1-5 晩餐会
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部屋に戻った私はばふっ、とまっすぐベッドに倒れ込んだ。メルの誕生日プレゼントを買った後、ほとんど走って帰ってきたのもあり、疲れは半端ではない。夜に近付いた外の景色をちゃんと見られなかったのは残念だ。そのうえこれから晩餐会だと思うと気が重い。それでも今思い返せば、なんだかんだ外は楽しかった。
初めて見る外の世界は見たことのないものだらけで、色々なものが輝いているようにすら見えた。自分の想像していたものが現実になったような高揚感。同時に、外の世界の全てが素晴らしいものではないと思い知らされた。外の世界の二面を同時に見て頭は混乱していた。綺麗な雪景色、賑やかな商店街と温かい人たち。薄暗く汚い路地のなんとも言えない不穏な空気。もしかしたらあの不穏な路地で、あの少年に出会えたのは奇跡に近いものだったのかもしれない。もしルズアより先に酔っぱらい達に会っていたら、きっと私はどうしようもなかったろう。
だからこそちゃんとお礼をしないといけない。そしてもう一度会って話をしてみたい。初めて外の世界にできた”友達”に。
その時、こんこんと小さくドアを叩く音。思索を中断され、私は慌ててベッドを下り、ドアを開けた。
「ポル」
メルだった。何やらにこにこ笑って、部屋に入るとそっとドアを閉めた。
「おかえり」
ただいま、と笑顔を返そうとして、途中で顔が引きつった。おかえり?どういうこと?外に出たのがバレていたのか?
「そんな顔しないでよ。最初っから知ってたんだから」
ますます頭が混乱する。そんな私を尻目に、メルはおかしそうに笑ったままソファに座った。
「だからーっ、さすがにポルをエリーゼ一人で連れ出すのは難しいからさ、一人くらいは中に”ないつーしゃ”ってのがいないと」
内通者のことだろうか。最近覚えた言葉らしく、メルはやたら得意気な顔になった。私はメルの隣に座り、ソファの上に置かれた手に綴る。
『じゃあ今回のこれは、メルが最初っから知ってて手引きしてたってこと?』
「そうだよ?三日前からエリーゼとこっそり計画してた。きっとポルはさっきまでここで昼寝してることになってるよ。ポルが昼寝するのなんて珍しいから、絶対起こしちゃだめだよってペレネに言っておいたの」
『だから屋敷を出るときも帰ってくる時も、誰もいなかったのね』
「そうだよ!私のなけなしの頭使って、がんばって庭と玄関ホールには人がいないようにしたんだから。私ね、きっと策士の才能ある!」
それはどうなんだろう。私は笑った。結局私たちがお屋敷に着く頃にはもう日が落ちる寸前だったので、お屋敷は晩餐会の準備で大忙し。メルが今少し口をつぐんだ瞬間に、帰りの遅いエリーゼがどうやらすぐ階段の下で、メイド長のペレネに叱られているのが聞こえてきた。
「どこで油を売っていたのです!晩餐会のことはとっくに知らせてあったでしょう!いい加減怒りますよ!」
「もう怒ってるじゃないですか!ペレネさんのうそつき!」
「うそつきもへちまもありません!さっさと働きなさい!」
「そう言ってるあいだにペレネさんだって働きましょうよ~ほら一緒に……うわごめんなさい!痛い痛い!働きます!ごめんなさい!」
メルと私は顔を見合わせた。
『……仲良しねえ』
「はは……でもね、お外を楽しんでるのに言っちゃ悪いとは思うけどさ、私ももう少し早く帰ってくると思ってた。心配したよ?さすがに晩餐会の着替えの時間になったら、ポルがお昼寝してるから起こさないで、なんて嘘は通じないし……」
メルのきらきらした笑顔が少し曇る。
「ね。なんで遅かったの?なにかあった?」
『ええ、まあ……いろいろと』
