4-3 ヒースの咲く庭

 それからずっと、四人はマリーと話し続けた。

 廊下の奥から聞こえるスイの笑い声は、やがてふと聞こえなくなった。窓を揺らす草原の風も、いつのまにか鳴りを潜めていた。

 エコールの夜が更けるのは早い。気がついたら暖炉の火も小さくなって、リビングルームでぼそぼそと話し込む五人の声だけが、薄ら寒さの中に取り残されていた。


 ポルが書いて話すとルズアに聞こえないので、結局ポルが膝の上で書いたことをシェンが話してくれていた。

「人探し」をするために、おそらく絶えたであろう古い民族の情報を探して旅をしていること。

 王立図書館の司書を名乗る女性に、図書館地下にポルたちの求める情報があることを仄めかされ、まんまと夜中の禁書室に忍び込んだこと。

 実際そんな情報は見つからず、その上エルヴィーたちに見つかり、一度は捕まったこと。しかしエルヴィーの起こす「革命」に協力することと、スティンが監視役に同行することを条件に釈放してもらったこと。

 だから、国家機密の並ぶ禁書庫に忍び込んだ罪で、王都の騎士団が今ポルたちを探しているということ。



「なるほど。そんなことか」

 ことん、とカップを置く音。マリーが冷めた紅茶を飲み干したところだった。彼女は真面目な顔であっけらかんと、

「それはたしかに、キミたちにとってはさぞ怖かったろう。もちろん騎士団を警戒しなくていいとは言えない。でもキミたちは地下に入っただけで、別に国家機密は覗いてないんだろう? なら、大丈夫さ」

 四人が同時に、唖然とした顔でマリーを見る。ポルが慌てて紙に鉛筆を走らせた。

『大丈夫ってそんな……』

「だって、別にもう王都の城壁内にいるわけでもないじゃないか。騎士団は腰の重い組織だよ」

『つまり……』

「つまり、キミたちくらいの子が図書館にちょっと忍び込んだくらいで、騎士団はわざわざ執念深く追ってこない。彼らは若い子の力を甘く見すぎてるのさ。次どこかに忍び込んだらそこで捕まるだろう、ってなもんだ。そんなことより問題なのは……」

「僕だ……」

 スティンがぽろりと、力なくマリーの言葉を継いだ。頰を引きつらせ、眼前の虚空を見つめて、もともと白い指先さえ青ざめている。

 マリーは予想外の返答だったのか、少しスティンの方へ身を乗り出した。

「それは、どういう?」

 スティンは目の焦点をマリーに合わせると、ゆっくり、慎重に口を開いた。

「僕は、本当は死ぬまで図書館の地下にいなきゃいけないはずだったんだ」

 マリーはわずかに眉をひそめる。

「なるほど」

「僕のいた地下の部屋は〝特別監房〟で……つまり、図書館にある罪人の収容部屋だ。八年前に終身刑を言い渡されてから、僕はずっと姉さんに面倒を見てもらってきた。特別監房の罪人が逃げたら、図書館全権者の姉さんが責められるんだ。騎士団は僕のことなら真剣に追いかけてくると思う……追われてるとしたらポル嬢たちじゃなくて、僕なんだ」

 たどたどしく言葉を絞り出すスティンに、ポルとシェンはちらりと視線を交わしあった。

 マリーはますます難しい顔になる。

「君が終身刑を言い渡された罪人だって……信じられないけど。エルヴィーは本当に悪い人間を大事に面倒見たりなんかしない。何があったんだ」

「僕の父が」

 スティンは俯くと、手のひらを額に当てて目元を隠した。

「昔、軍医だったんだ。彼は新しい医術の研究に熱心で……だったんだが、戦地で負傷した友達を新しい医術で助けようとして、それが失敗して、父は処刑された。その時に助手をしていた僕も終身刑になったんだ。図書館地下で、僕は父の研究を引き継ぐ仕事に服役することになった」

