4-9 迎賓館にて

「いったいあの男はなんだったのでしょう

 どんな高貴な者よりやさしい

 湖面のような瞳をしていました

 ああ、どんなに高貴な男よりも

 赤い唇をしていたのです

 アンザカス 彼の名はアンザカス

 神よ、彼の心はどんなに清らかでしょう

 アロルベの泉ほどか

 それともラエニの恵――うぎゃあっ⁉」


 ガチャンッ!

 部屋のドアが開く音で、歌っていたメルは跳ね上がった。

「うわっすみません、続けてください」

 入ってきたのはエリーゼだった。

 いつものメイド服ではない、襟元の開いた深緑のロングドレスとチョーカーをぎこちなそうに身につけて、困った顔で手を振ってみせる。

 かたまったままエリーゼを見つめたあと、メルはふっとため息をついて、

「なぁんだ……エリーゼか。はぁあ」

 着ていた豪華な青いドレスの肩を落とした。


 アルバート王国南西部、文化と芸術の街ツェベーニン。

 そこにある迎賓館にメルたちは呼ばれていた。年明けにある王宮からの依頼、ツェベーニン公演――そこでメルが演じる歌劇の、共演者との顔合わせに。

 高位の貴族や王族も泊まることがあるというこの館は、ベッドルームが一段と豪華だ。

 メルの部屋の倍近くありそうな広さに、赤いベルベットのカバーをかけた天蓋付きベッド。花の形のシャンデリアに、装飾の凝ったマホガニーのドレッサー。高級リネンの涼しげな絨毯とカーテン。壁には油彩の絵画。

 十人ぐらいが突然押しかけてきてもゆうゆうパーティできそうな数の、ソファーとテーブル、小さなワインラックまである。

 入口ドアの向かいにある大きな飾り窓枠のむこうには、この街で一番有名なツェベーニン王立劇場の丸い屋根が、家々の向こうからのぞいていた。

「なんだってなんすか。歌ってらっしゃるから、ノックしても気づかないかなあと思ったんですもん……ていうか、まだこれ着てなきゃダメなんですかぁ」

 エリーゼは悪びれもせずにそう言うと、緑のドレスの胸元をびろーんと引っ張って、ばたばたやった。

「ダメに決まってるでしょ、もう行かなきゃなんだから」

 メルは呆れ顔である。

「ええ〜……だって絶対似合ってないでしょ、私。恥ずかしいんですけど。もうったって、まだメイド服でいても……」

 その瞬間、コンコン、と部屋のドアが鳴った。

「メル様、ザクレイギ殿のご準備がそろそろ整うとのことです」

 ドアの向こうから男の声がする。護衛の者だ。メルははっきりと答える。

「わかったよ、あと五分したら参りますって申し上げといて」

「御意」

 男の声は、それを最後に聞こえなくなった。


 メルがエリーゼに向き直ると、彼女は今にも歯ぎしりしそうな顔でドレスを見下ろしていた。

「……なんでペレネさんを連れてこなかったんです?」

「だって、なんとなく……初めて会う人だから。エリーゼの方がいいかなって」

 メルは広いドレスのすそを引きずりながら、部屋の隅の鏡台へ向かった。エリーゼがそれにくっついていく。

「初めて会うって、ザクレイギ殿のことです?」

「うん。だって、エリーゼ、初めての人を見る目あるじゃん?」

「見る目ぇ?」

 エリーゼは顔をしかめた。

「相手がどんな人か、なんとなく察するパゥワーってことですか? 確かにペレネさんはそーゆーの鋭くないですけど。でもでも、ペレネさんの方がしっかりしてるじゃないですか、ほら、礼儀とか! そういうの!」

