1-2 人生最高のプレゼント

 広い、まっさらな若い芝の海。緑の波の真ん中に、石畳の一本道。

 左の遠くに明るい森。ささやく小川。右には花でいっぱいの花壇が見えた。そしてまっすぐ道行く先には、でかでかと視界を埋め尽くす、それは大きな赤煉瓦のお屋敷があった。

 そのお屋敷、三階の右から二番目の窓。そこが私の住処だ。

 その窓から見渡す草原と森と、小川と、花と、赤煉瓦でできた景色のはしっこは、緑の垣根でぷつんと終わっている。四角い地平線だ。私の世界の果てはそこだった。

 私、ポル・アトレッタは生まれつき声を発することができない。

 声帯がないからだそうだ。小さい頃はたしかに、そんな理由を分かってはいなかった。分からなくても別に不便はしないから、それに対してなにか感じることもなかったのだ。年を経たら、私の身体にはそもそも声を発するのに必要な器官がごっそりないという、グロテスクな意味を理解した。だからといって、私はそれを引け目に感じたことはほとんどない。自分の声が存在しない世界で生きているって、そんなものだ。普段、そんなこと意識してすらいない。

 普段。それはこの垣根の中で、何事もなくひっそりと一日息をしている時のこと。

 時々やってくる。そういえば、私は声のない世界で生きていたんだって思い出すことが。


 私の母リーアンは、国で一番有名な歌手だった。

 毎日色んなところに歌いに行って、家に帰って来ない日も多い。お屋敷は裕福で、たくさんの使用人を雇っていた。使用人たちは私ととても仲良くしてくれる。だから別に、寂しいと思ったことはあまりない。

 双子の妹メルとも仲が良かったけれど、私と違って口がきけて、母にも匹敵する歌声の持ち主だった。だから、毎日母に歌のレッスンを受けていて、遊ぶのは使用人たちの方が多かった。

 メルは時に、きれいな青いドレスを着て、母とお屋敷の外に歌いに行くことがある。私はいつもそれに手を振って見送る。メルは笑顔で手をふり返してくれた。母が手を振り返してくれたことは、一度もなかった。

 二人が夜遅く、へとへとに疲れて帰ってくる。私は二人の帰りをいつも笑って出迎えた。メルは毎回眠い目を擦り、疲れたー、だとか言いながら身体を寄せてくる。そんな私たちの横を、母は素通りしていくのだった。

 母が出かけている時、外に行きたいと使用人にかけあってみたことがある。でも、いつも「ごめんね、奥様がだめっておっしゃるから」と断られる。だから私は一度も、お屋敷の垣根の外へ出たことはなかった。垣根の中にあることが、私のすべてだった。休日にお屋敷の料理人と一緒にお菓子を作ってプレゼントしても、クリスマスに部屋の前に手作りのマフラーを置いておいても、誕生日に似顔絵を描いて贈っても、母は笑ってくれなかった。ましてや言葉すらかけてもらえない。寂しくはなかったが、垣根の中の狭い世界で、母ひとりの存在は無視しようにも無視できなかった。私は物心ついた時から、心の中で母にむかってずっと同じ疑問を繰り返していた。

 どうしたら笑ってくれるんだろう?

 どうしたら喜んでくれるんだろう?

 どうしたら私を見てくれるんだろう?

 私にはうっすらと分かっていた。

 いつも、メルとおしゃべりしている時、殊にはメルの歌のレッスンの時、母はよく笑った。とても楽しそうだった。

「よくできたわね」

「昨日よりずっとよくなってるわ」

「次の歌はどれにしましょうか」

 私には分かっていた。

 歌うことができればいいのだ。そうすれば母は喜んでくれる。

 毎日、メルのレッスンをこっそり見ているから、母の歌は全部知っている。知っているけど、どれだけ頑張っても歌えない。口を開けてお腹から息を吐いてみても、通っていくのは空気だけだ。私は悔しかった。メルを妬んだり、母を恨んだりはしなかった。恨めしいのは歌えない自分だ。

 私はただ歌えるようになりたかった。歌だけが音楽じゃない。歌えなくたって、音で人を魅了する手段はいくらでもある。知っていた。声がなくたって、人と通じ合う手段は余るほどある。知っていた。でも、そうじゃない。そのとき私が欲しいのは、声じゃなかった。声なんかなくたっていい。歌だ。メルが、母が、諸手を拡げて、自らのからだいっぱいに、この世にない虚構の美をつくりだす、あれなのだ。私はただ歌えるようになりたかった。母に微笑んでほしかった。


