4-11 物語の結末は

 **********



「こーんにーちーはー」

 雲間から青空がのぞく昼休みの校庭。

 校舎寄りの端に止まっている昼飯売りの荷馬車の前で、メルはさえずるように叫んだ。

「おお、おお、おお」

 荷馬車の上から、茶色く日に焼けた無精髭のおじいさんが、あぐらをかいた格好で身を乗り出してきた。

 荷馬車のへりにはいくつも麦わら編みのカゴが置いてある。その中には、干しリンゴの破片やゆで卵を挟んだバノック、カラカラに乾いた堅パンなんかがどれも無造作に突っ込まれていた。

 あたりは香ばしい匂いや甘い香り、荷馬車につながれたまま地面を掻いているロバの獣臭さがまざって、なんとも言えない濃い空気が漂っていた。

「久しぶりの顔だやぁ」

 おじいさんは被っていた革のツバ無し帽を取ると、顔をくしゃくしゃにして笑った。そして、横から干しリンゴが入ったカゴを引き寄せ、

「道理で今日はこいつの売れ行きが悪いわけなんだ。みんな普段は取り合いでこいつばっかり買っていくのに」

「なんで?」

 メルは制服のポケットをまさぐりながら尋ねる。

「みんな、歌姫様は甘いものが好きだから取っといてあげようって言うんだよ。ひさびさに来たんだろう?」

「えぇぇ、そうなの? いやそりゃそうだけど、そうなの?」

 制服のポケットから財布を引っ張り出したメルは、ホッと肩をなでおろしながら早口で聞き返す。財布だけは忘れてきていなかったらしい。

「こいつ、買ってっておくれ。こんなにゃあいらないだろうけど」

 おじいさんはかっかっかっ、と笑った。

 メルは笑わない。真剣に干しリンゴのカゴを眺めて、

「ううん、全部買う」

「うそだろぉ?」

 おじいさんは目をまん丸にした。あわてて荷馬車じゅうを引っ掻き回す。そしてどこからか大きな麻袋を取り出すと、パンパンっとゴミを払った。

「ほんとに全部買うの?」

「うん。持って帰って明日も食べる」

「あらそぉ」

 おじいさんは、カゴの中身を麻袋の中にザラザラ入れる。重さを確かめるように麻袋を上下しながら、

「じゃあ、こんだけあったら四千五百ベリンだね」

「たまごバノックも」

「じゃあ四千七百ベリン」

 おじいさんはメルに麻袋を手渡す。

 メルは器用に麻袋を脇に挟んで、財布から札を取り出した。

「こりゃ、大繁盛じゃあ」

 満面の笑みを浮かべて、おじいさんはメルにお釣りを返す。

「子供たちにお礼言っといてあげな」

「はぁい」

 メルはお釣りをポケットに突っ込んで、たまごバノックを荷馬車から掠め取ると、小走りで校庭をあとにした。

 荷馬車の近くに座り込んで弁当を食べていた生徒が、メルの巨大な麻袋を見て「わぁ〜ぉ……」と囁くのが聞こえた。



 校舎の正面玄関を入って、小走りに進む。吹きさらしの講堂を突っ切ると、裏庭に出た。

 裏庭は校舎の影で薄暗い。心なしか、生えている芝生も少しぼうぼうだ。

 裏庭の真ん中には屋根付きの小さな井戸が鎮座していた。ずっと奥では校舎の影が途切れていて、そこには薪や木材が一面に干してある。その向こうは石と鉄の二重柵で囲われて、上から黒い森がのぞいていた。