「あ〜も〜わがままだなあ! ほんとに置いてきちゃったらよかったかな〜!」

 メルは口に両手を当てて、叫ぶポーズをしてみせる。

 エリーゼは慌てた。

「い、いやです! いやですけど! どうなっても知りませんからね!」

「大丈夫だからつれてきたんだけどな〜!」

「うっ……」

 言葉に詰まるエリーゼ。メルは青い薔薇飾りのついたヘッドドレスをつけると、エリーゼを振り返る。

「そのドレス、似合ってるよ。お屋敷でもそれでいたらいいんじゃない?」

「い、絶対いやです」

 エリーゼはつい、とメルから視線を逸らした。

 メルはふふんと笑った。ドレッサーで化粧の落ちがないか確認する。

 そして伸びをすると、一瞬で深刻な顔になって、胸を張った。

「お相手はエルンスト家の息がかかったおうちの人です」

「そうなんすか」

「そうです。だから共演者に選ばれたのかもね」

「うえぇ〜ん、そんなことあります?」

「かもね、だよ。さ、行くよエリーゼ」

「……ウッス」

 エリーゼは両拳を握り、気合いを入れてみせた。



 迎賓館の廊下から階段を降りると、ほどなくして玄関ホールに出た。

 広い玄関ホールの両脇はラウンジになっている。黄味がかった漆喰と黒い木の梁、飾りガラスのはめられた、大きな玄関扉や窓。美しい白レースのカーテンは開かれて、灰白色の陽光が弱々しく室内に差していた。

 梁と同じ黒木の丸テーブルが、象牙色の肘掛け椅子に囲まれて何脚も置いてある。むこうの壁際では、茶色いグランドピアノがてらてら光っていた。

 そしてそのピアノ椅子に、砂亜麻色の長い髪をした男が腰掛けている。これでもかと刺繍のされた、レースの多い豪華な上着。一応とばかりに下げた腰の剣。後ろには紺の絹ドレスを着た、小柄な美女を連れている。


 メルが近づくと、男がこちらを振り返った。

 にっこり笑って立ち上がり、美女を従えてこちらにやってくる。

 目を合わせる前に、メルはドレスをつまんで深々とお辞儀した。

「ザクレイギ男爵閣下のご子息と拝察いたします。初めまして、メル・アトレッタと申します」

 ゆっくりと顔を上げると、今度は相手が跪いて、メルの指先を取った。

「アトレッタ嬢。お待ちしておりました。お会いできて光栄です」

 なめらかな深い声だった。相手は顔を上げて、下からメルと視線を合わせる。

 濃いグレーの瞳は垂れ気味で、鼻はつんと高く、白くなめらかな頰はがっしりしている。力強い、素朴な風貌の青年だ。

 彼は立ち上がると両手をちょっと広げて、口の端で笑った。

「マーク・ザクレイギと申します。ザクレイギ男爵家の三男坊です」

 メルは顔が引きつらないように気をつけながら、にっこり笑ってみせる。

「こちらこそ、お会いできて光栄ですわ」

 マークは踵を返して、肘掛け椅子のひとつへ適当に腰かける。長い前髪をかき上げ、こちらを見るとメルに向かいの席を勧めた。

 メルがその席へ、控えめに座る。するとマークはどんと足を組んで、後ろの美女に合図した。美女は音もなく、すっと離れていった。


 マークはこちらをまじまじと見たまま、メルが何かを言うのを待っているようだ。

 メルはちらりと後ろのエリーゼを見て、肘掛け椅子に深く腰掛け直した。

「素敵な館ですわね」

 ラウンジを見回してみせる。

「ここは初めてでいらっしゃる?」

 マークは顎を撫でながら、少し身を乗り出した。メルは彼に向き直って、もう一度屈託のない笑顔を作った。

「ええ! このような場所を準備してくださって、本当に嬉しいですわ」

 するとマークは、気障っぽく笑って目を閉じた。

「いえいえ、ここはエルンスト伯爵閣下のご厚意で準備していただいたところです。礼なら、私も閣下に申し上げたいところですよ」


 エルンスト伯爵。やっぱりその名前か――とメルはため息をつきそうになって、ぐっと飲み込んだ。

 当然なのだ。ザクレイギ男爵家は、エルンスト伯爵傘下の下級貴族。エルンスト伯爵は、手下になった者になら援助は惜しまない、ただそれだけ。

 なんら自分たちが心配すべきことは起こっていない。メルは自分に言い聞かせる。

 こっそり深呼吸すると、ちょうどマークお付きの美女が、迎賓館のメイドに紅茶を運ばせて戻ってきた。

 紅茶が机に置かれる。マークが自分のカップに口をつけたのを確認してから、メルもカップを取る。飲む直前にこっそり酒の香りがしないか確認してから、少しだけ紅茶を口に含んだ。

