4-8 こどもたちの幸福論
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ぼう……と。
ポルはソファに座っていた。燕宮に返してもらった〝魔術書〟を抱いて、顎をその上に乗っけて、誰もいないリビングルームの虚空をぽかんと見つめていた。
部屋にはたまにシェンやルズアがやってきて、甘いものを食べたり短い昼寝をしたりしては去っていく。なんだか誰にも話しかける気にならなくて、ポルはこっそりため息ばかりついていた。
ぐずぐずと、あれから二日が経っていた。
ミチルの一件にけりがついたら、この家を出て行く。
そう言ったから、けりをつけるのが億劫になってしまったなんて身勝手もいいところだ。
とは思うのに、けりをつけるどころか、なんだかまともに動く気分すら起きなくなってしまった。
今まで宝物で溢れかえっていたこの家の中が、急に触れてはいけないものだらけだったことに気がついたみたいに。どこまでも広大で畏ろしかったエコールの景色が、急に額縁に入ってしまったみたいに、色を失ったようだった。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
焦りだけがきりきりと胃袋を削っていた。早くどうするか決めなければ、私が一歩を踏み出さなければ、頭では考えていても身体はいっこうに重いままだ。
ポルはバンっ! と〝魔術書〟をローテーブルに叩きつけて立ち上がった。
気を紛らわそう。弓の練習でもしよう、そうしよう――
リビングルームを出て、寝室に戻る。〝魔術書〟をカバンに片付けると弓袋を背負い、すぐさま引き返して昼下がりの庭に飛び出した。
今日のエコールは、いつもより心なしか雲が厚い。遠くの景色も低い雲でけぶって霞んでいる。ポルはふいと目をそらして、人のいない風車の方へ向かう。
その時、聞こえてきた。二重の意味で耳を塞ぎたくなる、恒例の喧騒が。
時間を見て出てこなかったから鉢合わせたのだ。ポルはふと足を止めてしまった。
声のする方に目をやると、隣の家の前に子供たちがたむろしている。ストロベリーブロンドの頭は、スイ――そして対峙する男の子は、今日は増えて四人もいた。
いくら気の強いスイでも、四人を相手取ったら押されてしまう。そのうえ、少し見ない間に男の子たちは木の枝や
「なあ、お前ビーゴにラブレター送ったってほんと?」
「マジだぜ、オレ見せてもらったもん」
「ぎぇ、ありえねー」
男の子のうち三人が大爆笑する。スイは彼らを睨めつけて、ぼそぼそ何かをつぶやいていた。ここまで聞こえない。しかし、それを聞いた男の子たちはさらに笑った。
「そんなん言ったってさあ、証拠があんだよな!」
「どうする? こいつ本当は男だったら」
一人がオエッと吐き真似をして、他の二人を喜ばせる。
残りの一人は、さっきからずっとスイのカバンに石を投げ当てていた。たまにこっちの家へ向かって石を振りかぶっては、その時だけスイが露骨に焦った顔をするものだから、その反応を見てにやにやしている。
家からどんな大人が見ているかわからないのに、よくやるものだ。村の〝異端〟の家にいる大人なんか、怖くもなんともないのだろう。
そうともなれば、活発で反応のいいスイは彼らにとってエンターテイメントでしかないわけだ。
ポルは踵を返すべきか、迷った。
このままではミチルに出くわしてしまう。今だって、絶対どこかから見ているはずだ。
しかしこのまま素通りするほど、我関せずは貫けない。いくら村とは関係ない人間だからといって、あの石飛礫がスイに当たるのくらいは防がなきゃいけないはずだ。
またもぐずぐす悩んでいると、とたんに後ろから服の背中を掴まれた。
やっぱりだ、ついに捕まった。
