1-4 裏路地でみつけた秘密

**********


 帰途につくこと、体感で数十分後。私は息を切らして再び地面にへたり込んだ。はしたないと思いながらも、裏路地の汚れた塀に背を預け、足を投げ出す。

 辺りを見回せば、来るときに見たようなぼろぼろの建物たち。打ち捨てられた瓦礫やごみの山。やっぱり、来るとき見たっていうのは気のせいだったかも。私は完全に迷っていた。

 時間は少し前にさかのぼる。

 もと来た道をたどるだけなのだから、帰り道には自信があった。初めて外に出たとはいえ、自分の記憶力は悪くないと自負している。来るときに見たものを頼りに進んでいった。しかし、どうにも似たような路地を何回も通る。とは思ったが、まぁ同じような道もあるだろうとその時は適当に通りすぎ、そのまま進んでいった。そうそう、ここを確か右で……なんて頭の中で自分に言い聞かせていると、はかったようにまた同じ光景。しかし、まあそんなこともあるさと思って通りすぎた。

 それがあと二回くらい続いてようやく、自分が同じところをぐるぐる回っていることを認めざるをえなくなった。

 よくよく考えてみれば、来るときはあんなに必死に走っていたのだから、景色の記憶があいまいでも何らおかしくない。どの道を通ったか覚えているわけもない。自分の記憶力を完全に過信していた。だが、まだなんとかなるはずだ。ぐるぐる回っているならこのループから抜け出せばいい。そうすればきっとどこかに着く。回っているよりまし。

 かくして勘を頼りに、わざと絶対間違っていると思う道に入っていった。確信のある道に入って、また回ってしまうといけない。なるべく太い道より細い道。人の足跡が多い道より少ない道。何故か人っ子一人見なかったので、道を聞くすべもなかった。

 早足で歩いてきた疲れも徐々にたまっていき、とうとう私はわけのわからない細くて薄暗い道に座り込んだ。

 もう歩けない。というより、これ以上歩いても事態が悪化するだけのような気がする。疲れとは裏腹に笑いが込み上げてきて、今に至る。

 私はぐったりしたまま空を見上げた。路地の両側に建った灰色の壁に細長く切り取られた空は、お屋敷で見る空より小さかった。日はかなり傾いているようで、建物の入り組んだ路地にはほとんど日が当たらなくなっている。それが薄汚れた路地を、より薄暗い印象にしていた。この調子だとお屋敷に帰るのはいつになるだろう。

“今日の夜にエルンスト伯爵ご一家がいらっしゃるそうです。奥様も早めに帰ってみえて久々の晩餐会ですよ”

 突然頭の中に、朝聞いたメイド長ペレネの言葉が蘇る。私は弾けるように立ち上がった。母も帰って来て、晩餐会の準備でお屋敷は大騒動だろう。こっそり抜け出したはいいが、そんな中で私がいないことがばれていてもおかしくない。それに買い物係のエリーゼもいないのだ。私を連れ出したのがエリーゼだと解ってしまう。その上晩餐会用の食材が足りないなんてことになったりして。

 こんなことをしてる場合じゃない。私はもう一度走りだした。死力を尽くせば、動けないわけじゃないみたいだ。じっとしているより帰れる可能性は高いはず。

 しかし、進んでも進んでもやっぱり景色はあまり変わらない。一向に商店街に出られそうな兆しもない。半泣きで走った。限界がとっくにきていた私は、とっさに前に見えたものに死に物狂いですがるしかなかった。人影が見えたのだ。

 走っていたら自分の目の前に誰かが曲がってきた。背中を向けて歩いている人影との距離は一気に詰まり、半ば体当たりするようにその服をひっつかんだ。

「おぅっ⁉」

 人影は驚きの声を上げて、私を振りきるように体を反転させると数歩下がった。私はそのまま突っ込んだ勢いで前のめりに倒れ、顔を思いっきり打った。

「てめえ、さっきの……」

 さっきの?ゆっくり顔を上げると、そこに立っていたのは黒い瞳に赤毛の引ったくり少年だった。

 その瞬間、今まで半泣きだった目からどわあっと一気に涙が出てきた。あんなに少年が怖かったのは一体何だったんだろう。

「何だ……?」

 私は明らかに戸惑っている少年の手をひっつかんで綴った。

『帰る道を教えてください!お願いです!お礼はしますから!』

「……はあ?道?商店街に出る道か?」

 頷くと、少年はふん、と言った。

「なるほど。で、そのお礼ってのは?」

 考えていなかった。涙をぐいっと拭って、大慌てで頭をフル回転させながら何気なく少年を見ていると、さっき倒れていたときよりいくつか顔や腕に傷が増えているのに気づいた。

