5-13 魂の火
ポルが窓枠に力を込めると、キキキッ……と耳障りな音で軋む。なんとか開いた一人分の隙間を、ポルから順に通って中に入った。
スティンとルズアは、ランプもつけないで待っていた。
スティンが慌てて、ポルの後ろにいるシェンを抱えると窓から降ろしてくれる。
ルズアは奥のベッドに寝そべっているようだ。真っ暗で全然見えないが、赤い髪がもぞもぞっと動いたような気がする。
『ごめんね、長くなっちゃって』
スティンの手を取って綴る。スティンは黙っていた。
『今から一緒に降りるわ。シェン抱えていってくれる?』
「……わかった」
彼が無表情なのは、声で分かった。スティンはさっとシェンを抱え上げ、ドアを開けて部屋を出る。
後を追いかけながら、ポルはちらりとルズアの方を見た。
暗闇の奥で、ルズアの意識がこちらを見返したような気がする。ポルはふいと目を逸らして、部屋を出た。
狭い廊下を数歩進み、梯子を降りる。
先に降りていたスティンとシェンの前で、オバサンが小さな燭台を持って行ったり来たりしていた。壁のランプだけの薄暗い部屋で、燭台の灯りに下から照らされてふらふら漂うオバサンの顔は、本物の亡霊みたいだ。
「あたしとしたことがァすっかり忘れてたよ、チビの小娘」
火が燻るような音でブツブツつぶやく。
「〝お礼〟に行かなきゃなんねんだぁ。他の連中ぁもう外で待ってらぁ」
そう言ってシェンの顔を下から覗き込むと、
「なんつぅ顔してる」
小さく吐き捨てる。くるりとポルたちに背を向け、オバサンはガニ股で玄関まで歩いていき、ドアを開け放った。
そのとたん、わいわいと騒ぎ声が入ってきた。
表に人が集まっているようだ。
「ボサっとすんなぃ、はよ来い」
オバサンが振り返って怒鳴る。ポルはスティンと顔を見合わせて、玄関まで進んだ。
ポルたちが姿を見せたとたん、喧騒がさっと小さくなる。
家の前には人だかりができていた。みんな手に手に小さなランタンを提げている。赤色の火で、まっ暗闇にたくさんの顔が浮かび上がり、ちらちらとうごめく。
微笑む顔。神妙な顔。楽しそうな顔。眠たい顔。夜更かしが嬉しいのか、子供たちの顔は笑っているのが多い。年取った顔は、みんなしっぽり話し合っている。中には、抱いた赤子が起きないか、心配そうに覗き込んでいる顔さえある。
空中に散らばる灯りと、オレンジ色の顔たち。
あの世に向かう、亡者の行列。これから星になる人たちの群れ。
ポルにはまるでそう見えた。この人たちはこのまま歩いていって、ベスペンツァの空で天の川になるのだろうか。
ポルがぼうっと見惚れていると、横でシェンがスティンの腕から降りて、すっと立った。
「シェン嬢……」
スティンがつぶやく。
「待たせたなぃ、コイツだ」
オバサンが外の人たちに向かって小さく言うと、シェンの背中を押した。シェンは一歩、ドアの外へ出る。
すると、ドアの影から男の子が出てきた。隣の家にいた子だ。真っ白なシーツを両手に持っている。だらりと下がったシーツの白が、オバサンの持つ蝋燭灯りをほんのり反射して、そばかすだらけの彼の顔を照らしていた。
男の子は淡々とシェンに近づくと、ばさり……と肩からそのシーツをかけた。下の端が地面をする。
何か、儀式が始まる。
ポルは今更のように気がついて、はっとした。スティンの服の端を小さく引っ張ると、
『屋根の上に荷物が置いてあるから……なんでもいいわ、濡れた布をちょうだい』
彼の手に綴る。
「わかった」
スティンはそう言って、静かに、小走りで奥へ戻っていった。
と、それとすれ違いに、ルズアが二階から降りてきた。しゃんと上着を着て、剣も提げて、えっちらおっちら近づいてくる。
ポルが振り返って見ていると、ルズアはすぐ後ろでふ、と止まった。前髪の影で暗くなったルズアの目元が、なんとなく「前を見ろ」と言っているような気がする。
ポルはゆっくり、正面に向き直った。
シェンは、肩からかけたシーツを男の子に直してもらっている最中だった。男の子は慣れない手つきで肩周りのシーツをたくし上げ、裾が地面に摺らないようにしている。
