3-7 潜入開始
**********
かくして、作戦は行われた。
夕焼けも近づいた、雲行きの怪しい昼下がり。ルズアが図書館にくることが動き出す合図だ。
シェンは一階のどこかをぶらついている。ポルはというと、図書館の裏門が見える二階の閲覧室で、目ぼしい本を適当に繰っていた。
窓の外をちらちら見ながら、息の詰まるような鼓動を胸の奥に押し込む。午前中から図書館にいたが、いつもなんとなく近くで作業をしているエルヴィーの姿が、今日にかぎって見当たらない。
運が味方しているのだろうか、こんなにそわそわしているところを見られたら、彼女には一目で怪しまれるだろう。
侵入の決行は夜だ。昨晩ポルが『明日図書館に忍び込む』と宣言してから、作戦会議はルズアの部屋で数時間にわたってなされた。
まず、行くなら人も明かりも少ない時間に限る。がしかし、午後六時に閉まる図書館へわざわざ外から入るのは手間だし危険ということで、昼のうちから館内に隠れていようという話になった。そこから頃合いを図って職員の目をくぐり、禁書室に辿り着くのだ。
ポルは顔をあげて、閲覧室の奥の柱時計を確認する。午後四時過ぎ。
次に窓の外を見ると、裏門の垣根の向こうに、フードをかぶった小さな人影がちらちらしている。少し目を凝らしていると、フードの隙間でひらりと鮮やかな赤毛が翻った。
ポルはおもむろに立ち上がった。手元の本を抱えると、まだこそこそする必要もないのに、絨毯の上を抜き足差し足で本を返して回る。手ぶらになったらエレベーターの前を通って、階下に降りた。
すると、ちょうど閲覧室を出たところでシェンに鉢合わせた。シェンはぴょんぴょんと近寄って来ると、少し背伸びをしてポルの耳に唇を寄せる。
「いらっしゃったのですネ?」
誰のことかは言わなくても分かった。ポルは小さく頷く。二人は何食わぬ顔で連れ立って、裏門に続く入り口の方へとさりげなく歩き出した。
「場所の見当ハ?」
ポルがこっそり親指を立てて見せると、シェンは前後の本棚の通路を盗み見た。
「警備隊も司書も、数えてみれば案外多いものですネ。正確にはわかりませんでしたが、恐らく建物内一階には常に十人前後の警備隊ガ……」
『大丈夫かしら?』
ポルの問いに、シェンは澄まし顔をする。
「楽勝ですヨ」
困ったような顔で微笑むポルの顔は、後ろめたさを振り切れていない顔だ。シェンはふい、とそっぽを向いた。
二人はそこでちょうど、裏口の前へと差しかかる。わざと歩みを遅めると、裏口を通り過ぎるか通り過ぎないかの絶妙なタイミングで、ルズアが図書館内に入ってきた。
「よお」
ニヤニヤ顔でそんなことを言って、ルズアは片手を上げてみせる。人を馬鹿にしたような笑みに、胸を張ったやけに尊大な態度。若干ガニ股でいつもよりいくぶんズカズカ歩いてくるのがあまりにも場に似つかわしくなくて、ポルは思わず吹き出しそうになった。
しかしまあ、スリリングな作戦が幕開けてこれまでにないほどご機嫌な彼を、わざわざ笑って怒らせることもあるまい。ポルは笑いをこらえながら二人に視線で合図して、そのまま図書館の奥へと足を進めた。
たどり着いたのは歴史書の列。一歩先を行くポルに、シェンとルズアが続く。
図書館の回廊は正方形になっていて、内側には広い中庭がある。ポルは中庭に面する窓を背にした書棚の前を、あたかも本を探しているかのように、きょろきょろしながら歩いた。窓からは西日が差し込み、身長の三倍以上はあろうかという書棚の上が金色の光で満たされている。
ポルは足を止めた。手近な梯子を掴むと、ゆっくりと登り始める。
他の二人が、適当に散って周囲を警戒する。梯子を登りきったポルはそれを見計らって、本一冊分、せいぜい五十センチ幅の本棚の上によじ登った。
