4-5 くすぶる炎
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シェンと燕宮。二人だけが残された部屋は、生ぬるい静寂で満ちていた。
さっきまでの騒がしさは跡形もない。観衆がいなくなったせいで、緊張した空気も二人だけでは型崩れだ。蚊帳の外になった者同士の、どちらかが妥協するまで終わらない気だるい話し合いの場が出来上がっていた。
燕宮は扇を両手に持って顔の前にかざし、その影に視線を隠している。
相手は一体何を話したいのか、シェンは冷えてきた頭で考えた。考えたが、わからない。つい今まであんなに怒っていたせいで、自分が言いたいことは全部言ってしまった。
いつまでもこんなに胸糞の悪い状況に身を置きたくはない。
シェンはできるだけ燕宮を鋭く睨めつけた。
神国の人間は憎い。憎いが、その憎い仇と一対一で向き合わされてみれば、どうしていいのかわからない。怒ればいいのか? 殴ればいいのか? 殺せばいいのか? 一体こいつをどうしてやれば、この怨みを叩きつけられるのか?
投げつけたい叫びは喉まで出ているのに、いっこうに形にならない。そうして迷って動けずにいるほど、だんだん自分一人でこの女に立ち向かったところでどうしようもないんじゃないか、という気持ちが、ざわざわと胸の奥から込み上げてくる。
今までぼんやりと、もし神国の人間と対峙することがあったら……と考えたことはあった。でも、恨みや怒りばかりが先走ってその先を想像したことはなかったのだ。
こいつは自分に何の用があるんだ? 何がしたいんだ? 自分はこいつを一体どうしてやればいいんだ?
「おぬしも」
燕宮がしゃべった。誰もいない部屋で聞くと、姿と妙にちぐはぐな声色がやたら耳障りだ。
容姿も声もどちらも悔しいくらいに美しいものだから、余計にちぐはぐさ加減が際立って鳥肌が立った。
「おぬしも、我が祖国に虐げられた民かのう」
シェンの中で戸惑いに変わりかけていた憎悪が、一瞬で真っ赤に燃え上がった。
何を言いだすかと思えば、同情の台詞か。バカにしやがって——
目眩するような感覚と同時に、山の斜面から故郷に押し寄せる神国軍の騎馬隊の波が、ぱっと脳裏にひらめく。村の子供の金切り声が耳もとに蘇る。身体中が擦り剥けるあのいやらしい痛みが、背中に感じる真っ黒い寒気が、両手に握った弟たちの小さな手のぬるりとした温かみが——シェンの皮膚の下でばちばちっと弾けて全身を駆け巡った。
絶対にこいつだけは生かしておくものか。こいつだけは、ここでこいつを殺さなければ、生きてきた意味なんかこれっぽっちもない、ただの抜け殻だ、ただのごみくずだ。自分の命が燃えていることを、はらわたで感じる。顔が勝手に、笑いの形に歪んだ。
「哀れみですカ」
声が震えないように必死で落ち着ける。燕宮は、扇のむこうで少しだけ頭を下げた。
「いや——」
「だったらなんだって言うんでス?」
シェンが切り返すと、燕宮は黙った。返事がないまま数秒が過ぎる。シェンはしびれを切らして、二歩三歩、燕宮に詰め寄った。
「いえ、いいでしょう、ほかに言いたいことがあるなら聞いてやりましょウ」
燕宮はまだ答えない。じっと扇の陰に隠れている。
またしばらく時が過ぎ、シェンは再び我慢ならなくなってきた。
今度は左手で拳を握りしめ、右手で懐を探る。いつもあるはずの双節棍がない。
あたりを見回すと、さっきマリーに取り上げられたままの双節棍が部屋の隅に置いてある。
シェンがそちらへ踏み出そうとした瞬間、
「言いたいことがあるのは、ぬしの方ではないのかのう?」
燕宮の声は少しだけ震えていた。シェンは足を止めて燕宮に向き直る。
「あなたみたいなのに言うことなんて、もうありませン」
「そうか」
燕宮は少しだけ頷いた。
「ならばよいのじゃ。皆のところに戻ってたも」
そう言うと、扇を下ろして後ろを向く。装束の衣擦れる音が虚しく部屋に響いた。
シェンは面食らって固まった。どういうことなんだ、何か一言二言こっちに言い返そうとか、そういうわけではなかったのか。いや、いつまでもこんなに胸糞の悪い状況に身を置きたくはないとは思っていた——でも、これじゃただ自分が抵抗しない敵を一方的に罵倒して満足している愚か者みたいじゃないか。
うそだ。これじゃ、自分が悪者だ。そうじゃない、そうじゃなかったはずだ。五臓六腑の焼けるような気持ち悪さが全身を支配する。いい大人ぶりやがって、悪者はこいつのはずなのに!