隣で見ていたオバサンが、イライラとつま先を貧乏ゆすりし始めた。
取り囲む人々の視線の中、男の子はどうにかシェンにシーツを着せると、大きなピンを胸元に刺して留めた。ピンには、木のビーズで作った花の細工がついている。赤っぽい木と白っぽい木のビーズが精巧に糸で編まれていて、とても可愛らしい。
男の子はピンの向きをいじって調整すると、周りの人群れの中へそそくさ戻っていった。
「ヤァっと終わったのけぇ。おい、こいつの灯りは誰が持ってんだあ」
オバサンが全員に呼びかけると、列の真ん中あたりから、黒い髭を生やした太っちょの男が出てきた。片手にあかあかと燃えるランタン、もう片手に火のついていないランタン。
男は火のついていない方を、オバサンに手渡した。オバサンはそれを受け取ると、シェンへ向き直って、
「ここに火をつけるんだぁ。オメェの魂の代わりの火だ」
ランタンを今度はシェンに渡した。
両手に収まるくらいの、背の高い五角柱をしたランタン。吊り金具以外の全部が木でできていて、側面には、気の遠くなるほど細かい透かし彫りが隙間なく施されている。
シェンがランタンを開こうと底の辺りをまさぐっている間、ポルは少し顔を近づけてみた。透かし彫りは、サンザシや木イチゴ、栗にくるみ、ベスペンツァで見たあらゆる木の実と、その間で遊ぶ動物たちを描いている。
眺めている間に、シェンはランタンの底板をどうにか外して、中にある小さな蝋燭を取り出していた。溶けた蝋が底板の上で固まって張りつき、底板と一体化して小さな白い山になっていた。透かし彫りの内側も黒くすすけている。
吹けば飛ぶものを持つように、シェンは底板を手のひらに乗せて、そうっと持ち上げる。
それを見たオバサンは、つい、と部屋の中に顎をしゃくった。
シェンは部屋の中を見やってから、くるりと踵を返す。部屋の奥の壁にかかったランプの前まで行って、うん、と手を伸ばした。
ポルは慌ててその後を追う。後ろからシェンの腰をすくうと、高く抱き上げてやった。
シェンの羽織ったシーツが、とろりと垂れる。風に巻き上げられて浮くように、シェンはすらりと背を伸ばして、白い指先でランプに触れた。ガラスの覆いを外したら、中の火は点のように小さかった。
ランプの油皿についた火を、シェンはうやうやしく蝋燭に移す。蝋燭の芯が灯りに触れると、ふ、と火が消えて、次の瞬間には二つになった。
シェンをやさしく床に下ろしてやる。
シェンの両目は、手のひらの上で揺れる豆粒のような光を、ちらりちらりと映していた。息もせず見つめる彼女の頬で、さっきの涙のあとがてらてら反射した。
「ポル嬢」
横から、スティンが小さく声をかけてくる。今戻ってきたらしい。手に持っている濡れた端切れを、ポルに渡した。
ポルはひんやりした端切れで、シェンの顔を拭く。灯りを見つめたままのシェンは、ぴくりともしない。涙のあとがきれいになくなると、ポルは端切れをスティンに投げ返す。空いた手で、シェンの背中を小さく押した。
動き出したシェンは、ゆっくりと玄関へ戻る。バージンロードを歩く花嫁みたいに、一歩ずつ。
扉の前に置いたランタンの覆いを片手で拾い、蝋燭の上からかぶせて、底板をはめ込む。シェンの魂の火が、森の恵みの形になって浮き上がった。
「んだば、」
玄関の外で、だれか老人が言った。
ざわざわ……と話し声が大きくなる。人だかりが、家の前から移動し始めた。
シェンは当然のように玄関を出て、階段を降り、行列の中心に入っていく。手に持ったランタン灯りが揺れる。
ポルがそれを見ていると、ぐっ、と誰かに背中を押された。振り返ったら、妙に真剣な顔のルズアがいた。
ルズアは、ふいとシェンの方へ顎をしゃくった。ついていけ、だろうか。ポルは小さく頷いて、シェンの後ろへ小走りでつけた。
ランタンを持った人々が、ポルとシェンの周りを囲む。行列は、家の近くにあった橋の方へ、ゆっくりと向かっていた。
さわさわ、と心地よいさんざめきが、ポルたちの周りを飛び交う。