私は迷子になってから帰ってくるまでの経緯をメルに話しはじめる。話すだけでも胸がドキドキした。ちょっと脚色めいたストーリーになっていたかもしれない。まるで初めて考えた童話物語を聴かせるような気分で話す私を、メルは真剣な顔で見ていた。
「ほええ、それで、裏路地のむこうのスラムに一人で迷い込んで無事に戻ってきた、と?まったく運がいいったら……」
私が全部話し終えると、メルは若干呆れたように言った。ちょっと熱が入りすぎたかもしれない。
『まあね、ある意味荷物を盗んだのがルズアでよかったわ』
「あのねえポル……そのルズアさんがどういう人かぜんっぜん知らないけど、街中で歩いてる知らない人に、特にそんな盗みをするような人に、ころっと名前教えたりついていったりしちゃだめなんだよ。エリーゼが危ないところをちゃんと教えないのもいけないけど……」
『うん。でもだって、せっかく道案内をしてくれるんだから、それくらいしなきゃ失礼かと思ったんだもの。出会い方がどうあれ、せっかく初めておしゃべりしてくださった人に名前も教えないのは、もったいないわ。違う?』
「違っちゃないけど……うーん……」
メルが頭を抱えたとき、ふいにノックの音がした。「どうぞ」とメルが答えるとドアが開いて、衣装ケースを抱えたメイドが立っていた。
「お嬢様方、お召し替えの時間でございます」
メイドは部屋に入ってそそくさと着替えの準備をはじめる。それを見て、私はふとプレゼントのことを思いだし、ベッドの上の包みを取った。
『これ』
メルの隣に座り直し、包みを手渡した。メルはきょとんとしている。
『誕生日おめでとう。初めての外記念よ』
私が言うと、パアッとメルの顔が輝いた。「わぁい!」とはしゃぎながら包みを開ける姿に、私の顔もつられて崩れる。
「うわぁ!この色、ずっと欲しかったんだぁ!」
包みから出てきたのは紫がかった淡いピンクと白の、毛糸のマフラーに手袋。メルには似合うと思ったし、今流行りの色だと店員が言っていた。
「ふへ……えへへ!もうポル!大好き!」
メルが思いっきり私にとびついた。あまりの勢いに、私は絞め殺されないようとにかくメルの服を引っ張る。
「あー……お嬢様方、お召し替えはもう少し後になさいますか?」
申し訳なさそうなメイドの声が割って入った。メルは我に返ったようで、あわてて体を離す。
「んえへへ……そうだね、晩餐会ね。準備しないと」
『そうね。じゃ、あとで』
「うん!」
メルはわざわざマフラーと手袋をつけて出ていった。
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階段を降りて、食堂とは反対側にある大広間へ足を運ぶ。
最後に晩餐会のあった二年前からほとんど使われていない大広間だが、もちろんいつでも使えるよう、手入れは念入りにされている。今はいくつものテーブルが置かれて、壁や天井が垂れ幕や小物で飾られ、奥には小ステージが用意された会場になっていた。中庭に臨むガラスのはめ込まれた扉から、雪の白に染まった花壇や噴水が見える。
着替えが終わってから一緒にきたメルは、金糸の髪を下ろして薔薇の髪飾りと青いドレスを纏い、愛らしく薄化粧をしている。一方私は、エリーゼや使用人たちと同じメイド服に髪をひっつめていた。お屋敷でパーティをするときはいつもこうなのだ。当然私が参加者としてパーティに出ることはない。それでもパーティの間一人蚊帳の外で部屋にいるより、仲良しのメイドや料理人たちといたほうがいいだろう、という母親の配慮だとメイドたちからは聞かされていた。私も特に不満に思ったこともないし、使用人達と一緒に働くのは楽しかった。
