1-7 夢の終幕
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コンコン、とノックの音がする。
「ポルー?」
ドアの向こうから、メルの声がした。部屋に戻り、ベッドに座っていた私はあくびをかみ殺し、立ち上がってドアを開ける。晩餐会が終わって部屋着を着、化粧を落としたメルが眠そうに目を擦っていた。
部屋に入ったメルはそうっとドアを閉めると、
「……まだメイド服なの?」
ベッドに座る。私もその横に腰掛けた。
『着やすいのよ』
私はそうメルの手に綴った。使用人の着るものなので機能重視な服だ。楽に動ける。
メルはふうん、と適当に返しながら私の顔を覗き込んできた。
「ポル、目が赤い」
『ん……そう?』
「泣いたんでしょ」
『ああ……うん。まあね』
「誰のせい?」
『メルと母さんよ。今日の歌もよかったから』
「なるほどね……ありがと」
しばらくの沈黙。外で最後の客の馬車が門から出ていくかすかな馬の蹄の音がした。
「……あのさぁ」
メルが少しそわそわしながら、ためらうように口を開く。
『ん?』
「ポル、バッカーニーと何話してたの?」
『何って……』
あの内容を全部言うのは気が引ける。
「口説かれたんでしょ」
『いえ……まあ……そうなのかな?』
どんなことを言われるのが世間での”口説く”なのかいまいち定義しきれないが、”あの男のすること”だと思えばそういうことになるのかもしれない。メルはぷうっ、と頬を膨らませた。
「もう。ポルはガードが甘すぎるんだよ。バッカーニーには気を付けろって最初に言っておけばよかった」
『が、がーど?』
「そう、ガード」
『んー……でも私、逃げようと思ったのよ。でも袖を捕んでくるから……』
「ポルのおばか!そんなくらいで諦めちゃだめなんだよ!ポル、逃げたら申し訳ないと思ってたでしょ。嫌なら逃げなきゃ面倒なことになるの」
『う……うん』
さらにメルは頬を膨らませる。
「で、それで?何て言われたの?手なんか握っちゃってさぁ、ただ口説いてるだけじゃなさそうだったけど」
『何てって……うーん……星がきれいだとか、ロマンチックだとか……覚えててくれて光栄だとか……結婚してくれないかとか……』
「結婚んんんんんんんんんん⁉」
がばっ、とメルが血相を変えて立ち上がったので、あわてて横に飛び退いた。
「結婚⁉結婚って言った⁉」
『落ち着いてよ。結婚しないから』
詰め寄ってくるメルを何とか抑える。メルは、今度は険しい顔になってベッドに座り直した。
「結婚……結婚ね」
何かぶつぶつ呟いている。そしてその呟きに紛れるように私に投げかけてきた。
「あのさ、ポルはどう思う?この晩餐会のこと」
『晩餐会?うーん、そうね……エリーゼもペレネも唐突なことが多すぎるって言ってた。私もそう思うわ。バッカーニーは……この晩餐会はエルンスト伯爵が縁談のために開いたものだって』
「やっぱり。やっぱり伯爵と何かあると思ったんだよね」
メルの険しい顔が少し緩まる。
『どうして?』
「なんだかね、うーん……母さんはずっと晩餐会中エルンスト伯爵を避けていたような気がするのよ」
『前に何かあってぎくしゃくしてるとか、そういうわけじゃなくて?』
私は家から出ないから、こういうことはメルにしか分からない。
「うん。去年の夏の終わりにエルンスト家の屋敷で開かれたパーティでは普通に話してた。それに母さんとエルンスト伯爵がたまたま少し喋ってる時に聞こえてきたんだけど……アトレッタ家の当主が何だとかエルンスト家の妻が何だとか。だからやっぱり縁談なのかなって……」
『そうね……』
