさっと手を出す。
「一人八千ベリン」
ぼったくられたな、とポルは思った。
エコールからブールトまで、丸一日かけた辻馬車の旅で四千ベリンだった。それなのに、ベスペンツァは今目の前にある山の稜線のすぐ向こう側だ。辻馬車の値段は御者の言い値だから、他の馬車と比べるのもナンセンス――だからって、いくら何でも割に合わない。
ポルはなんだかどっと気が重くなった。御者は早くしろ、とでも言わんばかりに手を突き出してくる。
ここでゴネても体力の無駄だ。マリーたちがくれた路銀は、まだたんと余っている。
ポルが財布を出そうとカバンに手をかけたその時、シェンがすっ、とポルの前に出た。
「嘿(ヘイ)、そこのお客さん方!」
いきなり、馬車の客席に向かって呼びかける。乗っていた先客たちが、びっくりしたように振り返った。
「ここまでいくらデ?」
シェンはずけずけと尋ねる。面食らったのか、客の一人がぽろりと答えた。
「さ、三千五百」
シェンが一瞬しめた、という顔をした。御者は客と同じように呆然としている。
シェンは水を得た魚のように、蕩々としゃべり出した。
「先客の方々、ここまでいらっしゃったということはベスペンツァまで行かれるのですよネ? 我たちよりずっと前から乗っていたのに三千五百なんて、本当に気前のいい馬車でス!」
シェンはいやな顔一つせず、にこにこと御者の顔を見る。
「さあ、来るのが気前のいい馬車でしたら乗ろうと決めていたんですけどネェ、八千じゃあとても乗る気にはなりませン。歩いて行きましょウ」
御者はぐっとシェンを、そして残りの三人を腹立たしげに睨みつけた。
ふと隣を見ると、ルズアが御者を倍くらい鋭い視線で睨め返している。よっぽど機嫌が悪かったのか、腰の剣に手をかけんばかりの雰囲気だ。
御者は諦めたように、馬の手綱を握り直した。ポルたちを置いて出発しようと馬を蹴り上げる、その直前。
シェンが大きな独り言でも言うように、
「まあ、もちろん八千ベリンなんて出そうと思えば何人分でも出るんですけド。マリー様はエルンスト伯爵閣下のご側室でいらっしゃいますからネ」
と、これ見よがしにポルにすり寄る。客席の人々が全員こちらに身を乗り出した。
どうやら、ポルはしばらく〝エルンスト伯爵夫人のマリー様〟になっていた方がいいらしい。
御者は胡乱そうな目で再びこちらをじろじろ見て、昏い声で言った。
「ここはヴァンホーラ子爵の領地だ」
「ヴァンホーラ子爵はエルンスト伯爵閣下の傘下ですヨ。閣下のご側室が閣下の勢力内の土地を視察にいらっしゃるのに、何の理由が要るのでス?」
ヴァンホーラ子爵は確かにエルンスト家傘下の下級貴族だ、とポルは必死に頭の中でシェンの発言の裏を取る。シェンは適当に話しているのだろうが、いざという時のためだ。
シェンは大げさに肩をすくめた。
「もちろんお金をケチって乗りたいわけではないですからねエ、三千五百よりは出しますけド。態度の悪い馬車にマリー様をお乗せするワケにいきませんかラ」
「四千」
吐き捨てるように御者が言った。
「一人だ」
シェンはそれを聞いて、にんまり笑った。
「四千五百出しましょウ。四人で一万八千ベリンでス」
御者がもう一度、ポルに手を突き出した。ポルはいかにも粗暴な庶民に呆れているかのような小さいため息をついてみせ、涼しい顔で財布を取り出し、丁寧に御者の手へ一万八千ベリンを置いた。
御者は受け取った札束をしつこく指ではじいて数えると、吊りズボンのポケットにそれをしまった。そして、
「ベスペンツァまでぇ」
すかさずだるそうに発車のかけ声を上げる。シェンを先頭に、四人は急いで馬車に乗り込んだ。
馬車の幌の陰に入ると、まばゆいばかりの陽光が遮られて、ポルはほっとした。