「さあ、私たちがここに集った本題の話をいたしましょうか」

 マークが膝の上で手を組んで、穿つような目でこちらを見る。メルはすぐさま、カップを机に戻した。

「ええ」

 マークは美女に合図すると、何枚もの楽譜を出してきた。それを机の上に広げてみせる。

「演目は『ヴェギステの王女』。実に素晴らしい古典の傑作歌劇だ。国王陛下も、王女役をあなたに選出するとは――素晴らしい人選です」

 メルはいかにも遠慮がちに、ふふ、と笑った。

「王女の恋人アンザカスの役が私、マーク・ザクレイギ。そこまでのお話は聞いていらっしゃいますね?」

 マークは自分の胸に手を当てて、こちらを見る。まるで子供を諭しているみたいだ。

「もちろんです」

 メルは頷いた。



 それから、主にマークが滔々と喋るだけの時間が過ぎていった。

 マークとメルは主演二人なので、特に直接会って練習する必要がある。いつ、どこで、どれくらいの頻度で会うか。本番まで、どの時期にどこまで完璧にするか。他の演者とはいつ合わせるのか。

 これは隣国、シラデリフィア共和国の大統領を迎える公演だ。そのうえ国王との会談の前座だという。

 ただ単に、国民や王侯貴族の名誉を背負う重大な……というだけの話ではない。ここで二人がうまく大統領の気分を良くすることができるかどうかで、会談の内容さえ変わってしまうだろう。