私は考え始める。バッカーニーの言ったことは、メルの口からも証明されたわけだ。だからといってなんでまた、わざわざ縁談のために舞踏会なんか。そんな込み入った話をするなら、二人で遊戯にでも行って、ひっそり話し合えばいい。それがこんなに大掛かりな場まで用意しておいて、母はエルンスト伯爵と話そうとしなかっただなんて、伯爵からしたら不毛なことだろう。しかしこれ以上の推測をするには、もう少し情報がいる。
メルは私が黙り込んだのを見かねて、慎重に口を開いた。
「きっと私とディヴの話もあったと思う。もしも、ほんとにもしも、エルンスト伯爵がポルのことを知っていたんだったら、多分ポルとバッカーニーの話も。バッカーニーが結婚を申し込んだのも、きっとそういうことなんじゃないかなあ」
メルはううん、と唸って再び口を閉じる。
確かにディヴとメルの縁談についてはバッカーニーも話していた。だが、私とバッカーニーについてはわからない。バッカーニーが一人で勝手にした告白だったのか、それとも父の命で一芝居打ったのか。
どちらにしろ、そんなことはメルと母の縁談の前では副産物にすぎない。私は目の前をちらつくように与えられる断片的な情報たちを、自分なりの解に落とし込みたくて仕方がなかった。それが推測でもなんでもかまわない。やっぱりメルも、メイドたちも、この晩餐会のことは納得できないでいるじゃないか。私だってこのまま日が経って忘れるのを待つだけじゃ釈然としない。初めて外へ行った時の余韻だろうか。それとも、些細なことに刺激を求めたがるほど私はお屋敷の中に退屈しているのだろうか。まるで気分は鼻先に赤い布をけしかけられた闘牛みたいにそわそわ、ざわざわした。疲れ切っているはずなのに、鼓動ははやり続けている。もうちょっとで全貌がつかめそうな気がすると、事実がたとえくだらないことでも全貌を知りたくなってしまうのが人間の性というものだ。考えろ、考えろ。
『あのさ、メル』
「うん」
『今日のお客さんって母さんの知り合いとエルンスト伯爵の知り合い、どっちが多かった?』
「全員はわからないけど……私が知ってるだけなら母さんの方かな。六対四くらいで」
『じゃあ、エルンスト伯爵の屋敷の晩餐会では?』
「そりゃもちろんエルンスト伯爵の側の人が多かったよ。色んな著名人も、私たちが会ったことない人ばっかり。どうして?」
『あのね……』
私はこれまでに知っていたことと、たった今知ったことをあわせてようやっとまとまった推論を、メルに聞かせることにした。
『まず、母さんは昔エルンスト家おかかえの歌姫だったわよね?でもずいぶん前から、王家以外に専属のパトロンも要らなくなるほどに成長して……実質エルンスト家の力が及ばなくなった。手を切って、傘の下を抜け出したといってもいいわ。それは知ってるわね。それを伯爵は取り戻したいんだと思うの。国一の歌姫を手中に入れ直せば、家の評価も上がるし影響力も格段に上がる。それに、ちょうど去年エルンスト家の奥様が亡くなってるし』
「この機会に……ってわけ?奥様の死を利用するの?」
『そうね。エルンスト伯爵は温厚そうに見えるけど、実際とっても野心家だと思うの。違う?』
「確かに……温厚なだけじゃ騎士貴族のトップには上り詰められないからねえ」
騎士貴族とは、この国、アルバート王国で軍や警察の役割を果たす騎士団に、有能な騎士を輩出する貴族のことだ。最も有力な騎士貴族となると、当然騎士団にかなりの勢力を持っていて、伯爵自身も騎士団で重役を与っている。つまり、騎士団の大部分に伯爵の息がかかっているわけだ。
『だから、きっと奥さんが亡くなってから会うたび母さんに縁談の話はしていたんじゃないかしら。多分夏、社交のシーズンの時から……でも、社交のシーズンは母さんもあなたも王族や貴族のいろんな行事に呼ばれて、毎日大忙しよね?エルンスト家おかかえの歌姫でもなくなった母さんは、いくら伯爵でも気軽に呼び出すのは難しいわ。じっくり時間を取って会うには口実が要る。国一の歌姫を呼ぶにふさわしい、大きなパーティを開かなきゃ』
