3章 サラマの大門
3-1 旅は道連れ
重苦しい曇り空が広がる午後。まだ消えない雪と、窓ガラスを揺らす北風が、イーステルンの冬は終わっていないと訴えている。
そんなことはまったく関係のない別世界にあるかのような、イーステルンで一番大きい煉瓦造りの屋敷の一室。昼間なのにカーテンが閉めきられた部屋に、曇天の弱い陽光は届かない。
薄暗い部屋の奥で、もぞもぞとベッドが動く。毛布の中から、ぴょこんとメルが顔を出した。
「んー……今何時……」
大あくびをしながら、誰にともなく問いかける。すると、窓の下のチェストに置いてある鳥かごから、返事が返ってきた。
「三時ヨ」
答えたのは白いオウム。
「五時ヨ」
それを真似して、隣のかごのカラスが叫ぶ。それにさらにオウムが乗っかる。
「十時ヨ」
「一時」
「六時ダヨ」
「九時ヨ」
「あー、分かった分かった」
メルはカラスとオウムを制止すると、時計を見た。二時半だった。起き上がってベッドを降りる。鳥かごのそばの窓を開けると、カラスを出して窓から放った。
昼前に眠ってから、もう四時間近く昼寝していたようだ。寝る前には潰れそうに痛かった頭と鉛のように重かった身体が、ずいぶんすっきりしていた。
「メル様? 起きていらっしゃるのですか?」
部屋のドアのむこうから、ノックの音とともにペレネの声がする。
「今起きたよ。入って」
メルがカーテンを閉め直すのと、ティーセットの乗ったワゴンを押しながらペレネが部屋に入ってくるのは同時だった。
「体調はどうです?」
「うん、目が覚めたらだいぶ良くなってた」
「そうですか。よかったですわ」
ペレネは少し笑うと、いそいそとティーセットをいじり始めた。
「ですが、この時期風邪はすぐぶり返しますから。薬湯を入れておきますね」
「薬湯好きじゃないよ……もう大丈夫だし……」
「そうおっしゃると思って、メル様のお好きな紅茶と混ぜて飲めるものにいたしました」
「甘くしていい?」
「甘くしたら効果が薄れます」
「んー……わかったよ、飲んだら明日はお仕事するね」
「もう一日くらい休まれた方がいいかと思いますわ。レッスンも慣れない仕事も毎日昼夜やり通しで……そんなに無理なさらなくても、家令と私に休養中の仕事くらいお申し付けくださればいいのですよ」
「レッスンの代理を任せるわけにはいかないからなぁ……」
メルは苦笑いしながら、ペレネの入れた薬湯をすすった。
「そういえば、一昨日ポルから手紙が来たんだ」
「まあ、なんと?」
ペレネの表情が強張る。
「今アーラッドだって。もう今日か明日には王都に発つんじゃないかな。まあ、何とかやってるみたい。楽しそうだった」
言葉とは裏腹に、メルの顔には拭えない寂しさが陰を落としていた。
「そうですか……」
ペレネはとうてい、知らせを喜んでいるようにはみえない表情でメルから視線を逸らす。メルは笑顔を作った。
「まあね、私が頼んで送り出したんだもん。ポルだってきっと大変なんだろうけど、楽しくやってくれてるんだから、私も楽しくやろう!……って思うんだけどね」
しかし、その笑顔もすぐに薄暗くなっていく。
「どうも……なんかね。ちょっと疲れちゃった。……歌うのも好きじゃなくなっちゃいそうでやだな」
言葉がだんだん重くなって、最後の一言がぽとりと湿気った絨毯に落ちた。ペレネは、メルの飲みかけの薬湯に追加の紅茶と角砂糖を三つ入れてかき混ぜる。
「焦らなくてもいいじゃないですか。楽しいのにもお休みがなければ、余計に疲れてしまいますから。待っていれば、楽しくなるときはやってまいりますわ」
「……そうだね」
メルは再び薬湯をすする。甘さに驚いたのか、一瞬顔がほころんだ。こんな時でもくるくると表情を変えるメルに、ペレネは胸をなで下ろす。メルは残りを一気に飲み干すと、
「次の王都からの公演依頼で、ポルに会えたらいいなあ」
「ずいぶん先の話でしょう?もう場所は決まったのですか?」
「仮決定みたいだけど。ツェベーニンになるかもってさ」
「随分と南東に下りますね」
