4-4 東方の天女


 マリーを先頭に、五人は廊下に出た。

 ポルたちの寝室の前に来ると、マリーは廊下の左側にある扉を開ける。

 そこは横に細長い床の間になっていて、奥には木の格子に白い紙を貼り付けた戸が、きっちり閉められている。たしか東国の〝障子〟という伝統的な戸、だ。いつか本で読んだ気がする。

 その奥から、さっきの不思議な弦楽器の音が気まぐれに聞こえてきていた。

 ポルがせっかくなのでその〝障子〟を近くで眺めようと思った矢先、マリーがさっとそれを開け放った。

「ツバメ」

 優しくマリーが呼びかけると、弦楽器の音が止まった。

 障子の奥の部屋は廊下と同じ板間になっていた。

 嗅いだことのない、よく料理した魚のような香ばしい匂いが、うっすらポルの鼻に届く。リビングルームくらいの広さの部屋には、障子の向かいにある大きなガラス張りの格子戸から晴天の陽が入ってきて、とても明るい。

 窓の向こうにさっき女の子が座っていた縁側が見える。

 しかし、ぐるり見回しても、部屋の中には人の姿がない。

 右側の壁ぎわに、部屋の広さの四分の一ほどを占める、膝くらいの高い床がある。正面を天井から下がる竹の簾で、左右を絹の衝立で囲んで、中が見えないようになっている。

 簾の下から覗く床は板間ではない、なにやら緑色の草が細かく編まれた、はめ込み式のカーペットの類だろうか。

 ポルは近くで見てみたくて足を踏み出しそうになったが、がさ、と簾の奥から人が動く音がして踏みとどまった。

「お客さんたちを連れてきたよ」

 マリーが言うと、簾の横からそろーっと真っ白い指がのぞく。

 簾の脇に垂れたふさ付きの赤い紐をその指先がすっと撫でて、紐を少し絡め取ると、そのままゆっくりと下へ引っ張った。

 からからから、優雅な音をたてながら簾が捲き上り、奥に座る人影が肩先まであらわになる。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、あまりにも鮮やかで艶めかしい、五色様々の装束だった。


 筒袖の幅をとにかくたっぷり余らせて作ったような重たげな袖口と、これでもかと長い、大人がくるまって眠れそうなほどはある裾の上着がいく枚も重なっている。

 絹でできているのだろうか、一番上のは上品に光沢を放つ薄桃の地にひょうたん型の繊細な模様が波打っていて、さらにその上からえんじの糸で丸い花模様がところどころに織り込まれた豪奢なものだ。その下に菱形の紋が織られた上着が、上から順に紫二枚、薄紫一枚、表白地に端が萌黄のもの二枚。無地の純白を一枚。袖口や裾から美しいグラデーションになってのぞく。

 上着の中には白い合わせ襟の服に、朱色のゆったりした長い履物を、同じ朱色の帯で腰上の位置に締めて履き、胸上には薄い木板でできた扇をかざしている。

 半開きの扇には紅や金を贅沢に使って鳥の絵が書かれているのが見え、上端から花飾りと長い五色の糸が垂れていた。


 言葉にするのももったいないくらいの美しさに、一瞬でぞわっと鳥肌が立った。

 ポルは目玉が乾くほど、装束の隅から隅までを眺め回す。時間を忘れてしまいそうだ。

 視界に広がる色彩の波に攫われるような気分にさえなっていると、

「……北狄ベエイディ?」

 突然ポルの背後でシェンが小さくつぶやいた。

「も、もしかして……北の……」

 その瞬間、かららっ! と激しく簾が巻き上がり、人影の全貌があらわになった。


 白粉が塗り込まれた肌は雪のように白い。滑らかな円柱を描く首筋、細く引き締まり、くっきりとした輪郭に、冴えわたるほど鋭く通る鼻筋。小さい牡丹の花弁でつくったみたいな濃い紅の唇。