貴族社会の発展したアルバート王国の風習では、社交のシーズンということで、貴族のパーティや晩餐会は夏に開く。気候上、北部の冬はかなり冷え込むからだ。
ポルはいったん話を切って、メルの表情を伺う。メルはちいさな眉間にしわを寄せていたが、数秒して言葉の理解がおっついてきたらしく、顔をあげた。
「そっか!でも夏に開く大きなパーティでは、伯爵が母さんとアツい話をしたいったってやりにくいわけね。周りに人は多いし、逃げるのも簡単だし」
『そう。もし仮に個人的に会えたとしても、二人きりの場所にプロポーズする気満々で行ったらどうかしら。母さんはいくら経済的援助の恩があっても、そのお金をきっちり返してまで手を切る時はきっぱり手を切る人よ。下心に感づかれたら、すぐに場は挫折しちゃうわ。母さんに警戒心を抱かせないように、それとなく周りを固めて、二人っきりになって、何番目かの妻になるよう……エルンスト家の手中に再び収まるよう、説得するの。だから、この屋敷を会場にするように提案したのはエルンスト伯爵じゃないかしら。自分の主導権が自ずと制限される場所をあえて選んで、相手に安心感を与えるわけ』
「なるほど……」
『それでいて、周囲に根回しをして自分が母さんを妻に迎える話を逃げられずにしやすくする折衷案、それが』
「こんな寒い冬にわざわざパーティを開くことにしたってことか」
『うん。まさに縁談のためだけに。シーズンじゃないから、大がかりなパーティーにする必要もないし、仕事が少ない季節じゃ母さんは断れない。だから最初は伯爵の方から晩餐会の話を持ちかけて、もともと客も伯爵のほうで手配したんだと思う』
「歌姫様のお手はわずらわせません、なあに、ちょっとしたお遊びですし、こんな季節はずれな晩餐会を開こうと言いだしたのは私のわがままですから、歌姫様はお呼びになりたい方のお名前さえ教えていただければ全て手配させていただきますよ、歌姫様方は会場の用意だけをお願いしたい……なんて。伯爵、言ってそう。言ったんだろうなあ」
メルはセイウチのように胸を張って、伯爵のマネをする。迫真の演技だ。私はうんうんとうなずいた。
『そう、晩餐会の会場をこの屋敷にして。でも』
「母さんはそんなことわかってたんだ」
メルはふむ、とうなずく。
『恐らくね。だから母さんは、自分の知り合いを秘密でたくさん呼んでいたの。さらに晩餐会の余興にダンスをすることにしちゃって、より伯爵を上手く避けられるようにしたんじゃないかしら。母さんが踊っていたあのおじいさん……ユベル子爵だったかしら?あの方は母さんの知り合いなんでしょ?』
「うん。いつからの仲かは分かんないけど、結構に交流はあるみたいだよ。商業貴族だからエルンスト家とは仲が深くないし」
商業貴族はその名の通り、貿易や商売で力を振るう貴族だ。
『なるほどね。、やっぱり。舞踏会では一対一になりやすい。つまり伯爵以外の人にかかりっきりになることがより簡単よ』
「そっか……だから期せずしてこんな大きなパーティになったってわけか。念には念を入れて、必要以上の人には晩餐会について明かさなかったんだ。それで、私たちにはこんなにいきなりなことが多かったんだね」
『そうだと思う。母さんは縁談なんか撥ね付ける気満々だったんでしょうね。縁談のためだけに開いたこのパーティを、こんなに完璧に何の変鉄もない季節外れパーティにしちゃったんだから。伯爵はほんの少ししか母さんとお目当てのことは話せなかったと思うわ』
