3-4 特別監房

 **********



 翌朝、十時。

 図書館の開館時間を門の前で待って、ポルは朝から図書館にこもった。

 昨日は少し遅くまでシェンと夜の王都を練り歩いていた。治安がいいのはさすがというべきか、特に何か困ったことが起こるわけでもなく、珍しいものを見歩きながら二人で他愛もない話をした。

 ルズアにお土産を持って帰ると、驚いたことにルズアは二人が出かける前と同じところでうつらうつらしていた。つついて起こすと土産物のサンドイッチをポルからひったくって、人気の少なくなった外へ出て行った。

 つつくまで起きないとは、ずいぶん疲れていたに違いない。一緒に外に行こうだなんて無神経なことを言ったと、その時ようやく後悔した。


 その後、ベッドに入っても結局わくわくして眠れなかった。

 同じベッドのシェンが寝てから魔術書を読みふけって、いつ眠りについたのか覚えていない。

 しかし、今朝から眠くて仕方ないので、よっぽど遅くまで起きていたのだろう。図書館の歴史書の列、洞窟絵画を模した天井図の下を、本を山積みにしたカートを押しながらポルは大あくびをした。閲覧室に居座ったら眠ってしまいそうだ。


 歴史書を取りたいだけ取ると、ポルは突き当たりまでカートを転がして左に曲がる。

 天井絵画が永久機関の設計図に変わった。産業分野の書物の棚だ。ポルは手にしたメモを見ながらカートを止めて手近な梯子を上り、並んだ背表紙を指で追う。

 目当ての本の著者は、H……I……J、K……ケル・クーレン。右手のメモに目をやった。〝書物の貿易史〟のタイトルをちらりと確認して――並んだ背表紙をなぞる指がはたと止まる。探していた本があるはずの場所だけ、すっぽりと隙間ができていた。

 ポルは諦めて隣の本を適当に取ると、梯子から飛び降りた。

 カートにもたれてまっすぐ進むと図書館の裏口を通り過ぎ、経済書の列を抜けて、閲覧室に出る。閲覧室の奥の壁には二階へ上がる階段、その横に金と鉄格子の手回し式エレベーターがひっそりとあった。

 エレベーターは大きさからして、カートや荷物用だろう。その横には、筋骨隆々で色黒の騎士団服が立っている。

 エレベーターボーイと言うにはあまりにも立派な男に、ポルはそーっと近づいた。すると男の視線がぎょろりとこちらを向いて、厳しい顔からは想像もできないにっこり笑顔で、

「ご利用ですか?」

 ポルはうんうん頷いた。

「そちらのカートですね。何階まで?」

 二階、とポルが合図する。ボーイは頷いて、足下の小箱から青い木札を取り出した。

 エレベーターの格子の横には三本のワイヤーが垂れていて、彼はそのうち一本に木札を引っ掛けると、軽く下に引いた。反動で木札はカラカラと小気味良い音を立てながら、天井の穴をすり抜けて二階へと巻き上がっていく。

