4-7 月夜
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数日が経った。
ここに来た日、マリーはたしかに「しばらく休んでいくといい」と言ってはいた。
しかしポルは本当にこんなに長い時間、穏やかな休息をぼうっと過ごせるなんて思ってもみなかった。
居候するのが申し訳なくなってポルがそわそわし始めると、マリーはそれを敏感に嗅ぎ取って「もう少しゆっくりしていけばいいじゃないか」などと言う。
燕宮から〝魔術書〟がなかなか返ってこないのも、どうやら燕宮があえてそうしているせいらしかった。
旅の道連れたちも、徐々に調子が良くなっているのがなんとなくわかった。
ルズアは露骨に顔色が良くなった。相変わらず口調はぶっきらぼうで刺々しいが、話しかけただけで喧嘩になるようなことはなくなった。
シェンもずっと機嫌がいい。初めて顔を合わせた時は火花を散らしていた燕宮ともたまに話すようになったらしく、昨日は燕宮の部屋からシェンが出てくるのを見た。
スティンは部屋に引きこもったままあまり出てこない。だがスイにいたく気に入られているようで、リビングルームに出てくるたび質問攻めにされたりからかわれたりしていた。
一昨日のこと、スティンのいる部屋に入ったマリーが大爆笑しながら出てきた。何事かと思ったら、いつのまにやら部屋の中が完璧に整理整頓と掃除がされて、見違えるくらいになっていたそうだ。おまけにちゃっかりスティンの持ってきた研究道具や資料も配置され、部屋の中はルズアの寝床以外完全に彼の研究室と化しているらしい。
ただのんびり過ごす日々は、びっくりするほどの早さで過ぎていった。
大騒ぎするほど嬉しいこともなく、落ち込むほど悲しいこともなく、何をしていたかいまいちちゃんと思い出せないのに、ずっと良い気分だったことだけは思い出せる。
不思議な感覚だった。今まで必死で目指していた道の行先が、自由と幸福のもやの中に霞んでいく。
〝魔術〟の練習だけは欠かさずにしていたが、その時間がいつのまにか少しずつ裸足で草原へ遊びに出たり、シェンとこっそりつまみ食いをしたりする時間へ代わっていっていることに、ポルは薄々気が付いていた。
しかし、そんな平和さの中にも毎日一つだけ——必ず一つだけ、ポルの気にかかることがあった。
「お前、さっきリィリちゃんとこ寄ってただろ」
「かわいそぉ、お前の家のやつらが入った店とか入りたくねーな」
毎日同じ、二人の男の子の声。
子どもたちが学校から帰ってくる時間になると、隣の家の前でこの男の子たちとスイとの言い合いが始まるのだ。
「そんなの、リィリちゃんのほうが可哀想じゃん!」
スイは時々ちょっと震え声になりながら、負けじと反論する。いつもこうだ。
見ていたってポルにはどうすることもできないのだが、どうしても気になってしまう。毎日昼過ぎには手持ち無沙汰になるのにかこつけて、庭に出てはこっそりスイの様子を伺っていた。
帰る時間をずらしたり、帰る方向を変えたりすればいいのに、スイもなかなか頑固で絶対に彼らを避けようとはしない。
このままではただの野次馬じゃないか——とポルは己を奮い立たせるものの、村の住人ですらない自分が出ていっても余計に厄介なことになるのでは……ともやもや心配しているうちに、言い合いは男の子たちの方から一方的に打ち切られ、スイはきまって何食わぬ顔で帰ってくる。
そして、いつもスイより先に帰ってくるミチルがどこかでこっそり覗いていて、ことが終わるとふっと去っていくのだ。
ポルたちもいい加減、いつここを出て行くことになってもおかしくない。今夜思い切ってマリーにこのことを相談するほかないだろう。
そう決心して、今日の昼下がりもまたポルは庭に繰り出していた。
「なんでいっつもいっつもそーゆーことばっかり言うの⁉」
いつもと同じ言い合いが聞こえてくる。しかし、今日はスイが押しているようだった。
「私、帰ってるだけじゃん! ねえ!」
金切り声に近い叫び。男の子の一人が声を低めて言った。
「じゃあ学校くんなって言ってんの」
風の音で聞こえにくい。ポルは耳に意識を集中した。今度はもう一人の男の子が、
「見るだけで気持ち悪いからメーワクなんだよ。うるさいし」
「はあ? そっちの方がうるさいじゃん!」
