3-8 夜の王都は雨

 ルズアが剣を、シェンが双節棍を構える。ほぼ同時にバン! とけたたましい音がして、槍を持った騎士団服の群れが扉を蹴って現れた。

 五人、六人の男たち、その真ん中で槍の穂先をこちらに突き立てているのは、黒い瞳に黒い髪の女性。エルヴィーだった。

 ルズアが剣の切っ先をエルヴィーに定める。その瞬間、彼女を取り巻いていた警備兵たちが一斉にルズアに槍を向けた。

「武器を下ろせ」

 エルヴィーが静かに宣告する。

「そっちが下ろしたらな」

 ルズアの声が重い空気を震わせた。

 目を離したら命はない。猛虎同士の睨み合いが続く。こちらが圧倒的な劣勢にもかかわらず、状況はぴくりとも、文字通り誰も指一本動かさない。

 絶対零度の静寂の末、エルヴィーがもう一度、ゆっくりと口を開いた。

「……下ろしなさい」

 その言葉に、エルヴィー以外の兵たちが一様に槍を下ろした。

「あんたもよ」

 エルヴィーはルズアに言い放った。ルズアはふん、と鼻を鳴らして動かずにいたが、やがて二人ともが見計らったように、全く同時に剣と槍を逸らす。

 止まっていた時間が突如として動き出した。今更のようにポルの顔から血の気が引いて、シェンがじゃらり、と武器を構え直す。

 その音でエルヴィーがこちらを見た。シェンとポルを吟味するように睨みつけると、その奥で腰を抜かしている青年をじっと見つめ、一瞬だけにやりと笑う。

「スティン」

「姉さん……」

 突然呼ばれた青年は慌てて床に座り直し、掠れた声で呟く。

 どうやらエルヴィーが彼、スティンの姉だということは分かった。だから何なのだ、隅っこで呆然とするだけのポルには、この状況の打開策が浮かびそうもない。

「あんたは私の命令に従いなさい。まず状況を説明してもら――」

「姉さん」

 今度ははっきりした声で、スティンがエルヴィーを遮った。

「待ってくれ、この子たちはただの侵入者じゃない……騙されてここにいるだけだ」

「……それで?」

「この子たちをここに遣わせた人間がいる。この図書館の副司書長なんぞを名乗っているんだ」

「はあん……なるほど」

 エルヴィーは眉間にしわを寄せると、警備兵たちに目配せした。

「あんたたちは今すぐ持ち場に戻りなさい。報告は不要。口外もひとまず不要。通常の業務を続けるように……あと、惣元。あんたはここに残って」

「はっ」

 歩みを揃えて禁書室を立ち去る兵たちの中、惣元と呼ばれた黒髪の大男だけが、足を止めて敬礼で応える。

 やがて彼以外の兵が扉の向こうに消えて、響く足音も遠くへ去って行った。


「本当はどんな理由があろうと即逮捕のところなんだけどねえ」

 エルヴィーは苦虫を噛み潰したような顔で、舐め回すように三人を見た。

「副司書長ですってねえ? ここの役職を偽って悪事をはたらくってことはつまり、私をナメてるのか、私をバカにしてるのか、私を挑発してるのか、または私にぶっ殺されたいかのどれかってことよねえ。腹が立つからあんたたちには猶予をあげるわ。言い分があるなら聞こうじゃないの」

「吐かせクソババア」

 ルズアが鼻で笑った。

「偉そうな口をききやがる」

「あんたこそ罪人って立場を弁えたらどう? 偉そうもなにも、ここじゃ私が一番偉いんだから仕方ないわ」

 エルヴィーの返答に、ルズアの顔から笑みが失せる。それを見て取ると、今度はエルヴィーの顔が笑いで歪んだ。

「私は王立図書館司書長兼、警備隊長よ。つまり図書館の全権を私が握ってるわけ。知らなかったでしょう、ねえ? そこのお嬢さん」

 エルヴィーは最後の問いを、禁書室の薄暗がりでぼんやりと霞むポルの姿に投げた。

 ポルは震える唇をきゅっと噛み、睨むだけの情けない抵抗を試みる。確かにそんなことは知らなかったが、自分たちが副司書長のおばさんに騙されている体で話が勝手にとんとん進んでいることの方がよっぽどわからない。