『どうして?』

 ポルが、荒い筆音でスティンの言葉を遮った。

『新しい医術の研究を続けたければ、失敗した罰を受けろってこと? でも〝服役させられてた〟ってことは、研究させているのは騎士団なんでしょう? それって、騎士団が新しい医術研究の成果を暗に認めているからじゃないの? それなのに、あなたを地下に閉じ込めて迫害するなんておかしいわ。筋が通らない。どうして——』

「ポルちゃん」

 今度はマリーがポルの言葉を遮る。ポルが振り返ると、マリーは厳しい顔をふっと緩めてポルを見た。

「いや、なんでもない」

 マリーは再びスティンへ目をやる。スティンは俯いていた顔を少し上げ、わずかばかりの苦笑いを浮かべて首を振った。ポルは冷めた紅茶を一口、ゆっくりと飲み下す。

『とにかく、あなたは騎士団にとっても、国にとっても重要な人なのはわかったわ。だから騎士団があなたを探してる。そしてエルヴィーさんは……』

「姉さんは、僕が逃げたことがバレてたら今頃図書館の重役は解雇されているだろう。下手をすれば投獄されているかも……」

 スティンの声がわずかに震える。その隣で、ルズアが突然背もたれにどっかとふん反り返った。

「あんだよあのクソババア。他人には大口叩いたくせに、自分はバカみてえに捕まりやがったらいい気味だぜ」

「いや、きっとそれも彼女の想定内だ。そんな気がする」

 マリーは再び真剣な顔で、今度はルズアの方に向き直った。

「そもそも考えてみれば、あの積極的なエルヴィーが八年間も同じところに留まっていたことが驚くべきことだろう。むしろ図書館の最高責任者に就けておくことで、騎士団が彼女をあそこから動けないようにしているんじゃないかなって……僕は前からそう思ってたんだ。僕なら、あの子は紛争区域で騎士たちと駆け回って、戦地を平定する役が断然向いていると思うんだけど。そう思わない? スティン君」

 スティンは小刻みに頷いた。

「ああ……とてもそう思う」

「うんうん。だからキミを図書館地下から逃がしたのは、図書館から動くための口実でもあったんだろう」

「姉さんは、仮に捕まっても絶対に出てきてやるって……」

 それを聞くと、マリーは突然ぷっと笑った。

「そうかそうか、あっははは! やっぱりエルヴィーはそうでなくちゃ! 」

 焼きマシュマロの皿に手を伸ばすと、残った数個を一気にさらえて口に放り込む。ルズアがしまった、と言わんばかりに一瞬口を開いてマリーを睨めつけた。

 マリーはルズアと目が合うと、マシュマロをもごもご頬張りながら、

「みんな、そう怖い顔しなくても大丈夫だって。難しい状況じゃない。エルヴィーだって考えがあってやってるんだ、君たちは——」

 ちらりと玄関脇の掛け時計を見る。

「少し休む必要があるだけさ。喋らせすぎちゃってごめんね。秘密の会議は終わりにしよう」

 その言葉とともに、マリーはさっと立ち上がる。ポルも時計に目をやると、夜の十一時を回っていた。テーブルの上の紅茶カップを全員分かき集めて席を立ったとたん、マリーがひょいとポルの手からカップを取り上げた。

「君たちの部屋に案内しよう。風呂は明日にしてくれ」

 くるりとポルたちに背を向けて、リビングルームを後にする。ポルはちらりと他の三人が立ち上がったのを確認して、マリーを追いかけた。



 リビングルームを出て玄関前に戻り、右方向へ廊下を進む。

 少しすると左手への曲がり角があり、その先には壁の小さなランプでぼうっと照らされた、黒い木床の短い廊下がさらに続いていた。床と同じ色の黒いドアが右手に二つ、左手に一つ、突き当たりに一つ。

