3-10 地上へ

 **********


 時が過ぎること、数刻。特別監房は、初めて人の温かみで満たされていた。

 部屋の主人を無視して、質素なベッドの上にどっかり腰を下ろし、しかめっ面に肘つくルズア。てらてら光る石床にぺたんと座って、小さな丸椅子に顎を乗せているシェンは眠そうだ。

 一方ポルは、机の上に置いてあった山のような羊皮紙を興味津々に繰っていた。魔術を使って余計に疲れたのか、時々小さく頭を振って眠気を払っている。それでも眠気が退けられないと、部屋の奥のガラス棚まで歩いていって、その中の大瓶でアルコール漬けになったいくつもの奇妙な標本をまじまじと眺めていた。


 ところで部屋の主はというと、薄暗い部屋の角で壁を背にして立っていた。ずっともじもじそわそわと落ち着かない。

 こんなにたくさんの人がこの部屋にいたことがないからか、いや、時折ちらちらとポルの方を見ていることからして、彼女の挙動が気になるようだった。

 壁の明かりが揺れる音。シェンがたまに伸びをする音。ポルが羊皮紙をめくる音。

 今までに、この特別監房がこんなに生きた音で満ちていたことはなかった。

「今、何時ですカ」

 シェンのつぶやきが、石壁にこだまする。スティンは懐中時計を出そうと、慌てて白衣のポケットをまさぐった。

「もうすぐ夜が明ける」

 ルズアがぼそりと返す。彼の体内時計はやたら正確なようで、同時に懐中時計を探り当てたスティンは、すごすごとポケットにそれを戻した。

 再び静かになった部屋に、ガタガタっと今度は椅子をひく音がひびく。ポルが立ち上がって、ぺらりと一枚羊皮紙を片手に、メモ紙をもう片手に、スティンのところへやってきた。

『ねえ、スティンさん』

 スティンは壁に背を押し付けたままさらに後ずさろうとする。

「や、やあ、あの……さんは要らないから、スティンでいい」

『あら、そう? じゃあスティン。この図なんだけど』

 ポルが羊皮紙を見せる。蛙になり損なったおたまじゃくしのような図の周りに、美しい筆記体が黒々と並んでいた。

『これって、もしかしてあの標本のスケッチ? ガラス棚を開けさせていただいてもいい? もっとちゃんと見たいのだけど……』

 ガラス棚に並んだ大瓶のひとつを指差して、ポルはスティンの顔色を伺う。スティンはおろおろと目を泳がせた。

「ああ、こ、これは君の言う通り……あの標本のスケッチだが……その、見ていいとは言ったが、あんまり見ても気分が悪くなるだけだぞ。ほほ、ほら、後で片付けておくし」

『そうなの? 別に構わないのに。もう十分眺めちゃったわ。やっぱり見てほしくなかったとか』

「あああ、いやそっ、そうじゃなくて……何の標本か分かってしまったらきっと、気分が悪くなるんじゃないかと思って……」

『え?』

 ポルは少し困ったような顔で首をかしげた。羊皮紙をメモの端でつついて、

『あれが何なのか、全部書いてあるじゃない』

「へっ?」

 今度はスティンが素っ頓狂な顔をする。

「そんなに読み込んでくれるとは思わなかったんだが……」

『何言ってるの。あなたが読んでいいって言ったのよ? 確かにあまりよく知らない分野の資料ばかりだわ。でも、こんなもの読める機会なんて滅多にないでしょう。頭に入れておきたいわ』

「そ……そうか? 焦らなくても、そこにある資料の束くらいは旅に持って出るつもりだが……」

 スティンはもごもごと口ごもる。

 それを聞いたポルは、ぱっと目を輝かせた。一体今夜の出来事のあとで、どこにそんな気力が残っていたのだろう、とスティンは空恐ろしくなる。

『まあ、そうなの! じゃあ残りの資料は旅に出たらゆっくり読ませてくれる? ガラス棚の標本は持って行くわけにいかないわね。あ……いえ、でも私のカバンになら、一つくらい入るかもしれないわ』

「いや、あれは持っていかないさ……下手をして外で見つかったら、ここにいる全員火刑になってもおかしくない。ものすごく、この国の宗教倫理に反するものなんだ……」

 ポルはなおもきらきらした瞳で、自信満々に言い返そうと身を乗り出す。しかしすんでのところで、出かかった言葉をぐっとこらえるような顔をしたかと思うと、スティンの顔を見たまま、エルヴィーに手刀を叩き込まれた脳天をかくように触った。

 きっと〝魔術〟でなんとかなる、とでも言いたかったのだろう。

『それもそうね。じゃあ、今のうちにきちんと見ておくわ。こっちに来て。ね、すごいわね、こんな研究が王都の地下でこっそり行われているなんて。こういうものを持っているのはあなただけなの? あなたって哲学者の方? それとも博物学者かしら? お医者様かもしれないわね……ああもう、教えていただきたいことが山ほどあるわ』

「待ってくれ、ポル……嬢? ほら、君、見るからに疲れているし、顔色も良くないし、休んだ方がいいだろう?」

 スティンはそう言って、部屋の隅から離れようとしない。ポルはおかまいなしに、

『ポルでいいわよ。そりゃあ疲れてないわけじゃないけど、そんなことは今どうだっていいの!』

「どうだってってそんな……」

 へなちょこな返事を聞いて、ベッドの上で「けっ」とルズアが呟いた。ポルは一人ずっと元気に顔を輝かせているように見える。

 緊張や疲れの裏返しか、エルヴィーに聞いた話への安心の現れか。スティンには彼女がこの状況の重圧や疲れから、頑張って気を逸らそうとしているようにしか思えなかった。だからこうして、こちらも何とか反応しなければとは思うのだが……まあ、あまりうまくいっているとは言えない。