「地下の様子がおかしいって気づいた時から、あんたじゃないかと思ってたのよ。あれだけ禁書室に入りたがってたもんねえ。私が今日夜番だったのが運の尽きだわ」

 睨み合いですら、エルヴィーに勝てる気はしない。

「見るからに鈍臭くて世間知らずそうなあんたが、どんな情報があったら忍び込もうって気になったの? 教えてちょうだい、誰に何て騙されたのか……って、ああ」

 エルヴィーはさらに口の端を釣り上げる。

「あんた、しゃべれないんだったわね」

 今更そんな見え透いた挑発に乗るもんか。

 心臓を抉る言葉を、平静を装ってやり過ごす。やり過ごさなければ。歯を食いしばるポルを尻目に、相手は槍を握り直してこちらに近づいてきた。

「っ姉さん!」

 スティンが突然叫んで立ち上がる。足を踏み出したエルヴィーの後ろに、すかさずルズアが剣を構えて踏み込んでいた。エルヴィーは前を向いたまま左へステップし、たった今彼女がいたところをかすめたルズアの剣を、大槍で受けた。と思いきや、そのまま力任せに槍をぶん回す。

 予想もしない力にルズアが一瞬体勢を崩したところへ、追撃の回し蹴りが襲った。ルズアは剣を捨てると、衝撃を殺すようにエルヴィーの足にしがみつく。しかしエルヴィーはバランスを崩すどころか、勢いにまかせてルズアを半周振り回すとそのまま片足で吹っ飛ばした。

「ぐっ……」

 受け身を取っても、硬い石床となると衝撃で声が漏れる。

 ルズアがその痛みに怯んだ一瞬、吹っ飛ばされた方向で双節棍を構えていたシェンが、床を蹴って突っ込んだ。エルヴィーの数歩手前で思いきり右前へ踏み切る。しかし構えた双節棍は、横から割って入った槍に弾かれた。さっき惣元と呼ばれていた黒髪の大男が、エルヴィーの左前の位置から応戦してきている。

 シェンは双節棍を滑らせてするりと大槍をくぐると、惣元ではなくエルヴィーに横から距離を詰めた。

「惣元っ」

 シェンが石突きの間合いに入る直前、身を屈めて前に回った彼女を跳んで避けながら、エルヴィーは腹から叫んだ。

「あんたは手を……っと、あんたは手を出さ……おっと! 手を出さないで!」

 攻撃をギリギリで躱しきり、シェンが少し距離を取ったのを見計らうと、エルヴィーも一歩下がる。

 横で惣元が「さ……左様でござるか」と呟いたのを聞くや否や、シェンの後ろで立ち上がったルズアが飛び出していった。

「ちょっと、ちょーっとタンマ! 待って待って!」

 エルヴィーはわざと槍を捨てる。シェンは一瞬ぎょっとして動きを止めた。お構いなしに殴りかかってくるルズアの拳を、エルヴィーは待ってましたと言わんばかりに正面から掌で受け止める。

