1-8 透明人間

**********


 澄みわたった青い空の下に、葉を落とした木が一本。そこに一羽の白い鳩が止まって、ほろっほうほろっほう、のんびり鳴いている。

 その声を聞きながら、私は首を痛めてスケッチブックと闘っていた。アトレッタ家の屋敷のだだっ広い庭の隅っこ、正門のすぐそば。分厚い紙袋を下に二枚敷いて、さんさんとてっぺんから降り注ぐ日光で少し溶けた雪の上にべったり座り、鳩がこっちを向くのをひたすら待つ。鳩がちょっと首を傾げたら鉛筆を持ち直し、こっちを振り向くかと身構えていたら鳩はぷいっとそっぽを向く。そっちじゃないのよ、こっちを向いて、と念を送ってみるものの、一ミリたりとも伝わってはいない。白い鳩は、ほろっほうほろっほう、いかにも気分がよさそうにずっと同じフレーズを繰り返す。

 私は色鉛筆を置いてため息をついた。なぜこんなところでじりじりしているのかというと、特に理由はない。暇をつぶしているだけだ。晩餐会の日から二週間そこらが経ち、私はいつもの屋敷に引きこもりの生活に戻っていた。しかし以前と違い、外の世界を見て知ってしまった私には、今までの何倍、いや何十倍もお屋敷生活が退屈に感じられた。知らない方が良かったのかもしれないと思うほどだ。

 次に外に行けるのはいつなのだろう。四六時中それが頭に浮かんでくる。すると足も自然と門の近くに進むことが多くなり、以前に増して鉄格子の向こうばかりを眺めていた。ついで程度にこうして絵を描いているのだが、そういえば、垣根の中のものはもう全部描いちゃったんじゃなかったっけ。

 その時、くるっと鳩がこちらを向いた。私は心の底の方にちょっとだけ残った気力を奮い立たせて、再び色鉛筆を武器にスケッチブックと闘う。久々に絵を描いたにしては、色鉛筆を持つ手はあまり衰えていなかった。

 最近触れていなかったものを掘り返して、わずかに感じる新鮮さで食いつなぐ日々。平穏で平和な、お屋敷の暮らしが退屈だなんて贅沢な悩みかもしれない。だがいくらお腹が膨れても、他のどこかが飢えている。うずうずする内臓を吐き出してしまいたかった。お屋敷の庭でいくら泥だらけになっても、あの不穏な裏路地のにおいはしないのだ。

 青空を無造作に塗った色鉛筆を置くと、ついに絵が完成した。腕を伸ばしてそれを眺める。

「へぇ、さすが上手いですね」

 後ろから突然声がした。跳ね上がって振り返ると、いつの間にやらエリーゼが真後ろからしげしげ私の絵を見ていた。

『私を驚かすのが好きなのね?』

「ま、そうともいいますね。だって毎回真剣に驚いてくれるんですもん。ペレネさんなんか、超つまんないっすよ」

 なんでもペレネの愚痴につなげる魂胆はどうなんだ。エリーゼは口をへの字に曲げて、掌を上向けるしぐさをしてみせた。

「それはそうとお嬢様、またこんなとこでぼうっとしてたんですか?ランチの時間ですから早く戻りましょうよ」

『……そうね』

 私は立ち上がる。ふと今気づいたが、私が地面に敷いていた紙袋の一つは、あの日ルズアに盗まれた袋の空だった。お屋敷に向かって歩き出そうとしていたエリーゼの服をちょいと摘まむ。

『ねえエリーゼ』

「はい、何でしょう?」

『次もいつか、連れていってくれる?』

 エリーゼは一瞬きょとんとして、すぐににっこりと笑った。

「ええ、もちろんですよ」

 ばささっ……と、鳩がお屋敷の垣根の向こうへ飛んでいった。


**********


 さっきまで青く澄みわたっていた空は、濃紫の夜へ色を変えようとしていた。

 遠く見える黒い森の端に真っ赤な夕陽が沈みかけ、反対側から今日の夜空がやってくる。しかし、悠々と昇ってくるはずのオレンジ色の月が見えない。東の空を厚い雲が大波のように覆っているからだ。大雪を連れてくる、真っ黒な雲だった。

