3-9 旅路のゆくえ


 **********


 図書館地下、特別監房。暖かい光がほんの小さく周囲を照らしている。部屋はいつも通りうすら寒く湿気て、つかみどころのない後ろ暗さが拭えない。

 ただ今夜この部屋には、いつになく張り詰めてぴりぴりした小気味好さが漂っていた。

 部屋にいるのは槍を持ったままのエルヴィーと、奥の方を落ち着きなく歩き回るスティン。二人の間には白布がかかった長机が鎮座している。いつもならこの白布の下には得体の知れない、奇妙な形の大きな物体が置いてあるのだが、今日机の上はまっさらだ。それだけで、特別監房は随分すっきりして見えた。

「なあ、姉さん。あの三人はどうするつもりなんだ」

 スティンは足を止めると、机に手をついて身を乗り出した。対するエルヴィーは突っ立ったまま、顎に手を当てて考え込んでいる。

「どうって……」

 エルヴィーは重い口を開いた。ここに来る直前、倉庫に放り込んできた三人のちびっ子侵入者の話だ。彼らの荷物はエルヴィーの足元に無造作に置いてあった。

「このまましょっ引いて行ってもいいんだけどね。だけど……」

「だけど?」

 スティンが先を急かす。

「だけど、なーんかもったいないって言うか……なんていうか」

「もったいないって? どういうことだ?」

「並みの戦闘力じゃないルズア君とシェンちゃん。並みを遥かに超える頭脳を持ったお嬢さん……じゃない、ポルちゃん。それだけの能力を持ちながら、子供らしく単純でもあって……」

「そのポルっていう娘は、もしかして前に姉さんが言っていた子か? 齢十五で軽々難読書を読み解くあの……」

「ええそうよ。まさか歌姫の家の隠し子だとは思わなかったわ。ま、隠し子らしく世間の知識もないみたいだし、そういう意味では全く鈍臭いけどね」

 エルヴィーは槍を机に立てかけて腕を組んだ。

「それで、よ。これがどういうことかわかる?」

「どういうことって……」

「類い稀な強さと頭の良さ。素直で単純、よく他人に従う。さらに〝青い歌姫〟、国民の象徴と強いつながりを持っている。あの子たちは……」

「……優秀な部下になる?」

「正解」

 エルヴィーはにやりと笑った。

「前にあのお嬢さんのこと、部下にするには鈍臭すぎるって言ったけど……前言撤回しなきゃね。部下って言うより手下かしら。いえ、駒程度にしか使えないかもしれないけど構わないわ。私のところは今人材不足なの。優秀な人材はみんな、騎士団の汚いところにどっぷり浸かってる。本当に私の考えについてくる人間なんてそういないわ」

「ということは姉さんは…・・・公の役職として、彼らを迎えたいわけではないんだな? つまり、その、王国を清めるために」

「そう。いずれ私が組織するつもりの、革命勢力のメンバーとしてぜひとも彼女らを迎えたい。いえ、そのために今は野に放っておきたいとも言うわ。そうすれば、おまけに〝青い歌姫〟を私の味方につけられる。歌姫が味方につけば諸手を挙げて国民が動くわ」

 スティンが机の上の拳を握りしめる。

「だが……だが、あんな年端もいかない子供達を巻き込むのには僕は……賛成しかねる」

「じゃあ別にいいのよ、このまま安全な獄中に捕らえておいても」

「うぬ……」

 スティンは苦虫を噛み潰したような顔で下を向いた。

「あの子たちが犯した罪状をタダで許すわけにはいかないの。これは取引よ。落とし前はつけてもらわないと」

「まあ、そうだな……どのみち決めるのは彼女ら次第だろう」

 エルヴィーのもっともな言葉に、スティンは頷く。乗り出した身体を戻して、肩を下ろすと隅っこにあるベッドに腰掛けた。

 ベッドの真上にあるランプに照らされ、スティンの顔が少し明るくなる。浮き彫りになった表情は悩ましく苦渋に満ちていて、その光景は重厚な油画のようだった。

 エルヴィーとスティン、どちらも黙りこくったまま、それからしばらく時が経った。二つの温もりは微動だにせず、部屋はどんどん寒くなっていくようだ。

「……姉さん」

 スティンがぼそっ、とつぶやいた。

「あの子たちが禁書室に何を探しにきていたか知ってるか」

「うん?」

 エルヴィーは少し伏せていた顔を上げて、弟の方を見る。

「知ってるわ。えっと……ほら、なんとかっていう……魔女の一族? 正式名称は覚えてないけど、そんなファンタジックな名前の民族についての情報を探してたって」

「ああ、そうだ。彼女らはその一族についての記述を探しにここまで来ていたんだ。姉さんは以前からその、ポル嬢が〝魔女の一族〟の情報を探していることは聞いていたんだな」

