1-3 赤い髪のひったくり少年

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 ボーン……ボーン……

 お屋敷の玄関ホールに置いてある大きな振り子時計が、午後二時を知らせた。

 と同時に、私は同じ玄関ホールの床を踏んだ。ゆっくり平然と歩こうとする私の足は、どうにも言うことを聞かない。勝手に速くなってしまうのだ。たった今階段を降りてくるのでさえ、ほとんど小走りになっていた。

 私は玄関ホールを斜めに横切り、あたかもただ喉が渇いたから来たかのように食堂へ入る。振り子時計の合図と共に始まったエリーゼとの内緒の約束――人生で初めての外の世界というプレゼントを、やっと手に入れる時が来たのだ。

 今日のおやつは何かなあ、という顔をしながら……少なくともしたつもりで、さりげなく食堂を歩く。昼食の片付けもとうに一段落ついて、メイド達もそれぞれの仕事に回り、あまり人は多くない。隣接した厨房へ続く扉は開け放たれていたが、そこからも音はあまり聞こえてこない。少しの間食堂をぶらぶらしていると、近くにいたメイドが紅茶を持ってきてくれた。

 テーブルについてたっぷりミルクを入れた紅茶を飲んでいると、厨房へ続く扉のむこうを”たまたま”エリーゼが通りかかった。私はそれを横目で捉えた。エリーゼはそっとウインクすると、使用人用の裏口の方へ消えた。

 私は怪しまれない程度に急いで残りの紅茶を飲み干し、ティーセットを厨房に返しに行こうとしたが、途中でメイドが代わりに引き取ってくれたので、お礼をして正面玄関に向かった。

 正面玄関を出ると、慎重に辺りを見ながらお屋敷を裏へ回り込む。メルはどうやら部屋にいるようで、外にはいない。

 日の当たらない裏庭に着いた。暗いせいで他のところより雪がかなり深いが、草木の手入れが行き届き、花が咲いている場所さえある。

 裏庭を見渡すと、使用人用の裏口のそばにエリーゼは立っていた。エリーゼは私を見つけると、裏口の正面の垣根にある通用門の鍵を開けた。その間にお屋敷の壁沿いにそっと歩いて、裏口の前までたどりつく。エリーゼが門の外と裏庭、念のためお屋敷の窓を見て、誰もいないことを確認すると”いいですよ”と合図した。それを見るやいなや、私は開いた門へダッシュする。続いて外へ出たエリーゼが背後で門を閉める音がした。


 お屋敷を抜け出す時の緊張から、しばらく私は気持ちを静めるので精一杯だった。しかし少し落ち着いてくると、だんだん周りが見えてくる。

 自分は石畳の道に立っていた。広くもなく、狭くもない。お屋敷の垣根に沿って走る道と交差するように、私の前にまっすぐ伸びる道の両側には、たくさんの小綺麗な家がきちんと並んで建っていて、どれもこれも雪を被って砂糖菓子のようだった。時折厚着をした子供が道を横切ったり、一頭立ての馬車が走って行ったり、ピアノの音が聞こえてきたり……

 あまりにも美しい外の情景に圧倒された私は、もう何がなんだかわからなかった。相当ぼうっとしていたのか、となりに立つエリーゼが心配そうに覗きこんでいることにすら、しばらく気づかなかったくらいだ。彼女の顔を見たとたん、もっと色んな所を見てみたい衝動が私の中で爆発した。私はエリーゼに思いっきり笑うと、勢いよく正面に続く道を走り出した。

「ちょっ、だめですお嬢様!さすがに警備の当番に見つかります!そっと行きましょうよ!」

 驚いてエリーゼが言うのも気にならない。足にまとわりつく雪も気にならない。

「行先はそっちじゃないですよ!そっちは森!」

 さすがに驚いた。急に足が止まる。しかし、もう体はもっと前へ飛び出していて――ずぼっ。

「だから言ったのにー!」

 転んで雪に埋まった私を救出したエリーゼは、満面の笑みを浮かべる私を見るとデコピンを何発もおみまいしてくれた。頭がおかしくなったと思ったらしい。


 **********


 お屋敷三階の裏庭に面した部屋からは、垣根の向こうの通りが見える。

 メルが、自室の窓から通りを見降ろしていた。そこで動いているのは、アトレッタ家のメイド服。後ろ姿からしてエリーゼだ。そして彼女が向かった先に、これまた見慣れたコートが倒れている。大方嬉しさのあまり焦って転んだのだろう。