 日陰で冷えた風が時折ぴゅうっと吹きすさぶ裏庭には、生徒はぽつり、ぽつりとしかいない。みんな日当たりのいい校庭でぬくまっているのだ。

 メルは辺りをぐるぐる見回す。

 すると、校舎のきわに置かれた三人がけの木のベンチで、レビィが弁当を広げていた。


「はあ〜? なにそれ」

 近づいてくるメルを見るなり、レビィはわけわかんない、とでも言いたげな顔をした。

 メルは意に介さず、レビィの隣に麻袋をストンと置いた。

「これ?」

「うん」

「これはね、全部リンゴ」

 メルは麻袋を開くと、干しリンゴをひとかけら取り出して、レビィの手にあったサンドイッチにねじ込んだ。

「わ、やめろって」

 慌ててレビィは干しリンゴを頬張る。

 メルはにやにやしながら、麻袋をどけてレビィの隣に腰を下ろした。

「みんな、私が甘いもの好きだから干しリンゴとっといてくれたんだって」

「へえ……だからってそんなにも買うヤツいる?」

「ここにいるぅ」

「本当にそんなに食べんの?」

「持って帰って、明日も食べるの。荷馬車のじーちゃんがびっくりしてたよ」

「でしょうねえ」

「レビィも食べていいよ」

 メルは持っていたたまごバノックにいくつも干しリンゴを突っ込むと、大きく頬張る。

 レビィは半分呆れ、半分感心したような顔で、小さく自分のサンドイッチをかじった。


 しばらく、二人はぼーっと各々の昼食を咀嚼した。

 ぴいちぴいち、とすずめが何羽か時折やってきて、二人が足元にこぼしたパンくずを探す。メルもレビィも気まぐれに、パンの端を小さくちぎって投げてやった。

「……あんたって、すごいよねぇ」

 サンドイッチの最後の一口を食べきったレビィが、ぼそりと呟いた。

「んぇ?」

 たまごバノックをまだ頬張っているメルが、ちらりとレビィを見る。

 レビィはやたらと遠くを見つめながら、

「ミシェルとアドラがここんとこずっと仲悪いの、知ってる?」

「知らない」

「だよねえ」

 レビィは周りを見回すと、少し声を落とした。

「こないだ席替えあったって言ったでしょ。あれで、ミシェルがボリスの前の席になったのね」

「うん」

 メルはやっとたまごバノックを全部飲み下して、

「ミシェルがボリスと付き合ってんのは知ってるよ」

「そ」

 レビィはパンくずのついた手をぱっぱっと払った。足元にすずめがたかる。

「そんでね、だからその席の並びは良くないんじゃないかとか言って、アドラが騒ぎ出してさ。先生が席決めてんだからしょうがないじゃん、ってあたしらは言ったんだよ。だけど、ミシェルがボリスと近い席になりたくて先生にクチきいたんだ、先生がそんな席にするわけないじゃん、それはクラスの子に失礼でしょ、とか言って聞かないわけよ」

「ほへ〜」

 メルが目を丸くする。

 レビィはため息をついた。

「あのグレシャム先生が生徒のそんなお願い、聞くわけないじゃん? なのにアドラ、ずっとミシェルに当たりキツくてさぁ、なんか頑張ってミシェルのことハブろうとしてんの」

「ふぅん……それってなんか」

「なんか、でしょ? バレバレなんだよね、クラスの子に失礼とか言ってさ、自分がボリスのこと好きだからミシェルに文句つけたいだけなの。ボリスが自分の近くの席になったら、ボリスが自分に振り向くとでも思ってんじゃないの。しょーもない」

「でも、そんなのみんなわかってんでしょ?」

 メルはぐい、とレビィに目をやった。

 レビィは小さく首を振る。

「それがさぁ……意外とみんなアドラにころっと騙されるんだよね。ミシェルもミシェルでムキになっちゃって、私はアドラにいじめられてかわいそーだから、みたいなこと言っちゃうわけ。それで、なんか女子がミシェル派か、アドラ派か、みたいになっちゃって」

「レビィはどっちなの?」

 メルは干しリンゴをかじった。

「あたし?」

 レビィはニヤッと笑った。

「あたしは、あんまりどっちでもなさそーな女子と、あと男子としか口きいてなかった。そしたら、なんかいつの間にか両方の派閥であたしがどっちにつくか、みたいな話になってたらしくて」

「じゃあ、レビィ以外の女子はみんなどっちかについてたってこと?」

「そうっぽい。だから、両方の悪口が同時にあたしんとこ入ってきて、笑っちゃった」

 ふふふん、とレビィは鼻で笑ってみせる。

「だから、両方に〝へーそうなんだー〟って言っといた。どっちもあたしが味方だと思ってんじゃない?」

「よ、よくやるよ……」

 メルが今度は呆れ顔になった。レビィはちょっと得意げな顔で、

「だってそんなの、最悪どっちか決めろって話になったら、〝どっちがホントのこと言ってるか先生に聞いてこれば?〟って言ってやればいいだけの話じゃん」

「まあそーだけど」

「アドラってさ、なんかいっつもイライラしててさ。家とかでなんかあるんだろうけど、それならそうで、そう言ったらいいのにね。またあいつの八つ当たりでしかないし。だからってミシェルの言い分もめちゃくちゃだけど」

