1-6 にじり寄る真相

**********


「皆様、一旦お席をお立ち願います。余興の用意をさせていただきますので……」

「ほいきた!」

『うるさいわよエリーゼ……』

 母のダンスパーティ開始の合図と共に、一斉に客が席を立った。その間を縫って、私たち含め待機していた使用人たちが一斉に動き、テーブルや椅子を退け、手際よく会場転換を進める。

「お嬢様!その椅子どこに持ってっちゃうんですか!こっちですってば!」

 エリーゼが声を殺して叫んだ。お嬢様って言ってはいけないことについては、もう指摘しても無駄な気がする。色々あったがあっという間に作業は済み、晩餐会場にダンスのスペースが作られた。ペレネの誘導で八人の室内楽団が入ってきて、間もなく演奏が始まった。

「……こうなると何もやることないっすね」

『そんなことはないと思うわよ……』

 ぼやくエリーゼと私は、会場のすみっこに引っ込んでいた。客たちは、ほぼ全員が踊りだしている。母は会場に最初に着いた老夫婦の夫の方と、エルンスト伯爵はその妻の方と、メルはディヴと踊っていた。あのエルンスト伯家の長男を探すと、一人でテーブルに着いてメイドからワインをもらっている。このぶんだと大広間は使用人の人手が足りているようだ。エリーゼがだるそうに首をかしげてこちらを見た。

「お嬢様、そろそろ休憩していいと思いますよ。私はちょっとペレネさんと話したいので」

『そうね……じゃあお言葉に甘えて』

 私がそう言うと、エリーゼは「じゃ」と言って厨房に向かう扉から出ていった。


 休憩していいと言われたはいいが、使用人たちの目につくところで休むのも憚られる。自分の部屋に戻るのも面倒だ。大広間にいてもいいが、ずっと立ちっぱなしだったのでどこかに座りたい。使用人たちは毎日こんな苦労をしているのかと思うと、ちょっと申し訳なくなる。

 ああでもないこうでもないとしばらく迷ったあげく、私は極寒の中庭に出ることにした。

 中心にある噴水を回り込み大広間の扉から見えない位置に移動して、縁に積もった雪を払って座った。しみじみと静かだ。広間とは打って変わった静寂。静かなのは好きだ。見上げると冷たい夜闇に、散りばめられた星と凍てつくような月が瞬いていた。

 あの路地裏に行くと、もっと綺麗にみえるのかもしれない。いや、確かにここよりは暗くて星はよく見えるだろうけれど、あの剣呑な場所には平和すぎる想像だろうか。こうして屋敷の中にいて、しかも後ろで舞踏なんかをしていると、外に出て商店街を歩き、路地裏で迷ったことが遥か遠い昔のように感じる。

 次はいつ行けるのだろう。この屋敷の上の空と外の世界の空が同じだと思うと、胸を鷲掴みにされたような思いがする。ロマンチックすぎる想像をする自分が、ちょっとくすぐったい。

「おやおや、こんな寒い所で何をしているのかな?」

 私は飛び上がる。

 突然横から声をかけられた。胸を鷲掴みにされたどころか、驚いて破裂するところだった。

「女性はあまり体を冷やすものじゃないよ。風邪を引いたら大変だろう」

 自分の右側。そちらをおそるおそる見ると、いつの間にかさっき私と目があった、エルンスト家の長男が立っていた。やっぱり名前は出てこない。彼は甘いマスクに微笑を浮かべ、こちらに近づいてくる。

「隣、いいかい?」

 いいわけがない。私が話せないことを知らない相手だ、丁重に断ることもままならない。失礼だとは思うが、逃げるしかない。

「逃げなくてもいいよ。僕は少し君とお話したいだけだから」

 腰を浮かせたとたん袖を捕まれ、あっさり逃げるという選択肢は潰えた。いったい、ただのメイドに何の用があるというんだ。なんとなく、ただたまたま私がここにいたから話しかけたわけでは無さそうだ。

 私は仕方なく噴水の縁に座り直す。彼はふっと笑うと、気障っぽく父親似のプラチナブロンドの髪をかき上げ、私の隣の雪を払って座った。それも、わざわざ肩が触れ合うほど近くに。