「……ポルったら」

 メルは特に驚く風もなく、クスクスと笑って部屋を出ていった。


**********


「まったく……お嬢様は」

『まったくはどっちよ』

 私はエリーゼと並んで住宅街の道を歩いていた。

 呆れ顔のエリーゼ。私はデコピン連打された額をさすりながら、彼女の手に返事を綴った。とは言いながら、そんなことはどうでもいいほど外にいる喜びが大きくて、顔はどうしようもなく緩んでしまう。それを見てか、エリーゼの呆れ顔は微笑みに変わった。

「……よそ見しすぎてまた転ばないでくださいよ」

 エリーゼの言葉に頷く。私は目に入ってくるものすべてを焼きつけるように歩いていった。

 住宅街を抜けると少しずつ家もまばらになり、代わって周りには田んぼや畑が広がりだした。右手の遠くには大きな河が見え、それを目で辿っていくと、前方さらに遠くで海が光っている。

 海の手前には家が並んでおり、河の向こう岸にはそれよりたくさんの建物が群れているところがある。

 後ろを振り返ると、今出てきた住宅街、その西側には大きな黒い森が木々の梢だけを覗かせている。そのすべてに雪が積もり、晴れわたった空の光にきらきらと輝いていた。

 今まで本の中でしか知らなかった世界。窓を覗くことでしか知らなかった景色。そこを今自分が歩いている。目の前の光景は、私にはまさにお伽噺の中のように、身に余るほど素敵なものだった。昂ぶる気持ちを抑えられずに、私はエリーゼの手を振り払って、足の赴くままにかけだした。エリーゼが後ろで何か言っているが、何を言っているか分からない。

 しばらく走って、走って、走ってふいに立ち止まった。上を見る。快晴の空があった。垣根や窓で仕切られることのない青空は、遠くで冬の海にまざっていく。

 こんな風景を見ていると、本当に外にいることを、頭の先から足の先までで否応なくひしひしと感じた。私の身体は、外の世界ではあまりに小さい。十四年間の私の世界は、ここからじゃあまりに遠い。ここからなら太陽が昇ってくるところも、星が廻って沈んでいくところも、点のようにちっぽけな、ふたつしかない私の目で、全ての一部始終をとらえることが許される。気がついたら、頬を温かいものが伝っていた。

「……お嬢様ー!おーじょーうーさーまー!何をぼうっとしてるんですかー!」

 エリーゼが叫びながらこっちに走ってくる。それが聞こえて、突如物思いから覚めた。慌てて涙を手で拭う。

「お嬢様ぁ、あんま遠く行かないでくださいよ。商店街はあっち。何惚けてるんですか。もしかしてほんとに頭おかしくなったんですか?それとも私のせい?って何で泣いてるんですか⁉」

 後ろから追いついたエリーゼは、私の前に回り込むと驚いてあわあわ言い始めた。どうやら涙を拭っただけでは、泣いていたことくらいお見通しらしい。

「ど、どうして泣いてるんですか?でこぴんのせい?もしかして感動した?それともやっぱり頭おかしくなったんですね?それならもう一発……あっ!」

 泣いていたことはお見通しでも、対処の仕方がずれているのがやっぱり彼女だ。エリーゼがぐるんぐるん腕を回し始めたのを見て、私は一目散に逃げた。逃げて逃げて逃げた。

「なんで逃げるんですかーっ!」

 もう一発デコピンをお見舞いされると分かっていて、逃げない人間がどこにいるというんだ。追ってくるエリーゼに心の中で突っ込みながら河の方へ向かう。河の向こうにたくさんの建物があるが、きっとそこに商店街もあるのだろう。エリーゼも止めてこないし。

 結局河にかかる橋を渡ったところで、体力の限界が来てしまった。私が座り込んで、後から追いついたエリーゼは私の隣で雪の中にぶっ倒れて、追いかけっこは終了した。もう殴る気力が失せるどころか、歩く気力も失ったらしいエリーゼを、そこからいくらか引きずっていく羽目にはなったが、被害ゼロで上出来だろう。


 歩くことしばし、私たちは河の向こうの街に着いた。エリーゼによると、先ほど渡った河はイース河と言うらしい。そのイース河の南岸にあるこの街は、お屋敷のある住宅街と比べると家の作りも簡素で木造のものが多い。そして住宅街より人がたくさん出歩いている。

 さらに進むにつれて、人の数は増えていった。周りもより賑やかになり、家より店が増えてきた。ここがこの街の中心にある商店街なのだろう。本で読んだことはあるが見たのは初めてだ。最初こそ辺りを見回す余裕があったが、進むにつれて人にもまれ、ふとした拍子にエリーゼを見失ってしまいそうになる。

