4-6 破戒と平和
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翌朝、ポルは妙に早く目が覚めた。
体の調子がすこぶるいい。頭も冴えわたって、なんとなしにわくわくしてくる。
跳び起きるように身体を起こす。足元の方にある窓からは、今日もカーテン越しに白銀の陽光が入ってきていた。右隣を見ると、シェンはまだ起きていない。掛け布団を頭までかぶって、中でうずくまっている。
ポルはベッドの上で立ち上がり、マットレスで少しだけ跳ねて、窓の前に着地した。
カーテンを開くと、パッと朝の光が眼球を刺す。何度か目を瞬いたら、ひたすらに広がる平原と、ここ数日よくある控えめの青空が、窓の向こうにずっとずっと見渡せた。
さらに目を凝らせば、ところどころ曲がりくねった細い小川があちこちに伸びているのがわかる。そのうち一本は、この窓のすぐ下まできていた。窓ガラスに顔を近づけると、家の横に水車が見えて、そこで小川の水が汲み上げられていた。
あとで家の周りを探検しよう。面白いものばかりありそうだ。
シャッ! と勢いよくカーテンを閉めると、同時に部屋の外から「いってきまーす!」とスイの元気な声が聞こえた。
ベッドに戻って、枕元に置いた懐中時計を見る。朝八時半。
ポルはさっと靴を履き、鉛筆とメモ紙を持った。こんもりしたシェンの布団がもぞもぞっと動く。どうやら、目は覚めているが起きてこないらしい。ポルはそろっと静かに、部屋を出た。
廊下を歩いて角を曲がると、ちょうど玄関前のマリーに鉢合わせた。
「やあ、おはよう。今朝は早いね」
今日のマリーは、薄青色で詰襟のきっちりした上着に、白の長ズボンだ。右肩には王都の騎士と同じ、銀の糸でアジサシの紋が入っている。スリッパからグレーのショートブーツに履き替えながら、マリーは片足でよろよろしていた。
ポルは目をこすって、マリーににこにこ近づく。
『お仕事?』
「うん。これから馬で行くんだ」
ブーツの靴紐をがっちり結んで、どっ、と片足を下ろす。今度はもう片足に取り掛かると、思い切りよろけて玄関ドアの枠に捕まった。
しゃがんですればいいのに、とポルは思った。
『スイちゃんとミチルちゃんは?』
「今日は二人とも学校に行ったよ。僕が仕事の日は、ミチルもちゃんと学校に行ってくれる」
だから昨日はスイしか学校に行っていなかったのか、とポルは一人納得した。
尋ねてもないことをよくしゃべる人だ。
マリーは靴を履き終えると、足元に置いてあった白いカバンを肩からななめにかける。カバンの前面端には、緑色の糸で控えめに、〝王立騎士団衛生科 常駐衛生隊〟と筆記体の縫取りがしてあった。
マリーは最後に上着の裾をぴっと伸ばすと、玄関ドアに手をかけて、
「じゃ、行ってくるよ。何かあったらツバメに言ってくれ。朝食べるものは台所にあるから」
軽く手を振ると家を出て行った。
ドアが開いたときに生ぬるい風がひゅうっと吹き込んできて、ポルの前髪を巻き上げた。
ポルは振り返ると、髪を手で梳きながら家の中に耳をすませる。家の中は、たまにする家鳴りと隣の風車の音以外に、何も聞こえない。
シェンはまだ起きてこないし、燕宮は自室にこもっているのだろう。スティンとルズアは何をしているんだろうか。
スティンは大方部屋にいるような気がするが、ルズアは皆目見当もつかない。起きて外で剣でも振っているかもしれない。
自分一人しかいないリビングルームとキッチンは、ちょっとすっとしたようなどきどき感で満ちている。なんでもできるような気がしてくるのだ。
さあ、何をしよう。誰も見ていない。退屈になったら外に出てもいい。寂しくなったら家にいる人を探して、一緒に菓子でも食べればいい。
なんだかくすぐったい気持ちになってくる。意味もなく笑い出しそうになる。
声があったらきっと、大声で笑い転げていただろう——小走りでリビングルームに入って、思いっきり勢いをつけて後ろ向きにソファに身を投げた。ぼっすん、と周りに風が起きそうなくらい身体が沈んだ。