「じゃあさあ、それって先生に聞いたところでどーにかなるわけでもなさそうじゃん」

「まあね、でもそうなる前に、あたしはあんたが学校に来るんじゃないかなって思ってた。だから何とかなるかなって」

「え、私? 今の話、私なんも関係なくない?」

 メルが素っ頓狂な声を出すと、レビィはいかにもわかってないな、と言いたげに眉尻を下げた。

「だから言ったじゃん、あんたってすごいよね、って。あんたが来たら、みんなそーいうしょうもない派閥争いとか僻み合いとか、全部どーでもよくなっちゃうみたい。だから、あんたが来たらこれもなかったことになるんだろうなって、それを見越してやってた。正直、あんたが来なかったらどうしようかなあ、とは思ってた」

「そうなの」

 メルは苦笑いして、少し遠くの芝生に目を落とす。

「みんな、そんな私に媚売んなくったっていいのに」

 レビィはぎょっとしたようにメルを勢いよく振り返る。

 しばらく、すずめの声だけがささやく静寂が流れた。


「……相当疲れてんね、あんた」

 メルと同じあたりの芝生に目をやりながら、レビィはぽつりとつぶやく。

「そーかも」

 メルも同じ調子でつぶやく。歌姫の美声の面影は、これっぽっちもない。

 レビィは言った。

「……別に、みんな特別あんたに媚売ろうだなんて、思ってないと思うけど。てーか、あんたに媚売ったってしょうがないの、みんなわかってんじゃない。あんたがちやほやされてんのは、全員があんたのこと好きだから。そんだけ」

「ほんとかなぁ」

「だってさ、初等学校の時のこと、覚えてる?」

「うん?」

「オルガっていたじゃん?」

「……いたっけかぁ」

「ほら、いっつも自分が一番かわいくて、一番クラスで人気者じゃないと気に入らない子。めちゃくちゃ気まぐれでさ、昨日まで仲いいやつがいたと思ったら、ちょっと気に入らないことがあるとそいつの根も葉もない悪口をそこら中でいいまくるような子だったよ。んで、喧嘩になったりすると、わざわざ先生の前で泣くの」

「ああ、なんか思い出した気がする」

「そう、そのオルガがさあ、〝昼休みの間にどっちがたくさんヘビイチゴを摘んだか〟であんたと真剣に喧嘩してるの見てさ、わりとびっくりした記憶あるよ。普段コスいことばっかして、喧嘩になっても嫌らしいやり方しかしないあいつが、あんたとは正面から言い合ってんの。それもそんな超しょーもないことで。そんなとこ初めて見た」

「しょーもなくないよ」

「知るかよ。んで、今思い出してみれば、オルガがあんたの悪口言ってたのだけは聞いたことなかったなあ。だからほら……なんていうか……ほら……うーん」

「なに?」

「語彙力がほしい」

「知らないよ。なんだよ」

「だから……ほら。なんていうの、あんたにはね、見栄とか変な取り繕いとか、そういうのが意味なくなっちゃう力があるんだよ。……あぁもう、なんか違う」

「なんとなく分かんないでもない、けど」

「だからさぁ、うーん……楽しいことって言うか……そう、楽しいこと! あんたと喋るときにみんなが気にしてるのはね、楽しいかどうか。それだけ。それ以外の余計なことが、みんな気にならなくなっちゃうんだ。あんたは昔から、ずっとそうだった。だからみんな、あんたのことが好きなんだ」