「シラデリフィア共和国の重鎮をお迎えするらしいから、近くで大きな劇場があるところでツェベーニン王立劇場だって。で、しかもただの歌じゃなくて歌劇をやってくれって……」
「まあ……それはその、お嬢様……私、大変拝見してみたく存じます」
ペレネが想像以上に食いついて、メルは目を丸くする。
「あれ、ペレネってそんなに演劇好きだっけ?」
「え、ええまあ、この間いただいた休暇にちょっとその、彼氏が連れて行ってくれまして……ほら、お嬢様が演じてくださるとなるとなおさら!」
「へぇ~なるほど?じゃあ本番、ペレネはついてきてもらうね」
「本当ですか⁉︎あ、ありがとうございま……」
「そのかわり」
「そのかわり?」
メルはわざとらしく口元に手を添える。
「そのでぇとの話、あとでエリーゼと私に詳しく聞かせてね~?」
「なぜです⁉︎ お、お嬢様ならともかくなぜエリーゼに! そもそもそうやってからかうのはおやめになってくださいと何度も言ってますでしょう!」
「だってペレネ、そうやって恥ずかしがるから面白いんだもん」
「お、面白い……」
「うん、面白い!」
「……ああ……はあ、いいでしょう、善処いたしましょう」
ペレネは諦めたように肩を落とすと、ティーセットをテーブルの上に置いた。
「では、失礼いたします。もうしばらくお休みなさってくださいね」
「はーい。……やっぱり明日もお休みにする。薬湯甘くしちゃったから」
「そうですか。ではそのように家令には伝えておきます。失礼します」
ペレネはワゴンを引いて、早足で部屋を出て行った。
「ありがと……って聞こえてないか」
メルはソファに腰掛けると、カップの底で冷えている甘々の薬湯の残りをすすった。
「これだから面白いんだけどなあ……明日は一日ペレネの恋バナ聞いちゃお」
ペレネがメルの部屋を出ると、階段の前にエリーゼが立っていた。エリーゼは手持ち無沙汰そうに頭の後ろで手を組んで、ペレネをちらりと見る。
「どうです? メル様は」
「随分良くなられたみたいですわ。ただの風邪でよかったものです」
「そうですか」
エリーゼは腕を組んで、下の階へ戻ろうとする。ペレネはその後ろ姿を引き止めるように声をかけた。
「ポル様から一昨日手紙が届いたんですって」
「へえ。なんて?」
「もちろん内容までは聞いてませんけど。色々あったみたいだけど楽しそうだったって、メル様がおっしゃってました」
「なるほど……まあ当初はどうなるかと思いましたけど、何とかなるもんですねぇ」
「……そうなんでしょうか」
「へ? ……そうなんでしょうかって?」
ペレネはワゴンを握って、小声でも聞こえるようにエリーゼに近づく。
「メル様はああやって体調を崩されるまで無理していらっしゃる。無事だとはいえ、ポル様を心配するのは今のメル様にはあまりにも心労ではないかと……思うのです」
「……またその話ですか」
エリーゼはゆっくりとペレネから視線を外す。
「私に何回聞いても言うことは一緒っすよ。色々と変わるんです、いえ……変わったんです。私たちが変えた節もあるでしょう。奥様が亡くなって、メル様も、ポル様も……私たちはついていかなきゃならないんです」
割り切りといえば聞こえのいい、諦めがエリーゼの声を重くしていた。
「いつまでもポル様をここに閉じ込めておくわけにはいきませんし。メル様もそんな心配も覚悟の上で、あのスラムの子供に託されたんです。今更ポル様を呼び戻せませんし、ポル様にここのことを気に病んで旅路を行ってほしいなんてなおさら誰も思ってないでしょう。……ペレネさんがそうじゃなければ」
「私は……」
その先の言葉が喉につっかえたように、ペレネは一瞬黙った。そしてぼそりと、
「……もちろん私はそんなこと思っておりません」
そうですか、とエリーゼは適当に相槌を打って続ける。
「ポル様だって今は外の世界を楽しむ方が先かもしれませんが、遅かれ早かれ外の世界の楽しくないところも、いやってほど知らなきゃならなくなるでしょう。お嬢様方がなさった覚悟が大きければ大きいほど、私たちはお嬢様方に後悔させないようにするくらいしかできません」