ポルは立ち上がると、部屋の隅々をぐるぐる見て回った。
窓の下の水瓶を開けて覗きこみ、暖炉の火かき棒を触って火傷しそうになり、食器棚の横にあるスリッパかけに左右ぐちゃぐちゃにかかったスリッパを綺麗にペアで揃え、もう一度ソファに戻って、一人分の席を陣取っているチョコレート色のテディベアを持ち上げてみる。
テディベアの尻の下には、木の人形が二体押し込んであった。関節が紐でできた、ちょっと不細工な男と女の人形だ。
小物の一つ一つさえ、愛しい宝物に思えてくる。ポルはそれを取り出すと、ローテーブルの端に二人仲良く座らせておいた。
動くとやはりお腹がすいてくる。ポルはキッチンに入った。
正面の土間には、かまどにかかったままの大鍋が一つ。鍋の下で燃え残りの薪が燻っていた。右手の流し台には使いっぱなしの深皿が三つと、びしょびしょの白い器がぼんと無造作に置いてある。
ポルは白い器を取ると、流し台の左横にある小ぶりの水瓶を開けてそこの水を汲み、土間の上がり端に腰掛けた。顔を洗って口を濯ぎ、髪を水で整えてなでつける。
立ち上がって流し台に水を捨てると、手近に放ってあった布巾で適当に器を拭いて置き、わくわくしながら土間に跳び下りて、鍋の上の木蓋をそろぅっと開けた。中では干しぶどうの入ったオートミールのミルク粥がたっぷり、甘い匂いを放っていた。
うわっと出た唾液を飲み込んで、ポルは食器棚に走った。
深皿にオートミールを大盛りにする。食卓に着くと一人大げさに食前の祈りを捧げて、ちょびっとずつ食べた。お行儀悪くしてみようかと思い立って、椅子の上であぐらをかいた。
しばらくして、ざーっ、かこん、と小さく障子が閉まる音が、廊下の奥から聞こえてきた。ポルはあわてて両足を床に戻す。
ほどなく、リビングルームに燕宮がやってきた。彼女を見た瞬間、ポルは思いきりむせ込む——燕宮は一昨日マリーが着ていたアイボリーのニットガウンを着て、ラクダ色の細い麻ズボンを履いていた。長い髪は後ろでくくりあげている。
昨日の姿とあまりに違うものだから、思わず釘付けになっていると、燕宮は一瞬こちらに目をやったきり、さっさとキッチン奥の土間へ姿を消した。
オートミールを口に運びながら、ちらっちらっとキッチンのドアに目をやる。
すると数分経たないうちに、土間の方からどんっ、と何か重いものを置く音がした。やがてキッチンのドアが開いて、洗濯物が山積みに入った大きな木桶を抱えた燕宮が、えっちらおっちら出てきた。
ポルは黙って燕宮が目の前を通り過ぎるのを眺めていたが、彼女がリビングルームの床に木桶を置いて廊下へ消えていったのを見ると、あわてて残りのオートミールを掻っ込んだ。
自分たちも洗濯物があることを思い出したのだ。
ポルは空になった皿を大急ぎで流し台に置いて、燕宮の後を追って廊下に走る。スイとミチルの部屋の前で、燕宮が深い籐の洗濯カゴを抱えて出てきたところとかち合った。
『わ、わたしも一緒にお洗濯に行くわ』
メモ紙を取り出して殴り書きで伝えると、燕宮はちょっと首をかしげた。少し間をあけて、小さく頷く。
ポルは燕宮とすれ違い、急いで寝室に戻った。
服が山と入った藤のカゴを抱えて、ポルは土間の裏口から外に出た。家の陰になって風は届かないが、ひんやり乾いた空気と薄い雲がかかった空は、さっき窓から覗いた通りだ。
燕宮はすたすたと風車の方へ歩く。ついていくと、ぶおんぶおん、ばしゃばしゃと爽やかな騒音がポルの耳をくすぐった。
石積みの風車の手前には、黒ずんだ木の水車が取り付けられていて、その下を通る狭くて深い小川の水をばしゃん、ばしゃん、と先についた桶で汲みあげていた。
立ち止まって見上げてみる。ポルの身長の倍近くはあろうかという高さに水車のてっぺんがあって、川べりに木と竹で組まれた細い水道橋に絶え間なく水を流し込んでいる。その行き先を目でたどると、はるかポルの頭の上から始まった水道橋は、ゆるやかに勾配をつけて下りながら隣の家の方へとずー……っと伸びて、そのさらに先で村の中心の方へ曲がって見えなくなっていた。