 横の方でぺたん、と音がした。シェンがついに耐えきれずに、丸椅子に頬を預けてうとうとし始めていた。

「どうだってって、そんなわけにはいかないだろう? ここを出たらきっとすぐ王都も出ることになる。この季節、まだ外でも夜は寒いと姉さんが言ってたぞ。草臥れた身体で歩いて、夜を迎えたら風邪を引きかねない。少しでも休んでおいた方が絶対にい、いいと思うんだが」

 まくしたててみる。最後で言い詰まったが、反応の仕方はあながち間違っていないはずだとスティンは思った。

 ポルは一人小さく頷いて、

『やっぱりあなた、お医者様なのね!』

「はぇ?」

 だめだ、どう返ってくるか全く予想がつかない。今度はポルが質問を浴びせかけてくる。

『とってもお若いように見えるけど、おいくつなの? その歳でこんなにたくさん研究なさってるなんて、よっぽど優秀なのね! いつから始めたの? こっちに来て、教えてちょうだい! あ、でももちろん、おっしゃりたくないことを無理に聞き出す気はないけどね』

 思い出したように最後の一言を付け加えて、スティンの袖をひっつかむ。

 キンギョのように口をぱくぱくさせるスティンを、ポルは引っ張ってガラス棚の前へ連れて来た。大慌てでスティンは声を絞り出す。

「あっ、あの⁉︎ もうそれの話はやめないか? もう十分だろう⁉︎ 無垢な子供にあんまり見せるようなものじゃないんだ、本当に! 見ていいって言った僕が悪かったから!」

『あらなに、そんな理由でさっきから渋っていたの? 言っておくけど私、もうこのくらいじゃ物怖じしないわ』

「こ……このくらい? 君、この標本のを知ってて言っているのか?」

 スティンが呆れと訝りで惚けたような顔になる。

『ええ、もちろんよ』

 ポルはくるりとガラス棚に向き直り、そこにしまい込まれた件の大瓶をちらりと見た。

 薄く濁りかけた無色の高純度アルコール。その中に、人の頭よりひと回り小さいくらいの、灰白色のかたまり。

 それには明らかに、ぐしゅっと折りたたまれた足、エビのように曲線を描く背中、丸め込まれたか細い手が見て取れる。わずかに判別できる指は縮れて握られていた。体に不釣り合いなくらい大きな丸い頭には、息の詰まるほどはっきりと目、鼻、口、ちいちゃな耳たぶ。まぶたも唇も手足の境界線も、石膏で固められたように〝モノ〟と化している。それなのに、どこかで息をしているような気配もする。

 月齢の若い胎児、と資料には書いてあった。

 ポルは標本から目を離すと、スティンの方に向き直る。

『だって、必要なことなんでしょ? 確かに見てて気分のいいものじゃあないわ。でも、お医者様が人を治せるようになるのには、こういう〝モノ〟がいるのよね? そう思ってたんだけど、違う?』

「違……わない」

 スティンはポルと目を合わせられなかった。逃げた視線が、ガラス棚を滑る。

 複雑な形の臓器、下顎の骨、肺の断面、太い神経系。この標本たちのどれが身体のどの部分で、どんなところで、何に強く、何に弱く、どうすればダメになり、どうすればよくなるのか、分かっている限りできちんと説明できるのなんて、この国では自分しかいないだろう。そう自負できる。

しかし、

「違わない……が、僕は医者じゃない」

 自分の声がわずかに震えるのを、スティンは聞いた。

 ポルは眉をひそめて、

『そうなの?』

「ああ……そうだ。なれるもんならなりたいさ、でもここにいたら、生きた人を治すことなんかできやしない。僕がしているのは、死んだ人間を捌いて、たまに中身を少しもらったりして、お祈りするだけだ。こんなの医者の仕事じゃないだろう?」

『私は、そうは思わないけど……じゃあ、言い方を変えるわ。それならここにいるのをやめて、外に出たらお医者様になるってことでしょう? いいお医者様になるのに、必要なんじゃないの?』

「確かに……た、確かにそうだ。だが、なあ、僕も君に質問していいか?」

『どうぞ』

 困惑で早口になるスティンに、ポルはさらりと応えた。

「君は……なあ、一体どこでどう育ったらそんな考え方になるんだ? 僕のすることは、国教では異端中の異端だ。動物の解剖研究をすることすら許されない国なんだぞ、ここは。そのせいで数百年も前から必要な研究もされず、隣国の医学の進歩には遠く引き離されてしまった。普通に教育されていたら、こんなものを見て……真っ先にここから逃げ出してもいいくらいなんだ」

 必死に説明するスティンの気をよそに、ポルは目をぱちくりした。

『確かに、この国で普通の教育を受けたわけではないと思うわ。私、十五歳まで一度も歌姫の屋敷から出たことがないの。でもそのかわり、屋敷にある本を全部読んだわよ。あなたがしている研究と似たようなことが書いてある……ほら、医学や解剖のことが載った本も、あったから読んだの。難解だったけど、面白かったわ。著者の主張が好きだったりして、何回か読み直して……ご存知かしら? 何年か前まで、王国一の名医として有名だった人の本』