「な、なんですカ。物分かりがないですネ」
シェンはふん、と鼻を鳴らしてみせた。今また激昂したら、同じだ。また自分が悪者になる。
さっと足元の双節棍を拾う。じゃらっと鎖の音が部屋に鳴り響く。一歩、二歩、燕宮の方に歩み寄り、宙ぶらりんになった感情の塊のやり場を固めるように足を踏ん張った。
「遺す言葉くらい聞いてやるって言ったんですヨ。回りくどい命乞いはやめればいいんでス」
「まろを殺める気かの?」
燕宮はちょっとだけ振り返ってこちらを見た。怯えたように、声が少し上ずっている。
「ぬし、そうは見えぬ」
「そんなわけ——」
シェンは思わず叫んで、床を蹴った。がっと一飛びで燕宮の座る高床の座敷に上ると、双節棍を真上に振りかぶり、燕宮の頭に向かって思い切り振り下ろす。
燕宮はさっと扇を持った右手で頭頂を守った。バキィッ! と鋭い音がして扇が横に真っ二つになる。シェンの双節棍が反動でするりと彼女の手をすり抜け、足元にがしゃんっ、と落ちた。
「すまぬ」
燕宮が折れた扇を構えたまま、囁くような掠れ声で言った。
「今殺められるわけにいかぬのじゃ」
シェンは上から燕宮の目を睨みつける。
「知りませン」
「あと数言だけじゃ」
「何ですカ今更!」
「熱り立たんでたも」
燕宮はシェンの方へ向き直る。
「まろは武術はわからぬ。じゃが、ぬしは今到底人を殺められるようなていに見えぬ。ぬし、まだまろを殺めるべきでなかろうぞ」
「何なんですカ、殺して欲しいのか欲しくないのか、どっちなんですカ!」
シェンは燕宮の顔に至近距離で怒鳴り散らす。燕宮は真剣に見返した。
「まろに防げるような攻撃では、赤子も殺められぬと思うがのう」
「関係ありませン、お前より我の方が強いんですかラ」
「ぬし、少し頭を冷やさぬか。先から己が何を言うておるか分かっておるのかの?」
シェンは押し黙った。腹の中で暴れ狂う炎が、すん、と少しだけ勢いを落とす。
燕宮はシェンの目を見て、
「よきかな」
一つまばたきをした。
「遺す言葉は聞いてくれるのであろう」
シェンは顔を歪める。
「……いいでしょウ」
すると燕宮は割れた扇を閉じ、膝を揃えて座り直した。
「まろがこの国に来たのは十九年前、齢にして十七の時じゃ。その時はまだ我が祖国には民を養うだけの糧があった。剡国の強大な国力を相手に真剣に戦争などと、誰もゆめゆめ考えてなどおらなんだ。仮にやったところで、我が祖国は返り討ちどころで済まぬ。国ごと消し飛んだじゃろう」
ゆっくりと、小さな声で燕宮は話した。
シェンは燕宮の顔を見下ろして、再びふん、と鼻で笑った。
「だから自分は関係ないとでモ? バカみたいな言い訳ですネ」
「聞いてたもう。もう少しじゃ」
「いつまで待つかは我が決めるんでス」
「かまわぬ。今際の際まで続けようぞ」
きっぱり言い切るせりふとは裏腹に、まつ毛を奇妙に細かく震わせ、彼女はシェンの方へ身を乗り出して詰め寄ってくる。
シェンは思わず半歩引いた。
「しかして、ぬしの申す通りじゃ。まろが祖国を出た時、剡国との国境は緊張状態ではあったが、大戦争を起こすような潮流は無いに等しかった。この国に来てから、まろは祖国と縁を切っておる。大戦争が起こったこともこの国の新聞で知った。ぬしの申す通りじゃ、まろは剡国との大戦争には毛ほども関わっておらぬ。ぬしが求めるならばぬしの故郷のために、神国の民として詫びの一言も申したいところじゃが、まろにはその資格もない。今や関わりのないものを代表することはかなわぬ。わかるかの?」