誰もこちらに話しかけてこない。今更、好奇の目を向けてくる者もいない。ただ、白いシェンの影を守るように囲んで歩く。
橋に差し掛かった。水路の水は飛沫も上げず、はるか橋桁の下で静かに流れている。
どこまで行くのだろうか。
まっすぐ進んでいた一行は左に曲がり、ポルたちが今朝通った道に出た。このまま真っ直ぐ坂を下っていくと、ベスペンツァの町の出口に突き当たる。
どうやら、町の外にこのまま出ていくみたいだ。
ポルは急に不安になってきた。この真っ暗な中、子供も年寄りも揃って森の中を歩くつもりなのか? とてもじゃないが、この森に獣がいないとは思えない。足元も見えないし、途中で突然雨でも降り出したら……
ポルの心配をよそにして、一行はあっという間に坂を降り切り、町の出口に着いた。
閉まった門の前で、行列は足を止める。列の中から男が二人飛び出して、するすると門の端をよじ登り、上に組まれた櫓に上がった。
男たちは手際良く、櫓にあったロープを担いで下を覗く。
「開けるぞぉ」
「待ったぁ」
下から、また別のしゃがれた声が答えた。
それに合わせて、列の中で何人かがゴソゴソ動き出す。
手に持っている灯りを地面に置いて、肩に担いでいた細長いものを取り出す老人。よく見ると、大きな角笛だ。
ポケットから、穴の空いた小さなホイッスルを取り出す子供。
懐から、長い棒を一本取り出す婦人。見ていると、背中に背負った木皮張りのカバンを下ろして、体の前に抱えた。いや、カバンではない。腕いっぱいある大きさの太鼓だったようだ。
後ろを振り返ると、数人が何かしら楽器を持っているのが見えた。
そして列の一番後ろに、やはり下から灯りに照らされた仏頂面のオバサンがいる。その横には、毒気が抜けたように無表情のルズア、こちらをじっと見ているスティン。
「えぇどぉ」
ポルの近くで、角笛を持った老人が叫んだ。すかさず、門の上の男たちがロープを引く。
ギギっギギ、ギギ、ギィ……
腹の底に響くような音で軋みながら、丸太の門扉が動く。夜の森がゆっくりと、真っ暗な口を開いた。
ひょおぅ……
冷たい風が吹き抜ける。周りのランタンの火が、一斉に散って躍り上がった。
ぎゃあ、ママぁ……四方八方の足元から、子供が怖がって悲鳴を上げる。
大丈夫よ。いい子にしてたらね。火、つけ直してあげようね……大人の声が、また四方八方からそれに重なった。
ポルはあわてて、前にいたシェンのランタンを確かめる。少し小さくなっていたが、シェンの火はまだサンザシの実の中で燃えていた。
その時、
「あ〜っ! 間に合った!」
後ろから明るい大声がした。全員が一斉に振り返る。
四つの人影が、列の後ろから走ってきた。四人とも手にあかあか燃える鉄のランタンを提げている。
「ポルーっ! いたいた!」
四人の先頭で、細い影が手を振って飛び跳ねる。多分モナだ。モナの持つ灯りが、後ろのハゲ頭に小さく反射した。どうやら、バルバロ、ドニ、パフラヴもいるらしい。
モナは列を固める人たちを一切押しのけることなく、するすると人の間を抜けてポルの横までやってきた。
「さあ、行こうか」
にこにこしながら、当然のように言い放つ。周りの人々は、きょとんとしてお互いの顔を見合わせた。
「おぃ! 行くのがぃ!」
門の上で男が怒鳴った。
はっ、と周囲で息を呑む音がして、人々の視線が門の上に戻る。
「ええどぉ! 行ぐどぉ!」
さっきの老人が、もう一度返した。それを聞いて、ざり、ざり、周りの人々が一斉に動き出す。
どん……どん……からん……どん……
やさしく低い太鼓の音と、木の鈴の小気味良い音が、人々の足音に合わせてゆっくりと拍を刻み始めた。
ほぉん……ほお、ほん、ほぉん……
あたたかい角笛が、それにメロディを乗せる。
ぱきぱき、ざっ、ざっ、一行の足音も、どことなく揃って聞こえる。
四歩に一拍くらいの、ゆっくり、ゆっくりしたリズムで、角笛が和音を重ねる。
ピ――――ィ……ヒャロ……ヒョ――――ォゥ……
息の長い小笛が、甲高い音をさらにかぶせる。