ところで、エルンスト一家が先ほど到着したようだった。玄関前の石畳に、豪奢な四頭だて馬車の蹄の音を鳴らしてやってきた一家は、今玄関ホールで誰かと話しこんでいるらしい。来客用の扉の向こうから微かに声が聞こえる。ここには忙しなく使用人が行き来しているだけで、他に誰もいない。
「意外とたくさん人がくるみたいだね」
メルは用意されたテーブルの数を見て言うと、手近な椅子を引いて座った。私はその背もたれによりかかり、後ろからメルの金髪をすく。やわらかくて気持ちいい。
『確かに……すごい席の数よね』
「聞いてた?こんなたくさん来るって」
『メルが聞いてないなら私も聞いてないわよ』
「はは……そうだよね」
メルはため息をついた。
「母さんは……いつも大事なことを言わないんだから。それにきっと歌えってことだよね、あのステージ。一言くらい前に言ってくれればいいのに」
メルがぼやいたその時、突然来客用の扉の向こうのすぐ近くで声がした。私とメルはほぼ同時に飛び上がる。メルが慌てて立ったので、メルの頭が下から思い切り私の顎に直撃して舌を噛んだ。血の味がする。
涙で若干見えなくなる目をこらして、私は全速力で隅っこへ走る。メルは頭をさすりながら椅子を戻し、ドレスのシワを伸ばす。私が大広間の隅にたどり着いたのと扉が開いたのは全く同時だった。
「まぁ!素晴らしい会場ですわ」
甲高いしわがれ声。後ろを向いて、壁の飾りを直しているふりをしながら声の主をちらりと見る。知らない白髪の老夫婦がいた。
「お待ちしておりました、ユベル子爵、奥様。わざわざお越しいただいて光栄です」
対するメルは、当然夫婦を知っているのだろう。ドレスを摘まんでお辞儀する。しかし、柔らかに笑っていても表情に戸惑いが隠しきれていない。来ると思っていなかったのが丸見えだ。正直かなり笑える。幸い、それにユベル子爵夫妻は気付いていない。
「これはこれはご令嬢、今夜は一段とお美しいですな。前にお会いしたのはいつでしたかな」
「一年ほど前ですわ」
「ははは、レディの成長は早いもので……」
老夫婦とメルが社交辞令を交わしているのを、壁の飾りをいじりながら聞いていたら間違って飾りを引きちぎってしまった。慌てて何とか修復しようと頑張っていると、もう一度扉が開く音がする。
「エルンスト伯爵!」
メルの声に私は振り返った。白い背広を来て、プラチナブロンドの髪と口髭をたっぷり蓄えた、恰幅のいい壮年の男が入ってくるところだった。後ろには背の高い青年と、まだ幼さの残る顔をした少年もいる。母の昔のパトロンであるエルンスト一家だ。一家の先頭に立つ壮年の男性、エルンスト伯爵家当主オーエン・エルンストがメルに恭しくお辞儀した。
「ご機嫌麗しゅう、メル嬢。母上はどこにおられるか?」
「母は……」
「メル嬢!」
突然伯爵の後ろから少年が飛び出し、メルの手を取って片膝をつく。これこれ……と伯爵は困ったように制し、メルも困惑顔だがお構いなしだ。
「お会いできて光栄です!」
「半年前に会ったじゃない……ディヴ」
「それでも光栄なものは光栄です」
「はは……ありがとう」
ちょっと引き笑いになっているメルが可笑しくて仕方ない。確かに二年前の晩餐会も、あの二人はあんな感じで何だかんだ仲がよかった。私が知らない間に何度か会ったようだが、きっとそこでもこうだったのだろう。
「はっはっは……ディヴは相当お熱なようですな。今日のメル嬢はいつもより格段に素晴らしいから無理もない」
「ち、違います父上!邪推はお止めください!ただ僕はメル嬢にご挨拶を……」
「それで、母上はどこにみえるかね?」
「まだ自室で準備しておりますわ」
「父上!聞いてください!」
ディヴはもう顔を真っ赤にして叫んでいた。私は吹き出しそうになるのを慌てて堪えた。何とか普通のメイドらしく振る舞わないと。