四つん這いで、スカートの裾が見えないように必死で抑えながら、窓の間の柱と接する本棚の端までやってくる。ここなら、人が普通に歩いている限り誰にもわからない。が、誰かが本を探しに梯子を上って来る可能性がある。
山ほど魔法陣の書かれた紙を用意したコートのポケットから、土産物の切手に細工して描いたものを四枚取り出す。裏側を舐めて、本棚の隅に適当に貼り付けた。いつものように少し目を瞑る。魔法陣を発動する時に出る光は、ちょうど差し込む陽光の下ではろうそくの灯り程度にしか見えなかった。完璧だ。
四枚の魔法陣に囲まれた本棚の上は少し埃をかぶっていて、なんの変哲もなく黒檀の板と白い柱がある。そこにポルが手を伸ばす。魔法陣どうしが作る境界を越えたとたん、その手はふっと背景に溶け込んで消えた。いや、消えて見えた、が正しい。
ほっと肩をなでおろすと、額に滲んだ汗を拭う。抑えきれない満足の笑みを浮かべながら、ポルは魔法陣の作る透明な壁の中に這入っていった。
本棚の下をそっと覗くと、下ではシェンがちらちらとこちらを見ていた。今日は利用者が少ないのか、普段人の多い書架なのに、通路には二人以外に誰もいない。
本棚のへりからポルはゆっくり左手を出してピースした。下のシェンが小さくピースを返した。今シェンからは、ポルの手首から先だけが宙に浮いて見えているはずだ。
シェンはすすっとルズアに寄ると何やら耳打ちする。するとルズアがおもむろにこちらに向かって来て、手探りで梯子を登りだした。そこで、たまたま通路を通りがかった人が行き過ぎるのを、動きを止めて一瞬待つ。
そうしててっぺんまでたどり着いたルズアに、本棚をこつこつと叩いて合図する。ルズアはそれを耳で捉えると、ポルと同じように本棚をよじ登り、こちらへやってきた。
「狭え」
『仕方ないわよ。三人とも小柄だからましな方だわ』
ルズアは小声で文句を言いながら、片膝を立てる格好で本棚の上に収まった。
眼下で今度はシェンが、あたりをきょろきょろ見回して一瞬こちらを確認した。通路に誰もいなくなった途端、シェンは目にも留まらぬ速さで蜘蛛のように梯子を登り、音もなくひらりと本棚の上に舞い上がった。さすが、息を飲む身軽さだ。
「本当に誰もいないみたいに見えますネ。全くわかりませんヨ」
透過魔術の壁をくぐった途端、興奮した声でシェンが囁く。ポルはにやりと笑った。
『ここまでは完璧だわ。あとは待つだけ……閉館まであと一時間半ね』
「……長いですネ」
『待ってるだけならわけないんだけど……緊張するわ……二人がここに来るのを待つだけで一時間半くらい経っちゃった気分』
「動き始めてしまえばすぐ終わりますヨ。それに、」
シェンが口の端を釣り上げて、背後の窓の外を指差した。
「いい天気でス」
外は日が沈みかけ、赤金色の陽光はもう見えない。夕焼けの空には黒い雲が垂れ込めて、ビロードの天幕のように美しい層をなしていた。雨が近い。
図書館から脱出するときに降っていてくれれば、足音も気配も紛れるのだが……会話の間に挟まれたルズアがイライラと身じろぎしたので、ポルは黙って自信ありげな笑顔で返しておいた。
**********
窓の向こうで、セント・マルシャプル大聖堂の鐘が六時を知らせた。
最後の利用者はもう出て行ったらしい。鐘が鳴り終わった直後、本棚の上から巨大な図書館の裏門が閉まったのが見えた。
浮き足立ったシェンとポルの二人が同時に動くと、
「動くな」
ルズアが静止する。
「まだ人が多い」
ポルは膝を抱えて座り直した。
ただの本探しの旅人のままだったら、知らない時間が始まったのだ。利用者はみんな帰って行った。自分は今、侵入者になった。
靴下と足の擦れる感覚が妙に神経にさわって、隣のルズアの鼓動さえ聞こえてきそうだ。五感は今までにないほど研ぎ澄まされているのに、大事なことは何も頭に浮かんでこない。