 部屋のベッドの上に座って窓枠に寄りかかりながら、私は暮れ行く庭を見ていた。しばらくすると、正門に伸びる石畳の道を、金の装飾がされた黒塗りの四頭立て馬車がかこんかこんと二台やってきて、玄関の前に止まった。

 やがて玄関から、黒い燕尾服の家令に付き添われた母が出てきた。今日の母は昼過ぎにお屋敷に帰ってきて、メルの歌のレッスンをしていた。しかし、二日後に王宮に呼ばれているとか何とかで、今から泊まりがけの短い旅に出発するそうだ。母はよそ行きの赤いドレスを着て、同じ色のつば広の帽子をかぶっている。優雅に従者の手を借りて、フットマンが開けた馬車の扉の中に消えた。そのあとに護衛の黒い背広が三人、メイドが二人乗り、もう一台には護衛四人と従者が二人乗り込んだ。

 フットマンがドアを閉めると、二人の御者が鞭を振るう。馬の嘶きとともに馬車は走り出し、門番が門の鉄格子を開くとそこから出て行った。

 母が乗った馬車が見えなくなって、私はベッドから下りる。また何もすることがなくなってしまった。ソファに寝そべり、横のテーブルに散らかしてあった本を手に取ってぱらぱらとめくる。何十回と読んだページをすべるように眺めては脇に置き、眺めては脇に置き、全部見たらまた最初から……しばらく無為に時間を過ごすと、ふあっと大きなあくびが出た。もうたくさんだ。

 別の本を探そう。そう思ってソファからのそっと立ち上がった時、ふと壁際の机の上に置いた昼間の鳩の絵が目に入った。暇つぶしに描いたにしては、ずいぶん上手く描けたような気がする。どうせ手持ち無沙汰だし、メルに見せに行こう。

 私は部屋を出て、廊下を挟んだ真向かいのドアをノックした。

「どうぞー」

 中からのんびりとメルの声がした。ドアを開ける。

「あ、ポル!お菓子があるから食べてきなよ」

 部屋の真ん中のソファに座ってドーナツを食べながら、メルは笑って手招きした。メルの部屋の広さは私のより少し広いくらい。薄空色を基調にした壁紙、ちょっとくすんだ白のカーペット、明るい色の調度品の数々、いかにもかわいらしい。きっちり整理されてはいないが汚いというわけではなく、ほどよく物が散らかっていて生活感がある。

 それだけなら普通の部屋なのだが、メルの部屋はかわいいだけじゃ済まない。ここの異様なところは奥の壁、窓の下のチェストだ。まず、チェストの上の大きな金魚鉢に色とりどりの魚が四匹。その隣のアーチ型の鳥かごに、赤カナリアと巻き毛のレモンカナリア。さらにその隣に同じくらいのサイズの鳥かごがあり、そこには白いオウムが一羽いて、ひっきりなしに

「オマエノカアチャンデーベーソー!ハハハハハ!」

 と叫んでいた。

 まだまだある。オウムの左に二つ四角い鳥かご。一つには真っ白い鳩がいて、眠そうにぼーっぼう……と鳴いている。もう一つでは大きなハシボソガラスが、オウムの真似をして

「オマエノカアチャンデーベーソー!」

 と声を張り上げていた。チェストの下には大きな虫かごがあり、巨大トカゲが二匹取っ組み合って喧嘩をしている。

 メルの部屋はいつも動物園状態だ。しかもこうも鳥ばかりが多いと騒がしい。にしても、つい前回来た時にはいなかった動物が増えているような気がするのだが。

『もしかして、また新しい子を連れてきた?』

 メルの隣のソファに座り、手に綴った。メルはうなずいて、

「今は寒いからね。怪我をして落ちた鳥なんかは、夜に雪が降るから凍え死んじゃうんだよ。だから拾ったの」

『へえ……じゃあそこのイグアナは?』

「イグアナじゃないよ。ただのトカゲ。庭師のにいちゃんが冬眠してるところをざっくり掘り返しちゃったんだって」

『あらまあ……何て災難な』

 気持ちよく眠っていた所を御愁傷様だ。その時、部屋の振り子時計の音が七時を知らせた。

「おっと、時間だ」

 メルはそう言うと立ち上がり、歩いていってチェストの上の窓を開け放った。

 何をしているのだろうか、待つこと数分。微かな羽音がしたかと思うと、真っ黒なタカが鼠をくわえてすいーっと入ってきた。タカはそのまま大きく部屋を一周すると、窓枠に止まってメルを大きな黄色い瞳でじっと見つめた。