「タンマって言ってんでしょ」

 ルズアの動きはようやくそこで固まった。

「ちょっとあんたたちを挑発しすぎたわ。私が悪かった。まず話し合いましょう。どうせ今私に殴りかかったって、刑が重くなるだけよ」

 不味いものでも食わされたような顔でルズアは拳を引くと、ばきばきっと威嚇的に指を鳴らした。

「黙れ」

「私に命令するな。あんたはまず名前を名乗りなさい」

「俺に命令すんじゃねえ」

「お願いしてんのよ」

 犬歯を剥き出しにして小さく唸ったあと、

「ルズアだ。満足か?」

 吐き捨てるように言った。エルヴィーはふうん、と適当な返事をするとシェンに目をやって、

「あんたは?」

 シェンは戦闘の構えをゆっくりと解き、エルヴィーを睨みつけながら足をそろえた。

「……シェン・フーと申しまス」

「はっはあん、なるほどなるほど」

 エルヴィーは再び顎に手を当てると、満足げに目を見開く。

「あんたたちの名前は聞いてるわ。今年のアーラッドの二月祝勝武闘祭の話もね。私あの祭りが大好きでさあ、毎年部下を一人潜らせてんのよ……もちろん出場する方に。今年の戦績報告を聞いてびっくりしたわ。なんせ私の部下はこてんぱんに下されて、優勝と準優勝を飾ったのはイーステルンとエン国出身のちびっ子たちですってね。ルズアとシェン、名前を忘れるわけがないわ。それで、そんな強者を二人も従えてる――」

 エルヴィーの視線がポルに移った。

「お嬢さん、あんたよ。そういえば私、あんたの名前をまだ聞いてないのよね。あんたは何者なの?名乗りなさい」

 ポルは石床に手をつくと、冷え切って感覚のなくなった足でゆっくりと立ち上がった。

 手の中でぐしゃぐしゃになった紙を広げながら、一歩、二歩、エルヴィーに近寄ると、握った汗でつるつる滑る鉛筆をその上に走らせた。

『……ジェーン・メリー』

「……もうちょっとマシな嘘はつけないの?」

 ポルは今考えた偽名をぐしゃぐしゃっと鉛筆で消し、ルズアとシェンの顔を交互に伺った。シェンの顔からは軽い諦めが見て取れたが、ルズアからは何も読み取れない。

 ポルは意を決して紙に綴った。

『ポル・アトレッタ』

 エルヴィーはポルの名前をまじまじと見ると、

「アトレッタ……? というと」

『ええ。メルは双子の妹よ』

「はあ、なるほど、じゃあつまり赤い歌姫には隠し子がいたってこと? ホラじゃないでしょうね」

『なんならもう少し嘘をついていたかったくらいだわ』

 ポルがいくらエルヴィーを痛いほどの視線で威嚇しても、やはり相手には毛ほども伝わっていないようだ。

「あらそう。別に疑う気なんか今更ないけど……じゃあなに、あんたが言ってた……なんだっけ、なんたらって民族についての情報を必死で探してるのは〝青い歌姫〟の命かなにかってわけ?」

『いいえ、私がしたくてやってることよ。メルは関係ないわ』

「まっさか」

 エルヴィーは喉の奥でくつくつと笑った。

「……いえ、まあ今はいいわ。とにかく、副司書長とやらについて聞かせなさい。私がそんな役職は作ってないんだから、そいつは間違いなくニセモノよ」

 図書館の長に言われれば、もう騙されていないと主張するにも無理がある。襲い来る落胆と絶望が、どろどろと五臓六腑を溶かしていく。ポルは涙さえ出そうだった。

 何のためにこんな危険を冒してこんなところまで来たっていうんだ? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある。だが、いかに馬鹿馬鹿しかろうと、何としてでもこの状況だけは打破しなければならない。少なくとも二人には地上に出てもらわないと、誰のせいでこうなったのかくらい、いくら自分がおろかでもわかる。

 ポルは禁書室担当の副司書長を名乗るおばさんと出会ったところから、エルヴィーに話した。なんとなく、本当になんとなくだが、今この人に逆らわない方がいい気がしたからだ。もう直感以外に頼るものなんかない。ポルの頭の中は真っ白だった。



「なるほど、文官の制服を着た中年の女ね……」

 ポルの話を聞き終わったエルヴィーは、鷹のように目尻を釣り上げて、腕を組んでは組み直しながら気難しく唸った。

「で、あんたはその女の言うことを全部ころっと信じてここまで来たと。図書館の中で顔を合わせたこともないのに、司書だって言葉を鵜呑みにして、その上あんた以外の二人も誰一人として疑問を抱かなかったのね。その女の正体に」

 エルヴィーは手を下ろして、脱力したようにため息をつく。

「あっきれた、私が十五の時だってそんなにバカじゃなかったわよ……処罰するのですらアホくさいわ……いえ、でもまあ、ここの役職を名乗るナメくさった女がいることはわかったし……もちろんあんたたちをタダで逃すわけにはいかないんだけど」