扉が閉まって何分経ったろう。眼下ではひたすら、司書と騎士が行き来していた。
司書は蔵書の確認や棚の掃除をしているらしい。雑巾で棚を磨いている人もいれば、絨毯のゴミを拾う人もいて、その間を騎士が数分おきに歩いていった。司書が本を山と積んだカートを押しながらやってきて、書棚の梯子を一番上まで登ってきた時は、三人とも息を殺して彫像のように固まった。
巡回の騎士が下の通路を通り過ぎること、何百回にも感じられた頃。
図書館内のシャンデリアの明かりが順々に消されて、辺りは闇に包まれた。ポルはシェンと顔を見合わせると、ルズアの手に綴った。
『明かりが落ちて真っ暗になったわ。司書の勤務時間が終わったみたい』
懐中時計を取り出して、
『午後八時、ちょうどよ』
ルズアが微かにニヤリと笑った。そして、シェンもそれを見逃さなかったようだ。
「行きますカ?」
ルズアは数秒待って、小さく頷く。
「行くぞ」
シェンは聞くと頷き返して、四つん這いで透過魔術の壁を出た。まだ夜目がきかないらしい。半分手探りで書棚の端に伏せると、下に誰もいないのを確認して梯子を降りていった。続いてルズアが降りる。最後にポルが魔法陣を剥がすと小さく破いて、二人の後を追った。
通路の床に澱のように溜まった、黒く重苦しい空気。本や棚の隙間から誰かに覗かれている気がする。どうしても、辺りを見回し続けずにいられない。シェンに後ろから小突かれて、ポルはようやく前に足を進めた。
先頭はルズア、次にポルが続き、シェンがしんがりを務めて一行は進んだ。
気配を殺して、歴史書の列の端までたどり着く。閲覧室が見えたところで、突然足を止めたポルにシェンがぶつかった。ポルは片手でごめんねの仕草をすると、ルズアのコートを引っ張る。
『閲覧室には死角がないわ。気をつけて』
「わかってる」
ルズアは前を向いたまま、唇の端で囁く。彼のコートを掴んだまま、ポルはシェンをつついた。
『シェン、ここからは一人ずつ閲覧室を突っ切りましょう。ここからまっすぐ、できるだけ急いで、閲覧室の向こうの中庭側から二列目の通路に移動するわ。まずは私が行く。次にルズア、最後にシェンよ。よろしく』
「いいエ」
シェンは微かに眉根を寄せる。
「我が最初に行きまス。ポルさんは最後に来てくださイ」
ポルは一秒逡巡して、頷いた。頷くと同時に、シェンが足音を殺して走り出す。
息を飲む瞬間。
影のように閲覧室を通り過ぎたシェンが、産業書の書棚の間に消えるのをポルは見た。ふっと小さく息を吐いて、ルズアのコートを離すと手に綴る。
『ルズア、行けそう?』
ルズアはポルの手を軽く払うと一歩踏み出し、ここから見えない書棚の向こう側をちらりと振り返った。
「俺が着いてもすぐ来るな。いいな」
ポルが思案して頷く前に、ルズアは早足で閲覧室へ出ていた。産業書の書棚の間で、猫のようなシェンの瞳がきらっと光る。やがてルズアの姿はシェンと同じ書棚の向こうへ隠れて見えなくなった。
すぐ来るな。今すぐにでも二人の後を追いたかったが、ポルはルズアの言葉を頭で反芻して素直に動かずにいた。
しかし、いつまで待てばいいのだろう。一秒が何十分にも感じる。
たった数秒の我慢の限界でポルが動き出そうとした、その時——どこからか絨毯を踏みしめる音が耳に入った。
一気に体が凍りつく。どうやら今ポルがいる通路の、書棚を挟んだ一本向こう側を巡回の騎士が歩いてきているようだ。このまま閲覧室に出た騎士がこっちに折り返してきたらどうする? それともシェンとルズアが隠れている通路に入って行ったら? 汗が額を伝い、睫毛の上に落ちる。胸が芯から冷えて、歯ががちがち鳴りそうなのを力任せに手で口を塞いで止めた。足音は静かに近づいてきて、やがてわずかに遠のいていく。自分の鼓動が邪魔でよく聞こえない。