 そんなことを思ったり、思わなかったりを繰り返すこと幾年。

 昔ははこのお屋敷がすべてだってことに納得していたけれど、年を重ねるにつれだんだんそれが退屈になってきた。

 退屈に任せて本を読んだ。家の隅々を漁って本を読んだ。広いお屋敷はとっくに歩きつくした。絵を描くのも好きだったが、お屋敷の中のものは全部描きつくしてしまった。だから、本を読むのは楽しくて仕方ない。

 途方もない時間を書庫で過ごし、屋敷中の本を読み尽くした。そしたら次は、毎日母が読んで捨てた新聞を読んだ。母は私が家から出ないからか、あまり私に勉強をさせようとはしなかった。そんな母の意図を尻目に、広い書庫にある分厚い本から使用人に借りた絵本まで読んだおかげで、かなり知識がついたと思う。きっとこの屋敷の誰より、おそらく母より。

 そして私は、書物から外のことをたくさん知った。毎日学校に行くようになったメルから聞く話もあわさって、それは私の退屈さと、お屋敷の外への興味に拍車をかけた。

 いつの間にか私のお気に入りの場所は、お屋敷の最上階の一番端の、誰も使わない客室になった。窓から広い外が見えた。私は毎日それを眺めた。

 しかしそれだけでは飽きたらず、私はやがてお屋敷の人の目を盗んで門のそばに行くようになった。そしてそれが毎日になっていった。


*********


 十五歳の誕生日をすぐそこに控えた、冬も終わりのある日。いつものように、私は門のそばで外を眺めていた。

 その時、

「わーっ!」

 突然後ろからした大声に飛び上がり、とっさに前へ飛び出す。同時に後ろから肩を押され、勢いづいたままイノシシさながら鉄格子の門に正面から衝突した。

 ぐわぁん!

「うわ!ごめんなさいっ!」

 私が門にぶつかった凄まじい音に紛れ、あわてて謝る声。若い女性の声だ。打った額と鼻を押さえながら涙目で振り返る。そこには、肩までのきれいな黒髪をレース布で留め、メイド服を着た二十歳くらいの背の高い美女が立っていた。

「ごっごめんなさいお嬢様!驚かせたかっただけなんです!ほんとです!」

 そこにいたのはお屋敷のメイドの一人、エリーゼだった。お屋敷の使用人の中でも特に仲のよい彼女は、どこかおっちょこちょいで子供っぽい。その大人びた容姿にも似合わず、あわあわと謝っている様子にこっちの怒る気はなくなってしまうのだ。いつものこと。

「だってお嬢様、こんなところで最近いつもぼうっとしてるからいたずらしたくなって……」

 お嬢様とは言いつつも、この微妙にくだけた話し方が私は好きだ。ふうっとわざとらしくため息をついてみせ、手を振って大丈夫と伝える。エリーゼは大仰に胸を撫で下ろした。

「はあ……でね、お嬢様。聞きたいんですけど、そろそろお誕生日ですよね。プレゼントは何がいいですかね?」

 唐突な話題を勝手に始めるエリーゼ。私は考え込む仕草をする。実際真剣に考えていた。毎年エリーゼは、誕生日プレゼントはサプライズじゃないと!とかなんとか言って、今まで一度も欲しいものを聞いてきたことはないのだ。珍しいなあと思ってエリーゼの顔を見ると、何か企んでいるようなにやにやを隠しきれていなかった。