『あ、え、えっと……そうね……さっきから怪我だらけだったみたいだし……ちょっと手当してさしあげる、とか……』

 少年はまったく聞いていないようだった。私の言うことには反応せず、私が腕に抱えていたパン屋の紙袋に手を伸ばし、いきなりその中をまさぐった。とっさに止めようかと思ったが、この際仕方あるまい。どうせ後でエリーゼにはたくさん謝らなければならないのだから、と腹をくくる。少年は紙袋からひとつ小袋を取り出し、中に入っていたパンを無造作にかじった。

「交渉成立」

『……それだけでいいの?』

「んあ?だめならその袋全部くれ」

『いえ……それはちょっと……』

 ちぇっ、と舌打ちして、少年は小袋を持ったままポルに背を向けて歩き出した。私は慌てて立ち上がって服を払い、走って彼の横に並ぶ。

 少年は歩きながらひっきりなしにパンを貪っている。よほどお腹が減っていたのだろう。そういえば、落ち着いて挨拶も名乗りもしていないことが居心地悪くなってきた。彼が口にパンを詰め終わる間隙を狙って少年の服の裾を少し引っ張ると、意外なことに少年はすんなり手を差し出してくれる。私はその手に綴った。

『あの、お名前は?』

「ふぃとにんなむぇをふぃくなるぁふぃふんかるぁうぃえ」

『……あー、えっと……』

 私が思わず書き淀むと、少年は口の中のパンを一気に飲み込む。のどに詰まらせたらしく、一通りのたうち回ってから、少年は涙目を隠すようにそっぽを向いて言い直した。

「人に名前を聞くんなら自分から名乗れ」

『そうね、すいません……ポル・アトレッタ、といいます』

「ルズアだ」

 ルズアはかったるそうに返事をして、またパンを貪り始めた。沈黙が訪れる。

 しばらくすると、なんだか急に話をした方がいいんだろうか、という気がむくむくわいてきた。いつか小説で読んだ、話が続かなくて気まずいという感覚がこれだろうか。お屋敷の中で同じ人としか話していないと、味わうことのない感覚だった。いい気分ではないが新鮮だ。

 何と話しかけるか考えていると、突然ルズアがパンから目を離して思い出したように言った。

「アトレッタ。アトレッタってあの?」

 さっきと同じように、私が文字を綴るよう手を差し出してくれる。

『あの、とは?』

「”赤い歌姫”。リーアン・アトレッタ」

『あぁ……』

 母の名前は裏路地にいる人々も知っているのか。国一の歌姫の名は伊達ではない。

『そう。リーアン・アトレッタは母です』

「母?」

 そして、そうだった。リーアンの娘メルも同じくらい有名で、リーアンの娘はメルしかいないのだ。世間では。

『メルは双子の妹で』

「はぁん……だからそんな高そうな服か」

『服?』

「何でもねぇ」

 ルズアは誤魔化すようにパンを頬張る。が、すぐに突然足を止めた。私も合わせて足を止める。

 すると、前方の曲がり角の向こうから、騒々しい笑い声が聞こえた。近い。それに、こっちに向かってきている。

 次の瞬間、私は首根っこを捕まれていた。そのままちょうど横にあった大きなごみバケツの影に、半分投げるように放り込まれる。思い切り路地の壁で後頭部と背中をぶっつけた。あんまりだ。いきなりのことに、私は驚きと怒りで立ち上がった。