「聞いてるも何も、何回も私のところに〝この民族についての情報を見たことはないか〟って尋ねに来たのよ。もっとも〝魔女〟なんて呼ばれる人間は歴史上ごまんといるし、何か架空の人物を実在する民族と間違えてるのかもしれない。ありもしない魔女や悪魔を祭り上げるドス黒い邪教はいくらでもあるし、若くて世間知らずだからそういうものにハマっちゃったのかもね。なーんて思って、特に真剣には取り合わなかったけど……まあこう、犯罪に手を出しちゃうほどとなると、邪教にのめり込んでる可能性が色濃いわ。革命勢力のメンバーに加えるなら、まずそこを矯正しなきゃいけないと……」

「そう、その〝魔女〟だが」

 スティンが滔々と語るエルヴィーの言葉を遮った。

「本当にいるかも知れないんだ」

「ええ、そうかもしれないわ。………えっ?」

 さらりと聞き流そうとしたエルヴィーは、すんでのところで聞き流せない情報に声を上げる。

「なんですって? 本当にいるかもしれない?」

「そうなんだ。姉さんが禁書室に来る直前、彼女が説明してくれたんだ……自分たちの探している〝魔女〟は、僕たちが思っている邪教や社会のはぐれ者のような、胡乱なものではないと。魔術は、本当にあるんだって目の前で見せてくれた」

 スティンは、ポルが彼の目の前で使った魔術についてエルヴィーに事細かに説明した。話が進むにつれて、聞いているエルヴィーの眉間に皺が寄っていく。

 スティンが言葉を切ると、エルヴィーはすかさず割り込んだ。

「はあ? 何よ、それ……あんたが見たっていうなら間違いなく事実なんでしょうけど、そんな、そんな自然の摂理をひっくり返すような……大問題よ、そんなのが存在するなんて。いきなりには信じられないわ」

「ああ、僕もそう思う。なんなら今彼女に頼んで見せてもらうといい。僕にはどんな仕組みで何がどうなってるのか全くわからなかったが、姉さんなら何か分かるかもしれない」

「あんたに分かんないなら私に分かるわけないでしょ。見せてもらうのは後でいいわ」

 エルヴィーはわずかに苛立ったのか、指をこつこつこつと机に打ち付ける。

「あの娘はただの歌姫の隠し子じゃなくて、そんな不思議な力を持った特殊な人間だったと。それが〝魔女の一族〟とやらを探していて、さらに彼女を騙して図書館に忍び込ませる輩がいる。副司書長とやらを名乗る女が一体何者なのか、余計にわからなくなったわ……〝魔女の一族〟、副司書長を偽ってまでお嬢さんをけしかける女、どっちも思ってたより危ないかもね。どうなってるの、あの娘の周りは!」

 眉間をぐりぐり揉んで吐き捨てる。スティンはその表情を伺いながら引け腰気味に、

「ね、姉さん……その、姉さんは彼女らが取引に応じれば、あのまま逃がすつもりなんだろう?」

「ええ。あのまま、かどうかは置いといて」

「なら、あの……一つ、頼みがあるんだが」

「頼み?」

 今度はエルヴィーががばっと顔を上げて、机から身を乗り出す。

「何でも言いなさいよ」

 スティンはベッドに座りながらさらにへっぴり腰になった。顔と視線だけは逸らさないように相当頑張っているのが丸わかりの表情で、

「そ、その、だな……彼女らは旅人だと言っていた。姉さんが彼女らを釈放する時、僕も一緒に、あの……旅に同行したい。どうしても気になるんだ、〝魔術〟というものが、うん……あれについて勉強したい」

「なんだ、そんなことか」

 エルヴィーはスティンの努力を尻目に、大仰に右手のひらを上に向けてあっさりと返した。

「奇遇ね。私もあの子達を放つ際にはあんたを同行させようって、さっきから思ってたの」

「はぇっ?」

 スティンの口から情けない声が漏れる。

「いやあだって。あのまま何のハンデもつけずに『はい行ってらっしゃ~い』って逃したところで、私のところに戻ってくると思う? ……いや、あんなに世間知らずなお嬢さんなら律儀に戻ってくるかも知れないけど、それならそれであの娘たちの行く先が不安すぎるわ。だから、私の一番の右腕を監視役につけておこうと思ったの」