 黒目がちの瞳はすうっと横に長く、伏せたまつ毛は少し湿った光沢を放つ。

 黒いインクの川でできているような、青みのある真っ黒な髪は前が目の上で切りそろえられ、後ろは毛先が上着の裾と並ぶほど長い。

 怜悧そのものの顔立ちに鮮やかな装束が映えて、造形美としかいいようのないみごとさ。こちらが照れてしまうくらいの美女だった。

 東方の天女か。ポルは頰がうっすら熱くなるのを感じた。


 しかし見惚れていられたのも束の間、突然シェンが先頭にいたポルの前へ、ずんずんと歩み出てきた。

「なんで……」

 シェンの声は震えている。

「なんで、あなたみたいなのがこんなところに」

 後ろからでも彼女の中にふつふつと煮えたぎりだす怒りが、手に取るようにわかった。今でこそ拳を握りしめて堪えているようだが、すぐにでも武器を取り出したくてうずうずしているのがまるみえだ。

 一体、今までのどこでそんなに怒ることがあったんだ? 

 ポルはシェンの反応の意味不明さにこんがらがる頭を落ち着けて、いつ彼女が飛びかかっても止められるよう身構える。

 ちらりと周囲を見回すと、マリーはシェンと簾の奥の美女へ交互に目をやって焦ったような顔をしているし、後ろではスティンがシェンに声をかけようか迷っているらしく口元をもぞもぞさせ、ルズアの顔にさえ緊張が見て取れた。


 耳が痛くなりそうなほど張り詰めた空気。

 今度は金属音のように裏返った声でシェンがまくし立てた。

「あ……あなたたちみたいなケダモノが、なんでこんな、なんでこんなところニ? どうしてこの国でのうのうと生きているんでス? どうして……」

 身を乗り出すように美女を睨めつける。

「どうしてですカ? どんな神経をしていたらこんな、他人の国を好きなだけ踏み荒らしておいて! お、お前たちだけこんなところで——」


 ポルは理解した。この美女はきっと東の大陸にある、イクノ神国の民だ。

 南北に隣り合わせたエン国とイクノ神国は、何年にもわたる激しい戦争の最中。シェンはその戦争から逃れて、エン国からここに来たのだった。

 思えばマリーから聞いた「ツバメ」という名前もたしかに神国風だ。それにシェンならこの独特な、東の大陸風の衣装が神国のものだと、少なくともエン国のものではないというのはすぐにわかっただろう。

 彼女が神国人であることは、シェンには一目瞭然だったのだ。しかもこんな豪奢な装束を纏えるのは、神国の中でもおそらく、身分の高い人間だけだろう。

 そう思えば、シェンが彼女を見て怒り狂うのも無理はない。彼女と同じような身分の人間が、もしかしたら彼女の身内の誰かが、エン国との戦争を主導していてもおかしくないのだ。

「——お前たちだけ、こんなところデ! ふざ……ふざけるな……! ふざけるなッ!」

 シェンは一人絶叫して、懐から双節棍を取り出す。美女の方はすっと扇を開いて両手に持つと、口元を覆った。

「殺してやる! 今殺してやるっ!」

 タイムリミットだ。

 シェンが床を蹴るのと同時に、ポルはシェンの背中をひっつかんだ。マリーが横から飛び出して、からららっ! と思い切り簾を下ろす。美女の姿が見えなくなると、シェンはこちらを振り返って叫んだ。

「離せ、このバカ女!」

 ぞっとするほどの怨みを向けられて、ポルは凍りつきそうになる。大きな猫目は血走り、顔は今までに見たことないくらい真っ赤だ。

 とにかく武器を持ち出すのはまずい。こちらを突き飛ばそうとするシェンの腕を掴んで、見よう見まねで捻りあげると、ガシャンッと耳障りな音を立ててあっさり双節棍が落ちた。マリーがさっとそれを拾う。

 シェンは捻りあげられたままぶら下がって、ポルを蹴飛ばそうともがき始める。見かねたルズアがシェンの片足を捕まえるのと、ポルの腹に思い切りシェンの蹴りが入るのは同時だった。