「その著者の……名前は?」

『ヴェゼ・バートン』


 ポルの返事に、スティンは思わず息を飲む。自分の頬がすっと冷たくなったのがわかった。

「そんな本が君の屋敷に……そうか、残っているのか……」

『ええ、どうかした? 何かあるの?』

「いや……」

 スティンは軽く頭を振って、

「奇遇だが、その人が僕の最も尊敬する軍医だ。僕は彼に……会ったことがあるんだが、医者を志したのも、彼の影響で」

『まあ、そうだったの! それじゃあ、考え方が似ているのも納得だわ……人を救う学問には、常に命がつきまとう。人を助くための技術と知識が、犠牲の上に立たざるを得ない。確固とした矛盾を孕んでいるからこそ、自らの腕を信じ、死者に祈ることを忘れるな……とっても新しくて、素晴らしかったわ。立派な書だと思ったの。私はね』

「そうか。それは良かった」

 釈然としない返事で、ごまかすように下へと視線をそらす。嬉しいような、困ったような、どんな顔をしていいのかわからない。

「あまり、ほら……僕が敬愛するヴェゼ・バートン氏の考え方も、僕の考え方も、理解してくれる人は稀にしかいない。その……君のような人がいるのは、ありがたいことだ」

『そう? こちらこそ良かったわ。じゃあ、後で私もこの標本を記録しておきたいの。知ってて悪いことはないから。いいでしょ? もうお目にかかる機会もなさそうだし』

「ま、まあ……うん。そこまで言うのなら僕は止めないさ……好きにしたらいい。君とはその、話も合いそうだからな」

 スティンの言葉は自信なく尻すぼみになっていった。ありがとう、とポルはふんわり笑って頷く。その顔をなんだか直に見ていられなくて、スティンは羊皮紙の端くれを渡すと踵を返した。

 が、すぐにその足が止まった。

 まだ彼女の質問に全て答えていないことに気がついたのだ。『とってもお若いようにみえるけど、おいくつなの?』の文字列が、頭の中でぐるぐる回りだす。手癖の強い走り書きだった。

 もうポルは一生懸命ガラス棚の標本と向き合っているし、わざわざ話しかけるようなことでもない。むしろ、自分だったらこんな時は邪魔してほしくない。いやでもしかし、聞かれた質問にきちんと答えないのは失礼だ。そのうえ自分は彼女の年齢を知っているというのに、自分だけしれっと答えないのはフェアじゃないではないか。

 頭の中で葛藤すること数秒、が数分に感じられた。無意識に白衣を握って、スティンは横目でポルを捉える。

「あの……ポル嬢」

 大瓶を回すポルの手が止まった。

 振り返った彼女の肩から、どんないい毛皮よりきれいな、甘い色の髪が落ちる。寒さで無機質に白くなった、それこそ古い液浸標本のような神秘さすらある指先が、すっと側の机に伸びて鉛筆を取った。

『なにかしら? ポルでいいって言ったでしょ』

「あ、いや、この呼び方の方が落ち着くんだ」

 あんまり目を奪われていても変に思われる気がして、ついっとスティンは視線を横へずらす。ベッドに座ったルズアがこちらを睨んでいるのを見てしまった。目のやり場に困って、不自然にきょろきょろしてしまう。

「その、さっきの質問に全部答えてないなと思って」

『そうだっけ。えっと……おいくつ? って話のことかしら』

「ああ、そうだ、それだ。一応答えておかないとと思って……えっと、僕は十八歳だ。ここで研究を始めたのは八年前」

『八年前ってことは……十歳⁉︎』

「ああ、うん。そうなるな」

『やっぱりあなた、すっごく優秀な方なのね! すごいわ、旅に出たらたくさんお話を聞かせて。楽しみだわ!』

 ポルは心底わくわくしているようだった。

 こればっかりは、緊張からの逃避だとか、疲れを紛らわしたいんだとか、そういう風にはとても思えない。スティンの今言ったことが、純粋に彼女を喜ばせたのだ。

 そうか、そうか。話しかけてよかった。自分のしたことが、ちゃんと他人を喜ばせられる。楽しみだなんて、先のある期待の言葉を返してもらえる。

 心の中はその意味に不釣り合いな、やたら大きな達成感に満たされていた。あまりに単純じゃないかと思いもしたが、いや、他人の言葉にいとも簡単に喜べることほど、双方幸せなことはあるまい。

 氷山の一角どころか、流氷のひとかけほどの危うい根拠の上で、スティンは急に降って湧いた自信と安堵でちょっとだけうずうずした。



 **********



 エルヴィーが仕事を終えて、大槍を背負ったまま特別監房に戻ってくると、部屋の中がやたら賑やかで驚いた。

 賑やかといっても、机の前でポルと話すスティン一人の声が聞こえるくらいなのだが。普段彼と話すのなんかエルヴィーだけだし、スティンも独り言をいうたちでもないから、話し声がするというだけで温かな新鮮さがあったのだ。

 がたんっ!