燕宮は一気にそこまで話すと、牡丹色の唇の間からふううっと静かに息を吐いた。
そして、乗り出していた身体を戻すと膝立ちになり、シェンから少し離れて再び後ろを向いた。
「……じゃあ、あなたは神国の人間ではないというんですカ?」
シェンは眉をひそめ、声を低くして言う。
「そうじゃの……まろは神国の生まれで、神国の美しいものが好みじゃ。しかし、もはや祖国に戻りたいとも、祖国の人間を探したいとも思わぬ。まろはマリーと夫婦の契りを結んでからは、この国の人間じゃ。まして、祖国の民はまろを神国の者だとは思うておらんじゃろう」
燕宮の声は掠れていた。
「追放でもされたんですカ」
シェンが嘲る。燕宮は、小さく頷いた。
「追放される前に逃げ失せた、が真じゃのう。剡国に逃れるも一度は考えた。が、ぬしの国でもまろは受け入れられぬ。ぬしの国は妖や獣よりも、〝異様な人間〟を特に嫌うじゃろう? ここが最善じゃった」
「そりゃあ、
シェンが吐き捨てると、燕宮は今度は首を横に振った。
「そのうえまろは男じゃ。どう考えても禁忌であろうの」
電撃のような沈黙が走る。シェンは聞き違いだと思ったのか、幾度か目を瞬いた。
唖然とする彼女を尻目に、燕宮は少し重たい袖をたくし上げる。座敷の奥に置かれた黒塗りの小机に向かうと、その上に置いてあった薄い紙を折っては、ぴりぴりと割きだした。
「男、には、見えないですけド」
シェンは燕宮の後ろ姿に向かって言葉を絞り出す。
「そうであろうの。しかし声色だけは誤魔化せぬ。できるだけ人前では物申さぬのじゃが」
薄い紙一枚を細長く五つに割いたところで、燕宮は手を止めて、小机の下から墨の桐箱と硯を出した。
丸みを帯びた墨の塊を丁寧に取り出すと、今割いた紙で墨の端を巻き、小机の隅にある小さな象牙色の水差しで硯に水を落として、のんびりと墨をすり始めた。
しゅり、しゅり、と硯の擦れる音がわびしく時を刻む。
「……遺言は、終わりじゃ」
燕宮が消え入るような声でつぶやいた。
「煮るなり、焼くなり、好きにしたもう」
シェンは、静かに双節棍を拾った。
そして、ぴょんぴょんと高床の座敷を下りた。ぷいと燕宮から目を逸らして、窓の外を見る。
淡い灰色がかった昼下がりの陽光のなか、丸太の門へ続く庭の小道をスイともう一人、白い日傘を差した小さな子が歩いていくところだった。
あの白骨のような肢は、さっきマリーが「ミチル」と言っていた子だろう。
今度こそ、本当に何もするべきことがなくなってしまった。腹の中にやり場のない怒りだけが残った。妙に虚しい。なにが遺す言葉だ。なにが殺してやる、だ。
神国の人間は憎い。憎いが、たった今まで燃え上がっていた感情は一枚すりガラスを挟んだ向こうから見ているみたいに、はっきりしなくなってしまった。
届きそうで届かず、わかりそうでわからない。憎悪の塊がもやのような薄汚い恥ずかしさに変わっていくのを、シェンは胸の奥で刻一刻と感じた。
とにかく居心地が悪いから、一瞬でも早くここを立ち去りたいのに、ただこのまま黙って出ていくのも釈然としない。
なら、一言謝って出ていくのは? いやいや、それはしたくない。絶対に嫌だ。自分は悪者じゃあない。それに、出て行けたところで、外で待っている人たちの前でどんな顔をすればいいというんだ。
ぐるぐると迷ったまま、棒立ちでしばらく経った。