 レビィはすっきりした! とでも言うように大きく伸びをする。その陰で、メルはちょっと顔を赤らめてうつむいた。

「そうなのか」

「そうだよ」

 レビィはこれ以上ないほどすがすがしい笑みを浮かべていた。

 メルがみんなにどう思われているか、それだけをこんなに真剣に考えて、だ。レビィにいいことがあったわけでも何でもないのに。

 パズルのピースがはまる感じで、心のどこかに、レビィのその顔がぴったりはまった。

 それで、メルはそこにパズルのピースがはまるべき穴があったことをなんとなく知ったのだ。

 笑み以上の意味のない笑み。何の意味もない笑顔の実像を、自分は飢えた獣さながらに欲していたのかもしれなかった。

「……あのさぁ」

 メルはうつむいたまま、声を落として言った。

「ん?」

 レビィは伸びた姿勢のまま、ぐいっとこちらに横目をやる。

「大事なこと話していい?」

「うえぇ」

 重苦しい顔のメルを尻目に、レビィは面白いくらい口をゆがめた。

 メルの表情が、一変して不満げになる。

「なにさ」

「あんたの大事なこと? 国の機密とかだったら聞きたくないんだけど」

「そんなわけないじゃん」

「うそ、歌姫様ならありえるし」

「そんなんじゃないよ」

 メルはそこまで言っておきながら、続きの言葉を探すように押し黙った。

 そしてやがて、唇をこじ開けるように、ぼとりとつぶやいた。

「……学校、やめると思う」

 レビィの顔から、石けんの泡を流すみたいに表情が溶け落ちていった。

「なんで」

「だって」

 メルの喉が震える。

「私、アトレッタ家の当主になったから」

「だから?」

「家のことも、社交のことも、歌姫の仕事も、全部するから。あと、前ほどあんまうかつに出歩くわけにいかないんだ。当然だけどさ」

「じゃあ、なんで今日は来れたの」

「使用人のみんなに無理言った。たぶん校内のどっかでずっと待ってると思う」

 メルは少し声を大きくして、

「でも、毎回これするわけにいかないからさ。そんで本当に何かあったらシャレにならないもん。王様に……もし王様とかに迷惑かかるようなことになったら、最悪屋敷なくなっちゃうかもしんないし」

 きっぱりと言った。

「んでも最悪、でしょ?」

 レビィは自分のつま先を見つめている。

 メルは小さく首を振った。

「最悪って言っても、割と今もあぶないよ。暴動とか起こってるらしいし」

「なんで」

「……母さんのこと、好きだった人多かったんだよ。特に貧しい人たち。母さんや私が仕事のついでに色んなところで歌って回って、それくらいしか楽しいことなかったのかもね。それで、そういう人たちって大抵今の暮らしも、世の中も嫌いなんだ。だから、事件の知らせが出回ったときに、〝これだから王国は、貴族は〟って怒る人がたくさんいた。オレたちの楽しみまで奪うのか、お前らみたいな貴族と違って、あんなに高貴でもオレたちを分け隔てなく慰めてくださる人が、なんでお前らの勝手でそんな目に――って」

「メル、全然関係ないじゃん」

 今度はレビィが声を大きくした。

「あるよ!」

 メルはもっと大声で返した。

「だから、私になんかあったらいけないんだよ、火に油を注いじゃうから! 貴族とか官僚の人たち、私の取り合いをしてるくらいなんだよ。王様に取り入りたくて、みんなにちやほやされたくてさ。早く母さんの事件の犯人をあぶり出してさ、国民の楽しみを守ってみんなを味方につけたいの」

「国民の楽しみって、メルのこと?」

 レビィはあっけらかんと言った。

「そうだよ」

 メルは口をとがらせる。

 すると、レビィは片頬をくいっと上げて、

「でっかくなったねえ、メルも」

「……そうじゃなくてさ」

 ますます口をとがらせるメルの顔をのぞき込んで、レビィは少しの間何か言いたそうに唇をもぞもぞしていたが、やがて、ふいっと遠くに目をやった。

 その横で、メルはそろそろと何かを流し出すように話を続ける。

「だから、何が原因で何が起こるかわかんないの。わかった?」

「わかるよーな、わかんないよーな」

 レビィはまだ遠くを見つめている。

 メルはその頬を小突いて、わざとこちらを振り向かせた。

「私ね、本当はお姉ちゃんがいるんだ」

「うん。……え? まって、もう一回言って」

「だから、私本当はお姉ちゃんがいるの」

 レビィのわけわかんない時にする顔を見て、メルは小さく軽いため息をついた。

 ささやくようにレビィが独りごちる。

「……うっそ」

「うそじゃないよ。双子のお姉ちゃん」

「双子? まじで? だって、前にメルの家に行ったときはいなかったじゃん」

「そのときは部屋にこもっててもらったんだよ。私の向かいの部屋」

「うそ、あたしその前通ったのに」

「そりゃあね」

 今度はメルが苦笑する。

 レビィはまだ、メルの言ったことを飲み込もうと四苦八苦していた。

「え、うそ、この学校にいる?」

「いないよ」

「え、なんで?」

「屋敷から出たことないんだ」

 それを聞いて、レビィは真面目な顔になった。そして、まっすぐに向き直る。

「……見てみたいんだけどなあ、メルのお姉ちゃん」

「無理かも。今いないし」

「いない?」

 レビィはますます深刻そうな調子で言った。それに反して、メルは微かに笑みを浮かべている。

「旅に出たんだ」

「旅ぃ~? 家から出たことないんじゃなかったの?」

「ないよ。ないのに、行くって」

「何しに?」

「犯人捜し」


 二人は、一瞬だけ口をつぐんだ。

 話に夢中になっているうちに、いつの間にか裏庭にいるのは二人だけになっていた。

「……事件の?」

 レビィが先に口を開いた。

「うん」

 メルは小さくうなずく。

「私のお姉ちゃん、めちゃくちゃ頭いいんだ。その辺の貴族が手柄ほしさで事件の犯人をでっち上げる前に、私たちでほんとうの犯人を捜さなきゃいけないからって、犯人捜しをお願いしたの。そしたら旅に出るって」

