4-2 風変わりなグレート・マザー
「スターナ! お客さんかい?」
スターナというのは、どうやらこの犬のことらしい。玄関戸からの声にも構わず、スターナはのっし、のっし、とまだ近づいてくる。
やがてスターナはポルの目の前にやってきた。月の光にぼんやりと照らされた、短い鼻、小さな垂れ耳、四角い顔に、白黒茶、三色ぶちの巨体。大根より太い脚は筋肉質で、犬用の首輪がはまらなかったのか、首には人間用の皮ベルトが巻かれている。
スターナはポルにゆっくり鼻を近づけると、すんすん匂いを嗅いで、ふんっと顔を逸らした。顔中に余った長い毛と肉だれがぶるんと揺れた。
「こらっ! スターナ、ハウス!」
スターナの後ろから、玄関戸にいた人影が小走りで追いかけてくる。スターナは仕方ないなあとでも言わんばかりに、のこのこと戻っていった。
「ごめんね、びっくりさせちゃって! うちに何か用事かな?」
明るく凛とした声で叫ぶ人影は、ポルたちの数歩手前で立ち止まった。
優しそうに垂れたグレーの大きな瞳と引き締まった輪郭、にこにこした女性の顔がランタンの光に浮き上がる。灰がかった砂色の髪は少し耳にかかるくらいの短さで、ポルより頭一つ近くも背が高い。
白い毛糸のガウンを羽織った彼女は、ほっそりした腕でランタンを持ち上げ、ポルたちの顔を照らすとひとりひとりじっと眺めた。
「キミたちってもしかして……」
半月形の目を見開いて、こちらへさらに近寄る。
「キミたちってもしかして、エルヴィーの知り合いかい? エルヴィーからうちに手紙が届いてるんだ。四人の子供たちが訪ねてくるって……」
順々にポルたちの顔を照らすランタンが、スティンの顔のところでふと止まった。
「ね、ねえ、キミはエルヴィーの弟くんなんじゃないか⁉」
「ひぇっ? いや、その……確かにそうだが……」
一歩後ずさるスティン。女性は構わず、満面の笑みでスティンに詰め寄る。
「いやぁ〜! エルヴィーから話は聞いてるよ! 金髪で青目で眼鏡で背が高くてハンサムで、スティン君、だろう? あのエルヴィーの弟くんだからきっと優しそうな子なんだろうとは思っていたけど、想像した通りだったなあ! いやあ、にしてもまったくエルヴィーには似ていないじゃないか! あっはは!」
女性は大声で笑いながら、引き下がるスティンの左手を握って無理やり握手した。
「なんだなんだ、そうと分かれば問題ないや! エルヴィーの客人なら僕たちの客人だ! さあ、みんな僕についてきて」
嵐のようにまくし立てたと思ったら、女性はさっさと踵を返す。
四人は一瞬顔を見合わせると、ポルを先頭に小走りで女性の後を追って庭に入った。
門から直線に続いている砂の小径を歩くと、すぐに玄関戸の前に着く。玄関戸の横には巨大な犬小屋があって、スターナが犬小屋の前の土を掘り返していた。
女性はそれに目をやると、
「あーあ、また埋めなきゃ……まあいいか。ちょっと待ってね」
そう言って玄関戸を開ける。中を覗き込んで、
「スイ! ミチル! ちょっと来てくれ!」
「はぁーいっ!」
家の奥から、可愛らしい女の子の声と小さな足音が一人分近づいてきた。
「マリーちゃんなぁに?」
「スイ、ミチルはどこにいる?」
「お姉ちゃんは部屋にいるよ」
「そうか。この間言ってたお客さんが来たよ。ミチルに、お客さんが来たってツバメに伝えてって言ってくれないか」
「この間言ってたお客さん! ってことは、四人もお客さんが来たの⁉」
「そうだよ。スイ、わかっ……」
「やったぁ! お客さんいっぱいだ!」
「あー、スイ、わかったかい?」
「わかってるよ〜! お姉ちゃん呼んでくる!」
今にもスキップしそうな足音が、すごい速さで遠ざかっていく。
「お姉ちゃんを呼んだら戻ってくるんだよ! スーイ! おーい……あれぇ……」
女性は困ったようにぼやくと、苦笑いを浮かべながら玄関戸を開け放った。
「まあいいや。さ、どうぞ入って」
ポルは一瞬ためらって、女性の顔を見る。女性は小さく頷いた。ポルは石床の玄関に、おじゃまします、と頭を軽く下げてから踏み入れる。
数日ぶりに見た、暖かいランプの光に照らされた家。最後の宿を出てから何年かぶりにすら感じる温かい室内だ。
玄関から正面へ続く素朴な木床の廊下、その右手には、柵状のパーテーションで区切られた明るいリビングルーム。さらにその奥で、ちろちろと暖炉が燃えているのが見える。