エリーゼがそう言って口をつぐむ。二人の間に、かたくてひんやりとした沈黙が訪れた。
「……そうですね。愚問だったかもしれません」
氷を壊したのは、ペレネのため息と呟き。
「アトレッタ家は貴族じゃありませんし……私たちがお仕えしているのは、この家ではなくポル様とメル様……それと奥様ですもの」
「まあ、そういうことです」
エリーゼは頬をぽりぽりとかいた。説教くさいことを垂れたのが、少し照れくさかったのだとその指先が語っている。
「今の私たちの主はメル様とポル様ですから」
「ええ」
そう言うとペレネは再びワゴンを押し、エリーゼは階段を早足で降りて行った。
**********
「暗くなってきましたネ……」
辺りを見回しながら、白砂の街道で先頭を歩くシェンが言った。
曇り空の向こうで、もうすぐ日が沈む。陽光の届かない今日は、いつもより早く周囲が暗くなっていた。
森の終わりはもう少し先だ。まだ鬱蒼としている周囲の木々の間から、ほうほう、ほうほ、ともうフクロウの声が聞こえはじめていた。
『もうこれ以上は進まない方がいいかしら? 今日は』
ポルはシェンの隣に立つと、同じように周囲を見回しながら彼女の手にエン国語で綴る。
「そうですネ、あと一時間二時間歩けば、もう少し森もまばらになるかもしれませんガ……安全さは大して変わらないでしょウ。この辺りでできるだけ安全に野宿できそうな場所を探しまス。雪も降りそうですシ」
『わかったわ』
と言っても、この辺りで野宿して安全そうな場所など、どう見当をつけていいのかポルにはわからない。
木々の隙間に生えた下草を踏んで、道の脇に入っていくシェンにただついていった。その後ろを無言で、時が経つごとに腹が減って機嫌が悪くなっていくルズアがゆっくりと続く。
「この辺りでいいでしょウ」
三人は、 道端に立つ街灯がうっすら見える位置の、木と木の隙間に小さく平らになった場所を見つけ、落ち着くことにした。ポルはふう、と近くの木の根に腰を下ろす。ルズアは立ち止まることなく周囲を歩き回っていた。
『ここからどうするの? 暗いから火を起こすのよね?』
「そうですヨ。獣除けにもなりますシ……楽しそうですね、ポルさン」
シェンは近くの石を拾って、片手でぐりぐりと地面に穴を掘りながらポルをちらりと見上げる。
『えっと……変かしら? 初めてだからちょっと……ほら、その、ね。あ、石と
恥ずかしそうに、ポルは首をすくめてカバンをまさぐる。シェンは視線を手元にやったまま、
「旅を始めてからあまり長くないのですネ」
『え?ええ、そうよ。でも気がついたらもう一ヶ月は経ってるわ……早いわね』
「イーステルンがどの辺りにあるのか我はよく知りませんガ、それほど遠いところではないのですカ?」
『そうね。一番近い道なら、馬車で王都まで一週間弱。途中の大きな街を二つ経由したから、少し遠回りしたわ。……ほら、あった。火打金……燃やすものは……』
ポルは火打金の入った袋をシェンに手渡す。肩のあたりまでカバンに突っ込むと、今度は束になった小枝を取り出した。
『こんなこともあろうかと、アーラッドの街中で燃えそうな枯れ枝を集めてたの! もう使う時が来たのね!』
一方でシェンは、小さな肩掛けカバンに似つかわしくないサイズの小枝の束が出て来たことに目を丸くしていた。
「あの、楽しそうなところすみませんガ……そのカバン、どうなってるんですカ?」
『そう、このカバンに!……じゃない、えっと? どうなってるって、これがかしら?』
「どうやったらそんな大きさのものがその中ニ……」
『それは……ね。母さんからもらった、私の家に伝わる不思議なカバンで……ええ、私にもどうなってるのかはよくわからないの』
まさか魔術なんて言っても信じてもらえまい。そう思ったポルはとっさに半分くらい嘘をついたが、大して言っていることの不自然さは変わっていないということに思い至って、とにかく大真面目な顔をする。
「
まさか、本当に大真面目に信じてもらえるとは思わなかった。