 あまりに一瞬でエルヴィーの顔から気が抜けたものだから、ポルは場にそぐわず驚いてしまった。確かに、今思い返したくないほどバカなことをしたとは思っているのだが。

 エルヴィーはふっ、と腹から息を吐き、頬を両手で引っ張ると、わずかに真剣さを取り戻した顔で言った。

「そう、タダで逃すわけにはいかないのよ。でもあんたたちのその……度胸と戦闘力と、私の城を破るだけの能力には少しくらい免じてあげてもいいわ。スティン、惣元」

 呼ばれた二人は、即座にエルヴィーの方へ体を向ける。

「罪人に一人ずつつきなさい。スティンはアトレッタのお嬢さんに、惣元はそこのシェンちゃんに」

 エルヴィーはルズアから目を離さないように、床に投げ捨てられている自分の大槍とルズアの剣を拾った。

「処遇が決まるまで、あんたたちをこの奥でしばらく拘留するわ。わかったらさっさと歩いてちょうだい」

 そう宣言すると、トロールが棍棒でも握るように荒々しく、自分の槍とルズアの剣を両手にしっかり握り直した。

 無駄な反抗はやめようと思ったのかシェンは自分から惣元に近づき、ポルの三歩ほど後ろには申し訳なさげにスティンが立った。



 連れてこられたのは、禁書室のさらに向こうにある倉庫。

 ポルは縄でもかけられるのかと身構えていたが、特にそんなこともなく、それどころか武器で急き立てられることすらなかった。シェンと惣元を先頭に禁書室の奥の扉を出ると、逆L字形の狭い廊下を左へ進んで、三つ目のドアの前に一行はすんなりとやってきた。

 エルヴィーは槍を小脇に抱えてポケットを探り、金の鍵束を取り出すと惣元に投げてよこす。飛んできた鍵束を捕る惣元の手は、横にいるシェンの頭なら一掴みできそうなほどの大きさだ。指が一本動くたびハラハラする。

 惣元が少し身をかがめて紫檀のドアを開けると、そこからむうわりと濃縮された禁書室のにおいが漂ってきた。

「さあ、入って」

 エルヴィーがそう言うと先頭のシェンがこちらを見た。入って、と言われても、文字どおり一寸先は闇である。

 ポルはシェンに視線を送り返し、先に立って一歩一歩慎重に部屋へ入っていった。

 廊下が薄暗かったせいか、目はすぐ慣れた。

 ここは倉庫、だそうだが、本の墓場と表現した方がしっくりくる。古すぎて茶色くなった本、表紙が虫食いだらけの本、ページがバラバラになった本、半分がインクの染みで真っ黒に塗りつぶされた本。

 広くない部屋にとにかく本の死骸が山と積み上げられて、つつけば崩れてきそうな場所さえあった。禁書室に入った時のあの気味悪さなど、まだ序の口程度だったのだ。

 ポルの後から、シェンがおずおずとやってきた。瞬いて目をならすと辺りをぐるりと見渡して、すっとポルの脇に体を寄せる。最後にルズアがずけずけと入ってくると、エルヴィーは出口を塞ぐようにドアの前で仁王立ちした。