二人の女の子たちはとうに門の向こうへ出て、村の中心の方へと見えなくなっていた。
その時、ピィッ……ピィア……と、窓ガラス越しに甲高くて鋭い鳥の声が聞こえてきた。
この声には聞き覚えがある。
座敷で墨をすっていた燕宮が手を止めて、墨を硯のへりにこつん、と立てかけた。ゆっくりと立ち上がると、すり足で座敷の端まできて、座敷の角の柱の陰から窓の方を覗く。
「鷹じゃ」
そう言って、燕宮は絹の衝立の下から黒いスリッパを出してきた。座敷から下りてスリッパを突っかけると、装束を引きずりながら窓をきしし、と控えめに開け、縁側に出た。
シェンも燕宮の後ろへ進んで庭を見回す。
広い庭のはるか上空を、ぐるぐるとのんきに飛び回っているのは黒い鷹だった。やがて鷹はゆるやかに高度を下げると、すうっと音もなく門の丸太の上に降り立つ。
真っ暗な夜空にふたつまん丸い月が浮かぶように、金色の目玉がこちらを見た。
「珍しいのう」
つぶやく燕宮の声はため息まじりだった。シェンはさっと踵を返して、
「あれはポルさんの鷹でス。知らせに行きまス」
半ば駆け足で部屋の出口に向かう。
やっとここからトンズラする口実ができた。シェンは急に身体が軽くなった気分で、障子に手をかける。
「ぬし、ぬし」
後ろから燕宮のか細い声。振り返ると、相手も縁側からこちらを振り返っていた。
「名は、なんという」
シェンは少しの間動きを止めて逡巡した。
伏せがちのまつ毛の奥にある、墨を映したように黒い瞳と、視線がかち合う。
シェンは思い切って、ざっ! と障子を開けると部屋の外に一歩踏み出す。そのまま身体ごと燕宮の方へ向き直り、もう一度これでもかとばかりに燕宮の顔を睨みつけた。
「
言葉を投げつけ、ぴしゃり! と障子を閉めた。燕宮がどんな顔をしたか知る間もなく、その姿は白い障子紙の向こうに見えなくなった。
**********
「……いやあ、ところで鷹ってどうやって飼うんだい?」
日もすっかり暮れ、窓の外も真っ暗になった頃。
食卓で夕食のシチューをつつきながら、マリーが言った。対面に座るポルは、器の横に置いた鉛筆を取る。
ポルの右隣にはシェンが、味わっているからなのかどうなのか、やたらにちまちまとシチューを口に運んでいた。
『私もよく知らないのよね。妹が躾けた鷹なの』
「へえ、妹がいるのか」
『そうよ。双子の妹』
三人で囲む夕食のテーブルに、二人の会話が静かに行き交う。
黄色い素朴な土焼の深皿に入ったシチューは、ぷるぷるした新鮮な鶏肉が、野菜と一緒にこれでもかと入っている。ぶつ切りのじゃがいもや人参、セロリは大きすぎてちょっとがじがじしていた。
わりあいさらっとした汁を口に入れると、濃いミルクの味と甘くて香ばしい玉ねぎの匂い、さわやかなハーブの葉が後味に香る。
大皿盛りのカラフルな塩ゆで豆に時々スプーンを伸ばしながら、手元の平皿に載った固いバケットをざかっとちぎっては、シチューに浸して食べると、この上なく幸せな気持ちになった。
スイとミチルは先に燕宮と夕食を食べて、今は二人で風呂に入っている。
四人がけのテーブルに一つ席が余っているからとか言って、スイがやたら客とご飯を食べたがったので、スティンが三人と一緒に食べた。マリーはちょうどその時近所の家に用事があっていなかったので、先に食べていた四人の皿が片付いてから、こうしてポル達としっぽり夕飯を食べている。