「君はまだここのメイドだったんだね」

 まだ、とは何だ?突然の意味不明なセリフに、私が思案しながら反応せずにいると、相手は不思議に思ったのか自分から喋りだした。

「……覚えてないかい?君は二年前にこの屋敷で開かれた晩餐会でも、こうやって給仕をして働いていただろう。僕は見てたよ」

 ああ、確かに以前の晩餐会でも私はメイドのふりをして働いていた。

「このお屋敷にはたくさん使用人がいるみたいだが、二年前から顔をはっきり覚えているのは君だけなんだ。なんせ、君は僕が見たことのあるどの屋敷の使用人よりも、一番美しくて、可愛らしい女性だからさ。ときにメル嬢やミス・リーアン・アトレッタにも劣らないとも思うね。僕はバッカーニー・エルンスト、知ってるかな?」

 知らない、と思ったが、今思い出した。そういえば以前の晩餐会でも、品行方正な弟のディヴとは対照的に、どこかちゃらんぽらんな雰囲気を纏っていたっけ。エルンスト伯爵家はこの国でもトップクラスの上流貴族だ。その後継ぎとなる長男が、そんないい加減な雰囲気を漂わせる人物なのだから、バッカーニーにいい噂はあまりない。放蕩息子だとか散財息子だとか、そんなろくでもない話がつきまとう。

「……寡黙な女性は好きだよ。謎の多い人ほど魅力的だと僕は思うね。でも、そんなに警戒しないで。君を取って食ったりするわけじゃないんだから」

 警戒しないでも何も、彼は自分が今何をしているのか自覚していないのか。まさか、ただこんな安っぽい台詞の練習に来たわけでもないだろう。

 なおも私が何も言わないのを見ると、バッカーニーは少し残念そうな顔をして立ち上がり、私の左隣に座った。今度は袖の代わりに左手を握ってくる。触れ合った皮膚が変にさわさわしてきた。今中庭に誰か出てきたらどうしよう。勘違いされたら気分が悪い。

「おっと、そういえば」

 何を思い出したのか、バッカーニーがわざとらしく突然膝を手でポンと打つ。

「今日、少し早い時間にこのあたりに着いてしまったんだ。父上とディヴは別の所で散策をしに行ったんだが……僕はあまり興味が持てなくてね」

 今度は何の話だ。何でもいいから早く解放してほしい。

「で、僕は結局夕方頃にイース河の向こうの商店街へ行ったんだ。そしたら……」

 私はそこで、やっと雲行きがあやしいことに気がついた。

「君にそっくりな子を見たんだよ。この屋敷のメイド服を着た美人さんと一緒のね」

 それはきっと、間違いない。思わず唾をのむ。

「僕がたまたま商店街のカフェのテラスでくつろいでいたら、商店街の女性が目の前の道にやって来て、路地裏に向かって何か叫んだんだ。”ポルちゃん、こっちへいらっしゃい”ってね。何となく眺めていたら、路地から女の子が出てきたんだ。二年前に見た、この屋敷で一番可憐なメイドさん、まさに君にそっくりな子が。僕はびっくりしたよ。そしたらそこにこの屋敷のメイド服を着た女性が走ってきた」

 頭が真っ白になった。身を切るような寒さの中、かっと体が熱くなる。

「そのメイドがその子のことを大きな声で”お嬢様”って言っていたから、おや、と思ってね。この屋敷のメイドに”お嬢様”って呼ばれる子は、メル嬢しかいないはずだと思ってた。でも、どう見てもその子はメル嬢じゃなかった。しかも、その子が着ていたのはメイド服じゃなくて、”お嬢様”が着るような良い身なりをしてた。そしてここに来てみれば、君がメイド服で働いている。僕はますますびっくりしたんだ」