「一番の右腕? 惣元殿か?」

「……あんた私の話ちゃんと聞いてた?」

「あっいや、その、聞き逃しているところがあったかも……」

「だからね、私も諸々の理由であんたをあの娘たちに同行させるつもりだったの。あんたは私の一番の腹心なの。右腕ってのはあんたのことなの」

「ど、同行させるつもり『だった』? だったってことはつまり今は……、ね、姉さんすまない、話を聞いていなかったわけじゃないんだ。失望させたなら申し訳な……」

「ああ……違う違う、そういうことじゃない。ちゃんと今も同行してもらうつもりよ。安心して」

 ここでイライラを募らせれば彼が余計にしっちゃかめっちゃかなことを言い出すのは、エルヴィーにはよく分かっていた。エルヴィーはあえてさらっとした声で受け流す。

「あんたの任務は、彼女らのお目付け、監視役。然るべき時にあの娘たちが私のもとに戻ってくるようにすることよ」

「そ、そうか。分かった」

 どれだけへっぴり腰であろうと、さすがに彼も並々ならぬ試練を経験した男だった。こうでも言ってやれば、割合簡単に普通の調子に戻るのだ。証拠にさっきの情けない表情は引っ込んで、何やら引き締まった顔つきで真剣に考えている。

 と思ったら重々しく口を開いて、

「でも姉さん、言い出した僕がこんなことを言うのも何だが……姉さんはどうするつもりなんだ?僕がここから逃げたことがバレれば、姉さんは当然図書館を追われるんだろう。図書館どころか、王都や国も追われかねない」

 今度はエルヴィーの表情が一変する。拍子抜けしたような顔で肩をすくめると、なんだか次は脱力の笑みが浮かんできた。

「だからそんなことはいいの、前も言ったでしょ。ここで知るべきことは全部知ったし、するべきことも全部したわ。図書館に戻ってくる気はないけど、王都を追われようと国を追われようと私は絶対戻ってくる。牢にぶち込まれようが絶対に出てきてやる。これからの私にとって一番問題なのは図書館を離れられないことだわ。気にしないでよ。それよりさあ」

 エルヴィーはつかつかと歩いてくると、スティンの隣にどかっと腰掛けた。

「ようやく外に出る気になったのね、スティン。あんたがそう言いだすの、今日までこっそり待ってたわ。あんたがこんな所にいなきゃいけない理由なんて最初っから何にもないの。ないはずなのよ。行ってらっしゃい、外の世界に。あんたがいるべき場所はここじゃないわ。八年間――」

 弟の頭を片手でぐしゃっと撫でて、もう片方の手で乱暴に胸ぐらを掴むと自分の肩に引き寄せる。

「よく頑張った」

 自分が笑っているのは何となくわかったが、エルヴィーにはその時の弟の顔は見えなかった。

 ふと顔を見てやりたくなって、胸ぐらを掴んでいた手を離す。スティンは呆然としていた。そして、やがて思い出したように小さく咳き込んで、ちょっと俯いた。

「ああ……え、えっと」

 まさか照れているようには見えないし、喜んでいるようにもいまいち見えない。困っているというのが一番近そうだが、少し悲しそうな気もする。何とも形容しがたい表情をしていた。こんな顔ができるほど彼が繊細な感情をもった男に育ったこと、それは他でもなく自分の功績だ。エルヴィーはそう思って胸を張った。

「……ありがとう、姉さん」

 絞り出された弟の言葉にエルヴィーは大きく頷く。まあ、その言葉に値するだけのことはやり遂げただろう。

「じゃあ、そうと決まればお嬢さんたちのところに行きましょう。〝魔術〟とやらを見せてもらって、件の取引を持ちかけるわ。今思い出したけど私、そういえば勤務時間中なのよね」

 エルヴィーが立ち上がる。スティンもそれに倣って立ち上がった。公務にいっとう厳しいエルヴィーが、勤務時間中の自分の責務を忘れていることほど珍しいこともない。エルヴィーは自分の言葉のなかに、現職への未練のなさをたしかめた。