大きなベッド二つ分くらいの危なっかしい荷台によじ登る。荷台のへりには、空の木箱を適当に釘で固定しただけの座席が並んでいて、三人の先客が座っていた。
白い髪と髭をぼうぼうと生やし、つば広帽を目深にかぶった猫背の男。背中になにやら細長くて黒い包みを背負っている。
その隣には、浅黒い肌に黒髪を結い上げた、かわいらしい顔の娘。眉の上と目の下に点々と赤い刺青を入れ、寒い日でもないのに、妙に長いコートを羽織っている。
そしてもう一人は、じょりじょりした髭にツルピカ頭の、いかにも気前よさそうな中年のオヤジ。こちらは巨大な麻のリュックを脇に置いて、それを大事そうに抱えていた。
ポルは先客たちと向かいあわせになる位置へ、控えめに座る。ポルの左隣にはシェンが、右隣にはスティンが座り、スティンの向こうにルズアが腰掛けた。
ごととん、と音がして、周囲の景色が後ろにゆっくり流れ始める。辻馬車が並足で動き出した。
尻の下で固い座席が小刻みに跳ねる。馬車の幌の下で揺られていると、なんだかさっきの気怠さがうそのように、弱々しい風もまぶしい緑も気持ちがいい。
馬車中を満たす、立ちこめるような乾いた木のにおいと、鼻にツンとくる馬の獣臭さ。後ろ髪をそよがせ、首筋を触っていくひんやりした空気。
歩きの疲れやつらさとは無縁の、純粋で快適な心地よさにポルは思わず一瞬目を閉じた。
ぱ、とまぶたを開けて横を見る。
スティンの隣で、荷台の縁にしゅんと突っ伏しているルズアが目に入った。
ポルはスティンの手を引っ張ってきて、そこに綴った。
『……酔いに効く薬って作れないのかしらね』
「どうだろうな」
スティンもルズアを流し見る。エコールをはじめて辻馬車で出た時から、ルズアはずっとこうなのだ。
いや、エコールを出発した最初の方こそ平静を装おうとしていたが、十分もすればいつもの威勢が幻と消え失せ、観念したようにうずくまり、まるで水拭きしたあとのボロ雑巾みたいに哀れな姿になり果ててしまう。
馬車酔いのせいで口を開けば吐きそうになるからか、馬車の上でルズアは一言もしゃべらない。ブールトに着いたときのルズアの顔は、完全に血の気の失せた顔が赤髪と対照して、紙のように真っ白に見えたくらいだ。
そして今となってはもう、平静を装う気力すらないらしい。
「二日酔いに効く薬なら知っているが……その酔いとは違う気もするし」
スティンは真剣に考え込む。ポルはカバンの中の薬瓶や香草の瓶を引っかき回しながら、
『私もそう思うわ。あーあ、漁師の方と出会わないかしら……船酔いに効く薬がわかれば使えそうなのに』
「姉さんに聞いておけばよかった。騎士団には船酔いや馬車酔いの対策くらいあるだろうに」
『貴族がどうしてるのか、今度メルに手紙で聞いておくわ。みんな馬車で社交に集まるんだもの』
はかったように、幌のはるか上からピィア、ピイ……とアイテルの声がした。
ポルは手にした香草の小瓶を開けて、すん、と匂いを嗅ぐと、蓋をしてカバンに放り込む。
辻馬車に乗るたびこれでは、あまりにルズアが気の毒である。歩きでは食料も時間も、野宿で火を焚く油だって消費する。馬車があるなら馬車で先へ進みたい。
それを承知しているから、ルズアはこうなることを分かっていても文句を言わないのだろう、珍しく。
でも、この調子では旅の目的を果たす前にルズアが干からびてしまいそうだ。
ポルがぐるぐると頭を悩ませていた、その時。
がたん、と向かいの席から音がした。
見ると、三人の先客たちがなにやら一斉に自分の荷物を開けている。
目深に帽子をかぶった猫背の男が、背負っていた黒い包みを開く。すると、中から小さなバンジョーが出てきた。ツルピカのオヤジは、麻のリュックから白、象牙色、ブルー……と色とりどりの反物を次々と取り出している。