 突然大きな音で、束の間のほっこりした気分が霧消する。見ると、一瞬前まで椅子の上でうとうとしていたシェンが飛び起きていた。エルヴィーが入ってきたのに驚いたらしい。倒れた丸椅子から一歩半も後ろに飛び退き、腰を落としてこちらを睨みつけている。

 目と鼻の先で起こったことには一ミリも反応せず、ルズアはベッドの上で足を組んでいた。石のように動かずとも、こちらに耳をそばだてているのはわかる。

「シェン嬢、落ち着いてくれ。寝起きに突然動くのはあまり良くないぞ」

 今話しかけたのは……スティン? エルヴィーはにわかに耳を疑った。こんなに機嫌良さげで、やわらかな、落ち着いた声を聞くのはこの八年間で初めてだ。

 怖いもの見たさにも似た気持ちでスティンを見る。

 優しい表情。それだけでない、そこには何か、わずかに自信が、慈しみが、誇りが覗いていた。今までの彼に、道理でできない顔だった。

「仕事……終わったわ」

 エルヴィーはぽつりとそう言って、特別監房に入ると後ろ手でドアを閉めた。

 八つの目が自分を捉える。睨んでいる目もあれば、労わるような目もあった。新鮮だ。何もかも新しい。今日の夜番はポルたちが起こした騒動の処理で、まあ結構にハードだった。だから、いつもより疲れた体に、いつもと違うこの部屋はちょっと……新しすぎる。

 臨戦態勢を解いたシェンが、倒れた丸椅子を乱暴に立て直すと、そこに座った。

 エルヴィーは、手にいっぱい持っていた三人分の預かり荷物を下ろして、スティンの方を向き直る。彼とポルの二人の前には、羊皮紙の端くれや鉛筆、インク瓶がごちゃごちゃに広げられていた。標本を置くガラス棚も開けっ放しだ。

「あんたたち、何してんの?」

 エルヴィーが尋ねると、スティンが立ち上がる。

「ああ、ポル嬢が僕の資料や標本に興味を持ってくれたようでな。少し話をさせてもらっていたんだ」

 スティンはさらっとそう言って、自分の座っていた椅子をこちらへ寄越す。エルヴィーは遠慮なくそれに腰掛けた。

「そう。出立の準備は?」

「あまり持ち出すものもないし、一応いつでも準備はできてる。最低限肌身離さないもの以外は、ポル嬢がカバンに持っていてくれるそうなんだ。なんでも、〝魔術〟でいくらでも入るようにしてあるらしくて」

「ふうん、よかったわね」

 いまいち言葉がつかえて出てこない。エルヴィーは内心違和感を覚えた。スティンがこう、見たことのない反応をするから、調子が狂っているだけだろう。それは家に帰ってから考えたらいい。

 エルヴィーは思い直して、足元に置いた荷物を探った。ポルたちのカバンや武器の間から、取り出したのは深緑のコート。詰襟に金ボタン、ちょっと皺っぽいが使い込んだ様子のない、大きなコートだった。

「これ。旅に着て行きなさい。私の執務室に置いてあったやつだけど。まだ寒い日もあるし……何年後かわかんないし、次会うの」

 エルヴィーはそれをスティンに投げるように渡した。慌てて受け取ったスティンは、上から下までコートを眺める。青い瞳が、妙にきらきらしていた。

「もらっていいのか? 本当に?」

「ダメだったら渡すわけないでしょ。あげるから持って行きなさいよ、旅費はポケットの中に入れておいたわ」

「それもそうだが……ありがとう、姉さん。大事にする」

「なに、そんなに気に入ったの?」

 自分の声がいつもより低く凄みを帯びていることに、エルヴィーは今更気がついた。弟が若干たじろいでいることにも、今更だ。

「ああ、その、なんて言うか……騎士団服みたいな、こういう上着。一度着てみたかったんだ……どうせここから出ていかないだろうから、機会はないと思っていたんだが。ほら、あの……姉さんがいつも着てる騎士団服が、昔から……その……うん」

 スティンの視線は、逃げるようにコートの足元の方を眺め回していた。ぼそぼそと消えていく声が、エルヴィーの心臓を握り潰す。

「あっそう? そういう話はまた次会った時にしなさいよ。いいから早くそれ着て、ほら。お嬢さんが机の上片付けてくれたじゃない。みんなあんたを待ってんの」

「えっ……あああ⁉︎ すまない!」

 勢いよく振り返ったスティンは、コートを取り落としそうになる。慌ててそれを羽織った頃には、机の上にスティンの持ち物だけをきっちり並べたポルがにっこり微笑んでいた。

『仲がいいのね』

「あ……そうなのか? 誰の?」

『さあね』

 ポルは並んだ山積みの羊皮紙をスティンの方に押しやった。

 スティンは腑に落ちない顔をしながら、すごすごと机の下から木造りの書類箱を取り出す。羊皮紙をその中に全て仕舞うと、今度は同じ机の下から一回り小さな木箱を出して、その上に置いた。

「日用品と、書類入れと、道具一揃い。あとは外に出てから調達する。僕の荷物は当面これだけだが、カバンには入れてもらえるのか……? ポル嬢」

 スティンがポルを見る。ポルはエルヴィーを見た。エルヴィーはため息をつくと、

「どうぞ、荷物」

 無造作にポルのカバンを取って、投げて寄越した。

 ポルは両手でそれを受け取ると、急いで中身を確認する。カバンのサイズには不釣り合いに大げさな音を立てて、がさがさ中を一通り引っ掻き回すと、スティンの荷物を受け取り、難なくそこへ押し込んだ。