 スティンはほっとした顔をして、くたびれたような柔らかい声で返した。

「そうだな。行こう」



 取り上げた荷物を持って特別監房を出た二人は、ドアの鍵をかけ、さっき来た廊下を戻る。

 禁書室につながる扉の前に来ると、エルヴィーは一人早足で扉を抜けていった。少しして帰ってきた彼女の手には、大荷物のかわりに質素で大きなガラスのランタンがあった。

「あの倉庫、前に灯り取り外しちゃったのよねえ」

 ランタンのガラス筒を開け、中にある太い蝋燭を取り出す。壁のランプから火をもらおうとしたが、湿気っているせいか燻るばかりで灯りにならない。

「きっと雨がひどいのね、外。やたらじめじめして……」

 ランタンをいじくり回しながらぶつぶつと呟き、ようやくまともに蝋燭の火が灯った頃には、今度は壁のランプの火が消えていた。

 いっそう薄暗くなった廊下を、心もとない火を頼りに、二人はさっきの倉庫のドアに立った。

「入るわよ」

 ドアの隙間に向かって、エルヴィーは叫んだ。返事はない。

 無造作に金の鍵を穴に突き刺すと、バンッ! と派手に戸を開け放った。

「あんたたちの処遇が決まっ……何してんの?」

 入り口でランタンを構え、仁王立ちになったエルヴィーの声が覇気をなくして疑問に変わる。

 薄ぼんやりと照らされた倉庫は、三人の侵入者をぶち込んだ時とは様変わりしていた。

 本の山は崩れて床中が紙で埋め尽くされ、その上でルズアとシェンがくつろいでいる。ポルは紙の積もっていないところで、古い本のページを並べて意味不明な模様を描いていた。三人は突然入ってきたエルヴィーとスティンに釘付けになったまま、あたかも仰天と言わんばかりの顔で固まっている。そんな顔をしたいのはこちらだ。

 やがて床に紙を撒いているポルが、凍った水車が動くようにゆっくりと起き上がって、気まずそうな顔でこっちを向き直った。

「あ……あのさあ……あのさあ」

 対してエルヴィーは、今しがたの勢いはどこへやら、譫言をいうように呟き出した。

「誰がその山崩していいって言ったのよ……ねえ……ちょっと」

 こんなに落胆したエルヴィーの声を聞くのは、スティンにすら初めてだった。エルヴィーは部屋の中へずんずん歩くとポルが並べた紙を踏み散らして、ルズアとシェンの前で膝をついた。

「あああ……この廃棄本ぜんっぶ記録してきれいに積み上げるのにどんだけかかったと思ってるわけ? よりによって一番でかい山をよくも……ああ……あたしと惣元の残業時間……よくもあんたたち……」