『そ、そうみたいね。これはその、エン国で言う秘宝みたいなもので……私たちはこの秘宝がどういうものなのか解明するために旅をしてるの!』
嘘ではない。全部嘘ではない。半分くらいは本当だ、とポルは自分に言い聞かせる。
「そうなのですカ! 我はそういう話は大好きですヨ……何ならそれが解明できるまで旅をご一緒したいくらいでス」
興味津々できらきらとこちらを見てくるシェン。ポルはランプの油を探すのにかこつけて目をそらした。
『それは頼もしいわ。王都まで一緒なわけだし、その間にシェンの知ってる話も少し聞かせてくれる?』
「いいですヨ。我もポルさんの話は聞きたいでス」
なんだか隙のない子だなあ、とポルは思う。半分もうそをついておいて相手の話が聞きたいなんて、自分で言ってから居心地の悪さに胸がもにょもにょした。馬鹿正直にやっているだけでは、外の世界では通用するわけがないと頭ではわかっていても、だ。
『もちろん。で、とにかく火をつけないと暗いわ。どうやって使えばいいの? これ……本で読んだことしかなくて』
取り出したランプ用の油をいじりながら、シェンの手の中にある火打金を指差す。シェンがいそいそと火をつけ始めると、ルズアがどこからか戻ってきた。
「ちんたらと何やってんだ、てめぇら」
機嫌悪く地面にどかっと座ったルズアに、ポルが呆れ気味に答える。
『お腹空いてるんでしょ?』
「空いてたら何だよ。人を食い気一辺倒みたいに言いやがって」
『気がついてないかもしれないけど、あなた私と出会ってから八割方食べ物の話しかしてないのよ』
「もの食って生きてんだから仕方ねえだろ!」
『なに怒ってるの? これからご飯を食べるために今火点けてるんだから待ってて』
「点けてるって」
ルズアの表情が言いたいことを物語っている。魔術とやらを使えば火くらい簡単につけられるだろ、と。
ポルは火打金をいじっているシェンをちらりと見た。ポルの言葉は声ではないはずなのに、無意識に少しこそこそしてしまう。
『この子の前で魔術使うわけにいかないでしょ。仮にも王都までしか一緒じゃないんだから』
「けっ……そうかよ。めんどくせ」
二人は口をつぐんだ。二人の間を阻む、どうにも噛み合わない意思が、なんとなく互いの間で軋んでいるような心地悪さ。もうさっきから相手を見てもいない視線をさらにぐいっと逸らして、ルズアが再び口を開いた。
「じゃあ、とろくせえことしてねえで、さっさとあそこの街灯からもらってこればいいだろ」
そうか! という顔をしたのはポルだけではなく、シェンも手を止めた。
『ごめんルズア、気がつかなかったわ』
「聞いて呆れるぜ。鈍臭女ならまだしも……なんでお前まで驚いてんだよチビ」
突然矛先を向けられたシェンは、一瞬の間の後に薄く微笑んだ。
「ちょっと考え事をしてましてネ、ぼうっとしていたんでス。火、我がもらってきましょうカ?」
ポルが立ち上がる。
『いいえ、私がもらってくるわ。すぐ戻るから』
シェンに言ってカバンを肩からかけ、二人が答える間もなくうっすら見える街灯の方へと草を踏み分けて行ってしまった。
「……何で怒ってんだよ」
吐き捨てるようにルズアは言う。立ち上がって、ポルが行ったのとは反対へずかずかと大股で歩いて行った。
少し先の木の影にルズアが隠れて見えなくなると、シェンの微笑みが鋭い笑いへと変わる。火打金をしまいながら、自分にしか聞こえない声で独りごちた。
「面白い方ですネ、盲目なのに街道がランプで明るいことはわかるなんテ」
「お前らの歩き方が明るいところと暗いところじゃ全然違ぇんだよ。それに、王都なんぞに続く街道が灯りの整備くらいされてないわけねえだろ」
いくつか向こうの木の影から、突然大声で答えが返ってくる。完全に独り言のつもりだったシェンは、驚きで少しのけぞった。
「聞こえてんぞ、クソチビ」
ルズアが木の陰から姿を現す。
「まさか聞こえてるとは思いませんでしタ」