「ここでしばらく処遇の決定を待ってもらうわ。武器と荷物を全部渡しなさい」

 シェンはしぶしぶの顔で双節棍を差し出し、ポルは背負った矢筒を下ろす。カバンも当然隠しきれないので渡すしかなさそうだ。

「ポケットの中を確認して」

 エルヴィーに言われるままに、シェンとポルは自分のポケットの中をまさぐった。

 ルズアだけが腕を組んだまま、エルヴィーのことを睨みつけている。

「あんたも持ち物を渡しなさい。でないとその着てる服ごと預かるわよ」

 ルズアはけっ、と吐き捨てると腕を解く。手を乱暴にポケットに突っ込んで確認すると、ケープの裏ポケットから出てきた百ベリン硬貨をエルヴィーに投げつけた。

 エルヴィーはしばらく百ベリン硬貨とルズアを見比べていたが、やがて黙ってそれをポルのカバンに放り込んだ。

「じゃ、そういうことで大人しくしてね。逃亡でも企てようもんなら、仮に今回の件が無罪でも再逮捕は間違いなしよ。く、れ、ぐ、れ、も、諦めてちょうだい」

 エルヴィーはニタァ、と愉悦の笑みを浮かべて、手を振りながら紫檀のドアを閉める。

 廊下からのわずかな光が細くなって、細くなって、やがて消えた。そして鍵穴のガチャッ、という音を最後に、ついに三人は倉庫に閉じ込められた。


 ぴりぴりと静まり返る古本たちの集合墓地。互いの存在感さえ掻き消える。さっき暗がりに慣れた目も、ドアから漏れる光がなくなったせいで全くきかなくなってしまった。

「……どうするんですカ」

 耐えられなくなったように、シェンが投げかけた。唇ががたがた震えているのは、声を聞けばわかる。

「おとなしく待ちますカ。それとも逃げ道を探しますカ」

 ポルは凍りそうな指先を軽く擦ると、シェンの手を捕まえた。

『おとなしく待ちましょう。明かりも荷物もないんじゃ、どうしようもないわ』

「ルズアさン!」

 シェンはポルの手を振り払う。

「どうしますカ」

 ルズアはおもむろに歩いていって、古本の山に手をつくとぽつりと漏らした。

「大人しく待つしかねえだろ。この部屋から逃げたところで、相手は図書館を隅々まで知ってるわけだからな」

「そうですネ。わかりましタ」

 シェンは吐き捨てるように言って、石床に勢いよく腰を下ろす。想像以上の床の冷たさだったのか一瞬飛び上がり、ポルの足にぶつかった。

 灯りさえ与えられれば古本を漁ることも、逃げ道を探すことも、古紙を拝借して貰い火で暖をとることもできるのだが。

 いや、そんなものがなくても魔方陣さえ書けば魔術で解決できる。そこまで思い至って書くものすらないことに、そのうえ今まで使った魔術で体力も底を突きそうだったことに気がついた。

 南無三、万事休す、こんな環境では滋養どころじゃあないし、魔方陣なしで魔術を使えないわけではないが、やってみて失敗して動けなくなっては話にもならない。

 アイテルを置いてきてしまったが、地上にはいつ戻れるだろう。きっとメルにも、自分が捕まったという知らせは届くだろうなあ。これを機にアトレッタ家が失墜したりしないだろうか。

 吐き気を催しそうな考えが頭をよぎる。寒くて眠くて疲れて意識は飛びそうだし、お腹も空いて……空腹に敏感なルズアは大丈夫だろうか?

 思い至って目を凝らし、ルズアの姿を探すと、部屋の中をぐるぐると散策しているようだった。盲目の彼に暗闇は関係ない。どころか、静かでよく音の反響する石壁の部屋はより耳がきくのだろう。うず高い紙の瓦礫の山のそばを、てっぺんまでの距離を確かめるように上向きながら歩き回っている。

 その足先がこつんっと積まれた本に当たり、一番高い場所を麓から揺るがした。

 何が起こるか察したポルは、ルズアが動くより先に駆け寄っていた。予想外のことだったからか、珍しいことに、ルズアの動きが一瞬遅れたのだ。山の頂上が、巨大な生き物のしっぽのようにゆらぁりと振れる。