スイが叫ぶと、男の子たちは彼女に唾を吹きかけた。
「どーみてもお前の方がうるさいだろ!」
「チビのくせに声だけでけーな」
「自分の声聞いたことあんの? お前が思ってるよりキモいから」
「頭悪くて声もキモくて家もキモいんだからやべーよな」
その時、ポルの服が後ろからぐいっと引っ張られた。
振り返る暇もなく足がもつれて転びそうになる。そのままなんとかバランスを取って、ぐいぐい引っ張られるままに後ろ向きに引きずられていく。
なんとかちゃんと地に足がついた時には、ポルは家の横壁と水車の隙間にいた。スイたちの姿はもう見えない。
ようやく後ろを見る。
そこにいたのは、恐ろしいほど温度のない表情でこちらを睨めつける、ミチルだった。
「客」
水音でかき消されそうな、透き通った低い声。
「お前、うちのママとパパのことどう思う」
淡いピンク色のガラス細工みたいな唇が、しゃべる時にほんの僅かだけ動いた。
ポルは戸惑って、絡まりそうになる指先をなんとかポケットに滑りこませる。片膝をついてミチルと視線を合わせると、鉛筆とメモ紙を取り出して返事を書きなぐった。
『どうって……そうね、とてもいい人。優しい人よ』
「嘘だ」
ミチルはばっさり言い切る。
「変な人だってはっきり言え」
ポルは返答につまった。沈黙が流れる。
水車の立てる水音が、ポルをせっつくようにバシャバシャやかましく時を刻んだ。
『変……』
ミチルの顔をうかがう。
『……たしかに、変わった人ではある、けど』
「変わった人!」
ミチルが急に大きな声を出した。ポルは後ずさりそうになって、あわててその場にとどまる。
まるで見えない手でポルの胸ぐらを掴むかのように、ミチルからはわけのわからない鬼気迫るものが放たれていた。わずかにしかめた顔からは、なにも読み取れない。
ミチルは今までの調子から想像もできないほど、勢いよくまくし立てた。
「変わった人? そんなんじゃない、ママもパパも変な人だ。変。おかしい、おかしいんだよ、ママはまだ〝僕〟って言うだけだからいい。でもパパはダメだ。女の服で、女の見た目で、しかも東洋人の、あんな格好誰もしてない。変だって言え。変わってるんじゃない。変だって言え!」
『な、なんで怒ってるの』
ポルは今度こそ少し後ずさる。ミチルの口調は怒り狂っていたが、銀色の睫毛に縁取られた彼女の青い瞳は、怒りも、嫌悪も、苛立ちも見えないぽっかりした穴のようだ。
「怒ってない。訊いてる」
『怒ってるようにしか聞こえないわ』
「怒ってない!」
ポルは押し黙った。ミチルの頰が少しだけ上気している。
儚げな姿の彼女は、これ以上興奮したら水蒸気にでもなって空に上っていってしまいそうだ。ずいぶん重たい水蒸気。油断すると押しつぶされそうな——
ポルは何度か瞬きをする。ダメだ、切羽詰まるとどうでもいい些細なことをぐるぐる考え出すのは悪いクセだ。
我に返って、さあどうする、どうしたらいい、と自問自答を始める。
するとありがたいことに、ミチルが再び小さく口を開いた。
「……訊いてこい」
『えっ?』
「ママに。なんでパパと結婚したのか。訊いてこい」
『わ、私が?』
ミチルは答えない。かわりに数秒の間ポルをじっと見つめると、じり、じり、と後ろに半歩ずつ下がって、やがてぱっ! とこちらへ背を向けて走っていった。
風車の羽が風を切る音と、水車が小川の水面をくぐる音。時々聞こえる鶏の、ケーッ! コココ……ととぼけた叫び声。
雑音で満ち満ちたそこに、ポルはぽかんとしたまま、膝をついて固まっていた。
最後の返事を書いたっきりのメモ紙が、虚しく風に揺れる。ポルはひとつ、ふたつ、まばたきした。
そこへ、家の裏口の方からシェンが姿を現した。こちらを見てギョッと目を丸くする。
「なっ、なにしてるんですカ? ポルさン」
ポルはあわてて我に返ると、勢いよく立ち上がった。ポケットにメモ紙と鉛筆をしまう。タイツの膝が汚れてしまった。適当に服についた土を払って、ポルは家の庭の方へ駆けていった。
ぽつんと取り残されたシェンは、しばらくそこで首をひねっていた。
**********
その晩、ミチルの様子はいたって普通だった。
リビングルームで本に没頭しているふりをして、ポルはマリーたち一家の食卓をちらちら気にかけていた。マリーとスイはよくしゃべり、それを聞いている燕宮とミチルはずっと黙っている。