「行きましたねぇ」

 さも遠くを眺めるように、男は手を額に当てて呑気に天井を見上げた。ユーモアのつもりらしい。

 ポルはエレベーターの凝った金メッキの扉を引っ張り開けて、狭い籠の中へ体当たりでカートを突っ込んだ。

「ああ、わざわざどうも。閉めますね」

 ボーイは自分の職務を今思い出したとでも言わんばかりに、笑って扉を閉めようとする。

 ポルは慌てて隙間をすり抜けた。危うく閉じ込められるところだった。

「では、お嬢さんは二階へ上がって待っていてください」

 階段を指差す男にくるりと背を向けて、ポルはさっさと壁際の狭い階段を上った。

 後ろからギィィ……と鈍い音が追いかけてくる。エレベーター横の巨大なハンドルで鉄の籠を巻き上げるボーイの姿が、ちらりとポルの視界に入った。


 二階へ上がったポルを、今度は年取ったボーイがエレベーターの前で待っていた。さっきの青い木札を片手に、小さく手招きする。

 同時に下からカートを乗せた籠が、やかましい金属音とともにゆっくりと上がってきた。

 籠と床の段差で引っかかるカートをボーイと二人、力ずくで引っ張り出したら、今度は二階で本の収集だ。


 医学書と数学書の書架はひとまず飛ばして、有名な哲学者の肖像画を天井に掲げた哲学書の列に入る。

 めぼしい本を全部取ったら、ついにカートの中が本でいっぱいになった。ポルは来た道を戻って、窓から図書館の正門が見える閲覧室に陣取った。

 眠くてまぶたが重いが、一冊一冊のんびり読んでいる時間はない。カートの中の本の山を机に積み上げて、メモ用の紙とペンとインクをセット。速読みは苦手ではない。

 図書館が閉まるまでにあと七時間。全部読んでやる。

 ポルは早速、借りた本の山に取り掛かった。



 本を開くこと数十分。知っているところを全部読み飛ばして、五冊目をめくっていたポルの前の席で、誰かが椅子を引く音がした。

 目線を上げずに本に没頭していると、今度はバサバサッ、ドン! と机が揺れる。

 癇に障ったポルが顔を上げるのと、犯人がどかっと椅子に座るのは同時だった。

「んあぁ……」

 大欠伸をしながら背もたれにふんぞり返っていたのは若い女性。傷みかけた黒髪。黒縁眼鏡。底なし沼のような黒い瞳。特徴的でないようで、妙に記憶に残る堂々とした相貌。

 ポルははたと思い当たった。昨日、ポルに声をかけた女騎士だ。

 しかし今日の彼女はラピスラズリ色の騎士団服ではない。白シャツに黒いネクタイ、茶色のベスト、上等な茶色の長ズボンを履いている。文官や司書の、男性の制服だ。

 彼女はポルにはおかまいなく、机の上に本の山を作って筆記用具を取り出した。ポルは自分があまりにもじろじろ彼女を見ていることに気がついて、慌てて視線を逸らす。

 その時、ちらりと見えた本の山の一冊が目に付いた。

 ポルは慌ててメモ用の紙に走り書きしながら、女性の前まで手を伸ばす。半身を乗り出して、女性の手元をトントンと軽く叩いた。

「んえっ?」

 豆でも投げつけられた鳩みたいに、女性は顔を上げた。

「何か用ですか?」

 ポルはたった今書いたメモを差し出す。

『こんにちは』

「あ? ああ。こんにちは」

 女性はちらりとこっちを見た。ポルは彼女の本の山を指して、

『その本……ケル・クーレンの〝書物の貿易史〟、読み終わったら貸していただけませんか?』

 女性はポルの指差す本に一瞬目をやると、

「あー……いいわよ。もう少し待ってて」

『どうもありがとうございます』

 ポルは席に座り直して、再び自分の本を繰り始める。

「……いいけど、読めるの?」

 目の前の女性がポツリと呟く。

 囁くような声だったが、言葉は明らかにこちらに向けられていた。

『読めるの、って……』

 ポルはあたふたと返す。

「ケル・クーレンといえば難読書で有名でしょ。そういうことよ」

『そういうこと?』

「書いてあることが理解できるのか、って話」

『あ、ああ……』

 ポルは少し首を傾げた。

『ちゃんと理解できているのかは私にはわかりませんけど……意味くらいなら分かります』

「ふぅん。あんた、いくつ?」

 女性はこちらを興味津々に見つめてくる。

『十五歳です』

「十五。十五ねえ……」

 女性がにやりと笑った。何がそんなに面白かったのか。ポルが尋ねようとペンを持つと、女性は背もたれにもたれて腕を組み、