 笑い声の主が角を曲がってきたのは同時だった。

 黒い口ひげや髪をぼうぼうと伸ばした熊のような大男と、禿げてひょろりと痩せた長身の男。二人ともいかにも柄が悪そうで、まだ夜でもないのに両手に酒瓶を持って真っ赤な顔で大笑いしている。その酒で血走った目が、道の真ん中でパン袋を抱えて突っ立っているルズアと、ごみバケツの後ろで頭を押さえて立っている私を捉えた。笑い声が徐々に止み、代わりにみるみる下品な笑みが二人の顔に浮かぶ。

「お~う……?誰かと思ったらチビじゃねぇか……そっちの女はだれだぁ?あぁ?てめぇの女かぁ?」

 大男の方が呂律の回らないダミ声で言った。酔っているとは思えない鋭い視線が私とルズアを交互に刺す。すると突然隣の痩せた男が狂ったように笑いだした。

「っぎゃははははは!そりゃ下らねぇ冗談だぜぇ!このガキに女だあ?女の顔も見えねーヤツに?あっははは!」

「……くそったれ」

 ちらりと振り返ったルズアの呟きは、私に向けられていた。こうなるとわかっていてルズアは私を隠そうとしたのだ。私はたった今それに気がついた。

「そうだなぁ……?あの”不幸を呼ぶガキ”に女なんて面白くもねぇ冗談だぜ……それともなんだ、もしかしてそいつぁ売りモンか?にしてもいいのを見つけてきたもんだ……」

「ぎゃははっ、本当に不幸を呼びやがるガキだ!あっははは!運がねえな嬢ちゃん、拾われたのがこんなんじゃあ売っ払われるしかねぇや!どうだぁガキ、高く売れる所を教えてやろうかぁ?昔っから金がねえって、這いつくばって食い物探しばっかしてやがったもんなぁ!汚ねえブタ野郎が!」

 その瞬間、ルズアの周辺の温度が一気に下がった。背筋が凍る。最初に路地でルズアに会った時に感じた寒気とは比べ物にならない。気づいた時には、ルズアは持っていた袋を置いて地面を踏み切り、男たちの目の前まで五歩で間合いを詰めていた。

 今まで饒舌に喋っていた男は、まだ状況が飲み込めていない様子で突っ立ったままだ。わけがわかっていない彼らの腹に、ルズアは勢いを利用して拳をぶち込んだ。よろめいた男たちに両肩でタックルをかまし、その手に持っていた酒瓶が離れるのを狙ってそれを後ろ手で奪い、重なるように倒れこむ彼らの頭に、両の手でそれぞれ握った酒瓶を一人ずつお見舞いした。

「てめえらはつい一昨日も俺に同じ目に遭わされたのを覚えてねぇのか?」

 倒れこんだ男らの頭をまたいで、大男の首根っこを軽く足で踏みつけながらルズアは凄む。返事は返ってこない。余計に腹が立ったのか二人の胸元を掴むと、路地の隅に放り投げた。

 相手を散々にやり込め、どうやら終わったらしい。二対一で、さらに相手は二人とも強そうだったのに、始まってから三分と経っていない。まさに鬼のような所業だった。

「行くぞ」

 パン袋を拾ってすたすた歩いて行ってしまうルズアに、私は慌てて追いついた。相当やられた男二人は、私達が前を通っても全く気づく様子もない。おそるおそる聞いてみる。

『この人……生きてますよね?』

「さあ。知らねえな」

『た、確かめてから行きませんか』

「確かめてどうすんだ」

『どう?どうって、どういうこと?』

 つい言葉が漏れる。この人は、ちょっとやりすぎだったとは思わないのだろうか。人を死なせていないか確かめるのに、わざわざ理由が要ると思わなかった。ルズアは顔をしかめる。

「死んでたらどうするってんだ。勝手に囃し立ててくるクソ野郎が減ったら、さぞ静かになるだろうよ」

『いえ、そうかもしれませんけど……』

 遠く後ろになったゴロツキたちを振り返る。

「お屋敷住まいのお嬢様じゃあ、分からなくて当然だろうな」

 ルズアが沈んだ声でイライラと、私の言葉を遮った。

「こんな路地裏じゃあな、やられてやり返せなきゃ後がねえんだよ。ぬくぬくあったかいお屋敷から出なくても生きていける、てめえみたいなやつが来る場所じゃねえんだぞ。なめてんのか?」