ポルは前と同じように、後ろ向きで引きずられる。風車と家の間まで来たら、パッと背中を放されて軽くよろけた。振り返るとやはりそこには、以前と同じように冷たい無表情をしたミチルが、じっとりとこちらを下から睨めつけていた。
「こたえ」
その声は、心なしか以前の時より力強い。
「言え」
ポルは急いでメモ紙と鉛筆を取り出す。膝をついてミチルと目線を合わせて、丁寧に答えを書き連ねた。
『マリーさんは……』
筆がつまる。
ちらりとミチルの顔を見る。ミチルはさっきから微動だにせず、急かすようにメモ紙を凝視していた。
『好きだから……ただ、燕宮さんのことが好きだから、一緒にいようと思った。一人より二人の方が生きやすいと思ったから、一緒に、自由にやっていけるならそれに越したことはないだろうって。ほら、その、燕宮さんが女の子として生きたいなら、じゃあ僕は男の子として生きようかな、そんな感じ…….』
ミチルはそこまでの答えを見ると、突如一歩、二歩、下がる。そしてひゅうっ、風切り音とともに走ってポルの横を通り過ぎた。家の表の方へ駆けていく。
ポルも立ち上がった。ミチルが消えた家の角を見つめる。
冷静になると、妙にほっとしている自分がいるのに気がつく。自分が迷っていたら、ミチルがやってきて全部終わらせてくれた。そんなところだ――なんだかすごく情けなくなってきた。
メモ紙をぐしゃっと握りつぶして、ポルはミチルの後を追う。角を曲がればパッと視界がひらけて、再び庭に出た。ミチルの姿を探す。ちょうど門の下に白い日傘がひらめいた。
ミチルがいつもの日傘をさして、まだ男の子に囲まれたままのスイのところへ走っていく。
男の子たちは一瞬ぎょっと目を剥いた。ミチルは突っ込むように、スイの前へ立ちはだかる。
ここからでは絶対にミチルの声は聞こえない。
ポルは静かに走ると、門の陰に隠れて耳をそばだてた。
「スイをいじめるな」
ポルたちが燕宮の部屋で初めて聞いた時のような、ドスの効いたかすれ声。
男の子たちは混じり気のない純粋な威嚇を向けられて、多少怯んだようにみえた。
ミチルは開いた日傘を振り回して、男の子たちに詰め寄る。
「離れろ。離れろ!」
「な、なに? おまえ」
男の子の一人が半笑いで言い返す。ミチルはすっと傘を戻して、
「私はスイのお姉ちゃん」
すると男の子たちの間に、一気に嘲笑が広がった。
「はあ? なにお前。知らねえんだけど」
「こいつ学校来てた?」
「見たことある、ずっと一人でボーっとしてるやつだろ」
「かわいそ! ていうか、全然似てなくね?」
スイとミチルの顔を、全員で値踏みするように見比べる。
ミチルは顔をしかめた。スイの表情は、日傘に隠れて見えない。
「やっぱりさ、女と女で子供できるわけねーからさ」
「どーせお前ら拾われ子だろ」
「きたね〜、百回くらい体洗ってこいよ」
「こいつ、ガイコツみたいじゃね? ガイコツ!」
ガイコツ、ガイコツ、バカとガイコツ……男の子たちは笑って、手に石飛礫を握りなおした。
「なあ、ガイコツって当たったら折れるかな?」
さっきまでスイのカバンに石を当てていた男の子が足元の石を拾うと、思い切り振りかぶり、ミチルめがけ全力で投げつける。
ミチルはとっさに日傘を構えて石を防いだ。日傘に大穴があく。石がぼとり、とミチルの足元に落ちた。
陰で思わず飛び上がっていたポルは、ほっと胸をなでおろす。しかしどう見ても安心できる状況ではない。他の子供たちの手にも石がまだ――
ミチルは日傘を構えたまま、スイの服の背中をひっつかんで、じりじりと男の子たちから距離をとった。
男の子たちが再び間合いを詰めようと一歩踏み出した、その瞬間。
「ほっといてよ!」
毅然とした叫び。張り裂けるようなミチルの声だ。
「私たち幸せなの! ほっといてよ!」
言うや否や、ミチルはスイの手をむんずと掴んで走り出した。こっちへやってくる。男の子たちは気圧されて数秒突っ立っていたが、やがてそのうち一人が我に返って石飛礫を振りかぶる。