 マリーは四人を廊下の先まで連れてくると、突き当たりのドアと右手奥のドアを順に指した。

「この二つが君たちの部屋だ。寝間着は僕たちのを貸すよ。中に用意してある。好きに分かれておやすみ」

 そう言って軽く両手を挙げ、にっこり笑いながら、マリーはリビングルームの方へ去って行った。


 マリーのスリッパの音が聞こえなくなると、四人は顔を見合わせる。

 スティンは即座に目を泳がせ、ルズアは頭をかいて大欠伸をした。シェンは少し顔をしかめてポルをじっと見る。

「……結局、〝魔術〟の話はしなかったんですネ」

 ポルがシェンを見返すと、ふいと彼女は目をそらした。

「全部話すって言ったのニ。よかったんですカ」

『……うん』

 ポルはシェンの手に綴る。

『王都で起こったことは、全部言ったからそれは……必要ないかなって。いずれ話すことになるかもしれないけど、いえ……やっぱり、そのことも今話した方が良かったと思う? シェンは——』

「別にいいんじゃないですカ」

 投げつけるように返すと、シェンはくるりとポルに背を向け、突き当たりのドアに手をかける。

「では、我はこの部屋で寝まス。お三方ハ?」

 問いかけに、スティンが真っ先にもう一つのドアへと動いた。

「じゃ、じゃあ、僕はこっちに」

 残ったポルは一瞬ためらう。ルズアはさっさと決めろと言わんばかりにこちらを向いていた。

 まだ何か言いたげに、ちらりともこちらを振り返らないシェンと、できるならこのまま消えてしまいたいとでも言わんばかりに、開けたドアの陰で縮こまるスティン。どっちの部屋の方が気が楽かは一目瞭然だったが、ポルは腹をくくって針の筵に足を踏み入れることにした。

 シェンのそばに寄ると、ルズアとスティンに向けてじゃあ、と軽く手を振る。

 シェンが乱暴にドアノブをひねれば、いかにも寝室らしい、湿った嗅ぎ慣れない香りがふんわり体を包んだ。

 天井から吊られた小さなランプの灯りで、室内は家具の影だけがうっすら見える。なにも考えずに眠るには、この上なくふさわしい。

 ポルが部屋に入って後ろ手にドアを閉める瞬間、「おやすみ」とやはり消え入りそうなスティンの声が、廊下からそっと聞こえた。



 **********



 翌日、ポルが目覚めたのは昼前だった。

 ベッドから起き上がると、シェンが寝ていた床の布団はもぬけの殻になっていた。先に目覚めて出て行ったらしい。

 足の方向にある大きな窓から、カーテン越しに薄ぼんやりとした陽光が室内を照らす。

 目をこすって部屋内を見回すと、壁一面に赤や薄緑の、派手な東国の衣装が掛けられていた。部屋の隅にはいくつも箱や物干し台が並び、こちらには洋服が、大人のも子供のも雑多に掛かっている。