 エルヴィーはがっくりうなだれたと思うと、今度は恨みがましく目の前の二人を睨みつける。すると、盲いているはずのルズアの目とエルヴィーの視線がばっちりかちあった。

「はん、ざまあねえぜ。てめえが俺たちをこんなとこにぶち込むから悪いんだろうが。自業自得だな」

 ルズアは鼻で笑った。

「あんた……あんたねえ!」

「姉さん」

 怒り心頭で拳を握るエルヴィーを、入り口から控えめにスティンが制止した。

「さ、先に話をしてからにしないか? 直すのは、ほら……ほら、彼らにも手伝ってもらったらいいだろう」

 エルヴィーは頭を抱えた。

「あー、あー! もう、分かったわよ……それも一理あるわ。あんたたちの手があるもんね」

 それを聞くとルズアの笑みが消え、シェンの顔が歪む。

 二人の表情を見たエルヴィーは気味が良くなったのか、ゆっくりと立ち上がると再びいつものようにふん反り返った。

「そう、あんたたちをどうするか決まったのよ! ていうかねえ、好き勝手やってくれてるけど重罪人だってことわかってる?」

「てめえこそ、うるせえババアだって自覚はあんのかよ」

 ルズアがあぐらをかいた足に肘突いて吐き捨てる。シェンが横から小声で「黙っててくださいヨ!」と囁いているが、おかまいなしだ。

 エルヴィーは口元に嘲笑を浮かべると、

「言ってなさいよ。……で、お嬢さん。あんたは何してんの?」

 睨み合う三人の後ろで、さっきエルヴィーが踏み散らした紙をこっそり直していたポルが、びくっと飛び上がった。飛び上がった拍子に、今並べた紙がぱらぱらと舞い上がる。

「あんたに頼みごとがあるんだけど。処遇について説明する前に」

 エルヴィーは騎士団服のポケットをまさぐり、メモ帳と鉛筆を取り出してポルに投げてよこした。放物線を描くメモ帳を、ポルは目を凝らしてなんとか視線で追う。

 からんからんと鉛筆が大きな音を立てて落ちると、手探りでそれを拾った。そのまま冷たい石床に正座して、手の感覚を頼りにメモ帳に返事を書き綴る。

『はい。何かしら? 今回の件について、知ってることはもうないわよ』

 エルヴィーは人差し指を立てると、勿体ぶるように顔の横で振った。

「さっきスティンに聞いたの。彼に〝魔術〟とかいうのを見せたんでしょう? それ、私にも見せてくれないかしら」

 振っていた人差し指を入り口のスティンに向けると、スティンはすごすごと半歩後ずさった。ポルは彼には見向きもせず、しばらくエルヴィーの腹を探るように眺めて、

『あら、そんなこと。でも見てどうするの? 教えてくれたら見せてあげるわ』

「あんたたちをこれからどうするかに関わるのよ」

『どう関わるのかしら?』

「さあ。いいからさっさと見せなさい」

『嫌よ。彼の時は急場だったからだけど、人に見せていいものじゃないの』

「……にしても随分軽率な行動じゃない? 今さら渋っても仕方ないと……」

『あー……ええ、まあ……そうかもしれないわね』

 ポルはきまり悪そうに頬に指を添えた。エルヴィーはため息をつく。

「ま、まあいいわ。どのみち私からの話はするわけだし……正直言って、見せてくれなくても大して処遇を変えるつもりはなかったし……」

 またしても気の抜けたエルヴィーの声色に、ポルは目をぱちくりした。

「スティン、入ってきて。ドア閉めて」

 エルヴィーは金の鍵束をポケットから出して、スティンに投げた。入り口の敷居のむこうに突っ立っていたスティンは、あわあわと鍵を捕まえるとドアを閉めて鍵をかける。


 がちゃん、という音とともに、再び倉庫に暗闇が訪れた。それでも、今回はひとつ、エルヴィーの手元で弱々しく光る火がある。燻っているだけのろうそくが、真っ暗な時間を過ごしたあとのポルにはやたら頼もしかった。ポルは、死神のようにぼんやりとちらつくエルヴィーの顔を下から睨みつけた。今の自分なら、この状況をなんとかできそうな気さえしてくる。

 エルヴィーが声を低めて話し出した。

「今からする話は口外無用よ。いいわね。実は私、近々ここの図書館長の役目は引退しようと思ってるの」

『は、はあ……?』

 予想外の話の切り口に、言葉を書き詰まるポル。


 お構いなく、エルヴィーは話を続ける。ランタンを足元に置くと胸を張って、腕を組んで、まるで演説でもするような口ぶりだ。

「というのも、別に寿退職だとかそういうことじゃないわ。お嬢さんは知ってるでしょうね。シェンちゃんは知らないかもしれないけど、ルズア君、あんたも分かってると思うわ。今のアルバート王国は、貴族たちの汚職にまみれて腐った国なの。騎士団は言わずもがな、教会も金で買われる始末。王家は権力者たちの傘でしかない。国民は貴族たちの支配欲と安全を充足させるための、いわば踏み台よ。私、そんな国や騎士団に忠誠を誓っていたくなんかない」

 なんとなく話が見えてきた、という顔をしたのはポルとルズアの二人だ。他方でシェンはエルヴィーの顔からちらりとも視線を逸らさない。古紙の絨毯に揃えた膝の上で拳を握り、一言一句聞き漏らさない姿勢だ。

 エルヴィーはひたすら演説を続けた。王国のこんな有様は、もう十年近く前から始まっていたこと。誰も、それを叩き直そうとしてこなかったこと。罪のない者たちが、不当に裁かれ陥れられてきたこと。時には命を落としてきたこと。そしてこう思ったそうだ――誰も動かないなら、自分がアルバート王国を正してやるんだ、と。

「このままじゃ、この国は解体の一途よ。隣の共和国に侵略されてもおかしくない。年々国境での衝突も激しくなってる。一刻でも早くなんとかしなきゃいけないの。私、だから図書館から動けないこの職を離れて、革命を起こすための勢力を募るわ。これからね」

 エルヴィーは聴衆を見回す。ぽかんとしているポル、知ったこっちゃないと言わんばかりのルズア、真剣な共感を露わにするシェン。なるほど全員予想したような反応である。ここで彼らにとって美味しい話を投げ込むのだ。

「そういうわけで、あんたたちを釈放しようと思うの」

 三人の表情が一変する。シェンの首が傾いで、ルズアはこちらを睨みつけ、ポルは眉をひそめて慌てて筆を取った。

『釈放? そういうわけでって?どういうわけなの?』

「説明が足りなかったわね。あんたたちを釈放しようと思うんだけど、そういうわけだからちょっとした条件を飲んでほしいのよ」

 エルヴィーは再び人差し指を立てて顔の横で振りだした。どうやら、話す時手が空いているとする癖らしい。

「釈放する代わり、さっき話したことに協力してほしいのよね」

「てめえのする革命に加われってことかよ」

 ルズアが噛み付く。エルヴィーはしれっと答えた。

「そ。そういうこと。あんたたちは到底並みじゃない戦闘力を持ってる。場数を踏んだ慣れもあるようね。さらに私の城に忍び込むだけの度胸もある。そのうえ、国民の象徴たる〝青い歌姫〟とも色濃い繋がりを持ってるのよね。素晴らしいわ。このまま騎士団に突き出して、死刑にするにはあまりにもったいないわね。まあ、だからと言ってタダで今回の件を見逃すわけにはいかないから、あんたたちは外で今まで通り旅を続ける代わりに、私が動く時になったら即戦力として協力しなさい」