「伯爵の計画を台無しにすることが一番の拒絶の意思表示だった……ってわけね」
メルはばふっ、とベッドに背中から倒れた。
「はぁ……なるほどね。確かに全部説明できるし、それなら本当にありそう。ポルは賢いよ……」
私もメルの隣に寝転がった。
『ただの推測よ。話を繋がるように組み立てただけ。確証は少ないわ』
「そんなことを考えられるだけですごいんだよ。私の頭じゃパンクしちゃう」
『そう?……ありがと』
あまり謙遜するのも野暮な気がして、素直に礼を言った。十五年間屋敷に籠って本を読み漁った成果とでも言うには、ちょっと大げさかもしれない。一通り話し終わって頭がいくぶんすっきりしたところで、あることを思い出した。
『そういえば』
私は上体を起こしてメルを見る。にやついちゃないだろうか。
『メル、ディヴのことどう思ってるの?』
「へ?なんで?」
メルはきょとんとした顔でこちらを見た。
『いいえ……メルがバッカーニーのこと聞くから。そういえばメルだって告白されてたなと思って』
「ああ……」
なぁんだ、とばかりに伸びをして頭をかく。晩餐会の時の美しい淑女ぶりはどこへやら。
「まぁ、友達くらい?別に何とも思ってないよ。ディヴと結ばれるとか、そんなの全っ然考えてない。それに、ディヴと結婚してエルンスト伯爵家に嫁ぐってのは……何か、嫌だなあ」
『伯爵一家が来る前は楽しみそうにしてたのに』
「だって、伯爵もディヴも話したりする分にはすごく楽しいもん。でも、それとこれとは別」
『ふぅん……』
私はメルに見えないように、静かにうなずいた。私たちの家は裕福でこそあれ、貴族じゃないのだ。私も、きっとメルも、政略結婚なんてごめんである。メルが好きでもない相手と結婚させられずにすむなら、縁談なんていくらでも破談になってくれればいい。でももし私の推測が当たっていたとしたら、当面そんな心配は要らなさそうだ。
今話したことを反芻するように二人で黙り込む。私が疲れに負けてうとうとしそうになったころ、メルがぱっと起き上がった。
「うん、納得した。それならたぶん、しばらくはエルンスト家とか、結婚とか、そんなことは心配しなくていいはずだよね……ありがと、ポル。なんかすっきりしたよ」
私はにっこり笑って、首を振った。メルは勢いをつけてぴょん、とベッドから立ち上がる。
「さてと、用件は済んだし。もう寝るね。ポルも早く着替えなよ」
そう言いながら部屋を横切り、ドアを開けて、後ろを振り返ると笑顔を返してくれた。
「じゃ、おやすみ」
ばたん、と一人の部屋にドアの音がさびしく響く。この家の行く先がちょっぴり不安になったのは私だけじゃなかったみたいだ。私はほうっとため息をついて、目を閉じる。長い長い夢のような一日だった。きっと、今夜見る夢のほうがよっぽど現実味があるだろう。このまま眠ったら数日目が覚めないかもしれないな、とぼんやり思いながら、私は幸せな現実からふんわりと眠りに落ちていった。
**********
そこにあるのは暗闇と静寂。刺すような冷気に包まれた、広大な空間。
壁や地面は一面黒い岩。その岩の表面は薄く水で濡れていたが、それさえあまりの空気の冷たさに、ところどころドライアイスのように凍っていた。
天井は高く高く、見上げれば底なし穴に吸い込まれていくような深い闇ばかりがある。その闇から思い出したように時折落ちてくる水滴が、音もなく荘厳な静けさを切り裂き、やがて冷たい岩の上で氷になる。
そこは、とんでもなく巨大で広大な洞窟の中だった。しかし、大きすぎる以外に何かが、普通ではなかった。
向こうの壁が見えないほど広い洞窟の真ん中に、ぽつんと光を放つ二つのもの。