遠のいた足音はやがて、一列向こうの通路から閲覧室に出たようだ。闇に溶け込みそうな、ラピスラズリ色の騎士団服が遠目に見える。来るな、来るなこっちに来るな、でも向こうの通路にも行くな、頼む、お願い、何とかなってくれ、このまま消えてくれ! 口を押さえたままの手に力が入って、頬に爪が食い込んだ。巡回の騎士はポルのいる通路に引き返すでもなく、二人がいる通路に入るでもなく、一番中庭側の産業書の列に入って行った。
――いや、油断は大敵だ。戻って来る可能性もないわけじゃない。
ポルが微動だにせず突っ立っていると、シェンが閲覧室の向こうの棚からひょっこり顔を出して、こちらへ手招きした。絨毯に張り付いた足を動かすのは一苦労だったが、ポルは何か大きな力に引き寄せられるように歩き出す。
閲覧室を横切り、二人が隠れている通路に入ると、ルズアとシェンはしれっとした顔でポルを待っていた。
「そんなに緊張しなくてもいいですヨ」
シェンは苦笑いでこちらを見た。
それを聞いた瞬間、すべての緊張が解けて身体が震え出す。とにかく足を踏ん張って、膝が落ちそうになるのを堪えた。
「我たちが二人で先に行ったのは、あの騎士にポルさんが見つかっても後ろから倒せるからですヨ。もちろん我らが見つかった時はなおさらラッキーでス。仮にバレても切り抜ける手立てはありますから、安心してくださイ」
シェンは耳元で囁いた。どうやら、騎士が近くに来るまで気づかなかったのはポルだけだったようだ。気が動転していたらしい。
ポルは何度も頷いて深呼吸すると、
『ごめん……ちょっと緊張しすぎてたわ。とにかく行きましょう、この列を真っ直ぐ進んで、裏口の前を通って。経済分野の書棚に入ったら真ん中あたり、中庭側にあるドアが地下への入り口よ。次誰かがここを通る前に地下に入らなきゃ』
「相分かりましタ。我が先頭を行きまス」
シェンとポルが同時に頷く。ポルは手をポケットに突っ込んで棒立ちしているルズアをつつくと、
『助かったわ、ありがとう。あとはシェンの後をついて行って。ここを真っ直ぐ行けば、地下への入り口に着くから』
ルズアはそれだけ聞くと頷いた。
シェンは一瞬振り返ると、茶色の絨毯の上を滑るように進んだ。その次にルズアがゆっくりと続く。コートの襟を握りしめて、ポルが二人の後を追った。
産業分野の列が終わると、図書館の裏口の前に出る。三人は周囲の足音を確認し、早足でそこを行き過ぎた。向かいにある経済書の通路に入ると、左側の書架が真ん中あたりで途切れているのが見えた。
シェンは足を止めて再び振り返った。昨晩の打ち合わせ通り、手近な梯子を登ると書棚の上に飛び乗る。
そのまま端まで這っていくと、地下へのドアの前をのぞき込む。ポルは彼女の手元へ目を凝らした。シェンがこちらへ、す、と手を伸ばし、ぱっぱっと手の形で合図を送る。
地下に続く入り口番の警備兵は二人。槍を持って正面を見ている。どちらもこちらには微塵も気がついていない。彼女の合図からはそう読めた。
ポルはルズアにそれを伝えると、二人でシェンのいる書棚の端まで歩いていった。警備兵の死角になる位置で足を止める。シェンと目があった。シェンが軽く頷くと、ポルはルズアを小突く。ルズアは左手で音もなく剣を抜き、肩の位置に右手を掲げた。三つ数えたら行くぞ、の合図。
三、二、一、ルズアの手が下りると同時に、シェンは書棚を蹴って飛び降りた。
「うぉっ⁉︎」
警備兵二人の目が、突如現れたシェンに奪われる。手前にいた警備兵の頭に回し蹴りがぶち込まれたところで、書棚の陰からルズアが飛び出した。もう一人の警備兵はシェンの方を向いたまま、後ろに回り込むルズアに反応できない。あっさり剣の柄に急所を殴られ、二人の兵は仲良く折り重なって昏倒した。
静かになった地下への入り口前。ポルが書棚の陰から顔を出すと、シェンがこっちを見ながら再び頷いた。