ポルが眺めていると、布を出した拍子にオヤジのリュックから小さな糸巻きが飛び出した。こんころこんころ……と、糸巻きがポルの足元まで転がってくる。
ポルは反射的にそれを捕まえて、オヤジの方に差し出した。
オヤジはすっとそれを受け取ると、にっこり笑顔でこちらを見て、枯れ草が擦れるような明るいガラガラ声で言った。
「ああ、どうも、どうも。いやあお嬢様たちぃ、こーんな田舎までよく来たなあ」
〝お嬢様〟という言葉にポルはドキッとしたが、そういえば今自分はエルンスト伯爵夫人マリー様だったのだ、となんとか思い出した。
「どうだ、なーんにもないでしょう? いやはやぁ、何の用事でいらっしゃったんだ?」
「……ドレッドフェールに用があっテ」
シェンが緊張した顔で返した。オヤジはシェンではなく、ポルの顔を覗き込む。
「ほほぉ、ドレッドフェール。お嬢様も王立大学でお勉強かな。ん?」
「我はお屋敷でお勉強すればいいじゃないですかって言ったんですけド。お嬢様がどうしても行ってみたいとおっしゃるのデ」
シェンはポルの前にしゃしゃり出て、いかにも困り顔で肩をすくめた。
「はぁそうかい。チビちゃん、アンタは苦労人だな」
うわははは、とオヤジは笑った。
「それで? そっちのお兄ちゃんたちは……あー……お嬢様のお守りかな?」
今度はオヤジの視線がスティンを捉える。
スティンはまるでトラバサミにかかったネコみたいに跳ね上がって、ポルの陰に大きな体を縮こめた。
「あ、ああああ、まあ、そ、そそそうだ、そう……かな?」
「なぁんだそりゃ」
拍子抜けしたように苦笑いする。オヤジは蹲っているルズアに目をやると、
「そっちの兄ちゃんは……気の毒だな」
スティンに向かって、手のひらを上向ける仕草をした。スティンが「へへァ」みたいな変な声を上げる。たぶん、笑って返そうとしたのに舌が回らなかったのだろう。
オヤジは口元に手を当てて、ルズアへ大げさに呼びかけた。
「おーい、よく聞けあんちゃん。カルードロの実の皮を噛んでると酔わないんだってよ。あと、馬車に乗る前の日はよく寝て、オレンジは食うなよ」
「ま、待ってくれ、もう一回!」
突然スティンがガバッと身を乗り出した。手当たり次第にポケットをまさぐり、メモするものを探しているらしい。
ポルが急いでスティンの手に紙と鉛筆を押しつけたら、スティンはそれをもぎ取るように奪い取った。
「お、面白いなアンタ……」
オヤジはいきなり元気になったスティンに唖然とする。そしてわざとらしくゆっくりと、
「いいか? カルードロの実の皮を噛んでると酔わない」
「どのくらい?」
スティンがすかさず質問する。オヤジは豆を投げつけられた鳩みたいな顔になって、
「そ、そりゃあ、できるだけ長くじゃないのか? そもそもあんなマズイの、ずっと噛んでたら舌がバカになっちまうようなシロモンだし」
「量は?」
「量! んなもん気にしたことないな、まあ……大体いつもこれくらい」
オヤジは人差し指と親指で輪っかを作ってみせる。
今の話のどこにそんな情報量があったのかと思うほど、スティンはものすごい勢いで鉛筆を走らせた。
「あとは?」
「あとは、前の日によく寝ることと、オレンジは食べないこと」
「なるほど……なるほど……なるほど」
スティンは呟きながらメモ紙に書きまくり、しばらくしてパタン、と鉛筆を置いた。
「どうもありがとう、参考にする……ハハ……ハ」
満足げにお礼を言ったかと思うと、ネジが切れたみたいに青ざめだして、引きつった愛想笑いを浮かべる。酔いに効く薬の情報に夢中で、初対面の人と会話ができていたことに今気がついたらしい。
オヤジは目を白黒させてポルに言った。
「お嬢様、この兄ちゃんは病気かなんかか?」
ポルはスティンの手元にあった鉛筆と紙を奪い返した。
『いいえ、彼は医者だから治す側のはずなんだけど』
「なるほどな……」