「こっちは」
背後からの声に、ポルは跳ね上がる。
振り向くと、そばに燕宮が寄ってきていた。洗濯桶を抱えたまま、ニットの袖が余った腕をすうっと伸ばすと、水道橋の太い柱をこつこつ爪で叩いた。
「飲むための水。こっちは」
足下の小川を指差す。
「この先で畑の水につながっておる」
ポルは燕宮の顔を見上げて、うんうん頷く。燕宮は長い髪を翻して、さっさと小川にかかった木の板を渡った。ポルもそれに続いて渡る。
燕宮は風車の方へ歩み寄ると、石の外壁のそばにポツンと置かれた長い木のベンチにゆっくりと洗濯桶を下ろして、その横に座った。
ポルも洗濯桶の隣に藤のカゴを置く。燕宮はふう、と大きく一息つくと、今度は桶に入った洗濯物を全部藤のカゴに移して、空になった桶をポルに渡した。
「水を汲んでたも」
ポルは大きく頷いて、小川へ引き返した。
水車のそばで少しだけ立ち止まる。ポルの目線の少し下で、きししきしし、ごん太い水車の軸と車輪が、擦れて細かい音を立てている。
見上げると、深い木桶が大人数で大縄跳びをする時のように小気味好く、完璧なタイミングで水道橋の入り口に水を投げ入れていた。そのたびにポルの顔へ細かい水しぶきがかかる。
水車の軸は、風車の石壁に穴を開けて中からつなげているようだ。
耳をすませたら、穴の隙間からコッコッ……コケェッ……と鶏の間抜けな声が聞こえてきた。中で鶏を飼っているらしい。
ポルは木桶を抱えて小川のへりにしゃがんだ。幅は二メートルもないものの、案外深くなっているようだ。水面が低くて、しゃがんだまま水を汲むのは無理そうである。
ポルは桶を脇に置くと、靴を脱ぎ捨て、ワンピースの下をまさぐってブルマーを脱ぎ捨て、さらにその下のタイツを脱ぎ捨てて裸足になった。
川べりに腰掛けたら、足首が水に浸かってキンっと冷たい。ポルはまた笑い出しそうになった。
深い小川から大きな器に水を汲むのは存外難しい。川べりに腰掛けたまま、ポルはそろそろと桶を下ろした。川の流れで一気に桶が重くなる。思いっきり持ち上げると、尻が滑って落ちかけた。
なみなみ水を汲んだら、ポルは脱ぎ散らした靴を揃えてタイツとブルマーを畳むと靴の上に置きなおした。
裸足のまま桶を抱えてえっちら、おっちら、よろめきながら、燕宮のところに戻る。柔らかい草の芽がポルの足の裏をくすぐった。
ポルがぷるぷる震えながら木桶を地面に下ろすと、燕宮はそこへ洗濯物をポンポン放り込んだ。
洗濯物半分ほどで桶がいっぱいになると、燕宮はゆっくりと立ち上がり、風車の壁を回り込んでどこかへ歩いていく。
しばらくして戻ってきた燕宮は、片手に埃のかぶった金だらいを、もう片手に木のバケツを下げていた。
もう一度水を汲んでくるよう言われたポルは、燕宮から金だらいとバケツをもらって再び川に引き返す。
今度はバケツで水を汲んでは金だらいの中にぶちまけ、金だらいがいっぱいになったら、バケツを放って川の底を覗き込んだ。
水は透き通っていて、陽の光が届かない川底がよく見える。目を凝らすと、川底の端をたまに小さな魚や小エビが、つつ、つ、と通っていった。
ポルは川面を手ですくって、ちょっとだけ口に含む。ひやっと冷たい水が唇や舌の裏を通って、喉から腹へ落ちた。鼻の奥あたりに、わずかに土臭さとほのかな甘みが残った。
ポルは立ち上がり、バケツを腕に引っ掛けて、重い金だらいを引きずりながら燕宮のところへ戻る。
燕宮はまた同じようにポンポン洗濯物を水に放り込んで、今度はすべての洗濯物が水に浸かった。
ポルが燕宮の隣に座ると、燕宮はポケットから紙包みの石鹸を取り出す。包みを開けて手のひら大の石鹸を小さく割り、ぼちゃん、ぼちゃん、木桶と金だらいに放り込んだ。
ポルが水の中で少しずつ丸みを帯びていく石鹸の角を見つめていると、燕宮がふいにポルの足先を指差して、次に石鹸を指差した。