 一方でその間に、シェンがこそこそとエルヴィーの足元にやってくる。泥棒ネズミのように置いてあった荷物を全部ひっ抱えて、元いた丸椅子に戻ると、つんとエルヴィーから顔をそらした。

 ルズアはシェンから自分の剣を奪って、悠々と腰につけ直す。その拍子に抱えた双節棍を落としそうになって、シェンはルズアをきっと睨んだ。


「はいはい、じゃあこれで準備はできたわね。警備兵が昼番に交代した直後ならこっそり出られるから、急がなきゃいけないわ。もう出ましょう。早く」

 エルヴィーは預かりものが三人の元へ戻ったのを見るや、そう言ってせき立てる。

 ルズアが欠伸をしながらのっそり立ち上がり、ポルはカバンを肩からかけた。シェンは持っていた矢筒をポルに押しつけると、双節棍を服にしまってエルヴィーの前に並ぶ。

 スティンがコートのボタンをかけ終えると、エルヴィーが特別監房のドアを開けた。

 シェンが最初にドアから飛び出す。ポルが続いて、ルズアはゆっくりとその後ろについた。ドアノブに置いた手をそのままに、エルヴィーは部屋の中を振り返る。

「未練でも?」

「いや、いや……まさかな」

 ぽつんと一人、部屋の中に残ったスティンが答えた。薄ぼんやりした灯のかげに、表情は沈む。

「そうじゃなくて。八年も世話になった、姉さん」

「はっ」

 エルヴィーは頬を釣り上げて、口の端で笑った。

「どうせ、次会う時は私があんたに世話になる番よ。借りは借りておいてちょうだい」

「そんな……」

「おいてめえら。いつまでくっちゃべってやがる」

 ルズアが廊下から遮る。イライラと石壁を蹴飛ばして、乾いた音がこだました。

 スティンは一瞬逡巡して、言いかけの言葉を飲み込む。

「行こう」

 すたすたと振り返ることなく、スティンが部屋を出た。

 槍を背負い直して、エルヴィーはがちゃっ、と無人の特別監房に鍵をかける。

「そうね。行きましょう……ついてきて」

 先頭に立つと、長くない廊下を歩き出す。禁書室の扉の前で立ち止まって振り返り、四人全員が追いつくのを待った。

「ここから出られるわ」

 エルヴィーは、禁書室の扉の角に接する天井を指差した。そこには石壁と同じような灰茶に錆びた、小さな鉄格子の上開き扉があった。

 ちょっと見ただけではただの格子がはまった通気口だ。しかし、よく見ると向こう側に大きな蝶番が見えている。人一人がようやく通れる大きさだ。

 エルヴィーは背中の槍を取ると、石搗きを上に構えて腰を落とし、えいやっとばかりに鉄格子をつく。ギイ……と重い音がして、ゆっくりと扉が開いた。

 向こうは全く何も見えない。降ってきそうな暗闇だった。

 さらにエルヴィーは、開いた鉄格子の反対側を槍の先で探っている。しばらくしてそこから、からんからんと軽い木の音がした。と思うと、天井に開いた穴の端から、頼りない木の棒をロープでくくり合わせた梯子が落ちてきた。

「登るわよ」

 そう言うと、槍を再び背負って真っ先に梯子を登る。ぎしぎしみしみし、今にも折れそうな音がした。

 エルヴィーが穴の向こうに消えていったのを見て、次はシェンが梯子に手をかける。振り返ると、ポルが真剣な顔でうんうん頷いた。シェンは頷き返さず、梯子を登る。

 シェンが登りきるとルズアが続き、ポルが危なっかしげに後を追う。

 登った先は真っ暗。何もない、ただ四角くて広い空間だった。土のにおいがする。草っぽいにおいも充満していた。ポルの先にいた三人が、全員で肩車したらようやっと届くくらいの天井の高さ。少し動いただけで、地下のどこよりよく音が響く。

 暗さと広さで向こうの壁は見えない。ただ、一番遠い角の天井らしい場所から、淡い薄曇り色の光が点ばかりに差し込んでいた。目を凝らすと、その下には階段のようなものも見える。

 ポルの後ろからスティンが登ってきて、梯子を回収した。鉄格子の枠の出っ張りにくくりつけられた梯子は、結び目がもうすぐで千切れそうだ。回収した梯子を枠の横に適当に丸めると、慎重に鉄格子で穴を塞ぐ。

 スティンが立ち上がると、エルヴィーはついてこい、と合図して歩き出した。いや、周りが暗すぎてそれもほとんど見えなかったが、ポルは適当にそう解釈してついていった。

 他の三人がその後に続き、何もない部屋を突っ切ることしばし。わずかにだが、行く手にむかって床が傾いているのを、ポルは足の裏で感じ取った。やがてさっき小さく見えていた光のふもとに、一行は到着した。

 その正体は、天井にあいた穴からさす空の光だった。

 入ってきたところと同じような鉄格子が、同じように天井の隅にはまっている。草の匂いも土の匂いも、ここからしていた。風が時折ひゅうっ、と吹き込む。直接外につながっているようだ。

 その下には三段、申し訳程度の石の階段と、壁に取り付けられた鉄の梯子があった。階段も梯子もべたべたに濡れて、足元には水たまりができている。今は止んでいるが、三人が特別監房にいる間にやはり雨が降ったらしい。

 エルヴィーは階段を上がって、梯子に足をかけるとするする登る。頭の上の鉄格子を踏ん張って押すが、なかなか開かない。どうもすぐ上は地面のようなので、蝶番に土が入って錆びているのだろう。