 ルズアはふんっと鼻であざ笑った。私はむっとして、

『なめてなんかいませんよ。それに、なんで知ってるんです?私がお屋敷から出たことなかったって。それから……』

「はあ?知らねえよ、例えで言っただけだろうが」

 ルズアはまたも私の言葉に割り込むと、一人納得したように、

「それだからこんなところにホイホイ入ってくるわけか。こんなとこにゃあろくな人間がいねえことなんざ、表通りの子供でも知ってる」

『ルズアさん……が買い物袋を盗むからです』

「あんなもんはガキに使う常套手段だ。相手の足音に合わせて、すれちがうふりでこっちの足を引っかけるだけのな。あとは落し物をかすめてトンズラすればいい。いい鴨だったぜ。あと、ルズアさんって言うな。気持ち悪い」

『……分かったわよ。鴨とは失礼ね』

 ルズアはまた鼻で笑った。それが癪にさわった。

『ルズアさ……ルズアこそ、そんなにペラペラと常套手段をしゃべっていいのかしら?』

「はん、てめえごときが知ってどうしようっていうんだ?憲兵にでも通報する気か?」

 あんまりな言いようではないか。私はついむかっとして、

『なによ、何にも無いとこで転んで気絶してたくせに!』

 ぎろり、とルズアがこっちを睨んだ。相変わらず睨むと怖いが、どうやら頭に血が上ったのは向こうも同じだったようで、

「うるせえぞクソアマ!あれは知らねえとこにゴミ箱が置いてやがって蹴躓いただけで……」

 ルズアの怒りの声は尻すぼみになって消えた。しまったという表情が浮かんで、それはみるみる怒りの顔になっていく。ついには「ちっ」と舌打ちしながら空の紙袋をぐしゃぐしゃ丸めて、至近距離から私の顔に向かって投げつけた。紙袋は私の額に当たって落ちる。

『……ごめんなさいは?』

「あん?」

『私も言い過ぎたわ。ごめんなさい。だからあなたもごめんなさいよ。ほら』

「ガキにしゃべるみたいな口利きやがって。クソチビ」

『わかったわよ。じゃあせめてゴミは拾いましょう?』

 ルズアは答えない。

『拾いましょう?』

「うるせえな」

 ルズアはゆっくりと紙袋の屑を拾い上げて、さらにぐしゃぐしゃ丸めるとポケットに突っ込んだ。


 再び歩き出すルズアに私はついていった。しばらく静寂が続く。

 その間彼にちらちら視線をやりながら、私は頭を巡らせていた。なんとなく、彼には疑問を感じざるを得ない。話さなければ、神経を研ぎ澄ませていなければわからないなにか。最初に言った「女かよ」という言葉、男たちが言った「女の顔も見えねーやつ」、最後に今の話。私はそーっと、ルズアの顔を覗き込んだ。

『一つ聞きたいことがあるのだけど』

「もう道聞いてんのに図々しいな。情報料をくれ、情報料を」

 やっぱり少しは腹が立つ。パンの袋をわざと大きな音を立てて後ろに隠した。

『ふうん、じゃあいいわ』

 するとルズアは、ちょっと不満そうな顔を浮かべた。なんて分かりやすいんだろう、この人は。失礼な手を使っているのはわかっているからムズムズするが、相手の態度も態度でもっと煮え切らない。道を聞くことって、外の世界ではそんなに失礼なことなのだろうか?それとも、私がここにいること自体が、そんなに世間的にまずいのか?アトレッタ家の娘だなんて、大声で叫びでもしなきゃ、こんなとこではルズア以外に誰も知らないのに。

『わかったわよ。これでいいかしら?』

 沈黙に負けた私は、袋の中からいくつか小分けにされたパンを取り出して、ルズアに渡した。すかさずルズアは小分けを破り開けて、貪るように食べはじめる。私はわざと偉そうにしゃべった。