 手を握ったままバッカーニーは私の前に屈み、私を正面から見た。

「ポル嬢、っていうのかな?君って、ほんとはこの屋敷の”お嬢様”なんじゃないのかい?」

 頷けなかった。

 しかし、首を振ることも出来なかった。本当に、迂闊だったのだ。隠し子である私が外を出歩くには。そこまで見られていては、もうどうしようもないではないか。

 私が焦っているのを感じたのか、バッカーニーはそのいかにも女性に好かれそうな整った顔に、不敵な笑みを浮かべる。

「否定はしない、ということはそうなんだね」

 一呼吸置いて、今度は笑みが消え、真剣な表情に変わった。彼が纏っていた空気から馴れ馴れしさや軽さがうすれ、瞬時に少し張りつめる。

「ポル嬢。君は今日の晩餐会がどうして開かれたのか知っているかい?」

 私はここぞとばかりに迷わず首を振った。

「やはり知らないか……きっとミス・アトレッタはほとんど誰にも話していないんだろうね。まぁ、でも僕の都合上ここで話させてもらうよ」

 思いがけないものが降ってきた、と思った。知りたかったことをよく喋ってくれるのはありがたい。知られてしまったものも大きかったが。

「エルンスト家は去年の冬当主の妻を亡くした。この家、アトレッタ家には男性がいない。そういうことさ。父上は今日縁談にやって来たんだ。自分自身とミス・アトレッタ、それと恐らくメル嬢とディヴの話も持ち出すだろう。この機に僕も言おうと思ったんだ」

 なるほど、ひとまず納得はいく。で、何を言おうと思ったんだ?

「さっきも少し言ったけど……二年前の晩餐会の時に君を見て、可愛らしい人だなって思ったんだ。僕は確かに色々な所で女性に関してあらぬ噂を立てられてはいるけれど……君に対しては本気だよ。嘘じゃない。これ以上ないほど真剣なんだ。僕は二年前君に心を射抜かれてからずっと、君だけを想っていた」

 バッカーニーの語気が強くなる。それと反比例して、私の頭からすうっと血が下りていった。

「僕は縁談なんて関係ない。君と結ばれたいんだ。父上は君の正体を知れば反対するはずはない。もし父上の縁談を受けたら、ミス・アトレッタも反対しないだろう。自分で言うのも何だけど、身分は悪くないと思う。どうだい?なんとか……受け入れてくれないかな」

 私はぼーっとバッカーニーの長い口上を聞いていた。頭の中ではひたすら、バッカーニーの寒々しい言葉がぐるぐる回っている。もし母もメルも私も縁談が成立してしまったら家系図がものすごい事になりそうだな……とどうでもいいことを思い至った。

 エルンスト家がそうまでして、アトレッタ家を取り込みたいのか、はたまた本当に伯爵が母のことを好いているのか。私が言うものでもないが、母のおかげでアトレッタ家はかなり財力を蓄えている。だが資産目当てにしても、アトレッタ家の富などはした金といえるほど、エルンスト伯爵家は裕福なはずだ。それじゃあ一体何の思惑があるんだ?まあしかし、とにかくそんなことは置いておいて、バッカーニーのこの話は受けたくないし、受けるつもりもない。

 バッカーニーは私がきっと呆けた顔で何も反応してくれないからか、だんだんとじりじりし始めた。視線が刺さる。そしてそのうえ、さっきから視線の強さと比例して、バッカーニーの手がぎりぎり締め付けてくる。

 バッカーニーが、ありもしない私の返事を待っている空しい沈黙。その間にも、どんどん握る力は強くなる。これでよく紳士的な出まかせを言えたものだ。仮にもたった今、結ばれたいなんて告白した相手の左手を握りつぶすのはどうかと……

 どすっ、と鈍い音。あれこれ考えて痛みを我慢していたが、やっぱり耐えられなかった。私の足が思わず彼の腹に蹴りを入れていた。いい感じにヒットしたみたいだ。

「くっ……⁉」

 バッカーニーは無様に尻餅をつき、はずみでやっと手を離した。そのまま顔をしかめて、

「……痛い」

 ぼやいてくれるが、私の方が痛かった。心の中の抗議の叫びはバッカーニーには届かない。なにも私の指と指の間が赤くなるほど握らなくてもいいだろうに。

 バッカーニーは立ち上がった。ズボンに付いた雪も払わず、しばらく下を向いて突っ立っていたかと思うと、急にしかめっ面が悲しそうな顔に変わった。

「……君はそうまでして僕を拒絶するんだね」

 否定はできまい。

 バッカーニーはしかし、少し顔を上げて言った。

「分かったよ。君の気持ちは。でも……でも僕は……」

「兄上!」

 突然、背後の噴水の向こう側から少年の鋭い声がした。二人同時に振り返る。そこには、ディヴとディヴに手を引かれたメルが立っていた。今さっき大広間から出てきたところなのだろう。