妙に納得した顔で、オヤジはうなずいた。そして犬のように頭を振るうと、
「まあいいんだけどな、そんなことは。違うんだ、俺たちの本題を忘れてた」
本題? とポルは首を傾げてみせる。
「いやあ、お嬢様のお連れさんは面白い人ばっかりだ。危うく俺たちが馬車に乗ってるワケをすっかり忘れるとこだったぜ。俺たちゃな、バルバロ一座って言って……ァアもう、調子狂うなぁ」
オヤジはツルツルの頭を抱えたあと、パンっ! と膝を打った。
「とにかくだ。こんなところまでいらっしゃる貴族がいるとなあ、俺たちも商売しがいがあるってもんですよ。なあドニ」
帽子を目深にかぶった男が、バンジョーをペヨィン……と鳴らして答えた。
商売? 三人が揃って怪訝な顔をする。
オヤジは見計らったように、イスに座りなおした。
「そう、俺たちゃバルバロ一座ってんだ。まずあっちのバンジョー弾きがドニ」
ペィン、ペィン、ペン、ペン、ペケペン……ドニがゆっくりと明るい和音を鳴らし始めた。ペンペケペケペケンペ、繰り返すフレーズがどんどんスピードを上げていく。
それに合わせて、オヤジは滔々話し始めた。
「そんで、この俺ぁ座長のバルバロ。布売り商人のバルバロだ。でもってこっちの嬢ちゃんが――」
ペン! とドニが和音をキメる。今まで黙っていた黒髪の娘が、パッ! とコートを脱いだ。
ポル達の口がぽかんと開いた。
娘のコートの下は、金糸や銀糸で飾り付けされた、ちんちくりんのワンピース姿。
浅黒い肩や背中、腰までもさらけ出し、短いスカートの上から垂れ下がる長いレース飾りが、少し動くたびにふわふわ揺れる。
娘はこれ見よがしに、結った黒髪をはらりと解いた。香辛料のようなエスニックな香りが、ポル達の鼻をくすぐる。
「モナ、はるか南の海の向こうから来たフーリンデ島の〝青い歌姫〟だ!」
ポルは吹き出しそうになって、すんでのところで堪えた。
娘、モナがさっと立ち上がり、つま先でくるくる器用に回って踊りだす。
ペンペケペケペン、ペケペンペケンペ、ドニのバンジョーが早いフレーズを弾きまくる。それと一緒にバルバロが、足踏みをしながらリズムを取る。
片足で回り、逆立ちで回り、曲芸を繰り広げるモナの横で、バルバロがテンポよく明るい緑の布の巻物を持ち出した。
「さあさあこれが今日の目玉! エコール産の上質羊毛、暑い季節も軽くて涼しいカンク染織〜」
布の端をモナに持たせる。
モナは布をふわりと体に巻き、胸の前に当ててみせた。
「カンク染織はただでも高級だろ。でもこの色はとんと入ったことがない。お嬢さん想像して、この布で上着を作ってパーティに出てごらん、みんな釘付け間違いなしだ」
バルバロの口上に合わせてモナが右向きに、左向きに、布を体に当ててポーズを取る。
それを眺めながら、この色の上着をメルが着ていたらさぞ映えるだろうな……とポルは想像した。いつかのお土産に買っていこうか。
ふと思ったが、
「お値段一メートルで二万ベリン。これでもかなり負けてるよ、今なら国中探してもこんなレアな生地はないよ!」
それを聞いて瞬時に諦めた。服を作れる長さを買ったら、十万ベリンは超えかねない。
ポルが見過ごしているうちに、バルバロはさっさとカンク染織をくるくる片付けて、次の巻物を取り出していた。
「お次はこちら。こっちは木綿。イースト大陸産の綿織物」
出てきたのは、ぺらぺらした薄空色の布。モナが再び、ふわりと布を身にまとう。
「エン国式の織物を、ヘアベリーで染めてるもんだ。感じはモスリンに似てて肌触りは最高。これからの季節重宝するよ」
モナが回りながら、さっと布を空中に舞わせる。ポルが横を見ると、シェンがモナに釘付けになって目を輝かせていた。