「はっはっは……ディヴ、あまり騒いではいかんぞ。私は少し母上と話があるから少し玄関ホールで待たせてもらうよ……はっはっは」
ちらっと振り返ると、伯爵が演劇の悪役が退場するときのように、高らかな笑い声を響かせながら出ていくところだった。
さて、そろそろ厨房の仕事でも手伝わなければなるまい。エルンスト家もいらしたことだし、メイドになったからにはきっちり働きたいものだ。私は厨房へ続く扉の方へ一歩踏み出した。が、そこで不意にものすごく痛い視線をどこからか感じた。
辺りをきょろきょろ見回したが分からない。さっきの老夫婦、メル、メルと話しているディヴ……そしてディヴの後ろに立っている青年を見たとき、なぜかばっちり目が合った。
時が止まったように、周囲の喧騒がふっと遠のく。しかしそれも束の間、次の一瞬にはいやいや気のせいだろう、と目を逸らした。私はともかく何事もなかったかのように通りすぎる。
だが、厨房に続く扉のすぐ前まで来ても、やっぱり知らんふりできないほどの視線を感じる。もう一度振り向くと、今度は目が合ったどころかこっちに笑った気がした。ますます気味が悪い。あの人、いったい誰だっただろう。名前が思い出せない。確かディヴの兄で、エルンスト家の長男だったと思う。ともあれ、今さら遅い気もするが、何とかメイドではないということがばれないようにしなければならない。目の前の扉になるべく顔を見せないよう早足で入る。扉をきっちり閉じると同時に視線も遮られ、私はほっとした。
「あ、お嬢様!遅かったっすね!」
厨房の方へ行くとちょうどエリーゼと出くわした。はいいが、いちいちやたら声が大きい。またお嬢様って言って、さっきの商店街での教訓はきれいさっぱり忘れたようだ。万一客の誰かに聞こえたらどうするというんだ。
指をたてて静かに、として見せるとエリーゼはやっと気付いたのか、はっと口を覆って誤魔化すようにウインクした。私に誤魔化してどうする。
手招きするエリーゼについて、少し早足で厨房へ向かう。
『エリーゼ、今日の晩餐会って一体何人来るの?』
いつものように手に綴る。
「さぁ、確か四十……五十くらいでしたかね?」
『そんなに!何で?』
「何でと言われても……分かりませんよ。使用人はみんな、それだけの人数分の用意をしろと奥様から仰せつかっただけですもん。まぁ確かに珍しいことではありますよ……滅多にこの屋敷に人を呼ばない奥様にしては。あんまり急な知らせでこっちはてんてこ舞いもいいとこです。もう少し事情を知らせてくれてもいいんですがねぇ……おぅっと!」
「おいおい嬢ちゃん方、気を付けてくれぃ!」
「すいませんっ」
すぐそこの厨房からいきなり料理長が出てきて、エリーゼはぶつかりそうになる。無様に飛び退きながら謝ったが、料理長は忙しいようで聞きもせずに行ってしまった。二人して足を止めると、顔を見合わせる。
『そういえばこの飾り、壊……れてたんだけど』
思い出して、さっきいじってちぎれてしまった飾りをとりだした。エリーゼは、はん?と渡された飾りを吟味するように見る。
「はは~ん……お嬢様壊しましたね?」
ごまかしはきかなかった。
「実は、この飾り作ったの私とペレネさんなんですよ。不良品チェックは昨日完璧にしたはずだから、ちょっとやそっとで勝手に壊れるはずがないんです」
私の内心を読んだように、得意げに言う。普段は抜けているのに妙に敏感だから困る人だ。
『……すいませんでした』
「分かればよろしい。ペレネさんが余ったやつ持ってるんで、あとでもらってつけ直しといて下さい」
そう言うとエリーゼは、エプロンのポケットから銀時計を出してちらっと見た。げ、という顔をして急にすたすたと厨房に入る。数秒ののちに食前酒の盆を危なっかしく乗っけて出てくると、