 ポルは勢いで倒れかけ、ルズアはそのままシェンを片足から背負ってぶん回し、壁に投げつける。ポルはすぐ後ろにいたスティンにぶつかり、倒れ込む前にふわりと止まった。

 シェンが壁に思い切り打ちつけられる直前、横にいたマリーが跳んで割って入るとシェンを受け止め、代わりにマリーが壁とシェンの身体に挟まれて、「ぐえっ」と変な声を上げた。



 シェンを抱き留めたままのマリーが壁をずり落ちて床に座り込むと、再び部屋は静かになる。

 マリーはほっ、と大きなため息をつき、シェンはぜえぜえ息を荒げていた。

 シェンの視線はまだポルを睨んでいる。ポルは無意識にスティンのシャツを掴んだままシェンを見つめ返し、スティンはまだその場で目を泳がせながらおろおろしていた。

 ルズアはことが済んだとばかりに、腰を下ろして一服し始めた。

「な、投げるのはよくないね」

 マリーが言ってへにゃっと笑った。ルズアはふん、と鼻を鳴らす。

 それ以上やり取りは続かず数秒、再び部屋が静寂に包まれる。

 全員が次どうすべきか迷い、ちらちら辺りをうかがった。


 最初に動いたのは、がささっという簾の奥からする衣擦れの音。

 全ての目がそちらに集まる。

 やがて衣擦れが止んで、かたかた、かた、とゆっくり、少しだけ簾が上がった。

エン国の民かの」

 おとなしい青年を彷彿とさせる、抑揚のない高めのテノールが簾の向こうからしゃべった。

 ずっと長いこと誰とも話していなかったかのように、さびしげでかぼそく、しかしはっきりと通る滑らかな声。まるで千年の間人知れず流れ続ける、細い細い小川のせせらぎのようだ——だがひとつ、あの美女の姿とは妙に食い違う。

 困惑を隠せず、ポルは簾の隙間を凝視した。話しかけられたらしいシェンも、マリーのそばでただ簾の隙間を睨めつける。

「まろは燕宮つばめのみやと云う」

 宮、というのは神国の王族の女性にだけ許された称号のはずだ。

 ポルはさっと背筋が伸びるのを感じた。どうやら大変な人に謁見してしまっているようだ。

 からからからと、簾が巻き上げられる。左手に簾の仕掛けから下がる紐を絡ませ、右手に持った扇で顔の下半を隠した燕宮が、不気味なほどまっすぐ居直って部屋を見渡した。

 ううぅ、とシェンが言葉にならない唸りをあげ、毛を逆立てた猫のように半歩下がる。

 燕宮はそれをちらりと見て、ふいと目をそらした。

「ぬしらの用はのちに聞こうぞ」

 ルズア、スティン、ポルの順に数秒ずつ視線をやって、最後にマリーを見ると重々しく言った。

「マリー、その女子おなごと二人にしてくれんかの」

「えっ? で、でも、いいのかい? 僕は今暇だし……」

「よい」

 面食らってしどろもどろに答えるマリーに、燕宮は涼しい顔で言い切った。

 マリーはさらに困惑した顔で、

「あ、えーと、そう? じゃあ止めないけど——」

 ぎいっ、バンッ! 

 突然障子が勢いよく開いた。心臓が凍りつきそうになる。

 全員がギョッとしてそちらを見る。そこにはさっき縁側にいた、銀髪と淡い桃肌の少女が、障子を開け放った姿勢のまま突っ立っていた。


 紫に近い青の瞳でギラギラと部屋中を見回すと、

「……さっき、パパに殺すって言ったの誰?」

 落ちついて少し掠れた、消え入りそうな声で器用にドスを効かせ、少女は凄んだ。

「い、いやいやいや、ごめんねミチル」

 マリーが引きつった顔で笑いながら、慌てて立ち上がった。

 少女の視線の矛先がきょとんとマリーに向けられ、ポルは少しほっとする。

「事情があるんだ、大丈夫。あとで話すよ。じゃ、じゃあツバメ、僕はリビングに行ってるね。ポルちゃん、スティン君、ルズア君、おいで」

 マリーは三人に手招きすると、ミチルに後ろを向かせて廊下の方へ背中を押した。

 ミチルを先頭にマリーが部屋から出て、スティン、ポルが続き、いかにもかったるそうなルズアがよっこらせ、とでも言いたげに大げさに立つと、シェン一人を残して燕宮の部屋を出た。