 昨日は暗さと眠気で気にもしなかったが、どうやらこの部屋は服置き場みたいだ。

 シェンの寝床に倣って、掛け布団をきっちり畳む。

 ベッドを降り、藍色の寝間着のズボンを少し引きずりながら部屋を出た。全身の筋肉が痛くて仕方ない。


 廊下を数歩歩くと、マリーが曲がり角からひょいと顔を出した。

「おはよう。お寝坊さんだねぇ」

 マリーはくっくと笑ってみせる。ポルはゆっくりと会釈で返した。そういえば鉛筆と紙を部屋に置いてきてしまった。話しかける手段がない。

「キミの仲間は早起きだね。シェンちゃんとルズア君なんか、スイが学校に行ってすぐ起きてきたよ。スティン君はあまり眠れなかったらしい」

 聞いてもいないのに、マリーは楽しそうにしゃべった。スイは学校に行ったのか。スティンが眠れなかったのは、外に出てきたばかりだからだろうか。気の毒なことだ。

「スティン君とシェンちゃんはリビングにいるよ。ルズア君は庭先で何かしてる……みんな起きてからお風呂に入ったけど、キミも入るだろ? 着替えを持っておいで」

 ポルは部屋に戻り、カバンから自分の着替えを出して再び廊下に出る。

「こっち」

 手招きするマリーについていく。リビングルームに入ると、そこでは昨晩のローテーブルを挟んで、シェンとスティンがチェスをしていた。

「あ、おはようございまス」

 シェンがこちらを振り返って言った。いつもの青い上着を脱いだ格好に黒髪をくくり、ソファの上で膝を抱えて、機嫌良く黒いポーンの駒を指で撫でている。

 スティンは中途半端な笑みを浮かべると、こちらへ小さく頭を下げた。うっすらと目の下にクマができている。

 ポルは少し笑って片手を振ると、ソファの横を通り過ぎた。後ろから、

「シェン嬢、そこにポーンは進めない。こっちのナイトをここに……」

 とスティンの落ち着いた声が聞こえてきた。

 マリーはリビングルームの奥にあるキッチンへ向かう。ポルが追いつくと、マリーはキッチンの向こう側の土間を指差した。

「この先だよ」

 土間はキッチンから左のほうへ続いていて、その先に小さな木のドアがある。

「お湯が冷めているだろう、脱衣所の前にある薪を持って入ってね」

 ポルは頷くと、足元にあった土間用のつっかけを履いて、ぶかぶかの寝間着の裾を引きずらないようにたくし上げながら風呂場へ向かった。



 キッチンの方から、なにやら香ばしい匂いがやってくる。

 風呂から上がったポルは、いつものワンピースを着て湿った髪をくくり、ぐう……と鳴る腹を押さえて、風呂場を出た。

 果たして香ばしい匂いの正体は、リビングルーム横の食卓に並んだ昼ごはんからだった。端がかりかりに焦げた分厚い肉の燻製いくつか、両面焼きの卵、豆の新芽をあわせてどんと盛った皿が三つ。

 ポルが思わず魅入っていると、マリーがキッチンから白パンの大きな紙袋とフォークを三本持って出てきた。

「座りな、ポルちゃん。ちょうど僕も食べるところだ」

 ポルはうんうんと頷くと寝室に走って、鉛筆とメモ紙を取ってくる。適当に席へ座り、皿の横にメモ紙を置くと小さく食前の祈りを済ませた。

 マリーもポルの向かいに座る。

 リビングルームの真ん中では、まだシェンとスティンがチェスをしていた。

「彼らはあんまりお腹空いてないんだってさ」

 マリーが口に燻製を放り込みながら、ポルの視線の先を追って言った。誰も手をつけていない三つ目の皿を小さく指差して、

「ルズアくんはどこにいるか分かんないけど、彼はよく食べる子だから、きっとお腹空いてるだろ?」

 ポルは笑った。大袋から白パンを取り出して口に入れると、鉛筆を取る。

『彼、そんなに朝ごはん食べたの?』

「そりゃあもう。昨日の残り物だった鶏の丸焼きが半分と、白パンの大袋が一つなくなった」

 思わずポルは咽せかけた。

『そんなに?』

「いつもはこうじゃないのかい?」

『いえ、そうね。いつもそうだけど』

「成長期ってやつかな」

『そうかしら? ああ、でも……確かに少し身長が高くなった気がする、かもしれないわ』

 ポルは鉛筆を置いて、燻製肉をかじった。厚い赤身は思ったよりもしっとりとやわらかく、濃くない塩胡椒の味が少し遅れてやんわりと舌を刺激する。表面のオリーブ油がとろけるように口の中に広がり、スモーク独特の薫りが喉の奥から鼻をくすぐった。

 こんなに美味しい干し肉の類は、アトレッタ家の屋敷でも食べた記憶がない。

「羊の燻製だよ。美味しいだろ?」

 マリーがポルの顔を見て嬉しそうに言った。

『これ、王都で食べたジャーキーの味にちょっと似てる』

「そうさ。エコールは肉が美味しいところなんだ。ここの肉と羊毛の売り先は大抵が王都の城壁内だからね、王族や上級貴族たちの口に入ることもある代物だよ。ここのは」

『羊肉って、もっと硬いものだと思ってたわ』

「普通はね。これは燻製屋に作ってもらったから美味いのさ」

『燻製の店があるの?』

「いや、というよりは、村で肉を売ってる家のうち燻製が美味しいところをそう呼んでるだけ」

 マリーは白パンを一つ手に取って、フォークで縦半分に裂け目を入れる。そこへ残った肉と卵、豆の新芽を全部挟んでかぶりついた。

 ポルも一番大きな白パンを選りすぐると、マリーの真似をする。

 皿の上にぼろぼろと具をこぼして、口いっぱいにパンを頬張ったら、もう卵の塩味と燻製肉の薫りを豆の芽の苦味としゃきっとした歯ごたえが引き立てて、わけがわからなくなるくらい美味しい。美味しい、以外の言葉が浮かんでこない。