ポルは反射的に背中から弓と矢を抜いていた。男の子のそばの地面へ狙いを定めようと門からおどり出る。
その時、ミチルが気配を察知したのか男の子を振り返った。一瞬足を止めると、落ちていた石をとっさに掴んで彼らのほうへ投げつける。
ミチルのか弱い細腕じゃ石は到底男の子に届かない。しかし、彼らを威嚇するにはそれで十分だった。
ミチルとスイがポルの横を通り過ぎるまで、石飛礫が飛んでくることはなかった。
ミチルとスイが門に入る前に、男の子たちは散り散りに去っていった。
ミチルはスイの腕を放すと、日傘も投げ捨てて縁側へ。ちょうどきしし……とガラス戸を開けて出てきた燕宮の懐へ、靴を履いたまま勢いよく飛び込んだ。
スイは姉の背を見届けると、ミチルが投げ捨てた日傘を拾い、丁寧にくるくる畳んで玄関脇の傘立てに立てる。「ただいまー」といつものように気の抜けた声で言って、家の中へ戻っていった。
「……あの、なにしてるんですカ。ポルさン」
ポルは飛び上がった。シェンが眉根をひそめて、庭の奥からこちらへ近づいてくる。
自分の両手を見ると、ポルは慌てて弓と矢を背中にしまった。
『いや、ね、いろいろあったの』
はぐらかすように、シェンの手へ綴った。シェンは片頬をくいっと上げる。
「そ、ですカ。まあ見てたんですけどネ」
『見てたの⁉』
「そりゃあ、あんなに堂々と騒いでたら見ますヨ」
『ま……まあそうね』
ポルはもう一度門の外に目をやる。男の子たちの姿は影もなく、ただ隣の家と風車が、茶緑の平原を背景にたたずんでいた。
『……シェン』
「はイ?」
シェンが、ポルの目線の先を追う。
『明日、ここを発とうと思うの』
ポルはシェンの顔を振り返る。きらきら光る黒い瞳と、ばっちり目があった。
「そろそろ、そうおっしゃるんじゃないかと思ってましタ」
シェンはにやり、得意げな笑みを浮かべて踵を返し、ぴょんぴょんと家の裏へ走っていく。
ポルはほうっと息をついて、玄関の方へ歩き出した。
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次の朝は、いつもと同じ薄曇りだった。
「うわぁぁぁぁん」
丸太の門の前。スティンのコートにしがみついて、スイが大泣きしていた。
対するスティンは棒のように突っ立ったまま青ざめていた。泣きそうな顔をしているのは、たぶんスイとの別れが惜しいからではないだろう。
ポル、ルズア、シェン、スティンの四人は完璧に旅支度を整えて、マリーたちの家を出発するところだった。見送りに来たマリーは門の手前で困った顔をしている。その脇に、日傘をさしたミチルが半分隠れるようにへばりついていた。
「おにーちゃん、まだ遊んでくれてないじゃああん……遊んでくれるって言ったのにさぁぁ、ひぐっ」
スイはしゃくりあげながら、ルズアの剣に手を伸ばして引っこ抜こうとする。
「言ってねえ!」
ルズアはとっさに剣のつばを押さえた。横でシェンがにやりと笑う。
「
「言ってねえっつってんだろ!」
ルズアはいきり立って噛みついた。
スイが今度は、シェンの袖をちょいちょいと引っ張る。シェンが耳を寄せると、スイはシェンへ耳打ちした。シェンがルズアをちらりと見て、これみよがしにくすくす笑う。二人が離れると、ルズアの顔にますますいらだちが浮かんだ。
スイはスティンのコートを掴んだままルズアの顔を見上げると、ずびびび、と鼻をすすってにんまりと笑った。
「シェンのねーちゃん、ちゃんとみんなのお世話してね」
ぷっ、ぶわはははは! とシェンが豪快に笑う。
「も、もちろんでス、あなたもマリーさんのお世話してくださいネ」
スイは涙が飛び散らんばかりに頷く。マリーは今にも笑い出しそうに口元を歪めて、「どーも」と言ってみせた。