 私はエリーゼの手を取ると、右の人差し指で彼女の掌に文字を綴る。それで『特にないわ』と伝えると、エリーゼはちょっと胸を張った。一体何だというんだ。

「ふーん、嘘言ってもだめですよ?だってお嬢様、いっつもここにきて外ばっかり見てるじゃないですか。外に行きたいんでしょ?知ってるんですよぉ」

 最後は口元に手を添えて、少し小声で言う。私は当惑してエリーゼを見た。するとエリーゼはにっこりして、勿体振るようにゆっくりと囁いた。

「誕生日、一緒に外に行きましょう」

 耳を疑う余地もなく、その言葉は私の中にすとんと落ちた。

 夢のようなひとことだった。胸が静かにどきどきする。今後一生、何度でも思い返したくなりそうな魔法のささやき。

「どうです?」

 尋ねられるがままに、私は思わず頷いていた。エリーゼの顔を見ながらさっきの言葉を耳の中で反復していると、何か温かいものが私の顔を伝っていくような感覚が……

「えっ……うわああ⁉お嬢様!鼻血!鼻血があっ!」

 さっき鼻を打ったせいで鼻血が出たらしい。が、しかし私はそんなことがどうでもいいほど幸せだった。

「そんな幸せそうな顔してる場合じゃないです!結構血まみれですから!勘弁してください!怖いですよ!ガーゼもらいに行ってきます!」

 叫びながら走って行ってしまった。私を連れていけば門まで往復しなくてすむのに……とのんびり考えながら、私は広い庭を横切ってゆっくりエリーゼの後を追った。


**********


 それから四日後。ついに十五歳の誕生日がやって来た。

 昨日の夜大雪が降ったせいで、朝起きたらベッド脇の窓の外は一面銀世界。快晴の空のもと、真っ白い絨毯が眩しく輝いていた。絵にかいたような、ロマンチックな景色。私は思わず頬を緩めた。

「おっはようございますお嬢様!紅茶飲みますー?」

 勢いよく私の部屋の扉を開けて、エリーゼが入ってきた。持っていた淹れたてのミルクティーを差し出す。勢いよく差し出しすぎて零れたミルクティーがエリーゼの手にかかる。「あっつあっつあっつ」と悶え始めたので、私は被害が拡大する前にそっとカップを受け取り、ありがとうと笑ってみせた。エリーゼは今度は手を押さえながら跳び回っていて、見てもいないようだった。

 しばらくして、三分の二くらいの量になったミルクティーをベッドに座ってちびちびすすっていると、

「あ。そういえば」

 ようやく落ち着いたエリーゼが急に立ち止まって、思い出したように言った。メイド服のワンピースをごそごそまさぐる。

「お誕生日おめでとうございます!じゃーん!」

 ワンピースのポケットから、手のひらに乗るくらいの陶器でできた小さな箱を取り出した。ピンク色で、可愛らしい花柄がついている。

「まぁ見てて下さいって」

 エリーゼは箱をひっくり返す。そこには小さな金のネジがついていて、それを彼女はからから小気味よい音をたてて回した。

「はい、開けて」

 くるりと元に戻して手渡された箱の蓋を、私はそっと開ける。

 すると、柔らかくて可憐な金属音が箱から飛びだして、音楽を奏で始めた。よく聞くと私の好きな歌だ。母やメルがよく歌っている曲だった。

「オルゴールですよ。昨日街で買って……まぁ、五百ベリンもしない安物ですけどね」

 オルゴール。知っている言葉ではあった。

「あれ?もしかして見たことなかったですっけ?」

 魅入っていたからか、エリーゼが不思議そうに声をかけてくる。

『本でしか読んだことないわ』

 空いている手で彼女の手をとり、手のひらに指でそう文字を綴った。するとエリーゼはくすっと笑った。うっとりするような微笑みだ。

「なるほどね。まあ、本を読んでもわかんないことがこの世の中には山ほどありますからね、ほら……こんな感じに。今日それを見せてあげます」

 そう言って、私の髪を優しく撫でた。エリーゼの服の袖から、果実のようなみずみずしくて甘酸っぱい香りがする。やっぱり彼女の言葉は夢のようだ。私はエリーゼの胸に飛び込むように抱きついた。これだったら、話せなくても伝わるって信じている。

 しばらくそうした後、

「さ、私は洗濯に行かなきゃ」

 エリーゼは体を離す。もう一度私の頭をしっかり撫でると黙って踵を返し、部屋から出て行ってしまった。

 私はすぐになんだか寂しくなって、ベッドに突っ伏す。思えば十四年もこのお屋敷の中だけで生活してきたのか。さっきのエリーゼの言葉を反芻するほど、やたらとその事実が頭の中で浮き彫りになる。私は起き上がって、窓の外をぼんやり眺めた。

 生まれてこの方の私の全てがこのお屋敷の中のものだけで成り立っているなんて思うと、不思議、いや奇妙な感覚さえおぼえる。考えに浸っていると、ふとうっすら窓ガラスに映った自分の起きたままの姿に気がついた。こうはしていられない。着替えて準備しなければ。私は急いでクローゼットの前に立った。

 浮き立つ気持ちは、お気に入りのアイボリーの刺繍入りワンピースを選ばせる。でも、外じゃこれでは目立ちすぎるだろうか?ベージュのスカートを手にとって、地味すぎやしないかとベッドに放り投げる。コートに隠れるから分からないだろうか?外ではみんなどんな服を着ているんだろう?メルに聞いてみようか?せっかくだから少しくらいおめかししても……