燕宮はたまにマリーやスイの方へ視線をやるが、ミチルはずっと手元の塩茹で芋に目をやったままだ。普通、いや、いつもと何が違うのか判別できない。
四人がのんびり夕食を終えると、空いた席でポル達が夕食を食べる。いつもの日課だ。
今晩一緒に席に着いたのはシェンだけで、二人で向かい合ってぼそぼそと会話しながらスプーンを動かした。メニューは白パン、塩茹で芋に香草と卵のとろりとしたスープ、焼いた干し羊肉の野いちごジャムがけ。
マリーは料理が得意じゃないそうだが、ここの食べ物は素材が美味しいのでそんなことは全く気にもならなかった。食が進んで、やがて二人の会話が減ってくる。
しばらくすると、スティンがやってきてポルの隣に座った。嬉しそうな顔で、今日読んだ本や考えたことの話をしてくれた。
三人が食事を終えるころ、ルズアがやってきて残ったものを全部空っぽにしていく。これもいつもの通り。ポルはちょっと食べ過ぎて、胃をさすりながら一息つく。
ほどほどに食べたシェンは薪を抱えて風呂の湯を焚きに行った。そのあとを追って、スイが肌着姿で土間へ駆けていく。
途中で残り物を貪り食っているルズアの後ろを通りかかると、背中にガバッと掴みかかった。
「おにーちゃぁん! スイにもなんかちょーだい!」
「おうっ……さっ、き、食ったん、じゃねえ、のか、よ、……うぇっ」
ルズアは咽せこみながら小声で言った。スイは「うっそ〜! ぎゃははは!」と笑いながら走っていく。
ポルが必死で笑いを堪えていたら、ルズアがバン! と空になった干し羊肉の大皿を机に置いてポルを睨めつけた。
「なに見てやがる」
ポルはひらひらと手を振って立ち上がる。空になった皿を全部回収して、キッチンへ入った。
ここ数日、皿洗いと風呂焚きはシェンと交代制なのだ。洗濯は燕宮と子供達がして、料理はマリーと、手すきの面々が取っ替え引っ替え手伝いやいたずらをしにくる。
スティンは半ば強制的に子供の相手をすることになっているし、どうやって言いくるめたのか、マリーは外の動物の世話を全部ルズアに丸投げしていた。真面目にやっているのかは甚だ疑問だが。
ともあれそういうことで、今晩の皿洗いはポルの番だった。棚から洗い桶を取り出して、水瓶の水を汲む。
リビングルームをちらりと覗き見ると、一仕事終えたと言わんばかりのルズアがテーブルについたまま大欠伸をしている。その奥でマリーが装束姿の燕宮に、毎晩のごとく語るのも恥ずかしいようなしょうもない話をしていた。
ツバメが僕にくれたプレゼントで一番気に入ってるものは何か、とか。僕とツバメが出会ったのは運命か否か、とか……。ポルは視線を手元に戻して、こっそり苦笑いをした。
**********
柱時計が夜十一時を知らせた。
ポルは寝間着のまま、こっそり裏口の外で膝を抱えながらぼうっと夜空を眺めていた。
柱時計の鐘が聞こえて立ち上がる。
家の中に戻ってリビングルームに入ると、そこではマリーが一人ぽつんとソファに腰かけて、朱いランプ灯の下、ミルクをすすりながら書面をめくっていた。
ほかの面々は全員それぞれの部屋にいるのだろうか、もう寝てしまったのかもしれない。
チャンスだと思った。静かにマリーへ近づく。
ふ、とマリーがこちらを見た。ポルはマリーの隣に座って、少しだけマリーの書面を覗き込んだ。
「まだ起きてたのか」
マリーがポルと視線を合わせて微笑んだ。ポルはポケットからメモ紙を出す。
『それ、お仕事の?』
「うん。書類仕事が好きじゃなくてさ、スティン君に見てもらったんだ。それに目を通してるだけ」
『ふうん……』
ポルはスリッパを脱ぐと、マリーに借りた青い寝間着の裾を折り曲げて、あらわになった足先をぶらぶらした。
マリーが飲みかけのミルクのカップをポルの前に置く。ポルはそれを取って、静かにすすった。
「ポルちゃんは、何してたんだい?」
書類に目を戻して、マリーが尋ねる。
『外の空気を吸ってたの。今日、すごく月も星もきれいで……そうだわ。マリーさん、一緒に月、見ない? ちょっとだけ』
マリーは数秒きょとんとしていたが、やがて、グレーの瞳を半月形に細めて大きく息をついた。
「そうだねえ。確かに、わざわざ見に出るのは久しぶりだなあ」