 シェンとポルはちらりと視線をかわす。一方でルズアは、したり顔でずけずけと勝手に答えていた。

「いいぜ、その条件飲んでやろうじゃねえか。飲んだからにはさっさと出せよ、クソババア」

「あら、いいお返事ね。早速取り引き成立ということで。じゃ、あんたたちがちゃんと取り引きに応じてくれるように監視役を派遣させてもらうわ」

「あ?」

 これでもかとしたり顔が歪む。取り引きに応じたフリで、釈放されたらそのままトンズラする魂胆だったらしい。その程度、エルヴィーが対策を講じていないわけがないのだ。よほどルズアは彼女のことが気に食わないのか、とことんまでなめくさっているようだった。ポルとシェンは呆れて、二人揃ってしかめっ面になった。

「当たり前でしょ。このまま何のハンデもなしに釈放したところで、あんたたちが大人しく私のところに戻って来るわけないじゃない」

 エルヴィーはルズアの思惑を潰して勝ち誇り顔だ。ルズアは身を乗り出して低く唸った。

「いいぜ、何人でも連れてきやがれ。全員撒いてやる」

「撒かれたら、私が直々に全力で探し出すから。図書館警備隊長兼司書長の情報網を見くびらないでほしいわね」

「はん、ご苦労なこった。せいぜい俺に殴られても逃げ出さねえやつを雇うんだな」

「ええもちろん、心配無用よ。言っとくけど、彼は強いわ」

「彼だあ? もう人員が手配済みたあ仕事が早えじゃねえか。ババアのくせに」

「私、まだ二十三」

 エルヴィーはそう言ってさらりと躱すと、入口の方を指差した。

「あんたたちの監視役は彼、スティンよ」

 ポルとシェンの視線が、ばっとスティンに集まる。スティンは気まずそうに目を泳がせた。無意識にか、そろそろと両手を挙げて引きつった笑みを浮かべる。

「は、はは……あ……どうも……」

「あんだよ。ただのタマなしじゃね……いってえ!」

 早速悪態をつくルズアに、ポルが鉛筆を投げつけた。跳ね返った鉛筆を、隣のシェンが迷惑そうに避ける。エルヴィーはポルに同情のこもった視線を上から投げかけた。

「本当によく吠えるわね」

 まったくよ、とポルは手のひらを上向ける仕草で返した。ポルが自分で投げた鉛筆をのそのそと拾ったのを確認して、いきり立つルズアを放ったまま、エルヴィーは話を続ける。

「そう、それでね。釈放する条件として、然るべき時にあんたたちが私のところに戻って来るよう、スティンを同行させるわ。ただねえ、私は監視役として彼を派遣するつもりだったけど、彼も自分の目的があるみたいで」

 エルヴィーがちらりとスティンを見ると、スティンは痙攣でもしているのかと思うほどうんうん頷いていた。

「あんたがスティンに見せた〝魔術〟ってやつ。彼がそれについて知りたいから、旅について行かせてほしいんですって。だから……ほら、そういうこともあって、私にも見せてほしいのよね。モノによっては、貴族や王族に知られたら利用されかねないじゃない? 私もあんたを味方に数えておきたい以上、捕まったり殺されたりするのはいただけないの。今回みたいに国の役人に安易にひけらかされたら困るものかもしれないわ」

『見せないと、出してくれないの?』

「出してあげないって言ったら?」

 ポルは黙り込む。

「……いつまで渋ってんのよ。守秘のことでも心配してるの? ちょっと考えればわかるでしょ、お嬢さん。私があんたの使うよくわかんない〝魔術〟について周りに言いふらして、一体何の得があると思う?」

『わかった、わかったわ。もう釈放してもらえるなら何だってするわよ。実はこの部屋があまりに真っ暗で寒いから、部屋の中を探索することもできなくてね。こっそり魔術で灯りを点そうと思ってたところだったわ。エルヴィーさんがこんなに早く来ると思ってなかったから中断しちゃったんだけど』