「あと二十分で始まっちゃいます!お嬢様、食前酒を配りに行ってくれますか?ついでにテーブルに足らないものがないか確認してきて下さい。あと広間全体も。それと……」
「エリーゼ!」
きびきびとした声が後ろから突然飛んできた。二人で同時にそちらを振り返る。そこには、厨房に向かう廊下をつかつかと歩くメイド服の女性。栗毛の髪を後ろで一つに纏めて大きなピンで上げ、赤ぶち眼鏡をかけて、かなり厳しそうに見える。いや、見ての通り厳しい。
「お嬢様にあまり仕事を押し付けるものじゃありません!」
「押しつけてないですって!ペレネさんはもう……」
「もう、はこっちです!もっと早く済ましておくように言ったはずでしょう?またサボってたんですね?」
「トイレ行ってただけっすよ……」
はぁ、と同時にため息をつくエリーゼとメイド長ペレネ。ペレネもエリーゼも互いに苦労しているようだった。確かに相容れる性格ではないようだが、同時にため息が出るあたりどこか仲がいい。
私はうなだれるエリーゼから食前酒の盆をもらい、再び大広間へ向かった。
大広間に入ると、そこはすでに色とりどりのドレスや燕尾服で混み合っていた。
どうやら大体の人数はもう揃っているらしい。使用人たちが三々五々客を席へと案内し、立って雑談を楽しんでいる人もいる。エルンスト伯爵の姿は見えない。メルは奥の方の席に座り、同じテーブルのディヴと楽しそうに話していた。その隣のテーブルにはさっきのディヴの兄が、最初に会場に着いた老夫婦と座っている。どうやらこっちには気付いていないようだ。私はほっと肩を撫で下ろした。
間もなく晩餐会が始まるとはいえ、まだ半分くらいの客が立っている。その中をたくさんのグラスを乗せた盆を運びながら歩くのは、思ったより難しい。慣れていないからだろう。半分くらい配ったところでエリーゼも残りの食前酒を配りに来た。こちらはさすが本物のメイド、かなり手際がいい。負けじと何とか普通のメイドに見せるため、悪戦苦闘を続けてしばらく、客が全員席へ着いた頃。
ホールへ続く扉の音がした。同時に周囲の客たちから嘆息や小さな歓声が上がる。そちらを見ると、ちょうど二人の人物が入ってくるところだった。
最初に入ってきたのは白い背広にプラチナブロンドの髪と口ひげ、エルンスト伯爵。そのあとに続いてきたのは、深紅の豪奢なドレスを纏った”赤い歌姫”。私の母、リーアン・アトレッタだ。
周りから自然と拍手が沸き起こる。高い位置でまとめた母の金髪を上品な宝石飾りが彩り、真っ赤なルージュの唇が美しい微笑みを形作る。メルに生き写された翡翠の瞳に宿る強い意思は、見る者を圧倒し、虜にした。”赤い歌姫”の二つ名の由来である深紅のドレスの、大きく開いた背中から見える陶器のように白い肌。衣装の上からでもわかる、しなやかな肢体。美しさや歌声だけでない、存在そのものが、国一の歌姫の威厳を呈している。
す、と静かに奥のテーブルでメルが立ち上がった。ゆっくりと、エルンスト伯爵と母がそこに向かう。その間誰も声を発しない。母から目を離す者もいなかった。
やがて二人がテーブルに着く。エルンスト伯爵はディヴの隣、メルの向かいに座った。そして、立ったままのメルの隣に母が並ぶ。濃青と深紅が対照的に映えた。母は大広間をぐるりと見渡し、ゆっくりと真っ赤な唇を開く。
「今日ははるばるお越し下さってありがとうございます……それでは晩餐会を」
突然エルンスト伯爵が立ち上がった。そのまま、さっき私がギリギリで配り終えた食前酒のグラスを掲げて、
「アルバート王国の宝、”赤い歌姫”に乾杯!」
「乾杯!」
広間中の客がエルンスト伯爵に倣って唱和する。同時に広間の時計が六時の鐘を響かせ、晩餐会が始まった。