 息を切らして扉と格闘すること三分。スティンが下ではらはらし始めた頃、ギイッ! ガリガリ……と不快な音がして、鉄格子がものすごいスローモーションで開いた。ルズアがとっさに耳を塞ぐ。

 エルヴィーは、やっとこさ通れるようになった扉からさっさと出る。さっきと同じように、シェンが続き、ルズアが後を追い、さらにポルがついていく。しんがりをスティンがつとめて、全員が外に出た。

 湿った土の地面。久しぶりにすら思える、際限ない外の空気。冷えているのに、地下とは違って重さも不快さもない。よく見ると足元の草は生えっぱなしではなく、きちんと揃えて手入れがしてある。

 ところで、ここはどこだ? ポルは辺りを見回した。周囲をぐるりと囲む正方形の建物。ポルの頭すれすれの高さに、覚えのある大きなガラス窓。そそり立つ白い楼閣の上から、やはり正方形に切り取られた、真珠色の曇り空が見えた。

 どうやら、王立図書館の中庭の隅っこから出てきたようだ。

 エルヴィーに代わって、今度はスティンが鉄格子と格闘を始める。が、足で蹴って踏みつければ、案外簡単に決着がついた。鉄格子が閉まるやいなや、エルヴィーは再び四人についてこいの合図を送る。

「急いで。ここから警備隊の控え室に入るわ。誰も見ていないうちにそこを通って、一般利用者のふりで外に出るのよ。いいわね」

 ついていった先には、さっき登ってきたのと同じような梯子。その上には人が二人やっと乗れる程度の足場と、ポルですら屈まずには入れないくらいの小さな丸扉があった。すべて、外壁から浮かないよう白く塗られている。

 エルヴィーは軽々と梯子を登り、扉に耳をつけ、しばらく向こう側の音を聞いていた。

 一瞬きゅっと眉をひそめると、質素なドアノブに手をかけて、そろりそろりと中を覗く。どうやら誰もいないようだ。ほどなくエルヴィーはこちらに親指を立ててみせた。

 急ぎ足で全員が続く。シェン、ルズア、ポルの順に雨露で滑る梯子をよじ登り、心許ない足場からドアの中に一人ずつ入る。そこは円形の控え室だった。一般の利用スペースと同じこげ茶のカーペットが敷いてある。あとは、本棚の代わりにロッカーがあった。きちんと見ている暇など当然ない。エルヴィーがもう控え室を突っ切って、出口のドアを開けていた。

「早く行って!」

 言われるがままに、四人は団子になって紫檀の扉から外に出る。何度か来た、二階の法学書のエリアだ。

「そのまま図書館の外に!」

 後ろからエルヴィーの声が追い打ちをかける。

 運良く周りに他の警備兵はいない。棚の隙間から、遠くの遠くにちらりと他の利用者の姿が見えていた。ルズアがフードを被って髪を隠す。

 四人は一瞬顔を見合わせたあと、再びシェンを先頭に、ポルはルズアの服の袖を引っ掴んで、スティンを最後尾に早足で通路を進んだ。

 ばたん! と後ろで控え室の扉が閉まる音。エルヴィーは、もうついては来なかった。


 法学書の列を出て、生物学の棚を通り過ぎる。懐かしくさえある閲覧室と円形の階段を降り、何食わぬ顔でエレベーターボーイの前をやりすごす。

 四人が四人、無我夢中で図書館の裏玄関を出て、仕事中の警備兵の隣を素通りし、枯れかけの芝生をざくざくと横切った。この人数があまり急ぎ足で通ったら、さぞ怪しく見えるのではないかとポルは一瞬心配になったが、敷地外へ出てしまえばどうとでもなろう。四人はそのまま、質素な裏門をくぐった。

 くぐったところで安心はできない。裏門に立っている警備兵の目からも逃げて脱出完了だ。

 そのままスピードを緩めず、出た先の路地を左へ、右へ、左へ……足を止めた頃には、図書館への戻り方がわからないところまで来ていた。

「ここまで来れば……大丈夫だろう」

 スティンが最初に口を開いた。

 その一言で、ポルの体から一気に力が抜ける。重力が何倍にもなったかのように、どっと疲れが襲ってきた。瞼がもう上がらない。頭がくらくらする。図書館に侵入したのが、一ヶ月くらい前なんじゃないかとすら思える。今やっと初めて、自分がびっくりするほど緊張していたことに気がついた。

 力が抜けたのはポルだけではないようだ。

 シェンも大きなため息をついて、しゃがみこんでいた。ルズアですら眠い目をごしごし擦っている。スティンは苦笑いして、きょろきょろ辺りを見回したり、こちらの様子をちらちら眺めたりしていた。