一行は、暗い森に繰り出した。最後尾が門を出ると、門の上の男たちは急いで門扉を閉める。後ろでドゴォン……と音がして、ポルたちは完全に町から切り離された。
からん……どん……どん……からん……どん……
ほぉん……ほん、ほぉ、ほぉん……ほん、ほぉ……
ヒョ――――ウ……ヒィ……ヒョロゥ、ヒ――――ィ……
太鼓の音は、心臓の打つ音に似ている。真っ暗な森の、心臓の音。周りの空気から湧き上がってくるような……
母さんの腹の中にいた時は、きっとこんな鼓動が聞こえていたのだろう。と、ポルは思った。
ざく、ざく、ざく……
ポルも周りの足音に合わせ、オレンジの星たちに囲まれて歩く。
笛の音は、暗闇の中から届くミミズクの声に似ている。やわらかいのに威厳があって、近くで鳴っているのに遠くから聞こえる。
ぬるい春風のような旋律は三拍子だ。
母さんの鼓動も、三拍子だったのかしら。
頭をよぎって、鼻の奥がつんとなった。
どん……からん……どん……どん……からん……
周りの人たちが持つ飾りランタンは、足元を照らすには暗すぎる。それなのに、みんな転びも躓きもしない。時々さわさわとおしゃべりしながら、迷いなく進む。おそらく、このまま進めばポロンソス川沿いの崖に行き着くはずだ。
隣にいるモナのランタンは、飾りランタンの中にいては異様に明るかった。ポルは何とかその灯りを頼りにして、転ばずにシェンの後をついていく。
「ポル、知ってる?」
突然、モナが明るい声で言った。ポルは目を剥いてモナを見る。
「これが、何してるか」
モナは黒いまつ毛に縁取られた黒い瞳を、弓のようにしならせて微笑んだ。ポルは数秒考えたあと、小さく首を振る。
「お礼に、行ってるんだよ。川にね。シェン、川に流されて、戻ってきたん、でしょ?」
足元に目を戻しながら、ポルは頷いた。
「流された人が、戻ってくるのは、川が、魂を取らずに、置いててくれたから。だから、町のみんなで、お礼をするの。今回は、食べずにおいてくれて、ありがとう、ってね」
行列の中で、モナの声だけが場違いによく通る。
「そのしるしに、シェンの、魂のかわりを、ランタンに入れて、流すんだ。この人が、今回返してくれた、魂ですって、わかるように、白い服を着てね」
それを聞いて、慌ててポルは自分の服を見た。白いリネンの寝巻きの上から、藍色の長い羽織。ほっと胸を撫で下ろした。ポルまで白い服だったら、儀式の内容に関わる一大事だ。
「大丈夫だよ、さすがに、ダメだったら、誰か教えてくれるよ」
慌てるポルを見て、モナがからからと笑った。ポルはむっとしてモナの空いた手を取る。
『よく知ってるのね』
「うん。私も一回、流されたこと、あるんだ」
前に目を戻しながら、モナは言った。
「その時に、やってもらったの。楽器を吹くのはね、川に私たちが、来たことを、知らせるの。あと、獣が心配でも、危なくても、お礼をしに来たんですよ、って気持ちを表すため」
ああ、とポルは納得した。だから、わざわざ夜にこんなことをするのか。危険を顧みず、川に尽くす姿勢を見せるためだ。
「で、帰ってきたのが、旅人でも、同じ。町の人と同じように、お礼をしに、行くの」
最後は、妙に静かな声だった。
ポルはモナの顔を見た。いつものあっけらかんとした笑顔は引っ込んで、口の端だけで苦そうに笑っている。
「その時あたし、本当に、反省しちゃってさ」
よそから勝手に来て、町の外をうろちょろして、危ないところへ行って足を滑らせた者のために、町のみんなが獣のひそむ夜の森へ繰り出す。なるほど、反省しちゃって当然だ。無知な余所者の尻拭いを、町のみんなにさせたわけだから。
ポルはモナに苦笑いを返した。それと同じ尻拭いを、今私たちがしてもらってるんだけど……と、思ったらおのずとため息が漏れる。
果たして、尻拭いしてもらっているのはシェンなのか――それともポルなのか。河に落ちたのはシェンだけれど、結局こうなったのはどっちのせいなのだろう。
カバンを奪って逃げ出したのはシェンが悪かったのだろうけど、もっとこう……今思えば、自分はバカみたいに能天気だった。こうなっても仕方なかったのかもしれない。セミの幼虫が羽化するように、シーツを纏ったシェンの後ろ姿は、ポルが知る今までのシェンを脱ぎ捨てた別の生き物に見える。