 ディヴは鬼のような形相でバッカーニーを睨みつけ、メルはあちゃー、という顔を私に向けていた。

「兄上、何をなさっているんですか?まさかまたレディを口説いていたわけじゃありませんよね?」

 弟の至極もっともな発言に、バッカーニーはいかにもうるさそうに顔をしかめた。

「また、とは何だ。また、とは。僕はそんなに軽い男じゃないぜ」

「じゃあ口説いていたというのは否定しないんですね?」

 ディヴはざっざっと雪を踏みしめ、目を吊り上げてバッカーニーに迫った。詰め寄ってくるディヴに、バッカーニーは露骨に一歩下がる。

「なんだなんだ、そんないきり立って。僕はあの女と結婚する気はない。それに父上は僕にエルンスト家当主を継がせるつもりはないだろうさ。心配しなくても弟、君が次期エルンスト家当主だよ」

 バッカーニーはふん、と鼻で笑ってみせた。

「そういうことを言っているのではありません!その上許嫁をあの女呼ばわりとは、兄上……」

「と言うかそもそも、そんな堅苦しいこと言っておいて、君だってメル嬢と仲睦まじくしているじゃないか?」

 ディヴの顔が一瞬にして耳まで真っ赤になった。

「そ、それは、それは、ち、ちが……」

「何が違うんだい?」

 バッカーニーの追い打ち。ディヴの目にちょっぴり涙が浮かぶ。

「ぼぼ、ぼ、僕は、僕は……」

 そして、一呼吸おいて、

「僕はメル嬢だけが好きだからいいんですっ!」

 しん、と静まり返る。全員が氷のように寒々とかたまった。今のは何をどう聞いても愛の告白だ。

 私は告白された当のメルを見る。メルはさっきと同じ顔のまま突っ立っていた。ただし、若干表情の温度が下がった気はしないでもない。

「ははっ、まぁいいさ。お前のその良し悪しの基準はよく分からないけど……今のは父上には黙っといてやるよ」

 バッカーニーが冷ややかな沈黙を破って言った。対するディヴは自分の言ったことに自分で唖然としたのか、文字通り凍りついていたが、えふん!と変な咳払いをして兄から一歩離れた。

「と、とにかくですね。そのような軽率な行為は慎んでいただきたいということです。特にこのような場では」

「はいはい、わあったよ。僕は大人しく戻るよ。じゃあな、真面目堅物石頭弟」

 さらっと悪態をついて、メルにもディヴにも私にも目もくれず、バッカーニーはさっさと去っていく。目もくれない代わり、去り際にさっと小さな一枚の紙を宙に放っていった。目の前にひらひら舞ってきたそれをつかまえて見てみる。

“僕は諦めないよ。君の心を掴むまでね”

 思わずすっと真顔になった。いつの間に準備したんだろう。事前に書いていたのだとしたら、断られることを確実に見越していたんだろうか。だとしたら謙虚というか、いや自虐的ともとれる。