 その時、

「いた! あんたたち!」

 誰もいない路地に、聞き覚えのある声。全員がいっせいに振り向いた。

 今しがたポルたちが来た方向から、軍靴の底を高らかに鳴らして、こちらへ走ってくるのはエルヴィーだった。

「姉さん⁉︎」

 スティンの声が思わず裏返る。エルヴィーは四人に追いつくと、その場で数回ステップを踏んで息を整えた。

「渡し忘れたものがあったの」

 そう言ってエルヴィーは、背負っているベルトごと大槍を肩から外す。そのままそれを、無造作にスティンに突き出した。

「これ、持って行って。私の槍は予備があるから」

「これを……って⁉︎ 仕事道具じゃないか!」

 スティンは槍を押し戻そうとする。エルヴィーはさらにそれを強引に押し返して手を離すと、いらないとばかりに一歩引き下がった。

「だから、ベルトも槍も予備があるんだってば。むしろ、あんたは護身用の武器すら持たずに旅に出るつもりだったわけ?」

「あ……い、いや」

「そうでしょ。じゃあ持っていきなさいよね。あと、特別監房に残ってるあんたの持ち物は勝手に処分されると思うわ。用事はそれだけ」

 エルヴィーはさらりとそう言って、片手を上げる。

「それじゃ、スティン。次どこで会うか分かんないけど、この子たちをよろしく頼んだわ。その時が来たら手紙でも寄越すから」

 ポル、ルズア、シェンを順に見回して、

「あんたたち、ちゃんと生き延びなさいよ……そうだ」

 エルヴィーはズボンのポケットをまさぐると、折れかけた薄い封筒を取り出した。

「お嬢さん、これ。あんたの探し物に有益になりそうなことを書いておいたから、王都を出たら読んでちょうだい」

 ポルは両手でそれを受け取る。目が霞みすぎて、一回手が空を切った。手紙をカバンにしまうとエルヴィーの手を取って、

『ありがとう、あなたが図書館長で本当に運が良かった。約束は必ず守るわ』

 にっこりと笑ってみせた。エルヴィーは仰々しくため息をついて、

「言ったわね」

 ポルは大きく頷く。

 エルヴィーは手を引っ込めると、くるりと踵を返した。

「あんまり城壁の中でゆっくりしないで、早く王都の外に出なさい。特別監房の住人がいなくなったことも、図書館の侵入者が逃げたことも、他の役人たちにバレるのは時間の問題よ。どんなに遅くても今日の日没までには外に出て。私が庇いきれるのはここまでだからね」

 きっぱりと言い切って、元来た道へと歩き出す。ラピスラズリ色のケープが、風をはらんで少しだけ膨らんだ。

「姉さん」

 後ろからスティンが呼ぶ。エルヴィーの足が止まった。

 一瞬の沈黙。スティンは言い淀んでいるのか、言葉に悩んでいるのか、少しだけためらって、やわらかく、ゆっくりと言った。

「お勤め、ご苦労様」

 エルヴィーはもう一度片手を上げ、振り返らずに答える。

「どうも」

 いつもの気だるげな声だった。

 それだけ言うとエルヴィーは、正義を貫く英雄の勇姿をめいっぱい背中で物語りながら、再び午前の王都に胸を張って消えていった。



 **********



 なんてね。

 颯爽と立ち去る自分は、多少格好よく見えただろう。もうちょっと意味深な言葉とか、残してこればよかったかもしれない。いやいや。でもそれだと辞世の句みたいになってしまうし、やっぱりもうちょっとあっさり別れてこればよかったのかも。

 いつもより、きもち大股でずんずん歩いている気がした。自分の足で歩いているにしては、周りの景色が目まぐるしく変わっていく。エルヴィーは図書館に戻ってきた。

 正門前の警備兵が、横を通るときっちり敬礼した。そのまま図書館の正面扉へ続く小道を過ぎて、階段を駆け上がり、建物の中へ飛び込んだ。扉の両側にいる警備兵たちも、かつてエルヴィーが厳しく刷り込んだ美しい敬礼で、当のエルヴィーを迎えた。

 今日は夜勤だったので、エルヴィーの仕事時間はとっくに終わっている。だが、いつも夜番と昼番の引き継ぎが全部終わったことを確認するまでは帰らないから、この時間に図書館にいても何ら職員達には怪しまれない。まあどうせ、ついでとばかりに司書たちが今から仕事を持って来るだろうから、もう少し働くことになるのが常なくらいだ。

 正面扉前のカウンターで仕事を始めている受付の司書を横目に、宗教と歴史書の棚の間を通る。閲覧室を突っ切って、奥の丸い階段を上り、エルヴィーは警備隊の控え室に入った。

「隊長、まだいらっしゃったのか」

 野太い声がかかる。

 閲覧室と同じ円形の部屋の真ん中に、ぴかぴかの長テーブルと肘掛椅子が並んでいる。一番端っこに、肘掛椅子からはみ出さんばかりの大男が座っていた。エルヴィーの二番目の腹心、惣元だ。

「何であんたは帰ってないのよ」

 エルヴィーは答えながら辺りを見回して、他に誰もいないことをこっそり確認する。

「昨晩の仕事が片付いていないかと思いましてね。あと、せっ……私以外にはここには誰もいませんぞ。昼番は全員出払ったでござ……出払いました」

 エルヴィーは目を細めると、惣元の前の椅子にどっかり腰掛けた。

 盗み聞きを警戒していることは丸見えのようだ。部下とはいえ四十路の男、観察眼は侮れない。

「昨晩の仕事なんかとっくに片付いたわよ。……あと、それ。いい加減やめない?」

「それ?」

「わざわざ言い直さなくても、あんたの訛りなんか誰も気にしてないってこと」

 海の向こう、イースト大陸にある大国・倭貢神国には〝シノビ〟だとかいって、傭兵仕事を生業にする家があるらしい。彼はそんな家の出身らしいのだが、長年の努力虚しく家由来の訛りは未だに誤魔化せていなかった。