『情報料は渡したんだから、ちゃんと答えてくれるんでしょう?』

「……っんなんだようっるせえな。さっさとしゃべりやがれ」

『ねえあなた、もしかして目が見えないの?』

 ルズアの手がピタリと止まった。だんまりが数秒、ルズアはその端正な顔に、凍りつくような自嘲の笑みを浮かべた。

「ああ、そうだ」

 やっぱり。そう心の片隅で思ったが、私の目は彼の美しい嘲笑に奪われていた。鋭く光る名刀の切っ先のような冷ややかさは、彼自身に突きつけられていることが、まるで手に取るように伝わってくるのだ。さっきまでの不躾な自分が、突然恥ずかしくなった。

「で、だからなんだ?わざわざ人に情報料までくれてやって、知りたいことはたったのそれだけか?」

 味わったことのない居心地の悪さが私を襲う。本当にただ知りたかっただけだと――他にも山ほど聞き方はあったろうし、悪意がなければ許されることなんかないのだが、せめて思ったことをぜんぶ素直に伝えるくらいしか、少しでも誠実になれる方法を思いつかない。

『びっくりしたの。あなた、勘がいいのね。それに、周囲の空気でものを語れるみたいに、感覚が研ぎ澄まされてる。所詮お屋敷の中のことしか知らないけど、その私ですらそれがわかるわ。だから気づいてるのよね、私が話せないって』

 お屋敷の中の人でもないのに、さっきからずっと自然に私と会話できるよう、片手で器用にパンを貪りながら、片手を差し出してくれている。そうしないと会話できないことを、どこかでどうやってか察知したのだろう。初めて彼が私に対面したときだって、見れば女だとわかるはずが、彼が判断したのは恐らく私が後ずさった時の音だったのだ。裕福な家の人間だということも、服の衣擦れの音からどんな服を着ているかで判断したに違いない。だからどうというわけではないが、正直感嘆すらしてしまう。人間ってここまでできるのか、と。一見盲目だとは気がつかないくらいだ。恐らくそうでもなければ、ここでは生きて来れなかったのだろう。

「お世辞をほざくくらいなら黙ってやがれ、気持ち悪い」

 一方のルズアは、本気で気持ち悪そうに吐き捨てる。

『……ごめんなさい。でも言うけど、聞いておいてお世辞なんて失礼なこと言わないわよ。正直に言っただけよ』

 ルズアはまたパンを貪るのに必死で聞いていない。ため息をつきたくなる。

 その時、私の耳に聞き覚えのある喧騒が飛び込んできた。

 ルズアはすごいスピードで食べながら、すぐ先にあった曲がり角を曲がった。私もそれに続く。

 すると、道なりに見えたのはさっき通った商店街。

 ほっとしたと同時に、今までの疲れが押し寄せてくる。裏路地は大冒険に等しかった。その大冒険が終わりを告げようとしている。寂しさをおぼえた。

「着いたぞ」

 一方ルズアは当然何の感慨があるわけでもなさそうに、淡々と言った。私は彼の手を取った。

『ありがとう』

「礼を言うならあと一袋置いてけ」

『……もうないわ』

「あっそ。じゃその紙袋ごとでいい」

『もっとだめ!』

「けっ」

『今度は、ちゃんとしたお礼持ってくるから』

「今度だあ?てめえ……」

「ポルちゃん⁉」

 突然の声がルズアの言葉を遮った。声のした方を見ると、路地の先からカリアさんが驚いた顔でこっちを見ていた。

「エリーゼさんが探してたわ!そっちは危ないからいらっしゃい」

 否応なく行くしかないようだ。ルズアが言いかけたことが気になったが、仕方なく彼に手を振ってカリアさんの方へ向かう。

「エリーゼさんが心配してたわよ。突然いなくなっ……」

「お嬢様ああああああ!」

 少し離れたところにいたらしい、エリーゼがすごい勢いで飛び付いてきた。バランスを崩して倒れそうになるのを、何とかカリアさんが支えてくれる。

「どこいってたんですかお嬢様ぁ!探したじゃないですか!裏路地なんか入ったら危ないですよ!私の不注意です!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 泣き出すエリーゼに驚き半分呆れ半分で、苦笑するしかなかった。とは言っても、私が勝手な方へ行ってしまったのが悪いのだから、とりあえず謝る。手を合わせてごめんなさいの仕草をすると、エリーゼは泣き顔から一変して少し怒ったような顔になった。