乾いた薪と甘い菓子の匂いが鼻をくすぐって、ポルはほうっと息をついた。
「さあさあ、みんなもっと入って。寒かっただろう? 早く暖炉で温まらなきゃ」
女性は四人を急かして全員家の中に入れると、玄関戸を閉める。彼女に誘われるまま、ポルたちはリビングルームの中へと足を進めた。
さして広くないリビングルームはランプの明かりでオレンジに照らされていて、真ん中にはウールのカーペット、ふかふかの白いソファが二つ、その上にいくつもの刺繍入りクッションと巨大なテディベアが鎮座している。
ソファの前に置かれた丸太のローテーブルには、今の今まで子供が遊んでいたかのように木のパズルが散らかっていた。
甘い匂いのもとは、暖炉のきわで鉄串に刺さっている大きなマシュマロだ。女性はポル達を暖炉の前まで連れてくると、奥のドアへ消えていった。
四人は再び顔を見合わせる。あまりにもとんとんと迎え入れられてしまったことに、全員が困惑していた。
『あー……スティンは面識があるの? 彼女と』
「い、いいや? まさか」
ポルは思わず呆れ顔になる。
『なんていうか……寛容な方ね』
「そうだな、ど、同感だ」
いくらエルヴィーの知り合いだからとはいえ、まさかこんなにすんなりとお尋ね者を入れてもらえるとは。エルヴィーの客人なら僕たちの客人だ——と、聞く限りよっぽどエルヴィーとは濃い信頼関係にあるらしい。
姉の人脈の厚さが誇らしいのだろう、スティンはなにやらほくほくとした表情をしている。シェンは壁に寄りかかってあくびをこらえ、ルズアに至っては床に座り込んで暖炉の枠に背を預け、横で焦げているマシュマロに鼻をひくつかせていた。
「ああ! お客さんたち!」
突然リビングルームにけたたましい女の子の声。さっき女性に〝スイ〟と呼ばれていた声だ。
見回すと、ストロベリーブロンドの髪の小さな女の子が、リビングの入り口からこちらを覗いていた。
スイはこちらへ駆け寄ってくると、ローテーブルの上に散らかった木のパズルピースをかき集めてテディベアの下に押し込む。片付けたつもりらしい。
「お客さんたち、どろどろだね。うちのお風呂に入ったほうがいいよ」
ポルは慌てて自分の服を見回した。進むのに必死で気づいていなかったが、確かに他人の家に上がるにはあまりにもお粗末なほどコートも靴も土と草切れまみれだ。他の仲間の服も同じようなものだった。
スイはさらに近づいて、しげしげと四人を眺める。
ポルもスイをじっと観察した。身の丈はポルより頭一つ小さい。歳は十に満たないくらいだろう。赤い毛糸の柄入りワンピースで着膨れした背格好は、まだまだ丸くて子供らしい。
肩までのショートヘアは右側が黒いリボンでサイドに留められていて、左側の毛先がふくふくの頬を撫でている——そこでスイとバッチリ目があった。
ポルは一瞬息を飲む。彼女のぱっちりしたつり目は、世にも珍しい、アメシストにも似たきれいな紫色だった。
スイはぱちぱちと長い睫毛を瞬いてふふんっと笑うと、今度はルズアの方へ顔を逸らした。
「あ! おにーちゃん!」
「はぁ?」
スイが暖炉を指差す。ルズアは顔をしかめた。
「そのマシュマロ、スイのだから食べちゃだめだよ」
「あん? 誰が食うって……」
「ちょっと、スイ」
リビングの奥から呆れた声がして、全員がそちらを振り向く。
湯気の立つカップを五つ乗せたお盆を持って、女性が戻ってきていた。女性はローテーブルにお盆を置くと、ガウンのポケットからハンカチを取り出し、
「マシュマロを焼くときは暖炉に挿しっぱなしにしちゃダメだって言っただろ。煤で食べられなくなるんだから……あーぁ、もうこんなに焦げて」
女性はハンカチで鉄串を掴むと、ひょいとマシュマロを取り上げた。スイと同時にルズアまで不満そうな顔になった。
「なんだいキミたち、そんなに焼きマシュマロが食べたかったのか? まぁったく仕方ないな」
女性は焦げたマシュマロを鉄串ごとスイに渡すと苦笑いして、
「これを片付けて、今度はうまく焼いてくれよ。僕の分も」
「はぁーいっ!」
スイは元気な返事とともに、奥の部屋へ去っていった。
「さ、キミたちはこっちにおいで。ひどい格好をしているね……さぞ大変な道のりだったろう?」
手をこまねいて、ポルたちをソファへ誘う。席を占領しているテディベアをどけながら、
「大した家じゃないが、少しくらいくつろいでいくといい。もちろん今晩はここに泊まっ……うわあぁっ⁉」
バラバラっ!