「普通にしゃべっていいのよ? いくら図書館は静かにったって、そこまでしなくていいわ。それの話よ」

 ちょうど手にしたペンを指差す。なんというか、高圧的な人だと思った。

『声でお話ができないもので』

 短く返す。女性は特に興味なさそうに、

「ああ、そうなの。ごめんなさいね」

 本を取ってぱらぱらとめくり始めた。女性の素っ気なさに行き場をなくしたポルの言葉が、ペン先から垂れて紙に染みを作る。

 その時、ポルの肩を後ろから誰かがつついた。

「どうモ。お昼は食べましたカ?」

 振り返るとシェンが立っていた。観光ついでに来たのだろう。ポルが首を振ると、シェンはにっこり笑った。

「じゃあ一緒にお昼に行きましょウ。ルズアさんが怒ってますし……飯が食いたいのに財布がねえっテ」

『わかったわ。すぐ行きましょう』

 ポルはため息をついて席を立つ。前の席の女性がちらりと目を上げた。

「どこ行くの?」

「お昼を食べに行くんですヨ」

 シェンが代わりに答える。

「置いていくの? 本」

 女性がまっすぐポルを見ていた。ポルはペンを取って、

『置いていっても構わないですか? またすぐ戻ってくるのですけど』

「いいわ。一時間はここにいるから。それまでに戻ってこなかったら、この本は全部返すわよ」

 ポルは頷いて、

『ええ。ありがとうございます……』

 ペンが迷って、紙に再びインクが垂れる。

「エルヴィリアーナ・アズシャロル」

 女性がポルのペン先を追いながらすかさず答えた。

『ありがとうございます、アズシャロルさん』

「エルヴィーでいいわ」

『じゃあ、エルヴィーさん……ありがとうございます。また後で』

 ポルは軽く会釈して、シェンの後に続いて席を離れた。聞こえるか聞こえないかの小さな声で、「どうも」とエルヴィーが言ったのをポルの耳はかろうじて拾った。少しだけ嬉しくなった。



 **********



 薄明かりの部屋。

 狭くはないのに、身動きが取れなくなりそうな気味悪さ。四方を囲む黒い石壁のせいだ。窓はひとつもない。

 通気口がたったひとつ、高い天井の隅っこに沈んでいるだけだ。そこからくる湿った土の匂いが、この部屋の上に地面があって、つまりここが地下なのだと嗅覚に教えてくる。

 冬の夜の空気だけを何百年分も集めたようなその部屋には、ぽつりぽつりと小さなランプが灯っている。ランプ油の上に揺れる炎の光が、質素なベッドや奇妙な標本が詰まったガラス棚、白い布をかぶった大きな机を照らしていた。

 机にもたれて立っている人影がひとつ。着ている白衣がぼんやりオレンジの光に照らされて、幽霊のようだ。

 くすんだ金メッキ色をした短髪が小さく揺れて、人影がこちらを振り向いた。

「寒くないのか、姉さん」

 冷え冷えとした青い瞳。にもかかわらず、それは視線も声音も優しい青年だった。

「平気よ。あんたの方が寒くないの」

 ドアの前で答えたのは、騎士団服に着替えたエルヴィー。薄暗い部屋では、表情のないその顔は余計に影が差して見える。

 青年はもたれていた机から離れた。

「そうか。今日は上着を持ってきてないんだな、と思っただけなんだが……」

 意味もなく口ごもる。

 そんな台詞は無言で受け流して、エルヴィーは手に持っていた布袋を目の前に持ち上げてみせた。

「また実家から柿が送られてきたのよね。食べるでしょ? スティン」

 青年、スティンは問いが終わる前にもう袋を受け取っていた。

「いただけるのなら喜んで食べるが……断らないのか? 毎年処理に困ってるだろう」

「断っても良いんだけどさ。あんたが好きそうだから別にいいかなってね」

「そりゃまあ……ここの食事より何百倍も美味しいからな」

 スティンは苦笑いして袋を開けた。

 ここには似つかわしくないつやつやの柿が、袋の底から覗いている。微かな甘い匂いに鼻をくすぐられて、彼は袋を閉めた。

「ありがとう。あとで大事に食べる」

「今日はもう仕事はしないの?」

「まあな。これはもう処理待ちだ」

 スティンはそう言いながら、白い布がかかった机の隅に置いてある木のケースに手をかけた。ケースには、銀色に輝く医療用ハサミやメス、ピンセットや針が一通り並んでいる。

 机の白布は奇妙な形に盛り上がっていて、ところどころ赤茶や黄色の染みができていた。少しだけめくれた布の隙間から、痛んだ肉と金属の混じったような変な匂いが漂っている。