 ポルは鉛筆とメモを床に置くと立ち上がった。倉庫の入り口前に広げられた紙が描く幾何学模様、そのうちさっきエルヴィーが踏み散らした部分を一枚一枚そうっと直し始める。

 エルヴィーとスティンはポルの動きを黙って目で追う。騒いでいたルズアも音を立てず、シェンはさっき揃えていた膝を抱えてじっとポルを見つめていた。

 やがて、倉庫の床には紙で描かれた魔法陣ができた。中心にいたポルは抜き足差し足で魔法陣を出ると鉛筆を拾う。エルヴィーはポルと魔法陣を交互に見ながら、

「これが……何ていうのかしら、魔法円ってやつ?」

『〝魔女の一族〟では、魔法陣っていうのよ。見てて』

 ポルは一度大きく深呼吸すると、両手を胸の前で結んで目を閉じる。

 しばらくして、古紙の魔法陣が少しずつ金色の光を放ち始めた。あっという間に金光は倉庫中を照らすほど明るくなる。

 今度は魔法陣を形作っていた紙が、風に巻かれたように浮き上がった。ばさばさと円形に舞い上がった何十の紙は中心に集まって収縮していき、やがて小さな光の塊となって石床に降りた。その瞬間、ぱっと金光が消える。

 そこにはエルヴィーが持っているものと寸分たがわず同じ意匠の、ひとまわり小さなランタンがちょこんと置かれていた。中のろうそくは煌々と輝き、エルヴィーのランタンより数倍明るい。

 観衆たちが息を飲む静寂。その中をポルが、こつ、こつ、と足音を響かせて歩いていく。ランタンの前で足を止めると、錆びかけた鉄の取っ手を持ち上げてエルヴィーを見た。

「は……はあ、うっそでしょ」

 エルヴィーが唇を震わせる。

「全然わかんない。スティン、私もこんなの全然わかんないわ」

 唇どころか、拳を握った手までわなわなと震えていた。スティンは口元に指をやって呆気にとられている。

 エルヴィーはまるで魂が出ていったかのような足取りで、ポルに近寄っていった。

「あ、あんた、話しなさい。どこでこんなこと覚えたの? どこで知ったの? ねえ。誰に習ったのか言いなさい、どのくらいの人がこれを知ってるの!」

 うわごとのような呟きが詰問に変わる。

 エルヴィーの後ろで、今だとばかりに飛びかかろうとするルズアと、彼を必死で押さえるシェンがポルの視界の端に映った。それも束の間、髪が引っ張られる痛みとともに、至近距離でエルヴィーと目が合う。ポルの前髪を引っ掴んで詰め寄る彼女の、底なし沼を思わせる真っ黒い瞳。その奥底のどこかに、やわらかな熱い光を見たような気がした。

「離れてくださイ。ポルさんかラ」

 後ろのシェンが精一杯凄む。ルズアがシェンの足の下、無様な格好で獣の唸り声を上げた。視線でエルヴィーの騎士団服に火がつきそうだ。

 その二人を見て、我に返ったスティンはおずおずとエルヴィーに近寄る。

「ね、ねね、姉さん。落ち着いてくれ、女性に暴力はよくないだろう? その、まず話を聞かないか?」

 エルヴィーはちらりとスティンを見ると、ポルを掴む手を離す。詰め寄った距離はそのままに、囁くようにポルに問いかけた。

「これを使って、図書館に侵入したの?」

 ポルは頷いた。

「やっぱりね、そりゃあうちの兵たちが気がつかないはずだわ。どこで、どうやって使ったの? 教えなさい」

「その、ポル……嬢」

 責め立てるようなエルヴィーを、またもやスティンが遮る。引きつった笑いを浮かべて、

「ぼ、僕が言うのもなんだが……ほら、誤解しないでくれ。姉さんはその、少し威圧的かもしれないが、信用しても安全な人だ。秘密を漏らしたりしないし、釈放すると言った以上は悪いようにすることはない。僕が保証する。分かってくれたら嬉しいんだけども……」

 最後の方は、もごもごと口ごもった。胸を張れるよう手を後ろで組んで、頑張って視線を合わせようと、ちらちらこちらを見ている。ポルは眉間にしわを寄せて、吟味するように彼を見ていた。

「ポルさン!」

 シェンが叫ぶ。話せというのか、話すなというのか、ポルには真意を汲みかねた。しかしてここまできたら、渋っても仕方あるまい。起こってしまったことだ。一刻でも早くここから三人で出られるならもう、あとは野となれ山となれ。

 ポルはエルヴィーに視線を戻して、手を取った。

『そうね。開館時間中の図書館内で私たちの身を隠したのも、地下への鍵を開けたのも、警備兵の目をくらましたのも、全部私が使った魔術よ。私たち以外に、この魔術を知ってる人なんていないって言っても過言じゃないわ。だから魔術を使って侵入すれば、私、完全犯罪を成し遂げられるって思ってた。完璧な計画でシェンとルズアを説得して、二人を連れて来たの』