「へえ、ふーん……なるほど。んで、誰と行ったの?」

「……護衛雇った」

「わざわざ?」

 メルはわずかに言いよどむ。

「うん、まあ、そう。一人で行かせるわけにいかないもん」

「そりゃそーだわね」

 レビィが心得た顔をしている隣で、メルは首をすくめて足下を見た。

「頼んだのは私だから、いいんだけどさ。……だから、今ね、万が一お屋敷がどうにかなるようなことがあったらだめなんだ。ポルが帰ってくるところが」

 メルは数秒、のどにモノがつかえたように唇を引き結んだ。

 そして、ひねり出したみたいな空気音で、

「なくなっちゃうから」

 突如として、つう、とメルのピンク色の頬を、きらきらした粒が伝った。

 レビィはそれが見えないようにか、すっとそっぽを向く。

「ポルっていうんだ、メルのお姉ちゃん」

「うん」

 メルがうなずいた拍子に、傾いたエメラルドの瞳から、またぞろ涙が落ちる。

「だから、私、学校やめる」

 ぼた、ぼた、とメルの制服の膝で涙の粒が音を立ててはじけては、ダークグレーの染みを作る。

 レビィはこちらを振り向かない。

 うんとも、すんとも互いに返事をしないまま、黙りこんで数秒が過ぎた。


 真っ黒になっていく制服。ぼとぼとと膝が音を立てるのに隠れて、メルはこっそり袖で鼻を拭った。

 べちゃっと湿ったスカートの布を、両手で隠すように握ると、手のひらに絞れた涙が残ってちょっとかゆい。

 レビィは、それを全部知らんぷりしていた。ずっとそっぽ向いて、見られたくない顔をしてるのだろう。

 レビィがこっちを振り向く前に泣き止まないと――締め付けるような危機感が心をよぎる。誰もこんな展開は望んでいない。こんなの、使用人たちに言えばいいのに。

 今更使用人たちにこの話題で何を話すことがあるのよ、と頭の中で誰かが答えた。

 やっぱり屋敷の中だけで生きていくのは無理だ。

 そう思った途端、メルの腹の中にずっしりした鉛の塊が降ってきた。

 ――母さんも私も、ずっと屋敷の中にポルを閉じ込めてきたっていうのに。外の世界を知らなければ、それでよかったのか。外の世界に失うモノがあるからか。だからこんなに悲しいのか。

 ああ、何にも知らなければよかったのに、わたしたち。何にも知ろうとしなければよかったのに。ポルなんか、永遠に屋敷に帰ってこないような気がした。今の自分の気持ちが、その予感のすべてを裏付けている。

 どろどろに溶けた瞳が、強烈に人肌を求めてレビィの姿をまさぐる。なんでもいいから、こっちを振り向いて、あの笑顔が、さっきの笑顔がほしい――


「あぁらあ、じゃあこっちから遊びに行かなきゃねえ」

「ぎゃっ」

「ぎえっ⁉」

 突然真後ろから甲高い男の声がして、メルとレビィは同時にベンチから跳び上がる。

 振り返ると、そこにはにやにや笑いのイェンスが立っていた。

「最っ低‼」

 メルは腹の底から叫んで、思い切りベンチの背を蹴飛ばした。がりがりがり、と音を立てながらベンチが後ろ向きに倒れる。

 イェンスはでかい体のわりにむかつくくらい身軽な動きで、ひょいとベンチの直撃を避けた。ベンチの上にあった干しリンゴの袋は、すんでのところで中身をぶちまけずに土の上へ横たわる。