「よーしよし、今日も捕れたの?よく頑張ったね、アイテル」

 メルは優しく言うとタカに手を伸ばす。この光景を見るたび攻撃されないかヒヤッとするのだが、タカは全く大人しい。メルに翼を撫でられると満足そうに目を細め、かけ時計の上まで飛んでいってゆっくり鼠を堪能し始めた。それにしても、アイテルなんて有名な神話の神の名前なんかつけて、相当な可愛がりようである。当のメルはいつもの日課のごとく、平然と窓を閉めて私の隣に座り直した。

 昔からメルは動物、特に鳥が大好きで、怪我をした動物や巣から落ちた鳥のひななんかを拾ってきては育てていた。ついにタカを飼うようになった時は、そのうちダチョウでも飼い始めないか心配になったものだ。

「ポル、ドーナツ食べない?」

 ぼんやりアイテルの食事風景を追っていると、メルは私の顔を覗きこんで少しドーナツの皿をこちらに押しやってきた。

『んー……じゃ、少し。フォークか何かもらえる?』

「素手でいーじゃあん」

 ぱくっ、と大きな一口でメルはドーナツを半分頬張った。

『今さっきお風呂入ったから、手がベタベタになるのはちょっとね』

「うわ、ポルったらきれい好きー……フォークね……フォーク……」

 メルは部屋の隅の戸棚に歩いていくと、中を漁り始めた。

「あ。ポル、ナイフしかない。いい?」

 頷くと、メルは戸棚を閉めてこっちを振り向く。その瞬間鋭い笑みをキメたかと思うと、突然こちらにナイフを投げつけた。

「えへへー。さすがポル」

 何とか間一髪で避けたが、刃先から飛んできたのは見逃せない。ナイフは甲高い音を立ててソファのはるか後ろに落ちた。

「ま、バターナイフなんだけどねーっ。はい、これ」

 てへっと舌を出して、今度は本当の銀食器のナイフを渡してくれた。

『……あー、えっとね、メル。謝るから、私に何の恨みがあるのか教えてちょうだい』

 私は言葉を選びつつ、今度はちゃんと柄の方からナイフを受け取る。

「恨み?恨みはないよ。ただの真剣ないたずらだよ」

『私に真剣ないたずらをするのは何か言いたいことがある時でしょ』

 メルは耳の下をぽりぽり掻いた。

「へへ、まあねえ。昨日私のおやつを食べたのがポルだって、教えてほしいなあってだけ」

『ああ……ごめんなさい。あのおやつ、メルのだったのね……本当に今まで気が付かなかったの。わざとじゃないわ』

 私は立ち上がって、落ちたバターナイフを拾う。何とも能天気な恨みに聞こえるのだが、おやつはメルにとったら一大事なのだ。メルはわざわざ私のそばにやってきて腕を組む。

「やーだよーんだ。わざとじゃないのなんか知ってるけど、ポルがお菓子くれるまで許さないもんね」

『わかってるわ。明日探してくるから』

 探してくるといってもお屋敷の中を、なので厨房の使用人に交渉してみるくらいが関の山だ。お屋敷の外に出られればもっと……いやいやだめだ、すぐに考えがそこに飛びついてしまう。こんなやりとりをするのなんて何度目かわからないが、毎回私がお屋敷で探したものをあげる約束をするだけで、メルは顔いっぱいに笑って喜んでくれるのだ。メルはきっと私が渡すものなら、たとえ自分の手の届くものでもかまわないんじゃないだろうか。しかしそれでも、商店街で買った手袋とマフラーをプレゼントしたときのメルの姿が頭をよぎる。