一体この男は何尺先の音の機微まで正確に捉えているのだろう。シェンは抉るようにルズアを見る。音で意思疎通できないポルと、見えてもいない文字の形で意思疎通を図り、あまつさえ一緒に旅しているという時点でとんでもない人間なのは間違いない。もう何年も前にこの国へ渡って、一対一で完全に負けたことはないと自負している自分が、白兵戦であれだけ叩きのめされるわけだ。
一体あのお嬢様がいくら積んだらこんな優秀な用心棒を雇えたのだろう、とさっきまでは疑問だったが、どうやら見ているとそうではないしい。本当に彼らは〝一緒に旅をしている〟ようだ。
猜疑の目で二人の間を観察することすら馬鹿らしくなってくるような、形容しがたい関係がなんとなくそこにある。厄介でもあり、羨ましくもあり、滑稽でも居心地よくもある。どうせ王都までだとシェンは考えるのをやめて、慣れきった笑顔の裏からまっすぐに言葉を投げた。
「……あなたは本当に不思議な方だと思っただけでス。他意はありませン。王都でお別れしなければいけないのが勿体無いくらいですヨ」
「てめぇも大概胡散臭えけどな」
「正直ではやっていられませんかラ。ですが、今のは本心ですヨ」
「チビのくせに、そこまで分かってんだったらあの平和ボケお嬢様に言っといてほしいもんだぜ。そっくりそのままな」
その時、後ろでガサッ、と音がした。街灯から火をもらったポルが、そう遠くないところまで戻ってきていた。ルズアのことなので、そんなことはもう分かっているだろう。知っていてわざとポルのことをバカにしていた。
案の定ポルは少し膨れた顔で戻ってきた。同時にルズアは再び木の陰に消える。
ぐりぐりとタバコを押し付けるように、黙って薪に火をうつすポルの顔は何かを思いつめているようだった。
**********
日はとっぷりと暮れ、辺りには底なしの闇が広がった。遠くからは夜にうごめく生き物の立てる音や、木の葉がひっきりなしにそよぐ音が聞こえる。
まるで森は大きな一つの生き物だ。ゆっくりと風が森の呼吸に飲み込まれて吹き抜けていく。常にうしろに何か重々しい存在を感じながら、ポルは降りてくる寒さに身震いした。
うっすらと見える街道は、もうほとんど人通りがない。閑散として横たわるだけの白砂の絨毯を、たまにランプの点検に来る騎士が通って行った。そのたびに少しだけ、年老いた一等星のように弱いランプの光が息を吹き返した。
三人はさっきから特に何も話すことなく、各々視線を交わすことさえあまりしていなかった。ポルは長い木の棒で大きくなった焚き火をつついている。シェンは木の根に座り、膝の上に顎を乗せて考え事にふけっていた。
ルズアはというと、軽く保存食の夕飯を済ませたらさっさと寝袋にもぐってしまった。本当に寝ているのかどうかポルにはわかりかねるが、寝袋の使い方が間違っているのはわかる。寝袋を頭からかぶって、木の幹に半分もたれている格好はどう見ても巨大な毛虫だった。
よく考えると、旅を始めてずいぶん経つのにルズアの寝ているところを見るのは初めてかもしれない。くるんくるんに丸まって眠る彼からは、寝息一つ聞こえなかった。
「降りませんネ……」
シェンのつぶやきでポルは、はっと時間感覚を取り戻した。目だけで空を見上げたシェンにつられて顔を上げる。星空なんて到底雲で見えず、その雲さえ木の枝が茂っていてよくわからない。
雪の匂いがする、とルズアが寝る前に言っていた。それも彼によるともうすぐ降るらしい。ポルは懐中時計をコートの襟から取り出した。彼が寝てから二時間近く、もう日付が変わろうとしている。
あくびをしているシェンに、ポルはすすっと近づき左手を小突いた。
『降らないわね』
「降るのは嫌でス 」
シェンは膝に顔を埋めた。
『シェンはいつもどのくらいに寝るの?』
「九時くらいでス」
『あら……早いのね』
「夜は起きてても何もありませんかラ」
くぐもった声はやはり眠そうだ。
『じゃあ眠いでしょう? 先に寝てかまわないわよ』
「いえ……まだ起きまス」
シェンは顔を上げると、目を瞬いて犬のように首を振った。
「火の番をしなきゃいけませン。それと、寝袋は二つしかないんでしょウ?」