一つ目の光は、小さな水溜まり。ただ、普通の水溜まりとは明らかに違う。天井から垂れる水滴以外にこの死んだような静けさを破る、かすかなちょろちょろという生きた音がする。水溜まりの底から少しずつ、水が湧き出ているのだ。そして、その水は仄かに青白く光っていた。
二つ目の光は、人間の形をしている。人の形をして、水溜まりの縁に立ってぼんやりとその中を眺めていた。
十歳くらいの子供だろうか。小柄で華奢な体躯に、顎の長さで切り揃えた金髪。短く切った前髪の下の琥珀色の目は、洞窟の闇のように深い色を湛えていた。少女とも少年とも分からない顔立ちの子供は、青白い燐光を微かに放っている。本当にそこに存在しているのかどうかさえ疑いたくなるような空虚さを醸し出しながら、ただ無表情で水溜まりを見つめて考え込んでいるようだった。
いくら時間が経ったろうか。
時間の感覚すら無くなってしまうほど変化のない洞窟を、突然地響きのような音がゆるがした。岩の壁に隙間が空いて、闇にさっと光が射し、みるみる大きくなっていく。
続いてそのむこうから、大きくて激しい水音。人が一人余裕で通れるほど大きくなった岩の隙間から、人影が一つゆっくり入ってきた。
ふたたび岩が動く音がし、どしん!と隙間がふさがる。小さな石ころが転がる音を最後に、洞窟は静かになった。
水溜まりの縁の子供は、微動だにしない。微動だにしないまま、唇だけを微かに開いた。
「……戻ったか」
子供とは思えない、しわがれた深い声だった。顔立ちと同じで男か女か分からない声。
洞窟に入ってきたのは、一人の若い女。長い黒髪を背中まで垂らしている。この凍りつきそうに寒い洞窟の中、東国の丈長の民族衣装を膝の上でバッサリ切り、ゆるい胸元と生足に草履、見ている方が寒くなりそうな格好で、大股で不機嫌そうに歩いてくる。
「戻ったわよ」
顔のとおり不機嫌な鋭い声とともに、女は子供の横で足を止めた。子供はそちらを見向きもせず、ただ憂鬱げに光を放つ湧き水を見つめている。
「ねぇねぇねぇ、あんたさあ、このあたしが折角帰ってきたのに見向きもしないわけ?誰のために働いてきたと思ってんの?何か言いなさいよ」
女は腰に手を当てて子供にぐいぐい顔を近づける。対する子供はわずかに顔をしかめただけだった。
「うるさいぞ小娘。そんなに近づかなくともお前の心臓の音までよく聞こえておる」
「はああ?気色悪いクソジジィね」
どう見てもジジィという年ではない子供に、女は嫌悪感丸出しで吐き捨てた。
「儂はジジィではない」
「じゃあクソババァ」
「クソでもない。お前は儂の名前すら覚えておれんのか」
「はいはい、そうでしたねジェリウスちゃ~ん」
女はこれ以上ないほど嫌な顔をしてその子供、ジェリウスに唾を飛ばしながら悪態をつく。すると、ジェリウスが初めて顔を上げた。幼い仕草で小首を傾げたと思うと、女をぎろりと睨めつける。
「よく無駄に動く口じゃのう……儂を罵倒するのはよいが、先に得られた情報を話してはくれんのか」
女は近づけていた顔を戻すと、腰に当てていた腕を組んだ。ふくよかな胸が谷間をひしめかせるように揺れる。
「はいはい、わかりましたよクソチビ」
「ジジィと言ったりチビと言ったり忙しいやつじゃのう……それで?何か得られたか」
「まぁね」
女の猫目が真剣になる。
「伯爵のやつ、もう随分じりじりしてるみたいね」
「どういうことかね?」
「縁談よ」
「それは以前からあったであろう?」
「今回は違うわよ。わざわざちゃんとした場まで用意してさ。今度こそ本気で口説き落とすつもりだったみたいね」
「ほう……それはいつのことじゃ?」
「つい昨日のことよ。報告が遅かったとでも言うわけ?」
「いや……そうではない。お前は事前から知っていてあえて観察していたから今日まで報告に来なかったのじゃろう」