書面をテーブルに伏せて残ったミルクを飲み干すと、立ち上がって伸びをする。ポルも同時に立ち上がった。
マリーは暖炉の横に置いてあった大ぶりのランタンを取り、中のろうそくに暖炉の火を移す。
火が揺れなくなるまで待って、ポルとマリーは玄関からそうっと外に出た。
どちらともなく玄関先の階段に腰を下ろす。マリーがランタンを足元に置いた。
ポルは、再び夜空を見上げる。今夜に限って薄い雲は一片もなく、限りなく漆黒に近い紺色が頭上に広がっていた。
満月にちょっとだけ足りない月はちょうど南中高度で、昼に焼いた卵の黄身のように香ばしい金色だ。
その周囲を、砂のような星々が覆いつくす。ヒヤリとした空気と湿気た草のにおいを感じていると、いまにもぼとぼと冷たい星粒が降ってきそうな気がした。
村の家畜もみんな寝静まって、聞こえてくるものは犬小屋の奥にいるスターナのいびきだけ。あとは真っ暗い、無限の静寂。
「きれいだねえ」
マリーの甘くてやさしいつぶやきが、闇の中に霧散して消えていった。
ポルはゆっくりと、大きくうなずいた。あまりにも美しい静けさで、メモ紙の紙擦れの音さえはばかられる。
『マリーさん』
「なあに?」
『訊きたいことがあるの』
「うん」
ポルの言葉はするする自然に出てきた。星空を眺めたまま会話できないのが、心底惜しかった。
マリーの顔をちらりと伺う。ランタンの灯でぼんやり下から照らされた彼女の顔は、胸が締め付けられるほどやわらかい。
『どうして、燕宮さんと結婚したのかって。ミチルちゃんが』
マリーはくっくっく、と笑った。
「そうかあ、ミチルがかぁ。そうかぁ」
軽く座りなおして、正面を向く。膝を抱えると腕に顎をうずめて、小さな声で語りだした。
「いつか訊かれると思ってたんだ、そのこと。僕は女で、ツバメは男で、そりゃあ傍目からすれば女同士に見えるだろうけど——そういう意味だろ? その質問。僕らは変わってて、その変わり者同士がまたどうして一緒に暮らしてるのかっていう」
ポルはおそるおそるうなずいた。
マリーの表情は一片たりとも変わらない。
「単純なんだ。僕たちは、お互いがお互いを好きだった。ただそれだけさ」
言葉を切ったマリーの砂色の短髪に、オレンジの光が揺らめいた。
「あんまり気にしてなかったんだ。僕も初めてツバメに惚れたときは、女の子だと思って好きになった。男の子だって知った時、なんだか……なんかね。まあ、別にいいやって思ったの。ツバメは国を追い出されてでも女の子として生きたかったんだって。じゃ、僕は男の子として生きようかな。そんな感じ」
ポルは黙ってマリーを見つめる。
マリーは一瞬だけこちらに目をやった。
「なんとなく、そっちの方がツバメを守るのにはちょうどよさそうだったからね。結婚した……っていうか、一緒に暮らしてるのもそう。一人より二人の方が生きやすそうだった。一緒に居られて、自由にやっていけるならそれ以上の理由はいらないだろ? スイとミチルもそういう理由でうちに迎えたんだ。あの子たち、もとは孤児院の子供だったのさ」
マリーが再び口をつぐむ。
遠くからするかすかな風の音だけが、二人の間に流れた。
ごう……ごう……と、見えないほど大きなほらあなの空洞音みたいだ。
ポルは顔を上げた。月の表面を、細い雲が横切っていく。やがて月を通り過ぎた雲は、ちぎれて、夜空に溶けて見えなくなった。
「……子供たちにそれを訊かれたら、そう答えるつもりだった。幸せならべつに男だとか女だとか、気にしなくていいんじゃないかなってさ、ちょっとかっこつけたくて」
マリーがふふっとかすかに笑ったのが聞こえた。
ポルも空を見たまま少し笑った。
「でもよく考えたら、なんだかダメな気がしてきたよ。あの子たちの生きるところにはもちろん、男と女の世界がある。そこから離れて暮らすことが僕たちには幸せだったとしても、子供たちの幸せだとは言えないから——ちょっと申し訳ないな、うん。すでにある囲いの中で暮らせるなら、それに越したことはないんだ……」
ポルはマリーを振り返った。
マリーもこちらを振り向くと、首をかしげてまばたきを一つした。
「ミチルが僕に直接じゃなくて、キミに訊いてこさせようとしたのにはわけがある、と、思うんだよね。今言ったこと、ミチルに答えておいてくれないかな。ポルちゃん」
ポルはうなずいて、にっこりしてみせた。