 真下からポルがルズアを引っ張り出した直後。ばらばらばら、ざざあ……と古本が雪崩れて、冷たい石床が紙の絨毯で埋まった。

 さすがのルズアもこの下敷きになっては、まあ……怪我くらいしたかもしれない。ルズアはいきり立って足元の汚れた古本を蹴飛ばした。

「けっ……何だこれ」

『ま、まあ、これで少しは温かい床で休めるわ。シェンも……あ』

 ポルが突然膝を打った。

『そうよ! いいこと思いついた!』



 **********



 王都の城壁内には雨が降っていた。

 大粒の雨はざんざんと視界を遮り、家々の軒下からぴちぴちと垂れては、ラエニの方角へ道を流れていく。雹のように冷たい土砂降りだ。

 何億万とない雨音をぬって、濡れた石畳を踏むブーツの音があった。

 白い靄にかすむ王立図書館の前の通りを、横へ一本入った誰もいない細い通り。黒い小さな傘をさして、文官の制服を身にまとった栗毛の女性がしとしとと歩いている。

 女性は民家の軒先へ入ると傘を畳んだ。その瞬間、女性の服が頭のてっぺんから螺旋を描いて、溶けるように形を変えだした。

 茶色の小さな帽子は雨よけのベールに、短いジャケットは薄紫のロングコートに、長いタイトスカートは分厚い深紫の散歩用ドレスに。

 最後に閉じた小さな黒い傘をひと回しすると、それはみるみるうちにレース縁取りのついた紺の長傘になった。女性は何食わぬ顔で雨よけ用ベールを整え、左側にある建物の角へちらりと目をやった。

「いるんでしょう、出てきてちょうだいな。ミスター……ええっと……ミスター・ゼノセプト」

 名前を呼びかけるのと同時に、建物の角から騎士団服の男が現れた。

 狐のように吊り上がった目、無骨な顔つき、後ろに流れる赤茶の短髪にがっしりした中背の容姿は、つい最近西の砂漠で見つかった化石人類の想像図を思い起こさせる。

 女性は彼の姿を捉えると、再び正面を向き直った。

「今日は甲冑は着てらっしゃらないのね」

「あれは好きだが、動くと音がするのでね」

 男は硬いテノールの声で答えた。羽織っていた雨よけのケープを脱いで建物の角から出ると、そそくさと女性の隣に並ぶ。

「お勤めは今終わったんです? ミス・テーリング……」

「その呼び方はやめて、アルシーって呼んでと言ったでしょ。ミスもいらないわ」

「……アルシー女史。でしたら僕もグラントと呼んでいただいて構いません。それで、なぜあの子供達をわざわざあんなに追い詰めるのですか?」

「女史、女史ねえ」

 つっけんどんに本題を切り出す男。アルシーはくつくつと喉を鳴らして笑った。

「別に、あのお嬢様たちを追い詰める理由なんてないですわ」

 男、グラントは顔をしかめた。アルシーの顔をちらりと伺って、

「任務は本の回収でしょう。彼女らが逮捕されたなら、今やきっと本は図書館の職員に奪われているはずだ。誰が持っているのかすらわからないではないですか」

「そうねえ」

「呑気なお返事で。アトレッタ家の娘と何度も接触していたのでしょう? 彼女程度からなら、いつでも本を奪えたのでは?」

「嫌ですよ。彼女には強力な……ほら。お付きの用心棒がいますから。あなた、せっかちなこと」

「嫌って……用心棒と揉めたくないから彼女らを騙して図書館に忍び込ませたと?」

 グラントの顔に呆れがありありと浮かぶ。

「お強い用心棒っていうのは赤毛の少年ですか、それともエン国人の少女ですか。お言葉ですがあんな子供達より、今の図書館の全権管理者の方がずっと強いですよ。ご存知な……」

「知ってますとも。だからちょっとからかいたくなっちゃって」

「からかいたく……?」

 涼しい顔を一ミリたりとも崩さないアルシーに、グラントは思わずため息をつく。

「騎士団内において、鬼とまで呼ばれる女をからかいたいと仰る方は初めて見ましたよ……現図書館警備隊長は一騎当千、騎士団の中じゃ最強とまで言われて、そのうえ戦略にも長けている。文官の地位さえも築くだけはあります。子供二人がそれに比べていかに容易いことか……」

「ずいぶん高く評価しているのねえ?」

 アルシーはちらりとグラントを見て、初めて問いを返した。

「そりゃ、まあ……訓練兵団では彼女を目標に育てられますから」

「そのかくも素晴らしい図書館の主人のもとに、あの子たちはのうのうと忍び込む選択をしたのね」

「……と、言いますと」

「王都にジェリウス様一族の情報がないくらいで、あんな見え透いたそそのかしで騙されて……素直で浅はかな子供たちですよ。おそらくあの子たちは図書館の主人のことさえこれっぽっちも知らないのに、簡単にうまい話にかかってしまったわ」