「ねえポル、その紙何?」

 頭の中の熾烈な闘いを、メルの声が止めた。メルはさっき私がテーブルの上に置いた、裏向きのままの鳩の絵に手を伸ばしていた。

『あぁ、これを見せようと思って来たのよ』

 そう伝えて、少し勿体ぶるようにゆっくりと絵を裏返す。絵を覗き込んだメルの目がぱっと輝いた。さすが、動物好きにはどんぴしゃりだったみたいだ。

「おおおおおー!おぉー……お……お?」

 が、歓声がどんどんしぼみ、しまいには疑問形になる。メルは絵を掴むと眉間にシワを寄せて、難しい顔で穴の空くほど鳩を見つめ始めた。

「うーん……ポル、思ったんだけどこのはとぽっぽ、この子じゃない?」

 メルは窓際のチェストの上で眠そうに鳴く白い鳩を指差した。言われてみればこの野太い鳴き声、どこかで聞いたような気がしないでもない。

「ほら、足輪してるし」

 よく見ると、かごの中の白鳩は右足に赤銅色の足輪をしている。そして絵の中の鳩も同じように右足に足輪をしていた。なぜ部屋に入った時に気づかなかったんだろう。

「何で自分で描いて気付かないのっ」

 メルは大笑いし始めた。

『いや……だってほら、なんていうか、集中してたから……』

「あっははははは!」

 何がそんなにツボにはまったのか分からないが、メルは涙が出るほど笑った。そしてもう一度絵を見ると、

「あっははは……でも、上手じゃん。気に入ったから飾っとくよ、使ってない額縁もあるし。これ、もらっていい?」

『気に入ってもらえたのなら、どうぞ』

 どうぞ、手でしぐさをしてみせる。メルは戸棚からなめらかな木の額縁を出して、壁に飾ってくれた。サイズは絵に合わせて買ったようにぴったりだった。


 それからずっとソファに座りながら、二人で他愛もない話をした。

 メルの学校のこと、私が読んだ本のこと、昨日の新聞のこと。向かいの壁では、時計の上でアイテルが捕ってきた鼠をほとんど食べ終え、残った尻尾にむしゃぶりついていた。グロテスクだったので私は目を背けた。

 メルが自分の飼っている動物の自慢話を始めた時。かけ時計からからくり仕掛けのカッコウが飛び出し、夜九時を告げた。アイテルが驚いて飛び立ち、ばさばさとメルの肩に舞い降りる。同時にコンコン、と控えめなノックの音がした。

「はぁい!どうぞ」

 メルが返事をする。一呼吸置いて扉が開くと、メイドが立っていた。

「メル様、そろそろお湯浴みをなさいませ。洗濯の者が困っておりますわ」

「ああ、ごめんごめん。今行くよ」

「畏まりました。失礼します」

 メイドは恭しくお辞儀して、戻って行った。

「じゃ、私お風呂行ってくるね。そのドーナツ、残り全部食べちゃっていいから」

『了解よ』

 とはいってもあと三つほど残っているので、この時間に完食するのは多少きつい。自室に持って帰らせてもらおうか。メルが立ち上がると、アイテルは飛んでいってクローゼットの上に止まった。

「またすぐ戻ってくるよ」

 メルはそう言ってドアを開ける。いってらっしゃい、と手を振るとメルは出ていった。

 部屋に一人になった。なんだか手持ち無沙汰だ。私は小さくドーナツを切って、口へ運んだ。

 ふいにネズミでお腹が膨れたアイテルがギャア、と鳴く。クローゼットの上でそわそわと足踏みを始めたので、何かあるのかとアイテルの見ている方を振り返った。

 すると、さっきメルが出ていったドアが少し開いている。そこから部屋に、冷たい空気が流れ込んできていた。行儀が悪いと思いながらも、私はドーナツをちょうど口に運んだ格好のまま立ち上がり、ドアに歩いていった。そっと閉めようとドアノブに触れた、その瞬間。

「きゃああ‼」

 突然だった。廊下から聞こえた鋭い悲鳴。メルだ。驚きではなく、恐怖を含んだその声に肌が粟立つ。私はドーナツを口に押し込み、同時にナイフを手に持ったまま廊下に飛び出した。