「いつからいたのよ」

 レビィが詰問する。

 横目で彼女を流し見ると、頬にわずかな涙のあとがあった気がした。

「けっこう前」

 イェンスはじりじりとバックする。彼の後ろにある講堂のむこうから、わずかに射す日光がまぶしいふりをして涙を拭うと、メルはさらにいきり立った。

「だからいつなの⁉」

「だからけっこう前だってば」

「うっざ」

 答える気のないイェンスに、レビィが心底いやそうな声で投げつける。

 イェンスは意に介さず、腹の立つ笑顔のままで言い放った。

「あっそ。で? メルさんの家にみんなで遊びに行く話は」

「は?」

「はぁ?」

 またもレビィとメルの声が重なる。

「え? そういう話じゃないの?」

 いかにも知らなかった、と言わんばかりの顔を作って、イェンスが肩をすくめた。

「オレ、そういう話だと思ってたんだけど。だめなんですかね、そういうの」

 レビィがメルの方を振り返った。

 そんなのダメに決まってんじゃん、と言いたそうな釈然としない表情とは裏腹に、レビィの目にはきらりと光るものが映っている。

 悔しいけれど自分も同じ顔をしてるんだろうな、とメルは思った。

「……いや、別に……ダメ、ではないと思うけど」

 それを聞いて、レビィが素っ頓狂な顔になった。

 メルは追い打ちをかけるように、

「ペレネはたぶん……いや、絶対ダメとは言わないと思う」

 自分で口に出したとたん、ふわりと体が軽くなったような気がした。レビィの表情が、まるでメルの心中を鏡映ししているみたいだ。

「手紙とか、出してもいいの?」

 レビィがおそるおそる尋ねた。

「あ、当たり前じゃん」

 メルはよれよれの笑顔になって言った。レビィはすかさず、

「じゃあ、今度手紙する」

「うん」

「行ってもいい日があったら教えて」

「わかった」

「でかい屋敷で食べる菓子はうまいぞ」

 イェンスが腹をさすりながら割って入った。

「あんたになんか出さないよ」

 メルはべっ、と舌を出す。

 そのとき、


「メールー」

 イェンスのはるか後ろの方から、数人の男女の声がメルを呼んだ。

 首を伸ばして声の方を見る。

 すると、講堂の出入り口の前に、クラスの生徒が数人たむろしているのが見えた。

 遠くにさす陽光を背にして、金色の輪郭に縁取られた彼らの影は、みんなこちらを見ながらくすぐったそうに笑っている。

 ミシェル、ボリス、エミリア、ヴェルキ、ブライン、アドラ、ニコル、マトヴェイ、ユリー……

 その中の女の子が二人ほど、口元に手を当てて、叫ぶように呼びかけてくる。

「なーんか歌ってー」

 口の中で砂糖菓子が溶けるように、さらさらと腹の中にいた鉛の塊が熔けていく。

 そしてそこには、陽だまりで干した毛布みたいにあたたかいものが残った。それはぶわりと脹らんで、一瞬にしてメルの頭から足先までをかけめぐる。


「……レビィ、音楽クラスの人たち呼んできて」

 レビィは目をまん丸にした。

「え、今から?」

「うん。あ、あとグレシャム先生も」

「い、いや、いいけど、あれやるの?」

「うん。やる。去年のスクールフェスティバルのやつ」

 メルはいたって真面目なトーンで答える。

 イェンスはそろりとメルたちから離れると、

「オレ、音楽クラスのやつら呼んでくるわ」

 と言って走り去っていった。

「ど、どの曲?」

 レビィはまだ戸惑っている。メルが返した。

「一番最後の。ラストのやつ」

「ええぇ、私たぶん全然覚えてない」

 それを聞くと、メルはレビィに向かって、いたずらっぽい笑みを満面に浮かべてみせた。

 涙でてかてかした頬が、真っ赤なりんごのように輝く。

「大丈夫、私もちゃんと覚えてないから!」

 そう言うとメルは地面を思い切り踏み切って、子鹿のようにピョーンと倒れたベンチを跳び越えた。

 レビィがグレシャム先生を呼びに行ったのを目の端で確かめて、メルはゆっくり走り出す。


 たん…たん…たん…たん…


 走りながら、手拍子を始める。メルの向かう先にたむろする生徒たちは、それを聞くとわあ……とか、きた、とかつぶやいて、やがてそれはきゃはは、えへへへ、と意味のない歓声に変わっていった。


 メルが生徒たちの輪にたどり着くと、全員がぱかりとメルに道を譲った。走り過ぎるメルのあとに、みんなが示し合わせたようについてくる。

 メルはスピードを上げた。助走をつけて、講堂の出入り口にある石段で再びピョーンと跳び上がると、石段の上でくるっと半周回り、思いっきり両腕を広げて胸いっぱいに叫んだ。