テディベアの下から木のパズルピースが落ちて、ソファの下へ散らばった。
「スイ、あぁ……やれやれ……」
女性はパズルピースを急いで拾ってポケットに押し入れ、テディベアの座っていたところに腰掛けた。
「座って。温かいお茶を入れてあるよ」
女性は自分の隣をぽんぽん、と叩く。
ポルは汚い服で座るのはどうかとしばらく逡巡したが、おかまいなしにルズアが向かいのソファへ座ったのを見て、足を休めたい誘惑に心が負けた。
明日掃除でもさせてもらおう。心に誓って、ポルはソファへ身を沈める。このまま眠ってしまいたくなるくらい心地いい。
ポルの隣にシェンが身を寄せ、女性の正面にスティンがちょっとだけ座り、斜向かいではルズアがどっかり腰掛けたまま頬杖をつく。
女性は色とりどりのマグカップに入った紅茶を、適当に四人に配った。
「さて、話をしよう」
にっこり、笑って女性は膝の上で手を組む。
屈託のない、大人の横顔に思わずポルはすっと肩の荷が下りたような気になった。話はいいから、もう眠りたい——そう言ってしまおうかポルは数秒真剣に悩んだ。
「僕の名前はマリアンヌ・エナ・ディーン。マリーとか、アンとか、好きなように呼んでくれ」
ポルははっと我に返り、あわててカバンから鉛筆とメモ帳を取り出す。
『じゃあ……マリーさん、ね』
「マリーか。いやあ、よかった! エルヴィーにはじめて会ったときに同じことを言ったら〝じゃあ、ヌ〟って言われてさ、どうしようかと思ったんだよ。ヌって言われなくてよかった!」
何が面白いのか、女性はいかにも楽しそうにあっはっはと笑い出す。向かいのスティンが申し訳なさそうに口元をもぞもぞした。
「へへ……ま、それは置いといて。さっきの子は娘のスイレン。八歳で、その…….どうしようもなくやんちゃな子なんだが、大目に見てやってくれ。あとは、スイの姉のミチルと、僕のパートナーのツバメがいる。この二人はなかなかシャイでね、客人が来るとまず出てこないのさ。明日目が覚めたら会いに行ってくれると嬉しい」
一人で盛り上げた話を自分で横に置いて、マリーは滔々としゃべる。
「で、キミたちの名前を教えてくれるかい? あいにくエルヴィーからは、スティン君の名前しか聞いてないんだ」
他の三人の、口を開きたくなさそうな顔を見回して、ポルは鉛筆を取った。
『私の名前は……ポル。左側がシェン。赤毛の彼がルズアよ』
「なるほど、なるほど。みんないい名前だ」
マリーは深く頷くと、ポルたちの顔を見回す。
「キミたちは、エルヴィーの紹介でここに来たんだろう。エルヴィーからは僕たちのことを何て聞いている?」
『家の場所、エルヴィーさんの知り合いのマリーさんと、ツバメさんっていう学者さんがいらっしゃる、それだけです』
「そうか。その話しぶりからすると、キミたちの用があるのはツバメかな?」
『ええ』
ポルは頷く。
『失礼かもしれませんが……エルヴィーさんの手紙には、なんて?』
「ああ、そうだな」
マリーは顎に手を当てる。
「彼女の弟くん含めた四人の子供たちを、王都から徒歩で僕の家に向かわせた。詳しい事情は本人たちに聞くように、もし気が進めば彼らを少し休ませてやってくれ、返事は不要、と。それだけだ」
そこまで言うと、マリーは立ち上がった。
「スイ」
「なーにー?」
暖炉の前に屈んでマシュマロを炙っていたスイが振り返る。
「マシュマロは焼けたかい?」
「ちょっと焦げちゃったかも」
スイは麦穂のようにマシュマロをたくさん刺した二本の鉄串を、両手に持って立ち上がった。
「こら、危ないだろ。座ってなさい」
マリーはそう言って奥の部屋へ姿を消すと、白い皿を持って戻ってきた。
「うん、いい。完璧な焼き具合だ。ここへそれを盛って……そう。棒を置いて。部屋に戻ってて」
「大事な話でしょ?」
マリーは片手にマシュマロの皿を持ったままスイを抱き上げると、頰にキスをした。
「そうさ」
「わかった。じゃあスイも姉ちゃんと大事な話するね」
スイはマリーの腕から下りて、鉄串を拾うと慎重に運びながら、奥の部屋へ出て行った。
「よし、と。これ、適当に食べてくれ」
マリーはソファに座りなおして、焼きマシュマロをテーブルの真ん中に置いた。