スティンは寝室にこもり、ルズアはさっきまでシェンの向かいにいたが、そそくさとシチューを掻っ込んで外へ出て行ってしまった。夜なら目立たないから村の中でも歩き回っているのだろう。
今回も山ほど食べるのかと思っていたら、意外にも彼はシチュー一杯とバケット半分で席を立ったので驚いた。燕宮の一件で食べ損ねた昼食の皿と紙袋に残った白パンを夕飯前に食いつくしたからだろうが、ルズアの腹にも底があるんだな、と妙に感心した。
マリーと話しながら、美味しくてみるみる減っていく料理を見て切ない気持ちになっていると、廊下の奥の方からすり足で歩く音が近付いてくるのに気がついた。
隣のシェンを見たら、ぼうっと物思いに耽りながらまだちまちまシチューの具をかじっている。
やがて廊下からリビングルームに燕宮が現れた。
長い髪を後ろで束ね、重ねていた装束の上着は脱いで、一番下の白い合わせ襟に朱色のゆるい下履きと、その上に一枚だけ薄い白の上着を羽織った軽装だ。
早足でこちらにやってくると、マリーの肩に手を置いて、いかにも愛おしそうな視線を向けた。
「マリー、ましまろはあるかのう?」
その瞬間、シェンが思いっきりむせ込んだ。燕宮が来ていたことにも気がついていなかったようだ。
「あるよ。そういえば新しいジャムもあるよ」
マリーは燕宮の顔を振り返り、肩に置かれた指を左手ですりすり撫でながら言った。
燕宮はマリーの肩から手を離して彼女の頬を手の甲で軽くさわる。シェンとふと目が合うと、燕宮は「ほっほっ」と笑って歩いていき、キッチンに姿を消した。
しばらくの間キッチンの扉の向こうからがさがさ、カチン、と食器や紙袋の音がしてくる。
ポルが再びシチューと豆を大事に堪能していると、キッチンから燕宮が、スプーンを刺したマグカップを持って出てきた。マリーの後ろを通ると、のんびりした動きでソファに座り、マグカップをスプーンでぐるぐるやりだす。
ポルはシェンをちらりと見る。シェンはウサギのようにシチューの具を食べながら、眉間にしわを寄せていた。
ポルの皿が空になったころ。
びっくりするほど膨れた腹をさすっていると、開けっ放しのドアから見えるキッチンの奥の土間、風呂のある方から「ぬぅわはははは!」とスイの笑い声が聞こえてきた。
と思ったら、次の瞬間素ッ裸のスイが土間用のスリッパをぽーいと脱ぎ捨てて、だだだだだっ! と走って上がってくる。
「あっこらぁっ! 待ちなさい!」
マリーが持っていたスプーンを放り出して立ち上がる。
「パンツ忘れたんだよ〜!」
スイがリビングルームを飛び出すと同時に、廊下の奥の方でがちゃっと誰かが部屋から出てくる音がした。
お構いなくパンツを取りに自室へ走るスイ。
「うわぁぁぁぁあああ⁉」
廊下からスティンの叫び声が聞こえてきた。直後にバンっ! とドアが閉まる音。部屋から出てきたスティンが素ッ裸のスイと鉢合わせて、再び部屋に引きこもったらしい。
少しして、かわいらしい赤のパンツを履いて片手にもう一つ黒いパンツを持ったスイがこちらへ戻ってきた。
「ち、ちょっとスイ」
しれっとマリーの目の前を通り過ぎていくスイの二の腕を、マリーががっちり捕まえた。
「お客さんがいるんだからそういうのはナシだろ」
「そういうのって?」
「裸で走り回るの! ちゃんと服ぐらいは着てくれ、たのむから」
「でもみんな女の子じゃん。大丈夫」
「男の子もいるだろ! ていうかね、女の子でも男の子でもお客さんの前で裸はダメなの」