ポルはポケットから魔法陣を描いた紙切れを取り出しながら、ドアに向かう。鍵はダイヤル式の南京錠だ。
周りに人がいないのを確認し、コートの中で紙切れを握る。ぼんやりした金色の光が発生すると同時に、カチャンっと小気味好い音がして錠前が外れた。何度も練習した甲斐があった、開錠魔術だ。
そっとポルはドアを開ける。
シェンがまず忍び込み、次にポルが入った。ドアのむこうはすぐに石の螺旋階段が始まっていて、出口が見えない。
ルズアが昏倒した警備兵を片手に一人ずつ引きずって、音を立てないよう螺旋階段に置くとドアを閉める。ポルはもう一度閉じたドアに手を当て、南京錠へ魔術をかけた。ドアの向こうからもう一度かちゃん、と音がする。鍵は無事かかったようだ。
さて、問題はここからだった。この先がどうなっているか、ポルたちは全く分からない。行き当たりばったりの運任せだ。
鍵をかけたポルが振り返ると、シェンが抜き足差し足で螺旋階段を降りて行くところだった。彼女の姿が壁に隠れて見えなくなってしばらく、ドアの前で待っていた二人のところにシェンが慌てて戻ってきた。
「紙ヲ」
ポルは鉛筆と紙切れをシェンに渡す。三人で額を付き合わせる格好で、シェンは石壁に鉛筆を立てて小さく地図を描きだした。
「この螺旋階段の出口に警備兵が二人。そして出口から十時の方向に……おそらく禁書室だと思われる扉がありまス。横には警備兵、ここと……見えませんでしたが多分ここにも、扉の両側にいるようでス。どうしますカ?」
シェンが二人の顔を交互に見る。ポルはシェンの手から鉛筆を取って、今しがた描いた図に何やら直線と円、角度記号をいくつも書き込んだ。鉛筆をポケットにしまうとシェンの手を取って、
『オッケー、私が警備兵の目をくらますわ。その隙にシェンはルズアの後について、階段出口の警備兵を倒して』
次にルズアをつつくと、
『ルズアはシェンより先に行って、奥の扉の前にいる警備兵を倒してちょうだい』
そこへシェンが口を挟む。
「さらに奥にも兵がいたらどうしまス?」
『それは……』
ポルが口ごもって、ルズアを見た。ルズアは楽しくてたまらないとでも言いたげな笑みを浮かべて、口の中で転がすようにつぶやく。
「全員倒しゃいいだけだろうが」
三人は互いに顔を見合わせると、昏倒した警備兵を踏まないように気をつけながら一歩下がった。
ポルは新しい魔法陣を取り出すと、細長く折って握り発動する。そして背中の矢筒から弓矢を取り出し、金光が収まった後の紙切れを矢じりの上にくくりつけた。
『行きましょう』
三人はポルを先頭に、狭くて薄暗い石の螺旋階段を下りる。外側の壁にぴったりとくっついたまま出口の手前で止まると、ポルは二人に待ったの合図をする。
『私が撃ったらすぐに出て。頼んだわ』
同じ伝言を二人に残すと、ポルは反対側の壁に移動した。石の通路はよく音が反響する。三人のわずかな足音と話し声を捉えて、階段出口の警備兵二人が言葉をかわすのが聞こえた。時間はない。ルズアにシェンが何やら耳打ちするのを横目に、ポルは弓に矢をつがえ、目視で軌道を確認すると、出口の角すれすれに矢を放った。
一直線に飛んだ矢は階段の出口をすり抜け、左へ続く廊下の石床に当たった。その瞬間、矢じりの先を中心に巨大な魔法陣が広がる。そこから眩いばかりの太陽光があふれ、辺りを真っ白に照らした。
「うわっ⁉︎」
「なっ⁉︎」
兵たちの叫び声と同時に、ルズアは螺旋階段の最後の三段をすっ飛ばして駆け出した。シェンも片目を瞑って続く。
「何だ⁉︎」
「くそったれ!」
「前が見え……」
人を殴る生々しい音が鳴り響く。徐々に太陽光が弱くなり魔法陣が霧消すると、階段下の最後の警備兵を二人掛かりで倒して、辺りは静かになった。
「ポルさん、出てきてくださイ」