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「……あー、つっかれた」
二人でデザートを出し終わったあと、大広間を出るや否やエリーゼが亡者のような声でぼやいた。
『そうかしら?』
「お嬢様、楽しそうですね」
『うーん……まあね。やり慣れてないことって、ちょっと楽しいわ』
エリーゼがじとっとした目でこっちを見る。
「お嬢様がおかしいんですよ……慣れないから疲れるんじゃないっすか」
『エリーゼは本職でしょうに……』
「そういう問題じゃないんですよ~」
じゃあどういう問題なんだ。エリーゼはうーっとのんきに背伸びをしているが、こんなところをペレネに見られたら叱られそうだ。
「何をしているんです?まだ晩餐会は終わっていませんよ」
叱られた。声の方を見ると、ペレネがちょうど廊下の向こう側から歩いてきていた。噂をすれば影と言うが、考えただけでも現れるとは。彼女はサボりのあるところに引き寄せられるとしか考えられない。隣のエリーゼは、鼻に豆でも詰まったような顔をして、
「うっわ、出た」
「誰が出たんですか?エリーゼ、そんなに暇なら仕事を言いますからよく聞きなさい」
「暇なんじゃないですよ!休憩です休憩!」
「まず大広間の暖炉の薪を足してください。お客様の空いたお皿をお引きして厨房で飲み物の準備を……」
「さっきお嬢様には仕事押し付けるなって言ったくせに……」
「あなたに言ってるんですよ、エリーゼ。お嬢様じゃありません」
「そんなアホな!」
『エ、エリーゼ、私も手伝うから』
メイドでいろと言われた以上、何もすることがないと居場所がないので、私としては仕事をしていたい。きっとそれを分かって、エリーゼは私を数に入れて仕事の指示を聞いていたんだろう。ペレネはいちいちエリーゼに返事をするのが面倒になったのか、滔々と話し続けている。
「……で、それとですね。お客様がデザートを食べ終わった頃を見計らって、奥様が合図をされますから、そしたらダンスの用意を……」
「ダンスですって?」
エリーゼが驚いてさえぎる。私も驚いた。舞踏会じゃあるまいし、余興にしてはあまりにも大掛かりだ。晩餐会とは別に大層な用意が要るだろう。そんなこと聞いていない。ペレネは少し肩を竦め、
「私は晩餐会が始まる前に聞いていたのですが……メイド達には言うのが遅くなってしまいました。それは申し訳ありません……」
『晩餐会が始まる前……にしても急すぎやしない?』
エリーゼの手に綴ると、エリーゼが代わりにペレネに問うてくれた。ペレネは珍しく、ますます困った顔になる。
「それはそうなのですが……ええ、私もその時初めて奥様にそう伺ったので驚きましたよ。何か理由がおありになるのでしょうか、今回の晩餐会は急なことが多いですから」
メイド長のペレネでさえ、晩餐会直前まで聞いていなかったのか。こうなると母は忙しかっただとか、理由があって言えなかっただとかいうより、わざと隠していたとしか思えない。それに、ダンスパーティに要る手配なんかいつの間にしていたんだろう。
「……ま、解りましたよ。要は、それまでに適当に大広間で待機してろってことでしょ?」
エリーゼが、悶々とした空気を切り替えるように明るく言った。ついでにふぁっ、と大胆に欠伸をする。ペレネの前でよくやるものだ。
「珍しく物分かりがいいですね」
「やだなぁ、珍しくは余計ですよ。お嬢様、行きましょ」
私は大きくうなずく。何はともあれ、まずは大広間の暖炉の薪を取りに速足で倉庫へ向かった。
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