 メルは廊下の奥にある部屋の前にいた。その中を見ながら目を見開いて、真っ青な顔で突っ立っている。

 私はメルに走り寄った。走り寄ろうにも、このお屋敷は広い。廊下も長い。メルのところにたどり着くまでに全速力で走って数秒。

 そこは母の部屋の前だった。私が側に来ても気づいてすらいないように、部屋の中に釘付けになっている。私はメルの視線の先を辿った。部屋のドアは全開になっていて、中はよく見えた。

 部屋の中が、ひどく散らかっていた。本棚から大量の本が落ちて床に散らばっている。そして、部屋の主不在で閉まっているはずの大きな出窓が開け放たれている。ぐちゃぐちゃになった本の山の中で、さっと動くものがあった。四角くて黒い何か……黒表紙の分厚い本だ。本が動いた。勘違いかと思った矢先、その本がひとりでに空中に舞い上がる。そしてそのままハエが飛ぶような軌道で、開け放たれた出窓の外へ本が、すとん、と落ちた。

 異常な光景。だが私は、唖然とする前に動き出していた。

 ナイフを捨てて、荒らされた部屋の中へ踏み出す。勢いにまかせて広いはずの部屋を四歩で横切り、窓の下のベルベットのソファを踏み台にして、迷いなく窓から飛び出した。

「ポルっ⁉」

 我に返ったメルが後ろで叫ぶのが聞こえる。それと同時、窓から消えた本をすんでのところでつかまえた。重力に従って落ちながら本を抱え込もうとする。すると、まるで本が抵抗でもするかのように物凄い力で引っ張り返された。

 がくんっと空中で態勢が崩れる。舌を噛みそうになりながら、負けじと本の力に抗った。すると相手の力もますます強くなる。わけは全く分からない。空中で本と揉み合うというあり得ないような状況が続くこと一瞬、

「くっ……!」

 すぐ側で人間の息の音が聞こえた。落ちているのにだ。まさか、という直感に従うまま、試しに体を縮め、勢いをつけて前方の空中を両足で蹴飛ばしてみる。

「ぐっ」

 案の定、小さな唸り声と足が何かに当たった感触。

 間違いない。そこには何もないようにしか見えないが、見えないだけの誰かがいる。透明人間だ。

 思えばひとりでに本が窓から飛び降りるわけがない。透明人間の存在も同じくらい信じられないが。

 しかしそこまでだった。すぐそこに地面が近づいている。

「ポル!」

 メルが窓から私に手を伸ばしていたが、もうとっくに遅い。私は来るべき衝撃に備えて目をぎゅっと閉じた。

 だが、その衝撃は来なかった。

 その代わり、落ちるスピードが急に遅くなって、私は風に舞う紙よろしくふわりと腰から地面に着地した。

「お嬢様!」

 お屋敷の玄関を通りすがったペレネが、慌てて走ってきた。だが、まだ見えない誰かがそこにいる。地に倒れたまま全体重をかけて本を抱え込み、透明人間の尻尾をつかもうと手を伸ばす。相手はこっちの手を叩いて振り払い、私の身体を退けようと服をひっつかむ。その取っ組み合いがペレネには、私が落ちた衝撃でどこかを打って悶えているように見えたのだろう。お屋敷に向かって叫んだ。

「誰か!誰か来なさい!早く!お嬢様がっ!」

 すると、ふっと見えない相手の力がなくなった。そのまま立ち上がる音がして、続いて軽い足音が離れていく。逃げられる!と手を伸ばしたが遅い。庭の芝生がところどころ透明な足に踏まれていくのが見えただけだった。

「お嬢様、大丈夫ですか⁉お怪我は⁉」

 ペレネに助け起こされ、私は息を整える。じんわりとかいた汗を拭って、今更湧いてきた震えをかみ殺した。深呼吸をこっそり、ひとつ。ふたつ。みっつしたところで、周りに庭師や執事がペレネの声を聞いて駆けつけてきた。