 ぎい、ばたん……と閉まるドアを背にリビングへ戻ると、真っ先にマリーがミチルをソファに座らせた。

 マリーはその隣に座り、他の三人にも昨日のように、丸太のローテーブルを囲むように促す。

 ルズア、スティン、ポルの順にマリーの向かい側のソファにぎゅうぎゅう詰めで腰掛けた。並んだ面々を見るやいなや、ミチルはソファの上でくるくるに縮こまって、マリーと背もたれのクッションの間に顔をうずめる。

「ミチル、あいさつは?」

「しない」

 ミチルを引き剥がそうとしたマリーは、ますます困り顔になった。

「怒ってるのかい?」

 ミチルは一瞬だけマリーの背中からちらっとこちらを覗くと、何も言わずにまた深く顔をうずめた。

 マリーは小さくため息をついて、苦笑いする。

「……なんか、申し訳ないね」

 ポルは全力で首を振った。スティンはマリーにつられて困ったようにもじもじと笑い、ルズアは我関せずの態度で足を組んだままぴくりともしない。

「まったく予想してなかったわけじゃないんだ。あんなにとは思わなかったけど……シェンちゃんは、神国の人に会うのは初めて?」

 マリーは頭をぽりぽりかきながら言った。ポルは、メモ紙を全員に見えるようにテーブルの上へ広げて、答えを書き綴る。

『わからないわ。シェンとは二ヶ月ちょっと前に会ったばっかりだから……でもあの反応は初めてそうね』

「そうなのか。エルヴィーの部下が神国の人だったが、彼には会っていない?」

『あー……もしかして、惣元さんって人?』

「そうそう。彼の、あー……訛りというか、話し方を聞けばすぐに神国の人だってわかるんだけど」

『私たち、彼は地下に潜入した時にちょっと会ったくらいよ。話したところは聞いてないし、なんていうか、それどころじゃなかったっていうか……』

「そうかあ。そりゃ無理もないね」

 マリーはミチルの細い背中を撫でながら言った。

「ツバメは見ての通り神国の人だ。神国では高い身分だったらしいんだけど、今のエン国との戦争が始まる随分前に、こっちの国に越してきた。だから、彼女がエン国との戦争に関わっていたわけはないんだ」

『じゃあ、シェンが彼女に怒るいわれはないのね?』

「まあ、ね」

 ポルのきょとんとした顔に、マリーは言葉を濁す。

「きっと、彼女にとったらそういう問題じゃないんだろうなぁ……」

 ポルは少し眉をひそめたが、マリーの顔を見てそっと鉛筆を置いた。

 訊いても仕方がないことなのだろう。胸の中はツバメの部屋で一体何が起こっているのかはらはらする気持ちで落ち着かない。

 辺りを見回す。顔の見えないミチルを除いてみんな浮かない顔をしていた。ルズアでさえ、いつもより不機嫌な仏頂面だ。

 この家に面倒ごとを持ち込んでしまったことへの申し訳なさだってあるが、そんなことを言い出せば、自分たちがここに着いた時点で面倒ごとだ。それは、黙って自分だけが向き合っていればいい問題だ。

 ポルは思考を放棄した。考えたって仕方がない。マリーにだって、解決できないこと。それなら、仕方がないものは仕方がないのだ。

「ミチル、わけはわかったかい?」

 マリーがミチルの背中を小突く。ミチルは顔を埋めたままもごもごと、

「あの青い女はエン国のやつなの?」

「エン国の、ひ、と、だよ」

 マリーが言い聞かせる。ミチルは顔をマリーの背から離した。

「ふうん」

 ソファの座面に立ち上がって、ひょいっと背もたれをまたぐ。床に着地すると、背もたれの端の布に突然歯を立てて「ぎぃーっ」と声を上げ、だだだだだっ、激しい足音を立てながら自分の部屋に走って行った。