『火の番は私がするわよ。起きてるから、シェンがもう一つの寝袋で寝ればいいわ』
「ポルさんもお疲れではないですカ」
『いいの、夜更かしは得意だから。今日読まなきゃならない本があるし』
ポルはカバンをまさぐると、寝袋を取り出した。少し不満そうな顔をするシェンにそれを持たせる。
『体を休めるために私たちについてきたんでしょ?』
ポルはしっかり釘を刺した。夜は一人で魔術の練習がしたいのだ。一日でも欠かすと衰えそうで怖いし、少し離れたところに隠れてすれば迷って戻ってこられなくなりそうでそれも怖い。夜更かしが得意なのは、別に嘘でもなんでもない。
シェンはこころもち渋々といった感じで寝袋を受け取った。
「……わかりましタ。お言葉に甘えまス」
ポルはにっこり笑っておやすみを伝える。シェンは長い黒髪を解いて、自前の薄い敷物を平らなところに敷くと、その上で寝袋にくるまった。
ごそごそしていたシェンが静かになり、ポルはほんとうに暗闇の中で焚き火と二人きりになった。
ほどなく、ルズアが言っていた通り、雪がちらついてきた。焚き火もルズアもシェンも、大木の枝のおかげで今のところほとんど雪をかぶらずに済んでいる。ガサッ、と突然近くの枝で音がしたので慌てて見ると、アイテルが今日は蛇を捕まえて食べていた。
小一時間経った。シェンが完全に寝息を立てているのを確かめると、ポルはカバンをかけて近くの大木にするする登った。
少し焚き火側から見にくい位置なので、シェンがいきなり目覚めても大丈夫だろう。薄手の毛布と魔術書を取り出すと、毛布を肩にかけてくるまり、手元の小枝を一本折った。
魔術書を開いて、いつものように軽く目を閉じる。少し集中すると魔術書に描かれた魔法陣が金色に光り、右手に持った小枝が少しずつ形を変え始めた。
茶色くざらざらした樹皮は徐々に滑らかになっていき、節くれだって曲がった形は細くまっすぐに。やがて表面が金属光沢を放ち始め、全体が美しい流線型になったところで魔法陣の光は霧消した。そこにはぴかぴかした銀細工のフォークがあった。アトレッタ家の屋敷で使われている銀食器と同じ意匠だ。
ポルは顔の前にフォークを掲げてまじまじと見つめる。細部までしっかりと、覚えているままの色と形。そっと指を沿わせれば、感触もほぼ同じだ。ここまで精密にできたことに、自分でも驚いた。
柄の根元をつまんで少し力を込めてみる。すると、銀食器にはありえないほどあっさりと、それはまさに弱々しい木の枝のようにぽっきりと折れた。表面だけでなく中も銀でできているように見えるが、強度が再現できていなかったようだ。真っ二つになったフォークをそれぞれ手に握れば、あっけなくバラバラになった。
やはり、そんなにとんとんと調子よく上達するわけがない。むしろこの短い期間で、ここまでできるようになった方がおかしいくらいだろう。これではまだだめだ。ポルは小さくため息をつくと、あくびを噛み殺して再び手近の枝を摘んだ。
刻一刻と冷えていく森の音を聞きながら、ポルは小枝から銀のフォークを生成し続けた。銀の強さはあるが、フォークと呼べないほど不恰好なもの。形と強さは文句なしだが、手触りが木の皮なもの。形も手触りも強さもそこそこだが、意匠が全く違うもの。ついに納得のいくものができた頃には、時計が四時を回っていた。
ポルは魔術書を閉じて焚き火に目をやった。あまりに夢中になりすぎて、焚き火が消えかけているのに気がついていなかった。練習を終えた途端に、体力を使いすぎた疲労感が全身を襲って頭がくらくらする。眠さなのかなんなのかわからないほど怠い身体をふるって、木を降りた。
どさっ、と半ば落ちるように着地してあたりを見回し、シェンとルズアが目を覚ましていないか確認したが、やはりくすぶる火以外に動くものはない。
ポルはほっとして、こそこそと紙とペンとランプ油を取り出す。カバンを下敷きにして紙に大きく魔法陣を描き、細長く折って結ぶとランプ油に少し浸した。できるならまだ、もう少しでも練習しなければ。
大きく息を吸い込んで心を静めれば紙が光り、ボッと音がして先っぽに火が灯った。その時、