『じゃあ、さ』
「うん?」
マリーの瞳がろうそくの光とまじって、はちみつ色にとろけて見える。ポルは鉛筆をのろのろと、慎重に手元のメモ紙へ走らせた。
『ミチルちゃんにそれを伝えたら、私たち、この家から出発するわね』
マリーの顔からすっと微笑みが消えた。
数秒、二人で黙りこくる。玄関戸の向こうから、柱時計の振り子の音が聞こえる錯覚がする。
しばらくしてマリーは、少し低い声でつぶやいた。
「ほんとう?」
ポルは視線をランタンに落として、重くうなずく。
「本当に、そんなに急ぐのかい? 子供たちが四人増えたくらいじゃ、僕の家はどうってことないんだ。それでも?」
ポルは一瞬ためらう。顔をしかめて、もう一度ゆっくりうなずいた。
『急がなきゃいけないの』
「僕はまだ、うちにいた方がいいと思うな」
マリーがきっぱり言った。ポルはうろたえる。
『やっぱりそんなに危ない状況なの? まだ隠れていた方がいい?』
「いや——いや、そういうわけじゃないんだけど、」
『ええ』
「キミたちが、僕に話してない事情をもってることはわかってるんだ。でもさ……」
マリーは一瞬、言葉に詰まった。
「ここで考えるんじゃ、やっぱりダメかい? ここでなら、僕たちだって一緒に考えられるよ。キミたちが急いでる用事は、その——もっと他の大人がするんじゃダメなのかな? どうしても君たちが行かなきゃいけない? そりゃあ、そうじゃなきゃこんなところまで来てないとは思うけど、それにしたって——」
自分の唇が震えているのに、ポルは気がついた。ぎゅっと歯をくいしばる。
『うん、だめなの』
「他の子たちは?」
マリーはいまや、眉間にしわを寄せてポルをまっすぐ見据えている。
「他の子たちの意見は聞かなくていいのかい? キミがもうここを離れるって言ったら、賛成してくれる?」
『賛成してくれないなら、説得するか、ここで別れるまでよ』
ポルはメモ紙に書きなぐった。
『私が旅を始めて、彼らをここまで連れてきたの。だから絶対に目的を果たさなきゃいけないわ。私だけになってもよ』
「そう……そうか」
マリーは豆を投げつけられた鳩みたいに、面食らって視線を逸らした。
何度めかの静寂。
ポルには、マリーがまだ何か言おうとしているのがわかった。しかし、マリーは口を開かない。ポルはわざとマリーの方を向かないよう、外へ顔をそらして、地平線を探した。夜闇にとける地平線を——
ずっと遠くを見つめていると、やがて目が慣れて、うっすら視界に黒々とした空の端が浮かび上がってくる。
あのあたりで、きっとごうごう風が唸っているのだろう。あそこに、星は沈んでいくのだろう。明日の夕日も、あそこに。明後日の満月も、あそこに。その次の朝の薄雲も、あそこに。
ポルは突然まなうらが熱くなったような気がして、足元をみた。ランタンの灯の眩しさに、ほかの暗闇が一瞬で真っ黒く塗りつぶされる。
結局、マリーはなにも言わない。
彼女はもう一度月を見上げると、じゃり……と耳障りな音を立てて立ち上がった。ポルの後頭部に、とん、と柔らかいものが降ってくる。マリーの手だ。
「……いつでも戻っておいで」
かたくてわずかに熱を帯びた、いつもと違う低い声。
マリーはポルの頭をそっと撫でて、そのまま玄関ドアを開けた。きぃ、と蝶番がきしむ。
「じゃあ、おやすみ」
再び蝶番がきしむ音がして、ゆっくりドアが閉まった。マリーの足音が、ドアの向こうで遠ざかっていく。
ひとりになった。
ポルは置き去りにされたランタンの灯をみつめる。
生きてでもいるかのように右へ、左へ、炎が不規則に揺れると、辺りもそれに合わせて少しだけ暗くなったり、明るくなったりを繰り返した。
夜空を見上げる。こんどは眩しい灯に目が慣れたせいで、星さえ探すのがやっとだった。
ポルは急に胸がはちきれそうになってきて、今書いていたメモ紙を破いて細かくなるまでちぎった。それを思いっきり階段の下へ投げてばらまく。紙吹雪がはらはら地面に落ちるのも見届けず、ポルは膝を抱えて腕に顔をうずめた。
かすかにポルの腕の隙間から、ぐじ……ぐじ……と小さく鼻をすする音。誰もいない真っ暗な平原のまんなかで、その音だけが消えいりそうに息づいていた。
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