「もう、お嬢様がいなくなっちゃったら私どうすればいいんですか!お屋敷に帰れなくなっちゃいます!だから離れないでくださいってお嬢様に……」

 そこでエリーゼはしまったという顔で口をふさいだ。そういえば、さっきカリアさんや商店街の人たちに私を自分の妹だと言っていたのを思い出したのだろう。あんな大きな声で「お嬢様」と言ってしまっていては、残念ながら手遅れだ。ついでに言うと「離れないでください」と言われた記憶はない。

 エリーゼはおそるおそるカリアさんの方を見ると、カリアさんは「仲がよろしいのね」とクスクス笑っていた。詮索する気はないようだ。

 エリーゼがほっと肩を撫で下ろしている隙に、私はさっき来た路地を振り返ってみた。やはりそこには誰もいなかった。ただ、薄暗い路地の奥へと続く、真新しい足跡が残っている。

「……さあ、行きますよ」

 やっと離れたエリーゼはぱんぱん、と私と自分の服の皺を伸ばすと、今度はしっかり私の手を引いた。手を引かれる歳ではないのだが、実際迷子になったのだから仕方あるまい。

「じゃあ、カリアさん。妹がご迷惑おかけしました。また来週、買い物当番の時に来ますね」

 あくまでも妹は貫くらしい。

「ええ、いつもお店のご贔屓ありがとうね。ポルちゃんもいつでもいらっしゃい」

 カリアさんは上品に手を振る。エリーゼは元気に手を振り返し、私は軽く頭を下げた。

「さ、帰りましょお嬢様。晩餐会の準備始まってますよ……あ、その前に初めての外出記念に、何か買ってあげますね」

 いいのに、と言おうとして、メルに誕生日プレゼントをあげていないのを思い出した。

『じゃあ、メルの誕生日プレゼントを』

「そうですね。二人からのプレゼントにしましょう」

 私たちは顔を見合せてどちらからともなく笑い、近くにあった派手なショーウインドウの服屋――さっき私たちがはぐれた店に、二人で入って行った。


**********


 日の当たらない薄暗い路地は、他の所より一足早く夕闇が訪れていた。

 人が二人並んだら通れなくなりそうな狭い道を、ルズアは紙袋を片手に持ち、ゆっくりと新しい雪に足跡をつけながら歩いていた。行き着いたところは、今にも崩れそうな小屋の小さな木戸の前。錆びたドアノブの下についている鍵は外れかけてぶら下がり、役目を果たしてすらいない。もっともドアノブも壊れているので、ルズアが足で押すとキィ、と軋んで簡単に開いた。

 同時に中からむせ返るような濃い酒の匂い。嗅いでいるだけで酔ってしまいそうなほどだ。

「……おい」

 ルズアは足を小屋の中に進め、扉を閉めた。むさ苦しい空間に閉じ込められる。ルズアが正面に釣り下がったランプを手で探って器用に灯すと、真下に染みだらけのテーブルと椅子が照らし出された。

「どういうことだ。一体どれだけ飲みやがった?」

 すると、光の届かない奥の方から、低いうめき声のようなものが返ってくる。

「んぁあ?てめえか……ルズア」

 奥に置かれたぼろぼろのソファから、むっくりと禿げた頭が起き上がった。ソファの前の低い机やその周囲に、異常な数の酒瓶が落ちている。十や二十ではない。中には埃を被っているものもある。その他のものと言えば、机の向こうに置いてある簡易ベッドと小さな棚、あとはルズアの後ろの窓だけだ。