 スティンはケースの箱を閉めて留め具をかけると、右肩から十字を切って短く祈りを捧げた。

「あんたが処理待ちなんて言うってね……そんなに使うところがなかったの? これ」

 エルヴィーが白布の下の物体を一瞥する。

「使うところがないというか……もうそろそろ、死体の解剖研究をするのも限界なんだ。そりゃ必要だとは思うが、死んだ人間相手ばかりじゃあ生きてる人間は治せない」

「まあ、そうでしょうね」

 エルヴィーは口の端で笑った。

「だからそろそろ潮時なんじゃないって言ってるのよ」

「潮時? 何のだ」

「ここから逃げるの。もうアホくさいでしょ、こんなところにこもってるのさ。私がここで役職に就いてる限り、あんたはいつでも出ていけるのよ」

 スティンは押し黙った。思案するように、目線は爪先に落ちる。エルヴィーが眉をひそめて、

「あんた、まさかとは思うけど……終身刑を言い渡されたからって、本っ当に一生ここで過ごすつもりなの?」

「出ていきたいのは山々だが、今出て行ったら姉さんはどうなるんだ? 終身刑の、しかも特別監房収監の、全管理責任が姉さんにある罪人が脱獄したら……貴女は解雇どころじゃ済まないぞ」

「だから構わないって言ってるじゃない」

 厳しい顔で考え込んでいるスティンの背中を、エルヴィーが思い切り叩く。加減のない威力にスティンが咳き込んだ。

「別にもうここの役職はどうでもいいの。見たいものも見たし知りたいものも知り尽くしたし、左遷でも解雇でも投獄でも好きにするがいいわ」

「投獄はさすがにダメだろう」

「牢屋番の下っ端なんてザコ、一人で倒せる。何回だって脱獄してやるわよ」

「解雇されるのも脱獄するのもいいとして、それからどうする気だ」

「そしたら、地方を回って革命勢力を募るの。八年もこの仕事やってたらね、どんだけ王国が腐ってるかはよくわかったわ。王家と貴族の根性から叩き直す」

 スティンは閉口する。

 こういうことを言っている時のエルヴィーの目は妙に輝いていて、いつも空恐ろしくなる。国内権力の腐敗に関する意見はスティンも同じだが、エルヴィーが何を考えているのかは分からない。分かったもんじゃない。

「そうか……ぼちぼち考えておくさ」

 スティンは呟くように下を向いて言った。エルヴィーの視線が眩しかった。

 一生こんな地下の特別監房で黙って燻っている気はしないが、エルヴィーだけには迷惑をかけたくないので、特別監房の責任者がエルヴィーから交代したら、ここを出ていこうと思っている。

 それはそれで勝手な話だが。

「ま、あんたがここを出て行く気になるまで、こっちで仲間集めでもしておくわ。――そういえば」

 エルヴィーがにやりと笑った。

「今日閲覧室で仕事してたら、ケル・クーレンを読む女の子がいてね」

「女の子?」

「そう。十五歳よ。私だって十五歳の時はまだ理解もできなかったわ、ケル・クーレンの本なんて」

「あの難しい書物を……姉さん並みの人材だな」

「それだけじゃないわ。その理解するだけで難しい本を、ぽんぽん速読みしてるの、慣れてるのよね。そういう意味なら私よりずっと優秀な人材だわ……一瞬本気で部下に勧誘しようかと思っちゃった。ただ……」