シェンに呼ばれ、ポルはそろそろと螺旋階段を下りる。
階段出口から左へ延びる廊下は思ったより短かった。右手の扉の奥に行き止まりがあって、警備兵も予想通り四人しかいない。その四人も今や全員床でうずくまっている。
ポルは落ちた矢を拾い、歩きながら魔法陣を噛みちぎった。ルズアが足元の警備兵を蹴って仰向けにすると、ポルはそのポケットを順にまさぐって、扉の鍵穴と同じ色の鍵を取り出す。
紫檀の両開き扉に、金の取手と鍵穴。ちらりと横を見ると、ルズアはうずうずと剣の柄に手を這わせている。反対側を見ると、さっきのもみ合いで作った顔の擦り傷をかりかりといじりながら、シェンがウィンクした。
「悪い顔してますネ。ポルさン」
そんなことを耳元で囁いてくる。さっとポルの顔に朱が広がった。ポルは思い切って鍵を扉に差す。がちゃっと、階段入り口の南京錠よりは重々しい音がして扉が開いた。
部屋に一歩、足を踏み入れる。かび臭さの混じる湿気った紙の匂いが身体にまとわりついた。
空虚に広い地下室は、ワニの鱗でできたような生々しい石壁と高くない天井のせいで、不気なほど息苦しい。書棚の横と壁には誰もいないのに松明が揺れていて、まるで三人が来るのをこの部屋が知っていたみたいだった。
みる限り、ここが禁書室で間違いない。
最後に入ったシェンが後ろ手で扉を閉める。その瞬間、二度とここから抜け出せない気さえしてきた。
「ここで間違いねえのかよ」
不快な空間に眉根を寄せながら、ルズアが言った。
はっとしてポルは振り返る。部屋に圧倒されている場合ではない。申し訳程度の灯りの下、影のように揺れる二人の姿に向かってポルは何度も、確信を持って頷いた。
「じゃあさっさと探すこった。チビはあいつと一緒に行け」
ルズアはポルの方へ顎をしゃくった。シェンが早足で隣に並ぶ。
「俺はここで張ってる」
扉にもたれたルズアに背を向け、ポルは目当ての配架場所を書いたメモを取り出した。〝禁書室書架K列683の3〟の文字が掠れて消えかかっていた。
左右へ整然と並ぶ黒い書棚の真ん中には、人三人通れるほどの通路がある。書棚横に記された列番号を見ながら、ポルはシェンと通路に入っていった。
一番手前はA列。次にB列、C列、奥へアルファベット順に並んでいるようだ。今過ぎたのはF列。早足でH、Iを飛ばして、J列でポルは突然足を止めた。
次の列がない。
「どうしましタ?」
シェンが不思議そうにこちらを見上げる。ポルの目の前には、黒い石壁が迫っていた。
『K列がない……』
呆然と呟くポルの手からシェンはメモを奪い取る。
「探しましょウ。我は右の書棚を探しますから、ポルさんは左にいってくださイ」
そう言うと、シェンはそそくさと行ってしまった。慌ててポルも踵を返し、左へ続くJ列の書棚へ駆け込んだ。
端までたどり着くと、一番隅の本の背表紙を確認する。J列998‐9、と配架場所が記してあった。
どこかで列が折り返しているだけかもしれない。列の両端の配架場所を確認しながら、小走りに本棚の間を縫って進む。H列552‐4、H列988‐7、G列997‐5……どうやら真ん中の通路から左の列には、550番代から990番代の本が置かれているようだ。騎士団裁判や民事最高裁の判例、王宮の記録がほとんどのようだが、目当ての本どころか目当ての場所が一向に見つからない。
ついでばかりにそれらしい本がないか探してはみるものの、どの本もきっちり背表紙にタイトルと年代が書かれていて、おばさんの言っていたようなまっさらで黒い本はどこにもない。走り回って、ついにA列の一番端まで戻ってきてしまった。
通路の反対側には、シェンもちょうど戻って来ていた。シェンはかぶりを振りながら、
「だめでしタ。そちらハ?」
『こっちもよ。もしかして……』
もしかして?