ポルは一瞬考えてから、足の裏の土を軽く払うと、桶の中に足を入れて石鹸を溶かしてやった。
濡れた洗濯物が足首にまとわりついて、体温を奪っていく。ポルは洗濯物をゆっくりかき回しながら顔を上げて、遠くに目をやった。
地平線まで続く平原は、太陽が高くなって薄く金色に光っていた。
ヴェールのような薄雲がところどころちぎれて、高く澄んだ青空が覗いている。目を凝らしたら星が見えそうだ。
途方もない彼方から吹いてくる乾いた風が、ポルの長い髪と首筋の間をすうっと吹き抜けていく。埃と枯れ草の香ばしい匂いが、時々鼻をかすめる。これこそ純粋な、晴れの日の太陽の香り。
ずっと、この空気を吸っていたい。
このまま日向でぽかぽか暖まりながら、眠りに落ちて、目が覚めたらずうっとあの地平線のあたりまで走っていくのだ。ここの風をいっぱい身体に詰め込んで、お腹が空いたらここの食べ物を食べて、夜になったらこの景色が見える部屋で毎晩眠りにつく——
「昨日預かった本、じゃが」
燕宮のかすれた声にポルは飛び上がった。
そろそろと隣を見る。燕宮はちらりとポルの顔を見返して、金だらいの中の石鹸を手でじゃぶじゃぶとやった。
「あれは誰が解読したのかのう?」
ポルは少し考え込んで、燕宮が〝魔術書〟のことを言っているのだと理解する。
昨日の夕方燕宮に預けていたのだが、そんなことはすっかり頭からすっぽ抜けていた。
ポルは自分を指差してみせる。
「みごと」
燕宮はつぶやいて顔を上げた。
「じゃがの、思うに、あれは東の大陸の言葉ではない」
ポルは慌ててポケットから鉛筆と紙を取り出すと、膝の上で走り書きする。
『どうしてです?』
「東の大陸の文化を研究しておるとのう……言語の分野に足を踏み入れるのも必然なのじゃ」
『ええ』
燕宮はしばらく黙って遠くの方を眺めた。ポルも黙ってもう一度地平線を見つめる。
遠くて見えないだけで、自分の視線の先に誰かいるのかもしれない。
そう思うと、再びポルの胸は無性にきらきらときめいた。
「あれを読めるぬしなら、目処はついておろうがの。神国方面にも、剡国方面にも似たような言葉があるように思えぬ」
ポルはまた慌てて我に返ると、うんうん頷く。
「あれの起源はやはり、この大陸にあるような気がするのう。直観じゃが……」
燕宮は少しずつ、ゆっくりとぼそぼそしゃべる。隣にいても、風の唸り声でときどき声がかき消えた。
「旧知に、この大陸の言葉を専門に究める者がおる。ぬしが望むなら、便りを送っておくが」
ポルはもう一度激しく頷いた。願ってもないことだ。
『ええ、ええぜひとも、お願いします』
燕宮は深く頷き返すと、
「ここを発ったら、その者のところを訪ねるがよい」
すっ、と音もなく立ち上がった。ポルも立ち上がると、足の水を払って木桶から出た。
ふと家の方に視線をやると、庭の方からだらしなくシャツを着たルズアが、両手をポケットに突っ込んだまま、なぜかスターナをすぐ後ろに従えて家の裏へ回り込んでいくのが見えた。
「これはこのまま置いていこうぞ……昼が過ぎたら、子供たちが続きをするじゃろう」
燕宮はそう言って、すり足で家の方へ向かう。
ポルは何度も地平線を振り返りながら後を追った。小川を渡って、さっき脱いだ靴やタイツを回収すると、家の裏の方からやってきたシェンとすれ違った。
いつもの青い上着を脱ぎ、赤紫の綿肌着一枚の格好で、空になったミルク粥の鍋を抱えている。
「おはようございま……」
シェンはポルに挨拶しかけて、燕宮と目が合うと、ふいっとあらぬ方向を向いた。
「……おはようございまス」
ぼそぼそとつぶやいて通り過ぎる。
「小桶と石鹸なら、風車の下にあるぞよ」
燕宮は一瞬足を止めて、シェンの背中に呼びかけた。
シェンは聞こえているのかいないのか、何の反応もせずにそうっと小川の横へ鍋を下ろす。
燕宮は「ほっほっ……」と静かに笑いながら、踵を返して裏口から家へ入っていった。