「つまり、弄んだだけだと?」

 わずかな憤りがグラントの声に混じった。

「だけ、じゃないですよ。あの子たちがどんな子たちか、知ろうとしているだけですわ。盲目でありながら、足場の悪い森の中で四方八方から獣に襲われても、非力な少女を一人で守り抜ける戦士。誰よりも素早く隠密に動き、主に必要な決断を下させられる参謀。そして彼らどころか周りの全てを、無条件に味方につけられる女王……戦士も軍師も女王もいるのに、今の彼女たちはまるで解体間際の王国ね。どんな子たちか知るっていうことは、どうすれば打ち倒せるか、どうすれば奪えるか、どうすれば導けるか……そしてどうすれば生かせるか知るということです。何もいたずらにけしかけただけじゃありませんとも」

 ふふん、と甲高い声でアルシーは笑った。

「しかし、目当てのものは見失ってしまいましたが? 我々の目的は彼女ら自身ではありません。〝ベルンスラートの魔術書〟ですよ」

 グラントは苦々しい顔で下を向く。アルシーは口を尖らせた。

「それは……目的は任された私次第でしょう? ジェリウス様は穏便に、とおっしゃっただけです。何も彼女らのことについては言及していませんわ。穏便に本を取り返しさえすれば、私たちがどんな思惑を持っていようと干渉されない。ジェリウス様はそういうお方よ」

「じゃあなんです、図書館地下で捕まった子供たちがまた本を持ってのそのそ地上に出て来るとでも?」

「ええ」

 アルシーはあっけらかんと答えた。

「あの子たち……いえ、あのお嬢さんのことですよ。本くらい取り戻すでしょう」

「ああ……」

 グラントは大仰に額に手を当てると、

「これのどこが穏便だと……貴女は……貴女は悪い方ですよ」

「悪い?」

 アルシーはもう一度グラントの方を見遣った。今度は口元に微笑を浮かべながらだ。

「私が悪いと仰るなら、あなたは一体どんな正義を思ってジェリウス様にお仕えしているの?」

 その問いに、グラントは僅かに胸を張る。

「もちろん、騎士道の義とこの王国への忠誠、ですよ。今のアルバート王国は王権も弱まり、教会も騎士団も貴族も腐敗しつつある。改革せねばなりません。根本的に……そのために、ジェリウス様のような方のお力が必要だと私は考えます。祖国の改革を迅速にもたらすために、私はジェリウス様に忠誠を誓いました。大きな変化を起こすだけの問答無用の力のみでは国は保ちません。それを正しく制御できる方の存在がいて初めて、ここは善い国になるのです。王家の威厳、教会の潔白、騎士団の強さ、貴族の信用を取り戻すのです」

「なるほど……元気のいいことを仰る若者は好きですよ。とても」

 アルシーは深く頷くと、紺色の傘をさした。

「そういうお話、もう少しじっくり聞かせていただきたいですわ。そのあたりにちょっとお酒でも飲みに行かないかしら?」

「待ってください。あなたの思惑についてまだ聞いていません。僕の話だけではなくてあなたがこう……滅茶苦茶するわけを」

 雨の中に一歩踏み出すアルシーに、グラントは素っ頓狂な顔をして言った。軒下から垂れる雨水が彼女の傘をどくどくと打っている。

「その話も、別のところでゆっくりしましょって言っているの。長話するには寒いでしょう?」

 寒さで赤く腫れた手を、アルシーはコートの内ポケットに入れる。出てきたのは上質な革でできた財布だった。

「〝青い歌姫〟のおごりで」

 グラントの前に財布をちらつかせると、そのまま元の場所にしまう。踵を返して、さっさと雨の中を歩いて行った。

「やっぱりお悪い人ではないですか」

 グラントのつぶやきは、彼が雨よけのケープを羽織る音で掻き消える。フードをかぶるとグラントは少し思い切って、アルシーを数歩後から追いかけた。

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