「さっきのと同じで、こんなきれいな青はなかなか手にゃあ入らない! 庶民はもちろん、貴族でも憧れだ。なんせ〝青い歌姫〟のドレスの色だから! しかもお値段一メートル五千ベリン。買うなら今。今しかないよ」
一メートル五千ベリン。一気に手の届きそうな値段になった。スティンの方を見ると、興味なさげにさっきのメモに没頭している。
そしてまたあれよあれよという間に、ペンペケかき鳴らされるバンジョーに合わせて、バルバロは布を片付けた。
次に出してきたのは、アイボリーでざらざらした布。
「さあまだあるよ。こちらも綿織物。こいつぁいいよ、染めてないかわりに、生地は有名なピュレット織。近づいて、よく見てごらん。表面にきれいな波があるだろ? 軽くて涼しくてお手入れ簡単、貴族も重宝する代物だ」
ピュレット織をふわふわ舞わせるモナの芸を、ぼんやり眺める。無意識に足がバンジョーのリズムに合わせて動いてしまう。
もう一度隣をちらりと見たら、シェンが今や切なさのにじむ顔で、一生懸命布を見ていた。
ポルはそっと財布を出すと、シェンの手にさっと押しつける。
「こいつは最近入った上物だけど、お嬢様たちには大サービスで売っちゃうぞ。一メートル四千ベリン、四千ベリンだよ。これ以上は安くならないよ」
バルバロの台詞を聞いたとたん、シェンは財布をつかんでさっと手を挙げた。
「三メートルくださイ!」
「まいど!」
バルバロは飛び散るような満面の笑みを浮かべた。シェンはさらに追い打ちをかける。
「あとさっきの青い織物も同じだケ!」
「はいよ! 合わせて二万七千ベリン!」
バルバロがさっとカバンから大きな裁ちばさみを取り出して、モナに渡す。モナは布をくるくる体に巻き直すと、素早くはさみの刃を一本ずつに分解して、ジャグリングよろしくはさみの刃を投げて回し始めた。
その横でドニがいつの間にかハーモニカを口にくわえて、バンジョーを弾きながら器用にメロディーラインを吹き鳴らしだす。ポルはどんどん速くなるジャグリングに、馬車が揺れるたびハラハラした。
シェンはあわてて財布をまさぐり、二万七千ベリンをバルバロに手渡す。
モナがぱっとジャグリングをやめて、手にした裁ちばさみの片刃でふつり、布を見事にまっすぐ切った。
同じようにモナがさっきの青い布を切ってみせると、バルバロがその二枚を受け取って、何やら複雑に折りたたみ始める。
シェンとポルは、バルバロの手の中で形を変える布ぺらに思わず魅入った。
モナは主役をバルバロに譲り、椅子に腰掛けてドニのハーモニカと一緒に体を揺らしている。
あれよあれよと、今買った布は魔法のように美しい花の形になった。まるでバルバロの手からにょきにょきと花が咲いたみたいだ。
「ほらよチビちゃん。あんたはちょっと毒があるからこれだ」
バルバロは膝の上がいっぱいになるくらい巨大な、薄空色のアジサイの花をシェンに手渡す。
シェンは心底幸せそうな顔で、頬を真っ赤にしてそれを受け取ると、宝物のように息を潜めて眺め回した。
「お嬢様、あんたは貴族だからこんなもんだろう」
次はポルに、八分咲きの白いバラを手渡してきた。両手に抱えるほどのサイズのバラは、触るのももったいないくらいだ。生地は羽根のように軽く、そしてさらりとやわらかい。
いやはや、布全部の合計金額はちょっとお高かったと思ったものの、いい買い物をしたものだ。ポルはすっかり得をした気分になった。シェンはポルの倍くらい満足そうだ。
「お嬢さんたち、ベスペンツァに着いたら、まずその布は端っこにのりを塗っておきな。端からほつれてくるからね。分かったか?」
シェンとポルが思い切りうなずく。
同時に、ペペン! とドニがバンジョーの演奏を締めた。ポルとシェンは、夢中になって拍手した。
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