 マリーはミチルの消えた廊下の角を少しだけ見つめていたが、やがて正面に向き直る。テーブルの上に視線を落として、ふうぅと大きく息を吸った。

「すごい怒ってる」

 スティンとポルは気まずそうな顔をする。ルズアは表情を動かさない。

「今ので、たぶんちゃんとわけは理解したはずなんだけど。無理もないかな……僕たちにだって難しいことだ」

 マリーはそう言うと顔を上げて、三人の表情を見る。

「あ……ほんとに、ごめんよ。ややこしいことになっちゃってさ。あの子の態度も、あとであの子にはもう少し言っておく」

『いえ、別に、いいの。気にしてないわ。私たちこそごめんなさい。あの子にも謝らなきゃいけないわ』

 ポルがあわてて返事をすると、マリーは小さく首を振り、にっと優しく笑って立ち上がった。

「暗い話を延々としても仕方ない。お茶と、マシュマロでも焼こうか」

 マリーは台所に歩いていく。途中でこちらに手招きするので、スティンとポルは顔を見合わせた。

「き、君だろう」

 スティンが小さくマリーの方を指差す。

『いいえ、あなたほとんどマリーさんと話してないじゃない。せっかくだから、あなたよ』

「何をすればいいんだ?」

『マシュマロを焼くんでしょう?』

「僕は、あまり……得意じゃない」

『……わかったわよ』

 ポルはわざと少し荒っぽく立ち上がる。スティンの頰がぴくりと引きつったのが見えた。

 ポルがキッチンに駆け寄ると、マリーは竃に置いた銅のケトルの湯を煮立たせていた。

「流し台の脇に鉄串と、まな板の横にマシュマロがあるだろう。刺して、暖炉で炙っておいで」

 ポルは流し台の角に立てかけてある二本の長い鉄串を取ると、流し台の横で干されたまな板の手前に、マシュマロの袋を見つける。

 二本の鉄串に大ぶりのマシュマロを刺せるだけ刺すと、マリーの腕をつついて引っ張り、その手のひらに綴った。

『布巾をお借りしていい?』

 マリーはしばらく、ポルが文字を綴ったあとをなぞっては考えていたが、やがて、

「食卓の後ろの棚に」

 と食卓の方を指差す。指文字を読むのに時間がかかったらしい。

 ポルはキッチンから出て棚から布巾を取り、リビングルームの暖炉の前に陣取る。

 ソファの方を振り返ると、スティンはどこかへ行ってしまったらしく、ルズアだけが肘掛にもたれてぼうっとしていた。

 他人の城で、ルズアがこんなに気を抜いているのも珍しい。マシュマロが焼けるのでも待っているのだろうか。ソファに身を沈めて、物思いに耽っているようにも見える。

 と思ってしばらく眺めていると、ルズアはおもむろに立ち上がった。前に腕を伸ばして伸びをする。ばきばきばきっ、とどこの関節からかどえらい音がした。

 ルズアはズボンのポケットに手を突っ込んで、玄関に向かう。また庭に行くのだろう。

 彼が玄関ドアに手を伸ばしたその時、がちゃっ! と向こう側からドアが開いた。

「あっ!」

 ドアを開けたのは、学校帰りのスイ。

 学校用のリュックサックを背負って、手には野菜がいっぱい入った麦わら編みのカバンをぶら下げている。帰りがけにおつかいも済ませてきたらしい。

 ルズアは黙ってドアノブに伸ばしかけた手を下ろす。スイはルズアの顔を見て、いたずらっぽくにんまり笑った。

「よっ、にーちゃん!」

 ルズアはスイの顔を見下ろす。あのいつもの、うるせえなあとでも言いたげな、こちらが悪いことをしたような気持ちになる冷たい顔である。

 しかしスイは怯むどころか、ルズアの目の前に野菜が入ったカバンを突きつけた。

「さては、にーちゃんの目当てはこれだな!」

 言うだけ言って、ルズアの脇をすり抜ける。

「これは夕飯の材料だからあげないよ〜! マリーちゃーん、ただいま〜っ! お野菜買ってきた!」

 どたどたどたっ、元気な足音を立てながら走って家に入ってきた。するとちょうど、マリーが紅茶のカップを器用に四つ持ってキッチンから出てくる。