 そのうえ公演時間は二時間。その間、国賓たちを冷めさせることなく楽しんでもらわねばならないのだ。失敗は許されない。

 しかし、だった。

 メルはマークの鼻を見つめる。この緊張は、役目の重さや大事な会合だからという理由では説明がつかない。

 笑顔を作りながら、マークの言葉を端々まで理解するのに精一杯だった。相槌を打ってやり過ごすだけ、マークは調子よく話した。

 話はちゃんと聞いている。ぴりぴりするくらい、向こうの言葉には神経を集中させているつもりだった。

 それでも彼の話の中身以上に、周りのことが気になってしまう。彼の一挙手一投足。お付きの美女の視線。窓の外の人影。迎賓館のメイドの表情。


 警戒しすぎだろうか。そんなに警戒する場面ではないとわかってはいる。

 わかってはいるのに、この場にある全ての情報が見逃してはならない何かのサインみたいで――

 メルは思わず、ふうぅ、と息をついた。

「どうかしましたか?」

 マークが怪訝な顔でこちらを見た。メルはハッとして、慌てて口元を手で隠す。

「いえ、なんでも」

「緊張してらっしゃるのですね」

 マークは困ったような笑みを浮かべ、メルの瞳を覗き込む。メルは恥ずかしげに目をそらして、微笑んでみせた。

「そう、かもしれません……母も出たことがないような大舞台ですから。うふふ」

「確かに。私も実は結構に緊張しています」

 はは、とマークは笑った。

「でしたら、あまり長話すると体調に良くありませんね。また明日もお話しできますし、今日はこのくらいにしておきますか」

「ええ」

 メルがうなずくと、マークは机に広げた楽譜を集めた。

「明日は王立劇場の舞台の下見に参りましょう。すぐの近場ではありますが、安全のために伯爵閣下が馬車を用意してくれているそうですので」


 伯爵閣下が。エルンスト伯爵が。エルンスト伯爵閣下が。ずっとそんな話ばかり。頭がこんがらがりそうだ。見えない思惑が、周囲から迫ってくるみたい。

 メルはいらいらを抑えようと、右の指先を左手で握った。嬉しそうに目を見開いて、少し身を乗り出す。

「そうですか、とてもありがたいですわ! 私、楽しみにしておりますね!」

 それを見たマークは、自慢げにふっと笑った。

「私も楽しみです、この国で一番音楽の才に長けた方と本番の舞台でお話しできるなんて……時間はのちほど、従者たちに相談しておかせましょうか」

「ええ、そうします。では……」

 メルは立ち上がってお辞儀する。

 マークも同じように礼をした。

「また明日に。良い午後を」

「はい、ご機嫌うるわしゅう」



 部屋に戻ったメルは、化粧も落とさずばっふとベッドに突っ伏した。

「だいじょーぶっすか? お嬢様」

 すぐ後から入ってきたエリーゼが、メルを上から覗き込む。

 メルは唸った。

「んー……」

「はぁ。なーんかいけ好かないやつですね、あの男」

「そうだねぇ」

 くぐもった声でメルが答える。エリーゼは誰も見ていないのに手のひらを上向けて、肩をすくめる仕草をした。

「明日の予定、従者同士で話し合っとけって言われましたけど。どうします?」

「昼からならいつでもいいよ……」

「まじっすか」

 ピクリとも動かないメルに、エリーゼは思わず呆れ顔になった。

 ドレスの襟をまたびろんびろんと引っ張って、

「んじゃあ、ちゃっちゃと話し合ってきますね。ついでに何か欲しいものとかないですか?」

「甘いものと紅茶」

「あいよぉ」

 気の抜けた返事をするエリーゼに、メルは突っ伏したままひらひらと手を振った。エリーゼは踵を返して、ため息をつきながら部屋を出た。



 **********



「紅茶でも持って来させましょうか、坊っちゃま」

 鈴の鳴るような、可愛らしくて冷たい女子の声。マークの部屋で、小柄な美女の従者がマークの派手な上着をハンガーに吊るしながら言った。

「坊っちゃまはやめてくれ。今は水でいい」

 一方のマークは、メルの部屋と全く同じつくりの部屋の隅っこで、ロッキングチェアにどっかり座ってぎいこ、ぎいこと揺れていた。

「かしこまりました」

 美女はハンガーを壁の荷物掛けにかけると、いそいそと小机にあったグラスと水差しで水をいれる。美女がグラスをマークに渡すと、マークはわざとらしくため息をついた。

「どう思う? あれ」

「あれ、とは?」

「あの共演者さ」

〝青い歌姫〟のことを言っているのだろう、と美女は察した。マークは水を一気に飲んで、空のグラスを美女に渡す。

 美女は返答に困った。

「はあ。お美しい方ではありましたが」

「まあね……でも、なんていうの。正統派な美しさではないな。ちょっと安っぽいというか……だけどまあ、見てたら演技力があるのはわかった」

 マークは遠い目をしながら語る。美女は彼に背を向けて、小机にグラスを戻した。

「国王はなんであの娘を選んだんだろうな」

「国王が寵愛なさっているからではないのですか」

 美女はマークに向き直って、姿勢を正す。マークはロッキングチェアの肘掛にもたれて、小さく首を振った。

「寵愛されていたのは〝赤い歌姫〟の方だろう? 彼女を寵愛するのはわかるよ。だけど〝青い歌姫〟の方は、ただ単に〝赤い歌姫〟の娘ってだけでちやほやされてるように思うんだよな……そもそも、〝赤い歌姫〟だってどこの血筋の人間かわからないっていうじゃないか。曲がりなりにもこの国を代表する行事なんだから、この国のちゃんとした血筋の人材を使うのが真っ当だと思うけどね」

「そんなものですか」

 美女は冷めた声で返した。そういうことはさっぱり、と言わんばかりの調子だ。

 マークはまた小さくため息をついた。

「ああ。だからやっぱり、国王は彼女を惰性で選んだとしか思えないんだよ。血筋がちゃんとしていなくたって、あの歳でツェベーニン芸術学院を出ているだとか、そういうのならわかるさ。〝赤い歌姫〟ならまだ芸術学院出身に匹敵するキャリアがあるから、まあ、まあ実力のほどはわからなくもない。でも別に、〝青い歌姫〟はそういうわけじゃないんだろ。名前が一人歩きしているね。あの娘、数年後にはエルンスト閣下あたりの貴族の慰みモノだろうなって思うよ」

 美女は聞きながら、いくらなんでも言い過ぎではないかと思った。ぐっと飲み込んで黙っておいた。

 マークは口の端をゆがめる。

「昔一度彼女の歌を聞いたことがあるけど……本番までに、彼女には成長してもらわないと共演が大変そうだ。今の声を聞く限りでも、君の方がきれいな声をしてるぐらいだと思うけどね」

「それは言い過ぎですわ」

 美女はふい、とマークから目を背けて、再び小机の上の水差しを取る。

「水を補充してまいります。すぐ戻りますので」

「ああ」

 マークの返事を背に、美女はドアまで歩いていく。金の取っ手に手をかけて、がちゃ、と静かに開ける。


「あっ……」

 ドアのすぐ前で、小さく声をあげる人がいた。

 緑の長いドレスに、ぴんぴん跳ねた黒髪。庶民ぎった野暮ったい顔。〝青い歌姫〟のところの従者だ。

 彼女が両の拳をこれでもかと握りしめたまま突っ立っているのを見て、美女はちょっと気の毒げな顔になった。主人はああやって得意げに語る間、自分の声が大きくなっていたことには気づいていないのだろう。