ポルも裏口のドアに手をかける。小川の方を振り返ると、シェンがこちらに燕宮がいないのをちらりと確認して、バケツを取りに走っていくのが見えた。
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午後三時前。
昼下がりのやさしい陽光が、リビングルームの窓から差し込んでいる。ポルはソファの日が当たる位置に寝そべって、ごろごろ転がりながら燕宮に借りた本を読んでいた。
イクノ神国の言葉は特に、時代によって字の形の変化が激しい。おかげでポルにとっては、いろんな時代の神国語の書物を読み漁るだけで、何か国語もの文字を読んでいるみたいで楽しくて仕方なかった。
燕宮が持っているのは服飾や家財道具の本ばかりだったが、あまりに面白くて一冊を数時間で読み終えてしまい、彼女には目を剥かれた。
そういえば喉がかわいたな、とふと思って、ポルは目を上げる。同時にからん……と控えめに、玄関ドアのカウベルが鳴った。
玄関ドアがちょっとだけ開いて、学校用のカバンを提げたミチルが足音もなく入ってくる。ミチルは秘密の潜入でもしているかのように、そろーっとドアを閉めてすばやく部屋に戻っていった。
ポルは本を閉じて立ち上がった。
思いきり伸びをすると、肩や手首がぱきぱき鳴る。本を持ってリビングルームを出て、寝室のベッドにそれを置くと、かわりにポケットに財布と懐中時計を入れて部屋を出た。少しだれかと歩きたくなったのだ。
玄関に戻って外に出る。相変わらず強い風に、気のせいかと思うほど少し、雨の前触れらしい湿った香りがした。
四角い庭をぐるりと見まわす。
柵の外、ずっと遠くの方に白い羊の群れ。そして、家の壁の角に隠れるようにスターナの巨体と、シャツで髪を隠したルズアが団子みたいに一緒に丸くなっていた。
ポルはなんとなく、彼の方にぷらぷらと近寄っていった。途中でスターナが掘った穴をちょっと埋めてみたり、小石の裏をめくってみたりする。
スターナの大きないびきが聞こえるくらいまで近づいたその時。
門の方から子どもの声がした。
「——来るなよ!」
ポルは振り返る。
今のは男の子の声だった。声の出どころを探すと、門の外からしばらく離れた隣家の近くに、三人の子供の姿があった。
「さっさと帰れよ!」
「なんで⁉ そっちがついてきてるんじゃん!」
男の子の声に答えたのは、甲高いスイの声。
目を凝らすと、二人の男の子に対峙するスイの可愛らしい頭が見えた。男の子の片方が畳み掛ける。
「オレの家はここだもん。ついてくんな気持ち悪い!」
「私の家だってこっちだもん!」
スイは負けじと言い返す。男の子たちはいきり立って、次々とまくし立てた。
「ストーカーだぞ、ストーカー」
「別の方から帰ればいいじゃん、お前とおんなじ道歩いたらバカがうつる」
「ていうか学校来なきゃいいだろ、鬱陶しい!」
スイは地団駄を踏んだ。
「やだよ遊びたいもん! 嫌ならそっちが来なきゃいいじゃん!」
「は? 意味わかんねー」
ぶっ! と男の子の片方がスイに唾を吹きかけた。
「きったね〜!」
そう言うとげらげら笑いながら、男の子たちは隣の家に戻っていった。
ポルはぽかんとしていた。
慌てて開いていた口を閉じると、辺りを見回す。
誰か見ていないのだろうか。止めるとかなんとかした方が良かったのだろうか。からん、と小さな音が聞こえて玄関の方を見ると、ちょっとだけ開いた玄関ドアの隙間に、銀色の髪の端がちらりと消えるところだった。
ポルが立ち往生していると、スイが走って帰ってきた。門をくぐるとポルの姿を見つけて、両腕を目一杯ふりまわす。今しがたあったことなんかさっぱり忘れてしまったような、満面きらきらの笑顔だった。
ポルはなんだか妙に居づらくなった。
隠れるように家の角を曲がり、ルズアとスターナの脇を通り過ぎて、家の裏へ行く当てなく歩いていった。
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