「……なんかいつもより早く着けましたよ。あんなに走ったからですかね」

 はぐれないようエリーゼのスカートの端を摘まんで歩いていると、エリーゼがぽつりとぼやいた。しかし不満そうではなく、どことなく楽しそうに笑っている。

「よう姉ちゃん!久しぶりだな!」

 突然、ちょうど通りかかった青果店から威勢のいい男の声がかかった。

 私はびっくりして飛び上がり、思わずエリーゼの後ろに隠れる。一方エリーゼは全く驚いた様子もなく、

「久しぶりって一週間前に来たばっかりなんですけど。ていうかまだ半袖なんすか?見てるこっちが寒くなるっての」

 エリーゼの後ろから首だけ出して見てみると、エリーゼと会話していたのは小太りで中年の男だった。エプロンこそしているが、彼はこの寒いのに半ズボンに半袖シャツ一枚しか着ていない。皮下脂肪が上着の役割でも果たしているんだろうか。

「これくらいの寒さ夏と変わらねぇよ」

「ああなるほど、神経がないんですか」

「言ってくれるなぁ。こう見えても繊細だから、この間風邪なんか引いちゃったんだぜ」

「それはそうやってろくに服も着てないからでしょうが!」

「その言い方やめてくれ……それで、そこのかわいいお嬢ちゃんは誰だ?姉ちゃんの子供か?」

 エリーゼが手に持ったバッグを振り回して男に向かって飛び出しそうだったので、私はなんとか押さえた。男がちょっと感心したような目で私を見ている。するとエリーゼは私の頭に手を載せて、きっと男を睨み、

「この子は私の妹です!」

「ほぉ~エリーゼちゃんの妹かぁ、お姉ちゃんによく似てかわいいなぁ。よしよし」

 男はこっちに近づいて、私と目線をあわせて撫でてきた。顔をじろじろ見るので目のやり場に困る。笑おうと努力はしたが、多分ひきつった笑みになっているだろう。とその時、ボスっと情けない音がして、男の頭の上に今度こそバッグが降ってきた。

「痛ってぇ!何しやが……げっ、カリア⁉」

「んふふ。あなた本当に女の子が好きなのね。エリーゼさん、いつも主人がごめんなさい。ほら、ごめんなさいは?」

「……ごめんなさい」

 男の後ろから現れたのは、質素ながらも暖かそうな服に身を包んだ美しい三十路の女性だった。カリアと呼ばれた彼女は、どうやら男の妻のようだ。さっき投げたバッグを拾うとしょげている夫を無視して、私たちに上品な笑みを向ける。何とも指先まで気の行き届いた立ち居振舞いだ。

「そちらがエリーゼさんの妹さん?なんとまあ……べっぴんさんね。主人が目をつけるわけだわ」

「いやぁ……可愛いっしょカリアさん?ポルっていうんですよ。ここに来たのは初めてでして」

 なぜかエリーゼは照れたように髪を掻きながら言った。

「そう、ポルちゃんね。こちらは夫のジルよ。ここはいいとこだから、お買い物楽しんでってちょうだいな」

 そして夫に目を向けると、バッグで尻をひっぱたいた。

「あなた、私は夕食の買い物に行ってきます。少しエリーゼさんたちにおまけして差し上げて。ではまた」

「へ~い……」

 最後の一言を私たちに向けて、カリアさんは出掛けていった。

 情けなく返事をしたジルさんはすごすごと店の中に戻り、後に続いて店に入った私たちにリンゴをいくつかおまけしてくれた。さっき入ったばかりのものだそうだ。

 それにしても、カリアさんが出てきてからのジルさんの態度の変わり様といったら、みごとの一言に尽きる。とんだかかあ天下もあったものだ。しかし、去り際にエリーゼが「また来ますから!カリアさんによろしくー」と言うと笑顔で手を振り返してくれた。何だかんだ言って、エリーゼもカリアさんもジルさんも仲がいいようだ。少し羨ましい。私はジルさんに軽く頭を下げて、エリーゼについて店を出た。