「お祝いだ―――――――――――!」


「ぃやっほぉぉぉぉう!」

 後ろの生徒たちが全員で叫ぶ。


 たん…たん…たん…たん…


 全員ぶんの手拍子に乗って、メルたちは講堂へ走り込む。

 講堂にいた生徒がみんな、いっせいにこちらを振り返った。

 メルはくるくる回りながら、見ている生徒に手を振りまくる。

 そして横にいた女子の手を取ると、跳ね回りながら歌い出した。


「ねえ、聞いた? 聞いた? 聞いた? 今の台詞!」


「もちろんさ!」

 後ろの方で誰かが叫ぶ。


「〝結婚してくれ〟〝ええよろこんで!〟

 まったく おとぎ話みたい

 私ずっと 待ってたの

 そう、ずっと、そういうの――

 楽しいこと ロマンチックなこと

 そして 大騒ぎをね!」


 歌声が石壁こだまする。

 メルは金髪をなびかせて、講堂の後ろを突っ切った。

 講堂にいた生徒たちが、わらわら立ち上がって見物にくる。


「さあ、これからよ 結婚式 早くしなきゃ

 床屋の新郎 靴屋の新婦 最高のふたり

 昨日は恋人 今日から夫婦 お似合いのふたり」


 一行のゆく手にぱっと日が射す。

 メルたちは、校庭に躍り出た。

 そこにはすでに、生徒が見物に集まりだしている。


 メルは校庭の奥からイェンスが来るのを見つけた。

 そっちへ走り寄ると、イェンスの肩を思い切り小突く。


「ねえバッカス お店はあさってまでお休みね

 昼間も 夜中も ずーっとお祭り

 宴は朝まで続きました――って、ステキでしょ?」


 クラスメイトたちが、勝手好き好きにコーラスする。

 メルは隣にいた女子生徒の腕を取って、くるくる回った。


「ああ 見て! いい天気 明日も晴れるわ

 お祝い日和ね みんな集まって

 ねえ かわいい娘 やさしい男 幸せになるわ

 か・ん・ぱい!」


「ああもう、何ですかこれは!」

 廊下から、丸い体を揺らしてグレシャム先生が出てきた。

 その横ではレビィが、汗だくで息を切らしている。

 先生は手に太い縦笛を持っていて、不服そうな顔のまま、それを調子よく吹き始めた。


 縦笛の音が鳴り出すと、周りにますます生徒たちが集まる。

 正面玄関、一階の廊下、二階のバルコニーに校庭の隅々まで、だんだん人だかりで埋め尽くされていく。

 メルは人だかりをかき分けては、演者たちを連れて練り歩いた。


 手拍子のうねりに合わせて、花道の両側の生徒たちとハイタッチを交わす。


 たん…たん…たん…たん…

 たん…たん…たん…たん…


「さあ早く 靴屋のママを 呼んできて!

 妖精の これは特権 誰一人

 始まったら 止められない 遊び散らすわ!」


「やったぜ!」

 再び後ろで誰かが叫ぶ。


「そこのお嬢さん! 大きなケーキを 焼いてきて

 そこの旦那さん! 卵と肉とパン とびきりのを

 そこのおばさま! この村で一番 上等なドレスはどれ?

 そこのぼうや! 教会のベルを 鳴らせるわね

 さあ 子どもたち あなたたちの出番よ みんなでキャンディをばらまくの!」


 メルは左右にいた生徒の手を借りて、ふわりとジャンプした。

 わあっ、と歓声が上がると同時に、校庭の真ん中にある礼拝塔の石段に舞い降りた。

 ぎゃははは、ひゅうひゅう、もうあたりは酒場のような大騒ぎだ。


「ああ 見て! いい天気 明日も晴れるわ

 お祝い日和 町中大さわぎ

 そう 私は妖精フェアリー 職人の精 大さわぎが大好きさ

 ――やっほう!」

「やっほう!」

 今度は観客全員がいっせいに叫んだ。


 たん…たん…たん…たん…


 いまだに増え続ける手拍子の勢いに、縦笛の音も負けじと盛り上がる。

 メルはゆっくりと、礼拝塔の石段を降りてゆく。

 人波の頭上には、二階の廊下から手を伸ばす生徒たち。

 その中にフェルディンの小さな姿を見つけて、メルは思いっきりウインクした。


 通ってきた花道を、観客の顔を見ながら引き返す。

 後ろにいたクラスメイトたちの中から、背の高い男子生徒――ヴェルキと、アドラがそっと進み出てきた。

 メルは両手に二人の手を捕まえて、向かい合わせに引っ張ってくる。

 そして二人の周囲をくるりと回ると、うっとりするように歌い出した。


「ねえ でも ただ遊びたい? それだけじゃない

 ほら ちゃんと向き合って 見つめ合って 何が見えたの?