「いやあ、今日がみんな休みの日でよかったよ。鷹は持った?」
ポルは丸太の門のてっぺんを指差してみせる。そこではアイテルがなんだお呼びか、とばかりに足をそわそわさせていた。
「路銀は持った?」
マリーがポルを見据える。ポルは眉尻を下げた。
『持った、けど……本当にいいの? 私たち、全然路銀には困ってないわ』
「いいの。僕たちがしたくてやってることだから……辻馬車の道のりは覚えてるね? 大丈夫かい?」
『ブールトまで馬車で行って、そこで一泊。次はブールトから辻馬車をつかまえて、途中で一泊、しばらく南に歩いて、民間の辻馬車か荷馬車があったらそこからまた馬車に乗ってベスペンツァまで。ベスペンツァで一泊して、そこからは長くても二日でドレッドフェール。間違っても騎士団の駅舎に顔を出さないこと』
「完璧だ」
マリーはにっこり笑った。とろける半月の瞳が、無性にまぶしい。ポルは目を背けてミチルの日傘を見た。
昨日空いた大穴は、跡形もなくきれいに元どおりになっている。ミチルは最初こそ怪訝そうな顔をしたものの、考えるのを諦めた様子でいつも通り使っていた。
勘のいい彼女のこと、ポルがちょっと手を加えたことくらいバレてしまうのではないかと思ったが、杞憂で済んでよかったものだ。
ポルは満足して、ミチルの顔を覗き込んだ。紫がかった氷色の瞳をぐっとひそめて、ミチルはさらにマリーの影へ隠れる。
ポルはメモ紙にじゃあね、と書こうとして、また一瞬迷った。
『……またね』
するとミチルはポルの目を思い切り睨めつけ、べっ、と舌を出した。そして慌てて日傘で顔を隠す。傘の骨に殴られる間一髪で、ポルは危うく飛び退いた。
「こーらスイ、そろそろ離れな。辻馬車にも時間があるんだから」
マリーが呆れ顔でたしなめる。
スイはまだスティンにしがみついたまま、泣いてみたり笑ってみたりしていた。マリーの方をちらりと見るとわざとふくれっ面をして、スティンの顔に詰め寄る。
「絶対またくる?」
「あ、あああ、うん、くる」
スティンは引きつった笑みを浮かべる。
「ほんと?」
「ほ、ほんと」
「うそじゃない?」
「うう、うそじゃない」
ポルは思わず吹き出した。どうみても返事をしているんじゃなくて、スイの言うことをおうむ返ししているだけだ。
「スイ!」
ついにマリーに叱られて、スイは渋々スティンから離れる。スティンはまだわなわな震えていた。
マリーの腰にぴったりくっつくと、スイは観念したように四人に手を振った。
「おふろあるから、また来てね」
彼女の心底寂しそうな声に、ポルはなんだか自分の名残惜しさがばからしく思えてきた。ふふっと笑って、メモ紙に書き綴る。
『おふろがなくたって、また来るわ』
くっくっと笑い声が降ってきた。顔を上げると、マリーがいつものように優しい顔で笑っていた。
「そうしてくれ」
グレーの瞳と、視線を交わす。数秒じっと見つめあって、ついにポルから視線を逸らした。マリーのはるか後ろで、縁側の向こうのガラス戸越しに五色の装束が見え隠れしている。
ポルの目線を追って、マリーが振り返った。
「あとさ、ツバメ、実は文通が好きなんだよ。だからたまにエコールへ鳩でも飛ばしてくれよ」
マリーはポルに向き直る。ポルは何度も頷いて、マリーの手へ綴った。
『ありがとう』
マリーは砂色の髪を揺らして、これでもかとばかりに甘く微笑んだ。
「こちらこそ」
目に焼き付けるように門からの光景をじっとみて、回れ右をする。歩き出すと後ろから仲間がついて来るのがわかった。
ポルは背中越しに、めいっぱい大きく手を振った。
「またね、おにーちゃんたち!」
スイの声が追いかけてくる。
返事をしないですむのなら、この時ばかりは声がなくてよかった、と思った。
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