「あ、明日の予定をご相談しにまいりました」

 歌姫の従者が言った。かわいそうに、声が震えている。

 美女はツンと背筋を伸ばして、マークを振り返った。

「坊っちゃま、歌姫様のお付きの者が明日のご予定の相談をしたいと。どうなさいますか」

「いつでもいいって言っといてくれ」

 マークはこちらを見もせずに、手をぺっぺと振った。

「かしこまりました」

 美女は歌姫の従者に向き直る。

 彼女は不満そうな顔で、こちらをじろじろ見ていた。お堅い場での従者にはこれっぽっちも向いていない人だな、と美女は思った。

「サンルームでお話しいたしましょう」

 美女はそう言って、後ろ手でドアを閉めると、颯爽と廊下を歩き出した。

「……はい」

 歌姫の従者は不満そうに返事をすると、後ろについてくる。振り返らなくても、口を尖らせているのがありありとわかった。



 **********



 その頃、メルはベッドに突っ伏したまま、顔を上げて壁を見ながら放心していた。


 するとコンコン、と突然控えめなノックの音。

 このノックはエリーゼではない。

 察するや否や、メルは跳ねるように立ち上がった。手で適当に顔をこすって化粧をならす。

「は、はあい! どうぞ!」

 キィ……、ドアが細く開く。

 その隙間から、かわいらしい少年の声がした。

「メル様、お久しぶりでございます。ディヴ・エルンストです」

 メルは聞くなり、ドアに駆け寄った。

「ディ、ディヴ。お久しぶり」

 半ば彼を押しのけるように部屋から飛び出すと、後ろ手にドアを閉めた。

 扉の両脇に立っていた護衛の男たちとディヴが、揃って目を丸くした。

「す……すみません、メル様。お取り込み中でしたか?」

 ディヴはなぜか頰を上気させて、小さな手を振った。相変わらずメルのよりずっと低い位置にある銀色の瞳を、ぱちくり瞬いてこちらを見る。

「ううん、全然そんなことない」

 メルは言いながら、ディヴを上から下までさっと眺めた。前みたいにかっちりした燕尾服姿ではなくて、金ボタンのベストにフリル付きのブラウス。小姓めいた可愛らしい格好が、いやに似合っている。

 メルは、ドクドク脈打つ心臓を落ち着けて言った。

「どうしたの? なんの用事?」

 するとディヴの顔がぱあっと明るくなった。

「お伝えしたいことがあって。ツェベーニン公演のお話なんですけど」

「うん」

「公演当日や前後の宿泊時の警備や護衛は、全てエルンスト家が責任を持ってお引き受けすることになったんです。だから僕、今回はメル様ないしアトレッタ家の方々の護衛を組織するのに、できるだけ関わらせていただけるよう父上にお願いして」

「そ、そうなの?」

 メルはふい、とディヴの視線から目をそらした。きらきらした彼の瞳が眩しい。

「そうなんです! 騎士として初めていただいた大仕事で、メル様をお守りできることになって……だからその、嬉しくて。直接ご報告させていただきました。えっと……頼りない、とは思いますけど、知らない方に身辺をお任せになるよりはご安心いただけるかな、と思って……」

 尻すぼみに言いながら、ディヴもメルから視線をそらす。耳まで真っ赤になっていた。

 メルはまたぞろため息を飲み込んだ。これはもう、今更いやだと言ってもどうしようもなさそうだ。

「そうね……うん。ありがとう」

「は、はい! ご期待に添えるよう頑張ります! ……で、手始めとして、ツェベーニン王立劇場までの馬車と護衛を僕が用意させていただきました。明日見学に行かれるんですよね? 共演者様との打ち合わせも兼ねて……」