「ポルさン?」
突然の声。ポルは跳び上がり、魔法陣の光が消えていない紙の先がボンッ!と小さな爆発を起こした。
「なんなんですか、そレ」
寝ていると思っていたシェンがごそごそと起き上がった。爆発した紙の先はちりちりと煤になり、ポルの横髪が少し焦げていた。ポルは紙を焚き火の中に捨て、慌ててシェンに駆け寄った。
『いつから起きてたの?』
「さっき近くで大きな音がした時からでス」
おそらくポルが木から降りた時のことを言っているのだろう。
『そう、じゃあ起こしちゃったわね……ごめんなさい。まだ四時よ。もう少し寝たら?』
シェンはかまわず寝袋から這い出して、こちらを真剣な目で見た。
「こっそり見ていて失礼しましタ」
『……こちらこそ……こそこそしててごめんなさい』
なぜ自分が謝るのだろう、とポルは思わないでもなかったが、逡巡するより言葉が先に出ていた。
「ポルさんは謝らなくていいんでス……今のがなんなのか、教えていただきたいだけで」
シェンは口ごもって目を逸らした。
「見間違いじゃないでしょウ? なんとなく貴方達は不思議にすぎると思っていましたガ……確かに見ましたヨ。ポルさんがただの紙に何か描いて、それが光って、何もないところから火が出るの」
『そう、そうね、確かに見間違いじゃないわ』
ポルは自分の迂闊さに、後悔と焦りで鼓動が早くなるのを感じた。注意不足で失敗するのはこれで一体何度目だろう。こうなってしまっては取り繕うわけにもいくまい。
『……あなたの見たとおりよ。ただのちょっとした……奇術の類でね』
「初めて見ましタ……どういう奇術か教えていただけませんカ」
シェンはさらに真剣になって身を乗り出す。
『そうね……あんまり人に言えないんだけど』
「誰にも言いませんかラ。本当ですヨ、心配なら誠意をお見せする覚悟はありまス」
『どうして、そんなに知りたいの?』
ちぐはぐな質問だと思った。人に見られたらまずいことを、勝手な不注意で見られておいて。シェンは数秒黙り込んだが、やがて慎重に言葉を選びながらつぶやいた。
「祖国に帰ったら役に立つかと思っテ……我の祖国はずいぶん前に戦争で荒れて、今も荒れていくところのはずでス。いつか安全な船が出たら、祖国に帰って自分の一族を探しにいくつもりですかラ。今の我がこのままでは、かの地で一族のだれかに会えるまで、生きていられる保証がないと思うのでス」
ポルは今回こそ逡巡した。嘘を言っているようには見えないし、エン国が隣のイクノ神国と長いこと戦争をしているのは周知の事実だ。彼女の言い分は、エン国の人としてもっともすぎる言い分だった。だがその理由で、魔術を敵国への復讐に使うようなことがないとは言えない。それはあってはならないのだ。
『……わかったわ。教えましょう。その代わり』
ポルは一言一言、慎重に文字を綴った。
『エン国にわたるまで、私たちの旅に一緒に来てちょうだい。王都までと言わずよ。いつ終わる旅か目処はついてないけど、すぐ祖国に帰られるわけじゃないのでしょう』
それまでに、さっきのこの子の言葉がどこまで本気だったのか見極めをつけるのだ。そして、彼女が魔術を知ってはならない人間だったと判断した場合は、どう責任を取るかも考えておかねばなるまい。ポルは覚悟を決める。シェンはポルと同じくらい考えているようだったが、ゆっくりと頷いた。
「わかりましタ、祖国に帰る時までずっと貴方がたとご一緒しましょウ。知るための誠意を果たせないならば、我が自ら償いまス」
十四歳の言葉とは思えない重みがそこにはあった。ただ単なる相手への誠意と真面目さか、祖国への思いと覚悟か、ポルにはわかりそうもない。
ポルは頷いて、魔術書を取り出した。後ろで小さくルズアが動いた気がした。たった今まで止まっていた時間が再び動き出したかのように、周囲の景色を肌で感じる。ちらついていた雪は止んで、うっすら空が白みはじめていた。
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