 惣元は年甲斐もなく、巨体を縮めてもぞもぞし出す。

「ですが……私はエルヴィー隊長に忠誠を誓った騎士の身ですぞ。郷に入っては郷に従え、ということばが祖国にはあるのでご……あるのです」

「私に忠誠を誓ってどうすんの? 騎士は王に忠誠を誓うもんなんだけど」

「王に忠誠を誓っている隊長の下についとるんですから、同じことでござる! ……あ」

「んじゃあ、その隊長がいいって言ってんだからいいじゃない」

「忠義ははっきりした形で尽くすが神国の男でご……ござる」

 こう、やたらと頭が固い。裏返しで、だからこそ信用できるともいうのだが。エルヴィーはため息をつくと、片手で眼鏡を取った。

「あっそ。でもねえ、もう勤務時間外だし? 堅苦しいと仕事上がった気がしないし、あんたの訛りでも聞いてないと非番になった感じしないのよねえ。お茶入れてきてくれない?」

「そ、そういうのはずるいでござるぞ隊長!」

 惣元は困ったような顔で立ち上がった。

 ゆっさゆっさとサイのような体を揺らして、部屋の奥の棚からティーポットを取る。彼が持つと、ポットがおもちゃに見えた。

「さっき司書方の執務室からもらってきた湯が冷めてしまった。かたじけない」

「いいわよ、ぬるいので」

 エルヴィーは足を組んで伸びをする。とても眠い。

 惣元はいそいそと茶葉の瓶を探し、脇の小机にあった銅のケトルをまさぐっている。そして、こちらに背を向けたまま言った。

「……隊長、弟君は」

「へっ?」

 エルヴィーは、不意の言葉に身を乗り出す。

「弟?」

「弟君は無事行かれたのでござるか」

「あ、ああ……」

 その話か。束の間の他愛ない会話で、すっかり現実逃避してしまっていた。

「弟ね。行ったわよ」

「寂しくなりますな」

「さみ……いや、ならないけど。これから大変にはなるわよ。あんたも」

「拙者もでござるか」

 惣元は言うと、二つのティーカップをか弱い生き物でも触るように、そうっと持ってきた。エルヴィーの前にカップを一つ置いて、向かいに座る。

「そりゃあそうよ。あんたが私の腹心の部下だってことは周知の事実だし。私はもうすぐ、犯罪者を脱獄させた罪とか管理不行き届きとか、背徳行為だとか適当な理由で、少なくともここを解雇になるはずよ。投獄かもしれないけど。そしたら、あんたもここにいられるはずないと思うわ。良くて左遷ね。お茶、ありがと」

 エルヴィーはワイングラスにするように、ちょっとティーカップを上げてから紅茶を啜った。惣元もそれに倣う。

「まあ、受け入れるべき結果でござろう。一方で隊長はこの日のために、今までここに留まっていてくださったんですからな」

「まあ……そうなんだけどさ。悪いわね。あんたの今後まで断っちゃって」

 エルヴィーはカップを置いて、わずかばかりに残った紅茶を見つめた。

「何をおっしゃる。隊長の側近になれたわけですから、拙者はこれで最高の出世でござるよ……元来妻子もとうの昔に祖国に置いてきておりますゆえ、我が身は貴女の正義に捧げるようなものでござる」

 惣元はぶきっちょに、にっこりと笑う。困った顔をするのはエルヴィーの番だった。

「好きにしろとは言ったけどさ……いい部下ね、あんた。私、恵まれてる。ありがたいわ」


 惣元は少し目を丸くする。いつもなら「ふーん、変なの」などと言って、さらっと流すエルヴィーだ。しかし今日はいつになく、彼女の言葉は下手くそだった。

 惣元は笑顔を崩さなかった。八年前だったか、九年前だったか、初めて訓練兵団の先輩として彼女を見た時はまだ、惣元からすれば成長盛りの子供だったものだ。それが今や幼さは完全になりを潜めて、一人小さな子を育て上げた母の顔と、若さの限り信念を突き通す勇者の顔を併せもつ豪傑になった。

 そりゃあ歳の離れた彼女の弟が大きくなるわけだ。いやはや、時が流れるのは早いものである。

「なに笑ってんのよ」

 エルヴィーがこちらを睨んだ。惣元はティーカップを取って、口元を隠す。

「なんでもござらん。隊長があまりにもしおらしいものだから、珍しかっただけでござる」

「はあ? 人の不幸がそんなに面白いわけ?」

 エルヴィーは即座に噛み付く。

「その言いがかり。やはりちょっと落ち込んでいるんでござろう?」

「何に落ち込むってのよ」

「弟君にしばらく会えないことに」

「いえ、それはさあ……落ち込んでるっていうか、そうじゃなくて……ああ、もう」

 そう言って、エルヴィーはぐしゃっと頭を抱えた。

 言葉尻のほんの最後の最後がわずかに震えたような気がして、惣元は追求しすぎたかと俄かに申し訳なくなってくる。

 しかし、

「なんていうか、ほら。そうじゃなくて。なんていうかさ」

 エルヴィーは頭を抱えた手を離す。

 ぼさぼさになった黒髪が、潔く正面を向いたエルヴィーの輪郭をやさしく象っている。不機嫌な表情が崩れた奥から出てきたのは、なんとも意外なことに、笑顔だった。

「大人になったのよ、あの子。あの子が大人になったの」

 それは昔でさえ見ることのなかった、無垢な優しさを湛えた少女の顔だった。

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