やっぱり、裁くなんて無理だ。
いや、いや。目をぎゅっとつむり、逃げそうになる思考を引きずり戻す。
あれだけ言ったんだ。私が決着つけなくてどうする。決着つけるって、どう? 頭の中はぬかるんだ泥のようにもたもたしていて、掬おうとした思考が指の間から漏れていく。疲れた脳みそじゃ使い物にならないみたいだ。ポルが今度は、肺の底から深いため息をついた、その時。
一行の足が止まった。
つんのめってシェンの背中にぶつかりかける。モナが、ポルの襟首をひょいと掴んで止めた。
「着いたかな?」
モナはそう言いながら少し背伸びする。ポルも一緒に背伸びして、列の先頭に目を凝らす。
先頭は、ゆっくり慎重に、左へ曲がっているようだった。木の幹の隙間から空が見える。どうやら、崖の淵に着いたようだ。
行列は、崖の淵に沿って横へ広がっていく。灰色の夜空を背景にして、木の幹と幹の間をちかっ、ちかっ、と横切る無数の小さな灯り。星の世界はもうすぐそこで、ついに私たちはこの星たちと空へ旅立たなければいけなくて、地上とはもうお別れで……
現実味のない光景に気圧されて、わけのわからない想像がふくらむ。心臓がバクバクと早鐘を打つ。思わず握った手に汗が滲む。理由もなくやたらと緊張する。
森の出口はどんどん近づいてきて、ついにシェンが崖の淵へ出た。シェンのシーツが、ぶわりと風に膨らんだ。シーツの端に頬を打たれながら、なんとかポルも森を出る。
シェンは白い影が滑るように、なめらかに崖の淵を列に沿って歩く。谷からの風が強くて、シーツがバタバタと音を立てた。横髪が顔にかかって前がよく見えない。
暴れる髪をかき分けてしばらく進んだあと、ふ、と一行が後ろから止まった。最後尾が森を出たらしい。
行進が止まると、誰からともなく崖の方へ体を向けた。谷の底は真っ暗だ。川の水飛沫すら見えない。町人たちの奏でる音楽は、びゅうびゅうと荒れる谷風に吹かれて、後ろの森へ流されがちだ。
横を見ると、シェンはぶら下げていたランタンの火が消えないように、両腕で大事に抱えている。反対隣の人が持ったランタンからの逆光で、シェンの横顔は、オレンジ色の線だけになって浮かび上がっていた。すぐそばにいるのに、輪郭だけがまぶしくて表情が見えない。
その時、ふ、と音楽が止んだ。
時間がぴったり止まったみたいに、森も谷も黙った。空気が凪いでいる。
ポーン、ホ、ホホーン……
静けさの中から、角笛の短いメロディが響いてきた。
森の万物が、耳を傾けている。
なんだか、どこかで聞いたような音階だ、とポルは思った。どこだったっけか。
ポルが考えていると、突然シェンが、抱いていたランタンをふいっ、と放った。
ひゅっ! はかったように突風が吹いて、ランタンを少し巻き上げる。木のランタンは軽くて、あっという間に谷の真ん中へ攫われていった。不思議なことに、中の灯りは消えていない。流れ星のように、谷底へ吸い込まれていく。闇のむこうへ――今は見えないポロンソスの激流へ飲み込まれていく。
ひゅるひゅる、ひょう、とうなる風は、高い音で鳴り、低い抑揚を奏で、歌のようにも聞こえた。河から、さっきの角笛への返事かもしれない。シェンの放った魂の火は、闇の中腹をふわりふわりと漂って、だんだん小さくなって、小さくなって、小さくなって――消えた。
「ごめんなさい」
シェンがつぶやいた。
きれいなアルバート語だった。シェンの顔を振り返ると、彼女は谷底の、火が消えたあたりを見つめていた。白いシーツから反射するわずかな光に下から照らされたその顔は、深く疲れ切っている…….ように見える。ポルは魂の火を放ったあとの手をとって、
『いいのよ』
と綴った。
誰への、何へのごめんなさいだったのか、ポルには分からない。でも何となく、そう言った方がいい気がした。
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