 お行儀さえ一瞬忘れてポルは燻製肉の即席サンドイッチをそしゃくする。気がついた時にはあっという間に、手から食べるものが消えていた。

 ふと目の前の皿を見て、こぼれた具材の散らかりように再び咽せかける。お屋敷だったらペレネに小言を言われているところだな、と思った。

 なんだか急に恥ずかしくなって、口の周りも油で汚れているのがやたら気になってきた。バレないようにこっそり着ているワンピースのエプロンの裏で口を拭おうとしたら、

「あ、こら。待って」

 マリーに目ざとく見つかった。食卓の後ろにある食器棚に手を伸ばすと、引き出しから布きれを取り出してポルに手渡す。

「ちゃんとこれで拭きなさい」

 ポルは真っ赤になった。マリーと目を合わせないように小さく口を拭うと、フォークですごすごと皿の上にこぼれた具をかき集めて食べる。

 さっきのサンドイッチと少しだけ同じ味がして、食べる前よりお腹が空いたような気さえした。


「ツバメが」

 フォークを置いたポルへ、思い出したようにマリーが言った。

「今日は朝から仕事してる。そろそろ終わらせると思うから、そしたら会いに行こう……っと?」

 その時、リビングに面した廊下の奥からてん、てんとん、とん、とはじかれるような弦楽器の音が聞こえてきた。初めて聞くふしぎな音だ。

 マリーが耳をすますように、少し首を伸ばした。

「ちょうど終わったみたいだ」

 マリーは立ち上がって皿を片付ける。

「ルズアくんを呼んできて。ツバメに会いに行こう」

 ポルも席を立つと、大きく頷いて踵を返した。


 リビングの二人はチェスからいつのまにかだらだらと雑談に転じたのだろう、シェンがソファにごろごろ寝そべっていた。

 その横を通り過ぎて、からんころんと玄関ドアを開ける。空は薄曇り、荒野の乾いた風がびゅうっと前髪を巻き上げた。唇や肌の水分が全部干からびてしまいそうだ。ポルは目を瞬いて、庭を見回した。

 丸太の門の横へ伸びる柵沿いの花壇には、薄紫のヒースが小山のように茂っている。昨晩は暗闇でよく見えなかったからか、思ったより広い庭だった。

 家の右隣すぐそばでは背の低い風車が、ふおん、ふおん、ぎしし、と三枚の巨大な羽を暴力的な速さで回している。

 近くに目を移すと、玄関ドアの左側に大きな犬小屋。三角屋根の下に子供の字で〝スターナ♡〟と書いてある。

 犬小屋の向こうがわではスターナがこちらに尻尾を向けて、ぼてっと寝そべっていた。

 そのこんもりした背中と家の外壁のわずかな隙間に、なぜかルズアが膝を折って丸まっている。剣を小脇に持ち、ぶかぶかの半ズボンにアーラッドで買ってあげた革のサンダルをつっかけて、白い長袖シャツを脱いで頭からかぶっている。目立つ赤髪を隠しているつもりなのだろう。