 バッカス わかって 彼はもう大人よ

 バニー あなたは 一人前の男」


 拍手の波は、全員が耳をすますように収まっていく。

 群衆の中から、今度はイェンスが気難しい顔を作って出てくる。

 メルはそれをチラリと見て、アドラに目を戻した。


「あのときの言葉 あのときの気持ち 違うの そうじゃない

 見つめればわかる アンナの瞳 愛してるってそういうこと

 そうよね? アンナ だからあなたは 私に願った

 〝バニーが帰ってきますように〟って……」


 しまいにかけて、アドラのそばでささやくように歌う。

 観衆や縦笛の音まで、余韻に耳をそばだてた。

 アンナ役のアドラ、バニー役のヴェルキは、頬を赤らめてはにかんでいる。

 そのとき、


 ぱん!


 と音がして、バッカス役のイェンスが、二人の肩に思いっきり両手を置いた。

 同時に目を丸くする、メル、アドラ、ヴェルキ。

 三人の顔を確認して、イェンスは気難しい顔のまま、低音で歌い出した。


「ああ、もう わかったさ オレたちは

 ちょっと言葉足らずだったんだ それだけさ

 だからこの件は もう落着にしよう そんなことよりも

 オレは飲みたい! そして さわぎたい 全部放り出してな!」


「ホントにわかってるの?」

 ヴェルキが怪訝な顔をする。

 イェンスはもう一度、ヴェルキの肩を小突いた。


「ああ、わかってる わかってるとも! 確かにオレは

 バカで 頑固で 飲んだくれ そうだとしても

 店は繁盛 息子は結婚 毎日毎日 引っ張りだこ

 オレは今 幸せだってこと それくらいわかる」


 イェンスは無造作に、アドラと肩を組んだ。

「なあ、お嬢ちゃん? 酒は飲めるか?」


「ええぇぇぇぇい!」

 突然の叫び声!

 群衆の中から、レビィが飛び出してイェンスの背中に膝蹴りを打ち込んだ。

 どわっ、と観衆が沸く。


 よろめくイェンスのかわりに、レビィがアドラと肩を組んだ。


「どきな、このクソじじい 近づくんじゃないよ

 あたしゃね 自分の娘にゃ ハチミツ酒しか

 飲ませないことにしてんだ あっちへお行き!」


 するとイェンスは振り返り、今度はレビィに近づく。

 グラスを掲げるふりをして、レビィを誘うようにふるふる振った。


「まあまあ マンマ あんたも飲もう

 初めての 葡萄酒が 祝いの席

 こりゃもう 最高ってやつだ 妖精の言うとおり

 アンナも バニーも 大人になったんだ……」


 しんみりとグラスを見つめながら、イェンスはつぶやくように歌う。

 レビィもしんみり顔で、アドラとヴェルキを見た。

 ここまでで一番、静かなシーン。

 観衆は演者に見入り、笛の音だけがこだまする――


 ぽん!


 今度はメルが手を打った。

 はっ、と群衆が我に返る。

 イェンスとレビィの真ん中へ、メルは転げるように躍り出た。


「そうよ! だから つべこべ言わずに 遊びましょ

 アンナとバニー 主役たちが 待ちくたびれちゃう

 やさしい男 かわいい娘 ここで育った 愛しい子らよ

 グラスを掲げて さあ、みんな! 本番はこれからなんだから!」


 たん…たん…たん…たん…

 メルが手拍子を始めると、観衆がそれに合わせる。


 たん…たん…たん…たん…

 やがてそれは、再び大きなうねりになっていく。


 たん…たん…たん…たん…

 先生の笛の音も、だんだん熱を帯びてくる。


 たん…たん…たん…たん…

 そしてメルは、手拍子に乗って、勢いよく空想のグラスを掲げた。


「かんぱい!」


「かんぱい!」「乾杯」「かんぱーい!」群衆が一斉にメルに応えた。


「今日のすべては 二人のために――

 かんぱい!」


「乾杯!」「カンパイ!」「かんぱい」今度は演者たちもグラスを掲げる。


「人生で一番 美しい日にしてあげる――

 かんぱい!」


「かんぱーい」「乾杯!」「かんぱい!」全員が一斉に、グラスを持った手を挙げた。


「物語の結末は ハッピーでなくちゃ

 そう今日 この町で一番

 幸せな二人 なんだから――――――!」


「乾杯!」「かんぱい」「かんぱーい!」「カンパイ」「乾杯」「かんぱい!」

「カンパイ!」「乾杯!」「かんぱい」「カンパーイ」「かんぱい!」「乾杯!」


「かんぱぁぁぁぁぁぁ――――――――――――い‼」


 メルの叫びが、群衆の声と一緒に学校中へ鳴り渡った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る