「そっ」
女は凍った岩の地面に足を投げ出して座り、青白く光る水に下駄を履いたままの足をつけた。そして、至福の時といわんばかりの顔をする。
「あー……生き返るわぁ」
「おい。やめんか」
「はぁ?いいじゃない、働いたんだから」
ジェリウスがきっ、と反抗する女を睨んだ。すると突然ぶわっ、と竜巻のように渦巻く激しい風が女の周囲に起こり、女を宙に巻き上げる。風で暴れた湧水が輝きながら飛び散り、水溜まりの面積がほとんどなくなった。
「ちょ!ちょっとぉ!」
そのまま風に後ろ向きに放り投げられ、削れた岩の破片とともに壁の近くに尻から着地した。しかし、すぐさま立ち上がる。
「何すんのよ⁉やり過ぎだってのクソチビ!」
喚いてはいるが、どうやら全くの無傷のようだ。
「……この水はそんなに軽々しく触れてよいものではない」
「ちっ、ていうか大体……あーもう!分かったわよ!」
心底イライラしたのか、甲高く叫びながらずんずん進んできて、元の面積に戻った水溜まりの縁に再び座った。もう水に触れることはない。
「それで、その縁談とやらが成功したわけではあるまいな」
ジェリウスは一連の出来事にさも関心が無いように、同じ場所に立ったまままだ水面を眺めている。
「するわけないじゃない。あんな脂ぎったセイウチ髭のおっさんなんか誰だって嫌よ。歌姫が自分で手を回したみたいね、縁談を台無しにするためだけに。ご苦労なことだわ」
「ふむ……」
ジェリウスは指を顎に当て、青白い眉間に皺を寄せる。簡素な白い布を巻き付けただけのような衣服の袖がしゃらり、と滑り落ち、色の白い腕が肘まで露になった。
「しかし……そやつの過去や背景を加味して考えればこれで終わるわけもあるまい。彼は強欲じゃ……本気であの歌姫を取り返すつもりじゃろう」
「はっ、手を打つのが遅かったわね。だいたい、なんであたしたちがおっさんの縁談の顛末を心配しなきゃいけないわけ?歌姫とだれがくっついたって関係ないでしょ」
口許に嘲笑を乗せる女。
「我々は穏便に動かねばならぬ。その上大きな障害がある……だから今までは容易に手を出せなんだのじゃ。手を出せぬからこそ、我々は”モノ”の行く先を見守ることしかできぬ。と思っておったがしかし……貴族が繋がって誰の手に渡るかわからないとなると、そんなことも言っておられんな」
「じゃあどうすんのよ?」
「一刻も早く”モノ”を取り戻さねばならん……多少の強硬手段に出るしかないかのう」
重々しく、ジェリウスが言う。
「ふぅん…いいの?」
女は一転、声まで真剣になる。
「仕方ない。様々な危険を天秤にかけるしかないのじゃ。ところで、あとの三人はどうした」
「知らないわよ。二人は一緒に東の大陸に行ってるわ。あと一人は行方不明」
「こんなときにおらぬとは情けないやつらじゃ……しかし帰りは待てぬ。小娘、お前に任せるぞ」
「小娘じゃないんですけどぉ?」
「カガリ。くれぐれも上手くやるんじゃぞ。できるだけ穏便にじゃ。お前は有能じゃが、そこだけが……」
「あーもう、うっさいわね。任せるんならちゃんと任せなさいよチビ。あたしもう行くから」
女、カガリはさっと立ち上がり、つんけんしながら壁に向かってずんずん歩いていった。
「おい、待たんか……」
ジェリウスの呼び止める声は虚しく、再び岩が動く音にかき消される。カガリは入ってきたときのように、岩の隙間からさっさと出ていった。手をひらひらっと振ったのが見えた瞬間、どしぃん……と岩が完全に閉じて、洞窟は暗闇に沈む。
再びやって来た静寂の中で、ジェリウスはじっとカガリが出ていったあたりの岩壁を睨んでいた。
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