「そう、それはザクレイギ殿から聞いたわ」

 メルはうんうん頷いた。

 この話はディヴの提案だったのか。それなら、まだそんなに気を張り詰める必要もなさそうだ。少なくとも伯爵閣下やバッカーニーの提案、と言われるよりは。

 ディヴが深く頷いた。

「情報がお早くて助かります。お母上のこともありましたし、警戒しすぎるくらいがちょうどいいかと思うので、僕の手前勝手ですけど……お付き合いください」

 最後の一言を消え入りそうな声で言うと、ディヴは膝をついて礼をした。メルは彼の手を取ると、屈んで軽く額に当てた。

「うん。ありがとうね。お願い」

 メルは言って、再び背筋を伸ばす。

「じゃあ、私はその……他に色々することがあるから。またね」

 手を振ると、ディヴも立ち上がった。もう一度軽く頭を下げる。

「はい、突然お邪魔しました。またお会いできるのを楽しみにしております」

 別れの挨拶をしっかり聞き届けて、メルは素早く部屋に戻った。


 ディヴの足音が聞こえなくなるのをドアの裏で待ってから、メルは大きく肩をすくめた。

 ヘッドドレスを取って投げ、ドレスを四苦八苦しながら脱ぎ捨て、パニエとコルセットを外すと適当に放る。

 むしゃくしゃするまま水差しの水で顔を洗って化粧を落とし、下着姿でベッドに大の字になった。これで、誰が来たって応対できない。


 しばらくすると、ノックもなしにドアが開いてエリーゼが戻ってきた。

「うわっ⁉ なんですかこれ」

 バーン! とドアを思い切り閉めて、エリーゼは目を剥く。散らかった服を大げさに避けて入ってきた。

「疲れた」

 メルは虚空を見つめながら言った。

「でしょうね」

 エリーゼは足を止める。

「紅茶と甘いもの、ここのメイドに持ってきてって言っておきました」

「うん……はあ」

 メルは思い切りため息をついて、ぼやいた。

「学校に、行きたいなあ」

 エリーゼは床に落ちた服を拾いながら叫ぶ。

「はあ? 格好のカニ祭り⁉」

「なんで⁉」

 メルはガバッと起き上がった。

「学校に行きますって言ったの!」

「え⁉ カステラができます⁉」

「なんでよ⁉ 耳どうなってんの⁉」

「うわーっうるさい! どうもこうもないですよ!」

「聞こえてるんじゃーん!」

 メルは再びバフっ、と仰向けになった。

「ねえ、エリーゼ。今さ、ディヴが来たんだよね」

「はい? 今ゲロが出たんだよね?」

「出てるように見えるわけ?」

「見えないですね。おかしいと思いました」

「聞きたくないとこだけちゃんと聞こえないのやめてよね……」

「善処します」

 エリーゼは拾った服をハンガーにかけて、パンパンとシワを伸ばす。

「で、エルンスト家のお坊っちゃまがなんですって?」

「公演関係の警備はエルンスト家に一任されたんだって」

「ウゲェ」

 エリーゼは顔をしかめる。

「ますます何企まれてもおかしくないっすね」

 メルは答えなかった。

 沈黙。


「エリーゼ」

「お嬢様」

 二人が同時に口を開く。

「お、お嬢様どうぞ」

 エリーゼがそわそわと言った。

「うん」

 メルは沈んだ声で、ぽつりと答えた。

「……なんで、エルンスト家に抵抗してるんだっけ」

「へぇえ?」

 エリーゼはまぬけな顔になって、

「なんでって――」

「だってさ。たしかに、ポルがいた頃は、エルンスト家に好き勝手されるのはイヤだって一心だったよ。絶対に隙を見せないようにしなきゃって。でもよく考えたら……昔はエルンスト伯爵のこと、そんなに嫌いだったわけじゃないし。なにがそんなにイヤだったのかなあ、みたいな」

 メルは、ぼそぼそと語った。

「母さんの残した家を守るって言った。母さんは貴族に仕えるの、いやがってたよ。だけど、思えば母さんの家を守るのに、全部母さんのやり方にならわなきゃいけないわけじゃないじゃん? アトレッタ家があのまま平和にやっていけるんだったら、エルンスト家に守ってもらうのも手だと思うんだよね……ディヴとか、最悪エルンスト伯爵と私が結婚することになったりしても、まあ、ひどいことにならなければいいかなぁ」

「ひょえぇ」

 エリーゼはもはや、珍獣を見るような目でメルを見ていた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。だってですよ? お嬢様が伯爵に仕えることになったら。なったら、毎晩夜伽の相手を迫られるかもしれませんよ? 伯爵のために、知らない男と寝なきゃいけなくなったりして。バカスカ子供を産む羽目になったりして! お屋敷も使用人も取り上げられちゃうかもしれないし、それでも伯爵の味方じゃなきゃだめなんですよ。それから……あーもう!」