 ぴくりともしないスターナとルズアには、ところどころに黄色い蝶がとまっていた。

 ポルはルズアに近づく。すぐさまルズアの視線が、シャツ襟の影からこちらを睨んだ。

「なんだ」

 ポルはおかまいなしにルズアの隣に屈んだ。蝶がみんな逃げていった。

『寒くないの? その格好』

 ルズアは無言でポルから自分の正面へ視線を戻した。

 ポルもルズアと同じ方に体を向け直す。スターナはぴくりともしない。

『マリーさんが、私たちをツバメさんに会わせたいから来てって。あと、あなたのお昼ご飯もあるわ』

「知ってる」

 ルズアはゆっくりと体を起こした。ポルは彼の顔を見上げて、

『なんで?』

「匂いがした。声も聞こえた」

『聞こえた? この家、そんなに壁薄いわけじゃないと思うんだけど……』

 ルズアは頭のすぐ真上にある、大きい窓の桟を親指でぐいっと指した。

「ここから」

『あ、あらそう』

 窓の桟からって言ったって、手前ではシェンとスティンがずっと喋っているはずなのに、なぜその奥の会話が聞こえるんだ。ポルは半分呆れて、遠くの景色に目をやった。

 地平線のくっきり見える茶緑の平原に、ポツリポツリと風車が回っている。

『今日も風が強いわね。いつもこうなのかしら』

 ルズアは返事をしない。

『家の方が風下なのに、家の中の匂いがわかるものなのね』

「村の方向から風が吹くから」

 ルズアがかさついた声で言った。

「表のあたりは村からくる臭いが混ざって鼻がききにくい」

『難儀ね。でも、ここもほら……獣臭くはないの?』

 スターナは背中の毛並みこそいいものの、腹の下や手足は泥と汚れでこてこてで、犬臭さを放っていた。庭を掘るからだろう。

 マリーも彼を洗うのには骨が折れそうだな、と思った。

「獣の臭いしかしねえからマシだ」

『なるほど』

「家の中の匂いもここならわかる」

『まったく驚きだわ』

 二人は少し口をつぐむ。

 また黄色い蝶がやってきて、はらはらとポルの髪にもとまった。

 ルズアにならって耳をすますと、風車の羽がぎしぎしいう音に紛れて、かすかにばしゃっばしゃっと規則的な水の音や、てんとん、てん、とさっきの弦の音が聞こえてきた。じっと聞いていると、何の音なのか確かめに行きたくて足がうずうずする。

「おい」

 ルズアが突然呟いた。

「あいつ、誰だ」

『あいつ……?』

 ルズアが家の右のほうを指差す。その先を目で追っていく。

 玄関の右はガラス戸と東国風の格子戸が二重になっていて、その外には細く縁側が作りつけられているのが見えた。よく見ると縁側の一番奥、軒の影ができているところに誰かいる。

 黒いスツールの上であぐらをかいて、小さな身体にちょっと大きい本を開いて読みふけっている。顔が本の陰で見えない。

 白樺の小枝を組み合わせたような華奢な手足は、皮膚の下の血が透き通って見えそうなほど白い。小さなスイカみたいにまん丸な頭の上の方に、ほとんど真っ白に近い長い銀髪が、二つに結われて少しだけきらきらときらめいていた。

 どう見ても幼い子供だが、いくつくらいの子だろう。

 ポルがじっと見ていると、本の隙間からちらりと薄青の目が覗いた。それもつかの間、子供はさっと立ち上がると格子戸を開けて家の中に戻っていった。

『……知らないわ』

 ポルはルズアに視線を戻す。

『いつからいるの? あの子』

「朝から」

 ルズアはいかにも興味なさげに答えた。自分から話を振っておいて乱暴なことだ。

 ポルは立ち上がった。

『そう。私たちも行きましょう、マリーさんが待ってる』

「飯は」

『まだあるわよ』

 ルズアはしぶしぶと言わんばかりに、のっそり立ち上がった。猫のように伸びをすると頭に被っていたシャツを着なおして、ズボンについた土も払わずに家に入ろうとする。

 ポルは自分のスカートの裾を慌てて払うと、ルズアのズボンの尻をはたいて土を取ってやる。脇に鋭い膝蹴りが飛んできたので、スレスレで避けた。

 からんころん、と家の中に戻ったら、マリーがシェンとスティンと三人でおしゃべりしながら待っていた。

「来たね。行こうか」

 マリーが立ち上がって、笑顔でポル達を手招きした。

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