「ただ?」

「やっぱりなんか、えらく鈍臭そうでさ。私のところじゃすぐへたばるわ、あんなのは。まあ、せいぜいお勉強ができるお嬢ちゃんってところでしょう」

「姉さんの基準が高すぎるんだ、それは」

「そうかもねぇ……んふふ」

 エルヴィーは喉の奥で笑って、くるりとスティンに背を向けた。

「あんたみたいな弟がいるとね。他の人間じゃいまいちピンとこなくなっちゃうのよ」

「それは……それはすまない」

 真剣な顔で、スティンは小さく頭を下げる。

 エルヴィーはそうじゃないとでも言いたげに、露骨に顔をしかめた。スティンは見てもいない。彼女はあきらめて、紫檀のドアのノブに手をかけると、

「じゃ、そろそろ行くわ。何か欲しいものは? 食べたいものとか」

「今はないな」

「禁書室は使う? 使うなら鍵開けておくけど」

「ああ、それは頼む」

「了解。じゃあまた、朝にね」

 エルヴィーはちらりと振り返ると片手を上げて、そそくさと出て行った。一瞬だけ彼女の視界に映ったスティンは、まだ柿の袋を大事そうに抱えていた。



 あっけなく会話の消えた地下室に、かすかに遠のいていく軍靴の音が響く。しかしそれも、図書館地下の禁書室の扉が閉まる音を最後に聞こえなくなった。

 突っ立ったままのスティンには、その後を今から追いかけることだってたやすくできるだろう。

 この特別監房の鍵はエルヴィーが持っていて、今はかかってすらいない。エルヴィーがあれほど出て行っても構わないと言うのに、なぜまだ行く気にならないのか。

 きっと彼女に申し訳ないからだろう。持ち出し切れないほどの研究資料以外には、それくらいしか思い当たる節がない。

 スティンは貰い物の柿をひとつ出して、さっき閉じた木のケースを開けると、一番大きい小刀を取って柿に突き刺した。別に嫌いなわけじゃないが、特に味が好みなわけでもない。普段支給される食事よりは無論美味いが、剥いて切ってとするのが面倒臭い。

 でも、食べたと言うと姉が嬉しそうな顔をする。自分の嫌いなものを他人に食べさせておいて見せる嬉しそうな顔なんて、多分、いい具合に処理できてよかった程度のものなんだろうが、それだったらそれで構わない。

 ただ、やっぱり剥かないと食べられないのは面倒だ。思い切ってそのまま齧ってみた。甘いには甘いが、案の定、硬くて美味しくなかった。



 **********



 窓からの薄明かりで目を開ける。よそよそしいシーツの匂いと、自分の体の上だけ生暖かい毛布。ここ十日ほどの、いつもの朝だ。シェンはうんっと体を伸ばした。

 そこで、いつもよりベッドが広いことに気がつく。体を起こすと、カーテン越しの薄明かりが届かない部屋の隅で、机に突っ伏しているポルが見えた。

「ポルさン、寝てるんですカ?」

 近づいてちょっと声をかけたくらいでは微動だにしない。熟睡中の彼女の手元には、開かれたままの魔術書と書き込みだらけの羊皮紙が散らばり、ランタンの明かりが微かに燻っていた。

「起きてくださイ。お風邪を召しますヨ」

 強めにつついてみると、やっとポルは頭をもたげた。

「おはようございまス。寒くないですカ」

 シェンは言いながら、ベッドの毛布を剥ぎ取ってポルの肩にかける。ポルは眠そうに微笑んで小さく首を振ると、手元にあったペンをインクに浸した。

『ありがとう』

「いいえ……昨日も遅くまで起きてたんですネ」

『ええ、でもね、ついに完成したのよ』

 ポルが自分の腕の下の羊皮紙を取り上げる。紙の隅っこに、朱色の判子らしきものと今日の日付が見えた。

『あなたの通行許可証。複製魔術が成功したの……ほら見て、私のと変わらないでしょう?』

 ポルは羊皮紙片の中から自分の通行許可証を出して、持っている紙と並べてみせた。

 あたかもちゃんと王都の入城管理局で判を押してサインをもらってきたようにしか見えない、偽装の通行許可証。名前と日付の部分だけはポルが直接書いたのがわかる。

 しかしそれが逆に、忙しい職員が殴り書きしたようなリアルさを演出していた。

『王都の門の職員には、入城管理局の判や通行証の形を見分けられる人がいるって聞いたわ。でも、これなら大丈夫でしょう……管理局の判をそのまま写したんだもの』

 シェンはポルの手から紙片をひとつ受け取って、まじまじと見つめる。名前と日付以外は、本当に全く同じだ。

「魔術って、こんなことまでできるんですネ……」

『正直、途方もなく細かい作業だったから……どこまで綿密に扱えるのかわからなかったけど、ともあれ何とかなったわ。今日からあなたも城壁の門を自由に出入りできるはずよ。失くさないように持っていて』