自分の聞き間違いだろうか? それともメモの取り違い? おばさんが言い間違えただけかもしれない。記憶違いだったかも。彼女が嘘をついているとも思えないし……そこまで考えて、ポルは今更のように、思い当たるべきだった可能性に思い当たった。
『……もしかして、騙された?』
「司書のおばさまに、ですカ」
聞き返すシェンに、ポルは首を振って答える。
『いえ、でもやっぱり考えられないわ。機密漏えいのふりをしてただの一般利用者を騙すなんて、そんなこと……する理由なんかないはずよ』
「おい」
扉ぎわのルズアが突然呼びかける。ポルの思考は中断された。
「早くしろ。階段上の扉の向こうに人がいる……勘だがな」
シェンとポルは顔を見合わせる。
「理由は今はいいでス。とにかく目当ての場所を見つけないト」
シェンが神妙な顔で辺りを見回し、ポルもそれに倣った。すると、二人の目に同時に、入った時には気がつかなかった両開き扉が映った。三人が来た扉のちょうど正面にある。
なに、禁書室がこの部屋だけだとは誰も言ってないじゃないか。書棚の続きがこの先にあるのだろう。二人は同時に確信して、胸をなでおろす。
ポルは早足でそこに向かった。シェンがそれに続く。紫檀に金のノブ、向かいの扉と変わらない。ポルはノブに手をかけると、そっと捻った。
キィ、と微かな音がして右半分の扉が開く。なんと鍵がかかっていない。
ポルが一歩向こうに足を踏み出したその時。
「うっ……うわああああああ⁉︎」
耳をつんざく叫び声。ポルは驚いて後ろ向きに扉に衝突する。
目の前を見ると、禁書室と同じ気味の悪い石壁の廊下で、見知らぬ青年が尻餅をついていた。
金髪にブルーの瞳。ひょろりとした体躯に白衣を羽織り、不健康な青白い顔からメガネがずり落ちている。
「だ、だだ、誰だ君はっ⁉︎」
バン! と閉まっていた左側の扉を蹴り開けて、シェンがポルの前に躍り出る。わざとらしくじゃらっ、と音を立てて双節棍を取り出すと、姿勢を低くして青年を睨めつけた。
「静かにしてくださイ。我たちは悪いものではありませン」
「じゃ、じゃあ一体誰なんだ⁉︎ もう図書館は閉館したはず……」
「うるさいですヨ。騒がなければ何もしませんから、ここを通してくださイ」
「ここを? この奥には廃棄の蔵書と特別監房しかないぞ。とと、図書館外の人の用がありそうなものは……」
「そんなことは我らが決めまス! 退かないのでしたら致し方ありま……」
双節棍を振りかぶったシェンの腕を、ポルがそっと掴んで制止した。そのまま前に出て、紙と鉛筆を取り出すと青年の前にしゃがみこむ。
『私たちはただの本探しの旅人よ。あなたは誰?』
はるか後ろで、ルズアが剣を抜いているのがちらりと見えた。青年の声は半分裏返り、ついにメガネが顔を滑って落ちた。
「僕は……僕はここの奥に住んでいる者だが……」
『まあ、この奥に住んでいる方がいるなんて驚いたわ。あなたに聞きたいことがあるの……この配架場所』
ポルはメモを青年に見せる。
『知らない?』
青年は慌ててメガネをかけ直した。
「K列683の3? K列なんてここにはないぞ」
『そんなはずないわ』
「いやその……どの本を探してるんだ?」
『ええ、〝魔女の一族〟または〝イスマン族〟っていう民族は聞いたことないかしら? それについての記述が載った、黒くてまっさらな本なんだけれど』
「魔女だって……いや、聞き覚えのない民族だが……そんな胡乱なものがこんなところにあると思えない……」
青年は目を泳がせながら、ぼそぼそと口ごもる。
『胡乱なものとは結構ね。怪しいのはわかってるわ、でも魔術は本当にあるのよ』
ポルはポケットから真新しい魔法陣を取り出して丸めると、青年の前にかざす。魔法陣を発動すると辺りは金光で満たされ、丸めた紙が生き物のように形を変え出した。光が消えると、細長い紙筒はカワラバトの尾羽に変わっていた。
「なんっ……?」
彼はただでさえ青白い顔をさらに青白くして、穴があかんばかりにポルの手先を見つめていた。
『さあ、何か教えてくれる気になった?』
ポルは羽を青年の眼前にひらひらと落とすと、
『ここに住んでいる方なのでしょ? 本当に、本当に何も知らないのね? この奥のどこかに禁書の棚があったりしない?』
「け……K列なんか本当にない。誰からの情報だ? こんなことを言うのも何だが……騙されたんじゃないのか。魔女崇拝の怪しい宗教なんぞいくらでもあるし……」
『だから、そんなはずはないわ。ここの部屋担当の副司書長の方に聞いたんだもの』
「副司書長?」
青年の顔から初めてさっと焦りが消えて、唖然とした表情になった。
「姉さんはそんな役職置いていないぞ」
姉さん?
ポルが聞き返そうとしたその時、シェンがいらいらと割って入った。
「もういいです、ポルさン。押し通りましょウ。我は先に奥の部屋を探してきまス!」
「止まれチビ!」
禁書室の空気を劈いたのはルズアの声。シェンは踏み出した足を止める。
「警備隊が来るぞ!」
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