『……ええ、大丈夫よ。怪我はないわ』

「ポル!」

 その後ろからメルが走ってきて、勢いよく肩をつかむ。

「良かった……!良かった、ポル……」

 そのまま嗚咽を漏らすメルの背中を、優しく撫でる。撫でながら、私はたった今透明人間から奪い返した本を見ていた。

 重々しい黒い表紙に、金で書かれた題名。今のこの国の言葉ではない、複雑怪奇な文字だ。そういえば、お屋敷の書庫にたまたまあったこの文字の本を数冊、読んだ記憶がある。これは古い文字で、しかも異国でかなり局地的にしか使われていなかった言語だ。そう私は推測している。書庫にあったこの言語の本のいくつかに、アルバート王国の言葉で書かれた手書きのメモがびっしり書き込まれていた。当時私はそれを頼りにこの文字を読み、今も何とか解読はできるが、現在この文字を読める人など滅多にいないだろう。なんせ、世界の諸国の言語で書かれた本が所狭しと集まる、このアトレッタ家の書庫で十五年過ごしても、この文字に似た言語はみたことがないのだ。

 手に入れた問題の本のタイトルには、こう書いてあった。

“ベルンスラートの魔術書”

 魔術書。いかにも胡散臭い題名だ。ただのオカルト本だろうか?

 いや、違うはずだ。なんせこの本を奪いに母の部屋を荒らしに来たのは透明人間。仮に透明人間なんてものが存在しなかったとしても、この”魔術書”の中に書かれているだろう”魔術”とやらを使って姿を隠せる、そんな可能性も否定しきれない。

 しかしどのみち、この本は後でゆっくり調べてみるしかない。周りがとてもそれどころじゃなかった。私はメルの肩をそっと叩く。

『メル』

「……うん?」

『お屋敷に戻ろう。色々考えなきゃいけないことができたわ』

「……うん。母さんの部屋も片付けなきゃ」

 メルは涙をぐしぐしと拭って少し笑い、立ち上がってこちらに手を差しのべる。私もその手を取って立ち上がった。すると、すかさずペレネが寄ってくる。

「お嬢様、本当にお怪我はないのですね?一応一通り医者にお診せになった方が……」

『いいえ、大丈夫よ。お医者様も必要ないわ』

 私の服についた土を払いながら心配するペレネにきっぱり返すと、ペレネはますます困った顔になった。

「そうでございますか……三階から落ちて無傷などとは、信じられないことですわ。何という無茶をなさるのですか」

『はは、ごめんなさいね』

「笑い事ではありませんよ、お嬢様」

 ぴしゃりと言われた。

『……ごめんなさい』

「はぁ、ともあれ何があったのかは後で聞かせていただきます。どこかお身体が痛みでもなさったら、必ずお医者様にお診せするのですよ。さ、お召し物が汚れてしまいましたからお着替えなさいませ」

 ペレネは私の背中を押してお屋敷の方へ急かす。されるがまま、それに素直に従うことにする。

『メル、行こ』

「うんっ」

 メルが泣き笑いにうなずいて、私の手をにぎった。その時だった。

「みなさん、聞いてください!」

 唐突に切羽詰まった声が暗い庭に響く。

 周りでこちらを心配そうに見ていた使用人たちがぴたっと静かになり、一斉に声の主に視線が注がれる。同時に中心にいる私たちによく見えるよう、人並みがぱっと二つに割れた。

 そこにいたのはエリーゼだった。

 全速力で走ってきたらしい。息を切らしているところからすると、明らかに尋常ではない用事のようだ。エリーゼはそこでしばらく立ったまま息を整える。その間に使用人たちが、どうしたのかと騒ぎ始めた。