「んえ〜ん、じゃあいいかどうかお客さんに聞いてみよ?」
スイはポルの方を指差した。
マリーはその手をぐいっと押し下げて、
「あぁそうだな、やっぱり言ってる間に服を着てこよう」
キッチンの方にスイの背中を押しやる。スイは「はぁい」と間の抜けた返事をして、ばたん、とキッチンに戻っていった。
マリーがこちらへ振り返ると同時に、ポルはさっと鉛筆を取る。
『私も裸で走り回るのは良くないと思うわ。風邪引いちゃう』
言うと、笑ってみせた。
マリーは少し顔をしかめた後、ふっと表情を緩めて困ったように苦笑いする。
「まったくだ。本当にすまないね」
『気にしないわ。あー……スティンはどうかわからないけど』
「彼にも謝らなきゃな」
マリーは片眉を下げて言うと、空になった夕食の皿を重ねた。
ちょうどのんびり食べていたシェンも食事を終えて立ち上がる。
シェンが空の皿を持ってキッチンのドアを開けると、中からお揃いの青い水玉模様のパジャマを着たスイとミチルが、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら出てきた。生ぬるい石鹸の香りと、甘くてキツい子供のにおいが混ざって、ふわっとポルの鼻に届く。
ミチルは通り過ぎざまに、シェンとポルを順に睨みつけた。二人はぱたぱたリビングルームまで歩いていくと、まだマグカップをかき回している燕宮の両隣に陣取った。
シェンに続いて、マリーも皿を持って立ち上がる。
ポルは一瞬マリーの顔を目で追っていたが、ぱっと身を乗り出すと彼女の服の袖をつまんだ。
「なんだい?」
マリーが振り返る。
『片付けは私がしておくわ』
ポルは得意げにほおを緩めた。マリーはちょっと目を丸くすると、
「ほんと? できるかい?」
『できるわよ。台所の使い方はさっき見てたもの』
「うーん……」
『お皿洗いくらいならお屋敷でもしたことがあるわ。だめ?』
ポルは立ち上がって、首を傾げてみせる。
『恩返ししたいの』
「そうだなあ」
マリーはふわっとあくびをした。
「はーあ。明日は仕事だし、じゃあお言葉に甘えようかな……」
ポルはにっこり笑って、なんども頷く。マリーはぽりぽりと頭をかいて、
「キッチンにある甘いものは好きに食べていいよ。ただし、夜中だから食べ過ぎないように。ってルズア君にも言っておいてくれ。僕、先にお風呂入っていい?」
ポルはもう一度大きく頷く。メモ紙と鉛筆をぐしゃぐしゃっとポケットにしまい、丁寧に皿を重ねてマリーの顔を見返す。
マリーはポルにウインクしてみせると、伸びをしながらリビングルームに歩いていき、スイの隣に腰掛けて、手を伸ばして燕宮の髪を撫で始める。
それを見て、ポルの頬が思わず緩む。あの中に混ざってみたいというちょっとした羨望が、ぽっと点って吹き消えた。
ポルは踵を返すと皿の山を持ってキッチンに向かう。
ちょうど出てきたシェンと目が合ったので、適当に笑顔を作っておいた。
シェンは一瞬立ち止まると、眉を寄せて困ったような怒ったような変な顔をしてため息をつき、近づいてきてポルの手から皿の山を半分奪うように取る。そのままキッチンに引き返すシェンの後について、リビングルームからの声を聞かないように、ポルはキッチンへ引っ込んでいった。
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