マリーの手が離れるや否や、ルズアの手が伸びてきて焼きマシュマロを数個ごっそりと持っていった。
それを見たマリーはにまっと口角を上げると、再び膝の上で手を組む。
「手紙の内容は聞き届けた。ツバメへの用が終わるまで、うちに滞在していくことにしたらいいよ。ただ……その、僕からいくつか聞きたいことがある」
マリーはカップの紅茶をすすって、少し真剣な顔になる。ポルの横で、シェンも同じように紅茶をすすった。
『ええ、お答えします。私たちが話せることなら』
ポルはマリーの表情をちらりと伺う。
「話せることなら……ね。うん、手紙の内容がちょっと気になってさ。気にしすぎだったらいいんだけど」
マリーはポルの視線に気がついたのか、ポルをちらりと見返して目を細めた。
「エルヴィーとは、よく鳩で手紙をやり取りするんだ。もちろん直接会うことも多いけどね。僕はエコールから少し東の騎士団基地で働いているから、エルヴィーの手紙は大抵騎士団の鳩で基地に来る。が、今回の手紙は……」
全員が、紅茶を飲む手を、焼きマシュマロを頬張る動きを止めて、マリーの話に聞き入る。マリーは眉間にしわを寄せて続けた。
「公用の鳩を通じて、エコールの公共配達所から届いた。しかも送り主も書いてなければ、本文に彼女自身はおろかキミたちの名前すら書いてない。そのうえ返事はいらないときた」
『どうしてエルヴィーさんの手紙だってわかったんですか?』
ポルが言葉を挟む。
「そりゃあ、字を見ればわかるよ。あんなにクセが強くて飾り気の多い字、見栄っ張りな彼女の以外に見たことないよ」
くっくっとマリーは笑った。スティンが小さく頷く。
「そう、だからエルヴィーからの手紙だってことはわかったんだけどね。それと、スティン君」
「ひぇあっ……あ、ああ。僕がどうか……?」
いきなり話を振られたのに驚いて舌を噛んだらしい。スティンは一瞬しかめっ面になる。マリーはもう一口紅茶を飲んで、
「キミの話を、エルヴィーからは口頭で少しだけ聞いたことがある。一度だけ……いつだったか覚えてないけど、弟は事情があって図書館の地下室で暮らしていて、外に出られないんだって彼女が言っていた。もちろん僕は他の誰にもこれを話したことはないんだけどね——ところが今回の手紙を見たら、エルヴィーの弟がここに向かってるって書いてある」
「あ、ああ」
スティンはかくかく頷いた。
「キミが図書館から出られないって話が本当だとして、今回の手紙のことを考え合わせると、僕は思うんだ。どんな事情があるのか知らないが、キミを地下から出してここへ送ってくるために、エルヴィーは騎士団と一悶着起こしたんじゃないか?」
全員の顔がスティンに向けられる。
スティンはしばらく水面を仰ぐ魚のように口をパクパクさせていたが、やがて少し俯いてぼそりと言った。
「そう……といえばそうだ。違うといえば違う」
「なるほど」
マリーは柳の枝にも似たしなやかな脚を組み、そこへ頬杖をついて微笑んだ。
「何があったのか、僕が話を聞く権利はあるかい?」
数秒の沈黙。
リビングルームの窓が風でガタガタ揺れる音が、やけに遠く聞こえるような気がした。廊下の奥からは、スイの笑い声がかすかに響いてくる。
「……ポル嬢」
スティンが俯いたまま、申し訳なさそうにポルへ目をやる。ポルに判断を委ねようと言うのだろう。
しかし、一方のポルだって迷っていた。
できるだけ早く目的地に着くことに必死であまり考えないようにしていたが、王都から遣わされてきた人間を迎え入れるのに、どういう事情でここに来ることになったか話すくだりになるのは当たり前だ。
だが、エルヴィーが詳しい事情をポルたちから聞くように伝えているからって、それはポルたちが何でもかんでもべらべら喋っていいという意味ではない。
自分たちは、少なくとも今の王都あたりでは犯罪者だ。それをかくまう方にも罪が生じる。ならば、彼女たちにはちゃんと説明せず、ツバメと話をさせてもらうという目的だけをとっとと達成する。彼女たちは問答無用で、いつの間にかポルたちに協力している。
それが万が一騎士団に知られたら、マリーは身に覚えのない罪に問われるのだろうか?