 と、そこまで考えて、ベッドに洋服の山まで作って、外に出ない自分のもっている服が、どれもこれもおめかし用にしてはお粗末なのではないかと思い始めた。結局いつもの花柄のエプロンドレスを着て、いつものように、母に似ない茶色の、腰まであるくせ毛の髪をすいてリボンの髪留めをのせると、顔を洗って朝食を食べに部屋を出た。


 三階にある私の部屋から、ながーい廊下を左方向へ渡り、階段を降りて一階の食堂の前に出る。

 私がいつものように、磨き込まれた樫の両開き戸を開けて、食堂の中に一歩踏み出した時だった。

「おめでとうございまーす!」

 突然部屋中からいくつもの叫び声。

 驚きでもんどりうってしりもちをついた私の上に、カラフルな撒き紙、作り物の蝶や花が降り注いだ。

 頭のてっぺんから紙切れまみれになりながら、落ち着いて食堂の中を見回す。私のいる入り口から食堂の中央にある樫の長テーブルまで、屋敷中の使用人が全員集まったかというほどたくさんの人が、ずらりと丸くなっていた。みんなが笑い、思い思いに喋りながら、私の方に温かい眼差しをくれている。

 しばらくすると、誰からともなくハッピーバースデーの大合唱が始まった。やがてそれが終わるとみんなが歓声を上げ、口笛を吹き、おめでとうおめでとうと口々に言う。晩餐会もかくやの盛り上がりようだ。

 その人群れの中から、白い口ひげを蓄えた優しそうな痩せた老翁が、頭にのせたコック帽を危なっかしげに揺らしてこっちへやってくる。しりもちをついたままだった私の手を取って立たせると、

「十五歳おめでとうございます、ポルお嬢様。今日はこの料理長、腕によりをかけて朝からケーキをご用意いたしましたぞ。他もお嬢様のお好きなものばかりじゃ!どうか気に入ってくだされ」

 ほれ、ほれと背中を押して急かす。

「爺さん、お嬢様に余計なことしたら奥さんに叱られるぜ!」

「孫の嫁さんにはもったいねぇよ!」

 人群れの中から若い男の声が飛んだ。庭師と門番の男だ。

「うるさいわい!ワシが若かったらお嬢様を嫁さんにできるくらいハンサムじゃったぞ!だいたいうちの孫だってお前らよりいい男じゃ!ひょろっちい若造はだまっとれ!」

 老人が叫び返している間に、私は周りの人々に感謝を込めて恭しく礼をする。流れにのせて料理長の手を取り、手の甲に軽く口づけの礼をした。ちょっとやってみたかったのだ。さすが老人、料理長は「おやまあ」とつぶやいて目を丸くしただけだった。料理長より騒いでいるのは後ろの二人である。

「うわ!お嬢様!なにやってるんすか!そんなジジイに気なんか遣わなくていいんですよ!」

 料理長が言い返す。

「ジジイとは何じゃこのポンコツ庭師!こないだワシの花壇の大事な花を枯らしおったくせに!」

「俺は悪くないもんね!自分の花は自分で世話しろよ!」

「ワシはお前より仕事が多いんじゃ!花の世話もできない庭師なんざ庭師じゃないわい!」

「うるせぇジジィ!お前も何か言えよ!」

 庭師は肘で隣の門番をつつく。

「えっ俺⁉」

「お前もやるのかぁ?若者がなめくさってくれるわ!」

「あんだと妖怪ジジィ!俺はまだ何も言ってねぇ!」

 血の気の多い男たちの茶番がだんだん面白くなってきたので、私は必死に笑いをこらえる。

 その時、後ろからぽすんっと衝撃。水色の服を着た華奢な腕が腰に巻きついた。

「だーれだ!」

 子供のような可愛らしい声を聞かなくても、小さい手を見ればすぐ分かる。私はその手に『メル』と書いた。

「あったりー!えっへー、ポルはすぐ当てちゃうからつまんないなあっ」

 つまんないのに実に楽しそうに、抱きついたまま回り出す。後ろから引っ張られてバランスを崩し、二人で不様に横に倒れてしまった。体を起こしてメルを見ると、顔全部でにこにこ笑っている。

 私と同い年にしては小さい体と、まるくて愛らしい顔。りんごのようなほっぺたに、きらっきらのエメラルドの瞳。耳の上で二つに束ねた、母と同じきれいな金髪は、座り込むと床をするほど長い。どうしても十歳くらいにしか見えないメルは、「じゃーん!」とエプロンドレスのポケットから毛糸の塊を取り出した。