「何があったのです?」

 待ちきれなくなったのか、ペレネが大声で言った。再び使用人たちが静かになる。

「聞いてください」

 繰り返したエリーゼの声が僅かに震えていた。何かの感情を圧し殺すようにペレネを睨み付け、エリーゼはゆっくりと唇を開く。

「……奥様が……奥様が、宿泊先の宿屋で何者かに刺されて重傷です」


 空白のような静寂。

 頭を殴られたような感じがした。エリーゼの言ったことの意味が分からない。自分の頭が分かることを拒否している。

 握っているメルの手から伝わってきた震えが、すっと遠のいていく。そんな、いきなりな話があるか。いや、いやいや、鵜呑みにしなきゃいけないことはないだろう。

「……確かですか」

 周りのもの全てが、時間までもが止まってしまったような静けさを、ペレネの声が破った。信じたくないと言いたげな声色だった。

「つい先ほど奥様にお付きで行った従者が戻って来てそう言いました。確かなはずです」

 エリーゼの口調は淡々としていた。いつもの剽軽さのかけらもない声音と、恐ろしいほど真剣な表情が、それがどうしようもなく真実だということを訴えている。

 エリーゼは一体今何を思っているのだろう。彼女の言葉から逃げるように、私はぼんやりと思った。

 エリーゼが口を閉じると、しばらく沈黙が続いた。しかし、少し経つと、一人、また一人とエリーゼの言葉を飲み込みはじめる。やがて皆が彼女の報告を理解すると、誰彼からともなくさざめきが起こった。パニックする者、泣き出す者、興奮したように隣と話し出す者。メルは私の後ろで声を上げないよう静かに泣いている。息遣いと手の震えから分かった。

 ざわめきはとどまるところを知らず、集まっている人々全員でどんどん大騒ぎになっていく。

「嘘よ!どうして奥様が!」

「護衛がいたのにか⁉あいつらは何をしていたんだ!」

「重傷ってどのくらいの傷ですの?必ずしも致命傷では……」

 その瞬間だった。


「お黙りなさい‼」

 しん。

 ペレネの一喝が、一瞬にして歯止めの効かぬ喧騒を止めた。

「今あなた方がそのように騒いでいてどうするのです。奥様にお使えするにあたって、有事の際の心得は叩き込まれたはずでしょう!緊急のときに主を支えられぬ腑抜けがいるなら、今すぐ出て行きなさい!」

 彼女に答えることができる者はいない。再び重い沈黙。ペレネは咳払いを一つすると、声を落ち着けた。

「……全ての報告を」

 エリーゼが静かに、それに応えた。

「はい。奥様は午後五時頃ここを発たれ、午後七時頃にテリーベンストの宿に到着されました。七時三十分過ぎに宿の部屋で休まれていたところ、護衛が交代する隙を突いて、窓硝子を割って侵入した刺客に刺されたそうです。そのあとすぐ、奥様はテリーベンストの聖エルブ病院に搬送されたそうです。以上がお付きの従者ナリクの報告です」

「よく分かりました。連絡ご苦労様、確かに聞き入れましたわ。家令殿に有事の指揮を取っていただいて、お嬢様方が病院へ向かわれる馬車と護衛の手配、奥様の方にいる方々への連絡の準備を整えて……」

 ペレネは言葉を切り、エリーゼから視線を外すと、周囲の使用人たちを見回した。

「あなた方、今エリーゼの言ったことは聞きましたね?すべきことは分かるはずです。全員持ち場につきなさい!」

「はい!」

 ペレネの号令に使用人全員が声を揃えた。そして、引き締まった顔で散り散りになっていく。この場にはペレネとエリーゼだけが残った。

 ペレネが後ろを振り返って、

「お嬢様方、奥様のところへ向かう馬車はいま手配しています。しかし今日はこんな時間です。今から向かわれますか?それとも一度お休みになってから……」

「行く!」

 メルが涙声で叫んだ。私も全く同意見だった。ペレネは小さく頷く。

「畏まりました。それではすぐに出立の準備をしましょう。まずは一度手短にお湯浴みとお着替えをなさいませ」

「いやだ!」

 私も、ペレネもエリーゼも目を見開いてメルを見た。メルは目に涙をいっぱい浮かべて、ペレネをぎりぎりと睨み付けていた。

「そんなことしてる暇ない!今すぐ行くの!今すぐ!」

「お嬢様」

 エリーゼがこちらに近づいて、メルの横に跪く。

「焦るお気持ちは分かります。でも今は焦っちゃいけません……お母様のためにも、分かっていただけますか」

 メルはついにぼろぼろと泣き出した。私も今すぐこのまま行きたかった。しかし、私たちは貴族でこそなくても上流階級だ。メルは部屋着で、私は土だらけで、こんな格好で外へ出ても母の名を落とすだけなのだ。黙ってペレネやエリーゼの言うことを聞くのが一番早いというのは、仕方がない。私はメルの手を離して、手首を握り直した。

『今すぐ中に戻るわ』

 空いたほうの手でエリーゼの手を取って綴る。すると、エリーゼがペレネに合図を送った。

「畏まりました」

 ペレネは頷くと、お屋敷に小走りに戻って行った。

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