「じゃあ、あの二人はこの〝魔術〟は使えないの?」

 エルヴィーが尋ねる。ポルは澄まし顔で頷いた。

『そうよ。私だけ』

「つまり、あんたが言い出して、あんたが計画して、あんたがあの子達を巻き込んで、あの子達はまんまとついて来たら捕まったってこと?」

『ええ、そういうこと』

「もう一つ聞かせて。あんたたちは、何が目的でその〝魔女の一族〟の情報を探してここまできたの?」

『それは……その、そうね。〝赤い歌姫〟が、私の母が殺された理由と、犯人の手がかりを探すため。あなたなら理解していただけるでしょ? アトレッタ家を守るためには、騎士団を牛耳るエルンスト家に先を越されちゃまずいの』

 ポルは一息に言い切った。

 エルヴィーはそれを聞くと、やれやれと言わんばかりに額に手を当てる。一歩下がって肩を落として、ため息をついて、ポルの顔を見る。

 目が合った直後、いきなりポルの脳天にエルヴィーの手刀が降ってきた。

「こんっのバカ娘!」

 がちんっ! と視界に火花が散るような衝撃。彼女の手は武器を持つだけあって、鍛えられて硬かった。

「あんたねえ、無謀って言うのよそういうの! 他の誰にも使えない力を使えるからって、こんなに杜撰な計画に仲間まで巻き込んで、自信満々でここまで来るやつがどこにいるのよ? あまつさえ誰も知らない大事な情報を図書館中に触れ回って! 結局それを利用した不審者にまんまと騙されてたんじゃあ、目も当てられないわ。手当たり次第どんな手段でも試したいのはとってもわかる。だけど世の中そんなに甘くないの! あんたお勉強はできるんでしょ、もっと頭を使いなさいよ! ねえ!」

 鼻の先でまくし立てるエルヴィーに、ポルは目がまん丸になった。威嚇されているのか? 叱られているらしい。

「あんたたちもあんたたちよ!」

 彼女の怒りの矛先が、次はシェンとルズアに向かう。

「なんで二人もいてこの子の落ち度に気がつかないわけ? 誰か止めなさいよね、まんまとついて来てどうするのよ。果たして本当かどうか知らないけど、いくらお嬢さんが首謀者だって言い張ったところで、ついてきたのはあんたたちなんだからね!」

 後ろの二人もさすがに、ぐうの音さえ出ない。

「まったくもう、若いったら! やっぱり、あんたたちだけをこのまま野放しにするのは危なっかしすぎるわ。私が呼び戻す前に死んでる方がありそうじゃない? ねえスティン、頼んだわよ」

「へっ?」

 エルヴィーの大きな独り言だと思っていたのか、スティンが思わず生返事で答える。

「ぼ、僕が? ああ、えっと、わかった、任せてくれ」

 冷や汗をかきながら、裏声であわあわと言った。ついと姉から目をそらす。

 エルヴィーは弟に一瞬猜疑の目を向けたが、次にはもういいやとばかりに肩を落とした。ポルの頭に分厚い手をぽんと置くと、つかつか倉庫のドアまで歩いていって、ちゃらん、金の鍵を取り出す。エルヴィーは錠を開け、一歩廊下に出て振り返った。

「さ……もう話は終わり。みんな出てらっしゃい。ここじゃ暗いし寒いから、スティンと特別監房で待ってたらいいわ。明日には地下から出してあげる。荷物はまだ返してあげられないけどね」

 静まり返る三人。少しして、間の抜けた顔を同時に見合わせた。エルヴィーは、金の鍵でドアノブをこつこつ叩くと、

「早くしなさいよ。出て来たくないの?」

 シェンとポルは顔を見合わせたまま頷く。シェンがルズアの上からぴょんっと降りて、ルズアはのっそり立ち上がった。ポルはメモ紙と鉛筆を拾って、スティンの前を通り、エルヴィーの前に立った。

『ありがとう』

「じゃないわよ。あんたには命三つ分の貸しだから。スティンにもお礼言っておいてよね、あとあの子達にはちゃんと謝るのよ」

 ポルがうんうん頷いたのを見ると、エルヴィーは部屋の中へ手をこまねく。全員が廊下に出たのを確認して鍵をかけ、他の四人に背を向けると、すたすたと歩き出した。

「あとはスティンについて行って。あんたたちが散らけてくれた廃棄本はまあ……魔術で消えた書類もあることだし、もういいや、管理も記録も〝次の司書長〟に投げるとしましょう。仕事が終わったらまた来るわ。じゃあ、そういうことで」

 ぽかんとする四人を尻目に、エルヴィーは後ろ姿のまま手を振る。大風が去りゆくように颯爽と、図書館の女王はそのまま禁書室の扉へ消えていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る