「相分かりましタ。では、今日からここの宿は引き払って王都の外に移動するのですネ?」

 王都内の宿はやはり貴族や高級官僚の滞在場所なだけあって、外と比べれば宿賃は法外に高い。いくら旅費に余裕があると言っても、これから二週間以上も王都内に寝泊まりするのは無理があった。

 サラマの大門の反対側、王都正面門の外には城下町が栄えている。だからこんなことをしなくても、最悪ポルだけでもそこから王都内に出入りできれば、図書館での用は事足りるのだが……シェンは何となく察していた。

 ルズアがポルをあまり一人で行動させようとはしないだろう。

 シェンの通行許可証がなければ、王都から出たシェンは二度と入れない。すると必然的に彼一人がポルに振り回されることになる。そうして彼の機嫌を余計に損ねれば、正直シェンには面倒くさくてかなわなかった。

『そうね。私が図書館に行ってる間、また二人に宿探しを任せてもいいかしら。夜八時の最終開門の時間に待ち合わせしましょう』

 ポルは立ち上がる。毛布が肩から滑って落ちた。

「もう、これから図書館に行かれるのですカ? お疲れでしたら、もう少しお休みになってから行かれれば……」

『……いえ』

 ポルはかがんで、毛布を取るとシェンの肩に掛けなおした。

『ルズアはもう起きてるでしょう。出かける前に宿探しを頼んでおかないと』

「それくらいなら、伝えておきまス」

『いいの。どのみち時間がないわ。弓の鍛錬もしなきゃいけないし……』

「ポルさン」

『図書館の二階までの書物をざっと漁ったけど、まだ魔女の一族についての記述が見当たらないの。見落としてるだけかも知れないけど、通行証の期限が切れるまでに何の資料も見つからなかったら……他にどこを探せばいいのか見当もつかないわ』

「やっぱり少し休んでください、ポルさン」

 シェンが困り半分、イライラ半分の声で遮った。肩に掛けられた毛布を取って、ポルに押し付ける。

「せめて、頭がはっきり回るようになってからになさってくださイ。昼は図書館にこもって、夜は魔術で体力を消耗して、それで身体でも壊されたら資料探しどころじゃないでしょウ」

『うん……』

 ポルはため息をついた 。別にシェンは怒ったつもりじゃなかったのだが、ポルはシェンの視線の前で妙に小さくなっていた。

『ごめん……なるべく早く王都の用は済ませるから』

 投げ出すようにペンを置き、ベッドに座って毛布をかぶる。思いつめたような険しい顔で、小刻みに息をしながら毛布を胸の前でぎゅっと握った。

 哀れみを誘うポルの姿に、シェンはなんだかちょっと気味がよくなってくる。

 ここに着いたばかりのつい十日前、少しくらい王都を楽しんでも……なんて暢気なことを言っていた彼女は見る影もない。後悔と反省をするのに忙しく頭を働かせているところだろう。