 **********


「はーい!ありがとうおばちゃん!」

 カランカラン、とドアの鈴を鳴らして、私たちはパン屋を出た。これで四軒目。

 またエリーゼは店の人と喋り込み、大声でお礼を言って店を出る。今まで回った肉屋と魚屋でも同じような調子だった。どうも商店街中の人と仲がいいらしい。

 踏み固められた雪に新たな足跡をつけながら、次の店に向かう。

『エリーゼ……少し持とうか?』

 エリーゼが歩きながらパンの紙袋を何度も持ち直しているので、指でそう伝えた。すると、

「あ、いいんですか?じゃあお願いします!はい!」

 前置きなくパンの紙袋を渡され、いきなりかかった重みに転びそうになる。間一髪で踏みとどまった。

 何がこんなに重いのかと思ったら、パン屋の袋の中身は少しのパンと、後は小麦粉、小麦粉、小麦粉の袋がいっぱい。対してエリーゼは身軽そうに、

「助かりますー!」

 と言ってスキップしている。恥ずかしい。周りの視線が痛い。

 とはいうものの、おやつ時も近づき、人はだいぶ少なくなっていた。やっと通りかかる店を見る余裕が出てきたくらいだ。魚屋には本でしか見たことのない魚や、大量の変な色をしたイカ、本屋は店前から奥までお屋敷の書庫さえ彷彿とさせるくらいの本がある。

 そうしてきょろきょろ歩いていると、少し先に黄色やピンクの装飾だらけで、ちょっと派手なショーウインドウが目についた。何やら数人の女の子が寄ってたかって覗き込んでいる。ここからじゃ、何があるのかよく見えない。私は歩速をゆるめて女の子に気づかれないよう、吸い寄せられるがままに近づいた。ちょっとだけ、一瞬見えたら戻ればいい。そう思って人混みをすり抜け、ショーウインドウの中がちらりとが見えた瞬間、思わずぽかんと口が開いた。

 飾ってあったのは、薄ピンクのチェック地に上品にリボンのあしらわれた普段着用のドレスと、それによく合う毛糸のケープに帽子。ドレスはくるぶし上くらいの長めの丈に重厚なウールの生地で、繊細な手編みのケープと一緒に着れば、素敵なつりがね型のシルエットができあがる。こんなにかわいいドレス、お屋敷にだってありはしない。私は話し込んでいる女の子達に紛れて、ドレスに釘付けになった。彼女達の話を聞いていると、このドレスの色合いは最新の流行りらしい。

 そうか、次に外に出る時はこういうのを着てこればいいのか。いや、こんなのはきっとメルの方が似合うに違いない。でも、でも、私だってこんなドレスで外の世界を闊歩できるなら……

 自分がこの服を着た姿を想像していると、ふとあたりが静かなのに気づいた。女の子達がどこかへ行ってしまったのだ。

 だが、あまりに静かすぎないか?聞こえるはずの騒々しい声が……エリーゼの声がしない。

 あわてて辺りを見回しても、あの目立つメイド服はいない。

 背中を嫌な汗が伝う。ちょっと立ち止まるくらいならすぐ追いつけると思っていた。そりゃあそうだ、女の子たちの群がりに紛れてしまえば、人垣の外が見えなくなって当然だ。はぐれても一人でお屋敷に帰れる自信はない。それに、こっそり私を連れ出したエリーゼはどれだけ心配しているだろう。

 私は駆け出した。重い荷物を引きずるように走った。だがいない、みつからない、辺りをどれだけ探しても、どこにもいない。いればわかるはずなのに。通りには店が少なくなってきた。商店街の終わりに来ようとしているのだ。

 こんなときに声が出れば呼べるのに--歌えないこと以外に、初めて声が出ないことを悔しく思った、その時。

 突然何かにけっ躓いた。とっさのことに踏みとどまれず、私は勢いで前に投げ出された。荷物のせいで地面に手がつけない。固まった雪にうつ伏せに叩きつけられた。

 その瞬間、突然パン屋の袋を抱えた左手が引っ張られる。同時に、しっかり持っていた袋が手を離れた。

 違う、持っていかれたのだ。

 驚いて半身を起こし、後ろへ振り返る。今まで自分が持っていた茶色の紙袋を持った人影が、宿屋と軽食屋の間の路地に入っていくのが一瞬だけ見えた。

 私は迷いなく猛然と路地に駆け込んでいた。何としてでも取り返さないと、はぐれた上に買ったものを盗まれたでは、エリーゼはどんなにがっかりするか。こう見えても運動にはそこそこ自信がある。追いついて、絶対に取り返す。

 すると、ひったくり犯は角を左に曲がった。特徴的な、ひとつにくくった長い赤毛が翻る。私も迷わずに全力疾走で角を曲がる。

 今度は右に曲がった。だんだん薄暗くごみごみして道が狭くなってくる。私は走りにくいが、相手は慣れているようでどんどん引き離される。

 おいかけっこはしばらく続いた。そろそろ息が切れてきて体力も限界だ。明らかに自分の足が遅くなっているのを感じる。

 そして、ついに赤毛のひったくり犯ははるか先の角を右に曲がって消えた。もう追いつけないだろう。私は膝をついた。

 しかし、袋を取り返さないことにはどうにもエリーゼに合わせる顔がない。私はもう一度立ち上がり、赤毛の消えた角へと走った。疲れているせいで、角までがやたらめったら遠く感じる。重い足に鞭打ち、やっとのことで曲がり角にたどり着く。ひったくり犯の曲がった先を見た。そこはより細い道になっていて、なっていて……なっていて?