「あの……」

 目の前にいたディヴが話しかけてきたので、目を上げる。ディヴは雪に片膝をつき、頭を下げた。

「兄がご無礼をしまして申し訳ありません。ご気分を害されましたでしょうか」

 言葉遣いから何から本当に真面目な弟だ。私は首を振り、笑って見せる。ディヴはほっと安心した顔をして立ち上がった。

「よく兄には言っておきますので、今回はお許し下さい」

 許すも何も、色々ともう取り返しのつかないことではあった。

 しかしそれは置いておいて、いい加減戻らないとまた厨房が忙しくなっているかもしれない。私はディヴに手を振ると屋敷に向かって歩き出した。

 後ろからメルの”何やってんのもう”とでも言いたげな視線を感じながら。


**********


「あ。おかえりなさいお嬢様」

 厨房に戻る途中、エリーゼが大広間から出てきたところに出くわした。

「どこ行ってたんですか?ずいぶん長い休憩でしたね」

 サボり魔には言われたくないセリフだ。私は苦笑いした。

『中庭よ』

「えっ、あんな寒いとこで休憩してたんですか」

『エリーゼは何してたのよ』

「あぁ……ペレネさんとちょっと話しに」

『ふうん……ペレネは何か言ってた?』

「いやあ、ちょっといろいろ問い詰めてはみたんですけどね。やっぱりこの晩餐会の事情については、あんまり知らないみたいでしたよ。恐らく知ってるとしたら、奥様にいっつも付いてる家令だけだって。何だかなぁ……」

 エリーゼは不毛だといわんばかりの顔で頭をかいた。しかし一つため息を吐くと、

「ま、私なんかが詮索するもんじゃないのかもしれませんね」

 もういいや、とばかりに大あくび。

 私の頭の中では、バッカーニーの話とエリーゼの話がぶつかってぐるぐる回っていた。母は結局このあまりにもいきなりなパーティーで何がしたかったんだろう。何かひらめきそうでひらめかない。もやっとした真相の影がそこにあるような気がすると、あれやこれやと考えずにはいられなかった。この地域じゃ、もっぱら社交のシーズンは夏だ。思えば、こんな時期に晩餐会も舞踏会も不自然過ぎる。エルンスト伯爵は母と婚約したがっていて、晩餐会の事情は母と家令しか知らなくて、そこにはきっと他人に漏らしたくない駆け引きがあったりして?

 私が真相を推理し当てたところで何が起こるわけでもないけれど、においがするのだ。何かがこの家に起こりそうな、何かがこれから変わる兆しのにおいがする。後でメルにもいろいろと聞いてみなければなるまい。そんな私の頭の中にはおかまいなく、エリーゼは隣で凝ってもいない肩を回した。

「さあ、仕事しましょ仕事」

 早足になって、つかつかと厨房の方へ歩いていくエリーゼに、私もついていく。厨房では、大広間で飲み物を運ぶために使用人が銀の盆を持って、何人も忙しなく往き来している。エリーゼはポケットから時計を出してちらっと見た。

「今八時……せいぜい一、二時間ってとこですかね」

 時計をしまって、

「これからですよお嬢様。これから酔った客が増えてきますからね。いたずらされないように気をつけて下さいよ。特にあのエルンスト家の息子の兄の方とか、危なそうですし」

 もっと早く言ってほしかった。


 そのあとは使用人たちに混じって、足が痛くなるまで大広間で飲み物や軽食を配り歩いた。

 晩餐会、兼舞踏会に終盤の空気が漂い始めたころ。宴もたけなわな大広間は酔った客も増え、どんちゃん騒ぎとは言わずとも、最初とは比べるまでもない騒がしさだった。熱気すら感じる大広間から出た私は、厨房でワインの瓶を補給していた。

「お嬢様!早く来てください、始まっちゃいますよ」

 突然、エリーゼに厨房の入り口から呼ばれた。そのとたん私だけでなく厨房にいる人全員がぱっとエリーゼの方を向き、一斉に持ち場を離れ始める。私もワインを乗せた盆を持ったまま、彼らと一緒にエリーゼについていく。

 エリーゼは大広間の扉を入って行った。それについて、盆を片手に私も閉まる扉に体をねじ込む。他の使用人たちは全員が入ったら中がごった返すからか、扉の前で止まった。

 大広間の喧騒には、さっきには無かった僅かな緊張が流れている。賓客たちは徐々に踊る足を止め、酒をあおる手を止め、皆がある方向に熱のこもった視線を向け始めていた。その先にあるのは、ちょうど二人ほどが乗れるくらいの小さなステージ。晩餐会が始まる前にメルが話していた、あのステージの出番なのである。

 つまり、これから始まるのは晩餐会最後の余興。客たちの中で、例の老夫婦とテーブルを囲んで談笑していた母が立ち上がった。続いてさらに奥のテーブルで、ディヴと二人気まずそうに座っていたメルも、解放されたといわんばかりに勢いよく立ち上がる。