 まあ、実際こんなに焦る羽目になるなら、観光まがいは初日だけにしておいて良かったわけだ。

 ポルはそのままベッドに倒れこんだ。

「おやすみなさイ。起こしませんから存分に寝てくださいネ」

 シェンが畳みかける。ポルは小さく首を振って、シェンの手に綴った。

『いいえ、起こして』

「いつ?」

『図書館の開く時間に』

「だからもっと……」

『わかった、じゃあお昼に』

「……对、分かりましタ。ルズアさんには言伝をしておきますネ……おやすみなさイ」

 シェンはさっさと手を引っ込めると、部屋から出て行った。



 **********



 街中に響き渡る大聖堂の鐘が、氷のような霧雨を震わせて正午を告げる。

 それと同時に、白樺の宿の玄関扉からポルの顔が覗いた。手をかざして雨の具合を確認すると、雨除けのケープを頭からかぶって外へ出た。

 午後八時までシェンとルズアには会えないし、宿を取るのに何が要るかわからないので、荷物はルズアに預けてきた。

 数冊の本と筆記用具を薄布にくるんで抱えただけの、いつもより幾分身軽な格好なのに、小雨に濡れるだけでじわじわと余計に体力が奪われる。

 道という道を、雨が音も立てずに濡らしていくようすは不気味だった。遠くの道行く人も霧にかすんだように、ぼやけてゆらゆら揺れている。

 ポルはうつむき、本が濡れないよう少しだけ覆いかぶさって歩いた。速いテンポで行き来する自分の足が視界に入って、催眠術にでもかかりそうだ。

 シェンに言われて寝たはいいものの、眠りが浅かったようでどうにも頭はすっきりしない。やはり焦りで気が立っていたのだろう。



 図書館までの行き慣れた道を、ぼうっと小走りで進んでいたその時。

 ポルの目の前に、突然白いものがひらひらと舞ってきた。

 紙だ。何かが書いてある。すぐに水気を吸った紙片は、ほとんどまっすぐ落ちていった。ポルはとっさに、その紙が地面に落ちる前に空中で捕まえた。


「あら、あら、ごめんなさい」

 すると前から明るくてやわらかい声がした。

 体勢を起こして見ると、雨傘がわりに黒い日傘をさした女性が、紙の山を抱えて困った顔で立っていた。文官の制服を着て、つやつやした栗色の髪を結った、初老にさしかかりそうな美しい婦人だ。

 ポルは小さく首を振ってにっこり笑うと、拾った紙を返した。婦人は片手で紙の山のてっぺんにそれを戻したが、今にも崩れそうでヒヤヒヤする。

 紙の山を半分お手伝いする時間くらいならあるだろう。ポルはその山を指さしたあと、荷物を脇に挟んで両手を差し出した。

「あ……ええ、これを? ええっと、持つ、ってことかしら?」

 ポルの言いたいことは伝わったようだが、婦人はますます困った顔になった。

「そうね、でも……すぐそこまでだから大丈夫よ。全部持てるわ。ご親切にどうもありがとう」

 ポルは手をひらひらと振って、笑顔で頷く。すると、婦人も笑顔になった。

「じゃ、濡れて風邪ひかないでね、お嬢さん。さようなら」

 ポルは小さくお辞儀して、婦人とすれ違う。

「……あ、そうだ」

 さようならしたはずの婦人が、思い出したように言った。ポルは足を止める。

「あなた、今日も図書館に行くの?」

 婦人がちょっとこちらを振り返る。ポルがぽかんとしているのを見て、

「いえ、ごめんなさい……いつもこの通りで見かけるから」

 毎日ここを通っているので、近くで働く人に見られていてもなんら不思議ではない。しかし、ポルがまだ腑に落ちない顔をしていたからか、婦人は慌ててさらに付け加えた。

「私の職場が図書館だから……あの、昼間は他所へ書類を届けによくここを通るんだけどね。最近毎日あなたとすれ違うから、顔を覚えちゃって……別に怪しい者じゃないのよ、ただの司書なの」

 なんだそんなことか、とばかりにポルは何回も頷いた。婦人の顔が少しほころぶ。

「勉強熱心なのね。いつも感心してるわ」

 雨で冷えたポルの頬にしゅっと紅が散った。こんなにきれいな笑顔で言われたら、少し恥ずかしい。

「ごめんね、それが言いたかっただけ。あなた疲れた顔してるから、身体には気をつけてね」

 婦人は紙の山を持ち直すと、危なっかしく片手を振った。

「また、すれ違ったらお話ししましょう。じゃあ」

 ポルも手を振り返した。今度こそ婦人は立ち止まらず、雨の中を悠々と突っ切っていく。

 いいこともあるものだ。ポルは誰も見ていないのに小さくお辞儀をして踵を返し、自分の道を急いだ。




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