 愕然とした。

 道の真ん中あたりに赤毛のひったくり犯がうつ伏せに倒れている。そのすぐ前にはごみバケツが中身をぶちまけて倒れていた。

 理解するのに、しばらくかかった。もう追いつけないとダメ元で来たら、まさかこんなことになっているなんて。

 はっと我に返り、急いでひったくり犯に走り寄る。近くで見ると、ひったくり犯は私とそう変わらない年の少年だった。どうやら失神していて、頭を打ったのか、額のあたりに血が滲んでいる。その他にも、よく見ると薄いぼろぼろの服から見える腕や足には、いくつも痣やみみず腫れ、小さい切り傷や擦り傷がある。

 ひったくり犯とはいえ、私は心配になってきた。彼の体躯はあまりに痩せていて、とても栄養状態がいいとは言えない。

 ごみバケツ以外何もないのに倒れているということは、もしかして病気か何かだろうか。しゃがんで手袋を取り、脈を取ってみたらちゃんと正常にある。ほっと胸を撫で下ろしたその時、

「んー……」

 少年が呻いた。腕を触ったせいで気がついたらしい。もぞもぞっと動くと、いきなり起き上がった。

 思わずしゃがんだまま一歩飛びのいたが、バランスを崩して尻餅をつく。そのまま後ずさりして少年から離れた。

「誰だてめえ」

 低くドスの聞いた声。同時に私の体を、刃物のように鋭い視線が貫いた。体が固まって動かない。少年の整った顔立ちのせいで、威嚇するような黒い瞳が際立ち、その上に額の傷から流れ出した血がより彼を恐ろしく見せる。私が凍り付いたままでいると、少年は一層眼光を鋭くした。そして、

「……女かよ」

 ぼそ、とつぶやく。予想外の言葉で、ぽかんと口が開いた。

 しかし、私が答える前に少年はさっさと立ち上がると、横に落ちていたパン屋の紙袋を持って歩き出した。

 私はぼうっと少年が去っていく後ろ姿を見つめていた。背中まで伸びたぼさぼさの赤毛を低い位置でくくっている。ぼろぼろでぶかぶかの服を着たシルエットは、背はそれなりだが痩せていて、明らかに持っている大きな紙袋が釣り合っていない……

 突然ひらめいた。そうだ。紙袋だ。

 本来の目的をきれいさっぱり忘れていた。幸運にもひったくり犯に追いつけたのに、チャンスを無駄にするところだった。後ろから走っていくと、歩いている相手とはすぐに距離が縮まった。しかし、追いつく寸前振り返った少年の凶悪な眼光に、またも足がすくむ。

「これは俺のだ」

 鼻筋の通った顔立ちに蔑んだような笑みを浮かべ、紙袋を少し持ち上げて言うと、再び歩き去ろうとする。きっとこのまま戻っても、ちゃんと謝ればエリーゼは許してくれるだろう。諦めが心をよぎったが、しかしこの時の私は、躍起にすらなっていた。

 私は少年の前に回り込む。めいっぱい両手を広げ、全身全霊を視線にこめる。捨て身のとおせんぼだ。これでどうにかできるわけではなかろうが、返してくれなければ行かせないという意思くらいは伝わったはずだ。

 少年は見下ろすように私を睨んだ。私も必死で睨み返した。

 すると、ため息をひとつ吐いて、彼はあっさり紙袋を投げてよこした。

 またも予想外の出来事。どさっと紙袋が落ちる音に、思わず首がかしいだ。その脇を何も言わずに少年は通り抜け、先にある角を曲がって見えなくなった。

 一呼吸、二呼吸、三呼吸くらいおいてやっと、よかったという気持ちがわいてきた。まさか自分の睨みに怯んだわけじゃないだろう。見かけによらずいい人だったのかもしれない。驚くやら何やらで、頭の中はごちゃごちゃ、外の世界は予想以上に不可解なことだらけだ。

 ともあれ、うだうだ頭の中で感想文を書いている場合ではない。エリーゼが心配して待っているだろう。このことはお屋敷に帰ってから考えようと頭の片隅にしまって、私は踵を返した。

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