「お帰りスイ! ありがとう! 中身見せて」

 マリーは食卓の上にカップを置くと、スイから野菜のカバンを受け取る。手ぶらになったスイはリュックサックを下ろしてソファに放り投げると、

「あ、あ〜っ!」

 いきなり叫びながらポルの方にやってきた。

「ねーちゃんマシュマロ焦げてるよ! 真っ黒じゃん!」

 ポルははっとしてマシュマロに目を戻す。ぼうっとしていたせいで串を持つ手が下がって、先の方に刺さったマシュマロは完全に火の中に入って黒こげになっていた。

 ポルは慌てて串を暖炉から引っ込める。やってしまった。

 スイの方を見ると、きらきらのアメシストと視線がかちあった。

「んもー、ねーちゃんかして」

 スイの呆れた声にはちょっとだけ得意げな色が隠しきれていない。ポルの方に手を伸ばして、横からマシュマロの串を取り上げた。

「これはもう仕方ないね。炭だから」

 左右の串で器用に黒焦げになったマシュマロだけを暖炉の中に落とす。

「あとのやつももうちょっとね。手前のやつが全然焼けてないから、これはね、」

「あっ、スイ!」

 マリーがスイを呼んで、話が中断される。マリーはカバンの中身の野菜を食卓の上に広げていた。

「パセリ買ってきてって言ったの、忘れたろ?」

「あぁ〜ん」

 スイは残念そうに仰け反ると、暖炉の灰に串をぶっ刺してマリーのところへ駆け寄った。

「ハーブのお店入ったことないから忘れてた」

「あれ? そうなのか?」

 マリーが野菜をカバンに片付けながら言う。

「ハーブ売ってるのはリィリちゃんとこのお家だろ?」

「リィリちゃんはお姉ちゃんの友達だよ。だからいつもお姉ちゃんが行くの」

 スイはテーブルの端にぶら下がったり椅子の背もたれに乗り出したり落ち着かない。マリーは最後に大きな人参をカバンの中にしまうと、

「そうか。リィリちゃんのところに行ってパセリ買ってきてくれる? できるかい?」

「いいよぉ」

「買い方わかる?」

「わかんない」

「じゃあ、ミチルと一緒に行っておいで」

 マリーはカバンの中から財布を出すと、金貨を一枚スイに渡す。スイは金貨を握って、

「はーいっ!」

 と叫びながら自分の部屋へ走って行った。

 そして一分としないうちに、部屋からどたどたっと二人分の足音がして、ミチルがスイに引きずられるようにして出てきた。

「行ってきまーす!」

 スイの元気な声を最後に、バタンっ! と勢いよく玄関ドアが閉まって、二人は出かけて行った。ポルは暖炉から串を抜いて立ち上がると、窓から庭をのぞいた。

 いかにも楽しそうに、ちょっと走ったり振り返ってミチルの手を引っ張ったりするスイと、玄関先にあった白い日傘をさすミチルが、門に向かって遠ざかっていく。ミチルの白い日傘が、たまにくるくると回った。

 ポルはちょっと息をついて、マシュマロの串に視線を戻す。確かに手前の方が全然焼けていない。

 あたりを少し見回すと、窓の下の壁際に水瓶を見つけた。

 木の蓋をずらして見ると、中には半分も水が入っていない。ポルはそこに鉄串の先を、マシュマロがつからないように浸す。じゅんっと音がして一瞬湯気が立ち上る。

 鉄串を引き上げて水瓶の縁で水を切り、冷えた串の先を持ち直すと、今度はさっき手で持っていた方を暖炉の中に入れて、再びマシュマロを炙り始めた。

「スティン君とルズア君は?」

 マリーが紅茶のカップを四つ持って近づいてくる。ポルは首を横に振った。

「そうか」

 ため息混じりに言うと、マリーはソファに座って、テーブルにカップを置く。

「それが焼けたら、一緒に飲んでくれる?」

 ポルはにっこり笑って、何度も頷いた。




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