 メルはその毛糸の塊を手渡すと、ふたえまぶたの翡翠の目を輝かせて、私の反応を待っている。そんな顔で待たれても、一体これがなんなのかどの角度から見てもわからない。すぐに待ちきれなくなったメルは上質なサテンみたいに美しい唇を、興奮ぎみにうずうず開いた。

「それね、手袋!私が編んだの!」

 手袋。どうみてもピンク色の毛糸の塊だ。だが、よくよく探してみると……穴がないわけでもない。私はメルの手に『ありがとう』と綴った。メルは幸せそうに、「絶対使ってね!絶対ね!」と言って抱きついてはほおずりしてくる。ともあれ、これはきっと穴を広げれば何とか使えるだろう。

「お嬢様がた、朝食が冷めてしまいますぞ」

 いつもの口論が一段落したらしい料理長がにこにこと話しかけてきて、私はここにいる目的を思い出した。

 私はメルと朝食のテーブルについた。目の前に豪華な銀の蓋のかかった大皿がある。そこにいそいそとやってきたメイド長のペレネが蓋を取ると、中から大きな二段重ねのチョコレートケーキが出てきた。普通に考えて、朝食に出す大きさではないのだが、

「わぁい!朝ごはん二段ケーキ!」

 メルのその言葉ですべてを理解した。文句を言うつもりはないが、甘党も度が過ぎるメルが頼んだのならまあ、仕方あるまい。夜にもおんなじようなのが出るんだろうな。ケーキは好きだが明日の胃が心配だ。

 私が思わずお腹に手を添えたところで、銀の蓋を下げようとしていたメイド長のペレネが、すっと私たちに寄ってきて言った。

「今日の夜にエルンスト伯爵ご一家がいらっしゃるそうです。奥様も早めに帰ってみえて、久々の晩餐会ですよ」

「やったあ!」

 メルは足をばたばたして大はしゃぎする。ケーキの皿をひっくり返しそうだったので何とか守った。

 一方で、私は少し驚いていた。エルンスト伯爵家の当主オーエン・エルンストは母の昔からの知り合いだ。母がこの国で有名になる前には、お囲いの歌手として主に金銭面で支援してくれていた上流貴族である。王宮からも仕事がひっきりなしに来るほど有名になってから、伯爵家に受けた支援を母はきっちりお金で返して、歌姫としての報酬と王宮からの投資だけで裕福な暮らしをするようになったそうだ。それでも母は年に二、三度エルンスト邸の晩餐会に参加しているようだが、私は連れていってもらったことはない。当然だが、パーティに参加する時母はメルを連れていく。

 家で晩餐会を開くこともほとんどなく、最後に開いたのはもう数年前。立派な広間もあるにはあるが、母もメルも他人の家の催し物に呼ばれるのに忙しくって、使う暇もないみたいだ。しかしまあ今回はきっと、他家に呼ばれているばかりではいられなくなったのだろう。

 しばらくそんなことを考えるうちに、もそもそと朝食を食べ終わった。席を立つころにはメルは少し前に食べ終わって、ちょうど朝の仕事を終えたエリーゼと庭に雪遊びをしに行ってしまっていた。

 私は時計を見る。午前八時半。

 エリーゼと外に行く約束をした時間は、エリーゼが買い物に出る時間。昼過ぎ頃だ。今日は運良くぴったりエリーゼが買い物当番に当たっていたらしい。

 私は庭でメルたちと遊ぶ気にもなれず、お気に入りの部屋で読書をする気にもなれず、意味もなく階段をかけ上がって自分の部屋に飛び込み、ベッドへダイブした。

 昂る気持ちにまかせ、足をばたつかせてベッドの上を転がり回り、窓の外を覗いては立ち上がって部屋を歩き回ったり、鏡を見て髪をといてみたり。こんな落ち着きの無さを誰かに見られたら、絶対に怪しまれるだろう。これは私とエリーゼだけの、秘密の脱出劇なのだ。お屋敷の者はみんな、私を一歩も外に出そうとはしない。家長である母から言いつかっているからだ。ばれたらどうなるかなんて、想像もつかない。きっとエリーゼがたいそう大目玉を食らうんだろうし、私だって当然タダじゃすまない。もしかしたら、何があっても二度と外に出してもらえなくなるかもしれない。そんなリスクですら最高の演出に思えてくる。どんな危険を冒しても、外の世界に行けるドキドキには代えられないのだ。一分一秒が待ちきれない。寝れば昼もすぐ来ると思っても、わくわくして寝つけない。夜の晩餐会なんて、はっきり言って今はどうでもいい。

 どうやら、長い午前中を待ち遠しさで死にそうになりながら過ごすしかないようだった。

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