 私はドアの向こうの使用人たちのために、ワインの瓶にまぜてこっそり持ってきた一本の空瓶を扉にそっと挟んで隙間を作った。すると廊下の使用人たちが、出来るだけドアの近くに寄ろうとすったもんだし始める。

 しかし二人の歌姫がステージに近づくにつれ、大広間の客たちも使用人たちも静かになっていき、ステージに立つ頃には音を立てる者さえいなくなった。

「えー、おほん」

 突然、テーブルの方から低い咳払いがした。広間の全員が一斉にそちらを向く。咳払いの主はエルンスト伯爵だった。

「ご参加の紳士淑女、今夜の晩餐会を楽しんでいただけたようで何よりでしたぞ。さてこの晩餐会を……」

 それから少し口上が続き、客の拍手と共に終わった。続いて、おもむろに母がステージから降り、メルがステージの中心に歩み出る。

 拍手が鳴り止み、大広間は水を打ったように静かになった。期待の眼差しが、大広間中からメルに集まる。満を持してメルは大きく息を吸い、優しい低音を歌いだした。

 そのメロディは、幼かった頃、メルが大切に飼っていたカナリアとの別れに初めて作った歌だ。高く低く語りかけるような、全世界でメルだけの旋律。繊細で透き通った、天使とまごうほどの歌声が大広間に、いや屋敷中に響きわたる。人の心を惹き付ける、それでいて何かの拍子に壊れてしまいそうな儚さ。精巧緻密な飴細工のようだ。晩餐会の来賓のために歌っているはずなのに、メルの詩はここにいる誰にも向けられていない。この曲をささげた、ただ一羽のカナリアのためだけのメッセージ。当時そこに込められたままのまっすぐな幼心が、聴衆の間をつむじ風のように通り抜けていく。何度となく聴いた歌声だが、何度聴いてもやはり美しかった。

 透明な高音をおおらかに歌い上げ、メルは余韻に浸るように閉じていた翡翠の目をゆっくりと開く。それから一呼吸おいて、客から割れんばかりの拍手や、口笛、歓声の嵐が巻き起こった。隣のエリーゼがでっかい声で、

「いぇーい!お嬢様ブラボー!ひゅうひゅう!わーい!」

 と騒ぐものだから、私はにわかに部屋に戻りたくなった。

 一方のメルは客たちに笑顔でしばらく手を振ると、ステージから降りた。かわりに今度は母がステージに上がる。騒いでいた人々は、一瞬にして再び口をつぐんだ。

 母のために用意された静謐のただ中で、母はすらりと背筋を伸ばして大広間の面々を見渡す。その視線に一度でも捉えられれば、歌う前から誰も彼もが彼女の聴衆なのだ。そしてついに、母がゆっくりと歌い出した。

 優しく、力強い歌声。深くて暖かい声だ。

 入りはメルの時と同じ低音。しかしメルの歌声が人を惹き付け、魅了するのに対し、母の歌声は人の心を掴み、揺さぶるのだ。それでいて、優しく包み込むようでもあった。

 母の歌声を聞いた者はみな、呼吸も、鼓動も、生きていることすら忘れてしまう。いま、それが手に取るように分かる。この歌声の前では、貴族も農民も、天使も悪魔も、犬も猫も鳥も、等しく母の声といっしょにうねるむき出しの感性だけにされるのだ。茫然と圧倒されていると、曲は私の一番好きなメロディにさしかかった。

「金の香りが銀の風に乗って谷を渡るころに……」

 母の歌は感情に直接訴える。

「私とあなたを別つのはたった一握りの虚空」

 この歌詞に母のどんな想いが込められているのか全く知らないけれど、痛いくらい、何かが伝わってくる。隣でエリーゼはぽかんと口を開けて放心していた。

「目に見えぬ理にすら抗えぬ弱き私であろうとも」

 一人、また一人と客がハンカチで目を押さえ始める。

「忘れないで」

 そして、母は美しく、高らかに最後の詞を歌に乗せた。

「私たちに朝日がさすその日、また逢うと誓ったことを」

 いつの間にか、私の頬に一滴の涙が伝っていた。


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