 ルズアはランプの下のテーブルに紙袋を置き、自分は椅子に座って溜め息をつく。

「昨日の金は全部酒にして飲んじまったわけか」

「だからどうした?あれっぽっちで酒以外の余裕があるとでも?」

「誰が稼いできたと思ってやがるクソ親父が!酒瓶が金にでもなると思ってんのか?元名家様様が堕ちたもんだな!」

 その瞬間、暗がりから酒瓶が一本ルズアの顔めがけて飛んできた。ルズアは頭を屈めて間一髪で避ける。酒瓶は窓ガラスを突き破って外の路地に落ちた。

「いつからそんな口を聞くようになったかぁ?小僧。父上と呼べと躾けたはずだが?」

「ずっと前からこんな口聞いてんよ。てめえの耳が悪いだけだぜ、クソジジィ」

 もう一本酒瓶が飛んできた。今度は顔の前で捕らえて窓の外に投げ捨ててやった。

「随分と口だけでけえ猿に育ったもんだ……そういえば、てめえって野郎は今日女と歩いてたらしいじゃねぇか」

「……どこでそんなことを」

「外を歩いてた馬鹿どもが、でっけぇ声で話してたぜぇ。今日も這いつくばって物乞いでもしてるかと思ったら、お前というやつはどーこで女遊びする余裕を作ったんだ?てめえは親孝行という言葉を知らねえのか?」

 後半の言葉はルズアの耳には入っていなかった。ポルと歩いている時に出会ったチンピラどもは、随分深く昏倒させたはずだ。だがこんなことになっているということは、あの時近くに他に見ている人間がいたということだ。チンピラどもの騒ぎ声を聞きつけでもしたか。やはりここは、誰がどこでなにを見ているか分かったものではない。こんな速さで広まるとは、ずいぶん自分が女と歩いていることが面白かったんだろう。むしろポルが迷っているあいだ他の誰にも見つからなかったことは、奇跡としか言いようがない。

 自身でも驚くほどの後悔がルズアを襲った。やはりあんな女をこんなところでほっつき歩かせるべきではない、二度と来るなとちゃんと伝えていれば。いや、あんな育ちの女がこんなみすぼらしいところに、まさか二度とくるわけがない。

 だとしてもやはり伝えておくべきだったろうか。もとはと言えばポルの物を盗った自分が悪いのだが、たとえ物を盗まれても裏路地まで追いかけて来る者なんかいない。だから、こうなるとは思っていなかった。世間知らずのあの女は、もしかしたら本当にまたここに来るのではないだろうか。可能性は潰しておくべきだったのだ。

「なんとか言えクソガキ!」

 ルズアの思考は怒鳴り声によって中断された。

「あ?なんだって?親孝行がどうだって話か?俺がそんなこと孝行の必要もねえ親に教わったわけがねえだろ」

 すると奥の巨体がのっしのっしとこちらにやってきた。薄くなった赤毛、古い箒みたいにぼうぼうの口ひげ、黒い点のような小さな目は酒で血走っている。

 ルズアの父親は、ルズアの胸ぐらをむんずと掴むと思いっきり殴り飛ばした。ルズアはなんとか床で受け身を取ったが、窓ガラスの破片が背中に刺さった。父親はルズアを蔑みの目で見下ろし、

「腹が減った。食いもんはねえのか?女と遊ぶ余裕があるなら今日はさぞ稼いできたんだろうな?」

 ルズアは無言で立ち上がる。生暖かい血が背中を伝う感触が不快だ。テーブルの上に置いてあった、ポルからもらったパンの残りが僅かに入った袋を、父親の顔に投げつける。不器用に受け取った父親はぶるっと震え、声を裏返して叫んだ。

「た、たったこれだけだと⁉てめえは何をしてやがった!このゴミ!クソザル!ふざけるのも大概にしろ!この……っ」

 父親は手元にあった椅子を引っ掴み、ルズアの脇腹を殴る。吹っ飛んだルズアは壁で強く背中を打ちつけ、おまけにガラスの破片が余計に深く刺さった。抜くのが面倒だ、と思っていると、今度は脳天に拳を食らわされる。そのままルズアは横に倒れた。

「明日はせいぜいもっとまともな飯を持ってきやがれ。じゃなければ、てめえを酒のつまみに食ってやるからな」

 なんとかしなければ。必死でぼんやりする頭を働かすルズアは、横たわったまま何も答えなかった。


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