 エリーゼは指折り数えていた手を振り回す。

「とにかく! リーアン様はそういうのがいやだったんじゃないんですか! 知りませんけど!」

「うーん」

 メルは気の抜けた唸り声で返した。

「でもなあ……警戒するの、疲れちゃったしさぁ」

 こんな時にポルがいれば。

 メルは思った。ポルがいたら、無数の情報から必要なことをすぐに取り出して説明して、安心させてくれる。メルの頭だけでは、なにもかも大事なことに見えて――無限の情報に圧倒されるだけで、ただ疲れてしまうのだ。

 息苦しかった。メルは水面で空気を求める魚みたいに、音もなくポル……とつぶやく。

 エリーゼがメルの方にずんずん近づいてきた。

「わ、私は今のままのメル様とお屋敷が好きです! あんな貪欲そうなおっさんに身売りしたら、何されるかわかんないじゃないっすか!」

「まあねえ」

 メルは必死に詰め寄るエリーゼを、いい加減にいなす。

「……母さんは、なんで伯爵と手を切ったのかなあ」

 そういえば、ちゃんと聞いたことがなかった。昔のことが気になるたちじゃなかったから、母から教えられた以上のことを知ろうと思ったこともない。

 考えてみれば、母がどこからきたのかも、なんで歌姫になったのかも、なんでエルンスト家につこうと思ったのかも――自分の父親や祖父母が誰なのかも、知らない。気にしたことがなかったが、普通の家には祖父母や父親がいるものなのだ。

 急に、なんだか自分が母のことを何も知らないような気がしてきた。

 熱い焦りの波が押し寄せて、ぶわっと鳥肌が立った。毎日たくさんの人に囲まれたお屋敷の暮らしは温かくて、そういうところはオールオッケーだったのだ。今思ったら、すごーくバカだ。

「お嬢様! 聞きたいことがあるんですけど!」

 メルのぐるぐるを、エリーゼが遮った。

 顔だけでエリーゼの方を向く。

「お嬢様ってツェベーニンの芸術学院に行こうとか思ったこと、ないんですか!」

「うん……えっ?」

 適当に返事をするところだった。メルはあわてて、真剣に考える。

「えー……いやまあ、行ってもいいかなとは思うけどさー。今更行ってもなあって感じ……」

「じゃあこれから行く予定はないんですか!」

 えらい剣幕である。メルは眉をひそめた。

「お屋敷空けるわけにいかないし、ポルが帰ってきたら行くのもいいけど。ていうか、今もう芸術学院の先生に個人レッスン受けてるから、べつに〜、だよねえ」

「そうですか!」

 エリーゼはそういうと、メルのベッドの枕をむんずと掴み上げた。それを空中に放ると、

「えええーい‼」

 枕を壁に向けてぶん殴った。ぼす、と枕は壁に当たってベッドに落ちた。

 メルはちょっと起き上がって、

「なんかあったの?」

「なんもありません!」

「ほんと〜?」

「エリーゼに二言はありません」

「うえぇ、うそだぁ」

 けらけら笑うと、再びベッドに身を沈めた。

「で、エリーゼ、私イーステルンに帰ったら学校行くからね。一回でいいから」

「承知しました」

 エリーゼはあっさり頷いた。

 メルは拍子抜けして目を見開く。メルが通うのは、普通の庶民の公立学校だ。どんなのがいるか分かったもんじゃない、危ないからダメだ、とかもう少し反対されるかと思っていた。

 しかしまあ、エリーゼだしなあ、ペレネはダメって言うだろうなあ、と思い直す。


 その時、コンコンとノックの音。ドアの向こうから若い女性の声がする。

「アトレッタ様。お紅茶とお菓子を持ってまいりました」

「あわわわわヤバイヤバイ! ヤバイですって!」

 エリーゼは大慌てでベッドの毛布を剥ぐと、

「んぶっ……」

 下着姿のメルをその下に埋めた。

「はぁい! ありがとうございます!」

 エリーゼがドアを開ける音と同時に、メルは仕方なく、はみ出した生足を毛布の中に引っ込めた。



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