にしても、知っていて協力するよりずっと罪は軽くなるかもしれない。そして自分たちは、多くの情報をここに残さなくて済む。こちらだって、足跡は少ないほうがいい。
それでも、そんなのが本当にうまいやり方だと、ポルはまだ言いきれなかった。
余計なことは知らせない方がいいのだろうか。余計なことが何かを決めるのは、一体誰なのだろう。
事情をすべて話した結果追い出されるならまだしも、もし彼女が知った上でツバメと会っていいと言ったら? かくまってくれると言ったら? 自分たちは立派にこの家族を、共犯者に仕立て上げることになる——
「話を聞く権利?」
今まで黙りこくっていたルズアが、突然口を開いた。
「その〝一悶着〟はまだ終わってねえんだよ。知らねえほうがいいことを知っても、文句はねえんだろうな」
いつものルズアの脅かすような視線がマリーに刺さる。
マリーは一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに「ふぅむ……」と指を頰に這わせてまばたきした。
「キミのいう〝知らない方がいいこと〟は、エルヴィーの手紙の中身だって例外じゃないだろう。何かあったことは明らかだったし、彼女のことだから何か大きなことをしようとしてるんじゃあないかな。それくらいなら、もう僕はとっくに知っちゃってるんだ」
そう言って、ルズアの方を見る。ルズアは顔をしかめてふいとそっぽを向いた。
「事情を詳しく話したら、僕たち家族が何か問題に巻き込まれるって可能性を危ぶんでくれているんだろう、キミたちは。用心深いことだ。でも、エルヴィーが僕たちに手紙を送ってきたということは、もうすでに彼女とキミたちだけの問題にはできないってことなんじゃないのかい。そんなことを、僕はいまさら関係ありません、なんて言うつもりはないよ。僕は一体僕たちが〝何に巻き込まれているのか〟聞かせてくれって言ったのさ」
マリーは半月形の目の端をとろけさせる。彼女には、ぜんぶお見通しだったみたいだ。
横顔を眺めるポルの頭の中で、疑問や葛藤がどろどろと溶けて消えていった。
ほんの数十分前に会ったばかりの人間に、この人はどうしてこんなにも親切にできるんだろう。一体なにを考えているんだ。自分たちがエルヴィーの知り合いだというだけでは、あまりにも説明がつかないじゃないか。
彼女の無条件の優しさを前にして、溶けていった疑問と葛藤のあとには、ぽつんと眠気の靄にかすむどうしようもない寂しさが残った。
もうとっくに、後戻りはできない。自分が少し動けば、一言話せば、こんなふうにどれだけ愛情深くて温かい人であろうと、平和な生活から遠ざかる危険な可能性にさらすことになるのだ。
誰ひとり息をしていない紫紺の大海原に崖っぷちから落とされたような、容赦のない重みと寂寞が心にちらつく。
覚悟は図書館に忍び込む前とっくにしたはずなのに、今更その覚悟の意味を思い知るなんて。あんまり浅はかだ。笑えない失態だ。いや、これこそが〝外〟で生きぬくのに必要なことなのか。ポルは泣きたくなった。
『話しましょう』
ポルはマリーに宣言する。次にスティンの顔を見ると、
『あなたの話と、私たちの話』
「全部?」
スティンの顔に一抹の戸惑いがよぎる。
『うん……』
「いいだろう、全部聞かせてくれ」
マリーがポルの言葉を遮った。ポルは小さく頷いて、
『シェン。補足をよろしく』
「
うとうとしかけていたシェンがもぞもぞと背筋を伸ばして、おもむろに紅茶を一口すする。ポルはカバンから大判の新しい紙を取り出すと、マリーと仲間たちの顔を伺って、慎重に王都であったことを語り始めた。
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