1-12 それぞれの役目
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アトレッタ家の屋敷は、いつものにぎやかさが嘘のように消沈していた。その中でも特に三階、リーアン・アトレッタの部屋には誰一人として近づこうとしない。応接室を出てからずっと、メルはそこに居座っていた。誰も声をかけには来ないし、部屋の外にも人気すらない。
メルは申し訳ないと思いながらも、母の書類棚や机の引き出しを開けては覗く。最初の仕事のつもりで、付箋だらけの予定表や招待状から小さなメモまですべて探し出し、一つ一つ見てから仕分けていた。見つかる予定表はどれも予定がびっしりなのに、メモ書きや招待状の類は少ししかない。賢いけれど、あの適当でさばさばした母のことだ。細かいことは家令に全部任せて、礼節の行き届いた王室や貴族からの招待状の類も、必要なくなったら暖炉にポイしていたのだろう。
おかげで、作業は早く終わった。メルはそっと廊下に出る。
階段を挟んで反対側の自分の部屋に入って、ドアを閉める。母の部屋から持ってきた資料を机の上に置こうとして、そこに一枚のメモ書きがあるのに気がついた。
書き手はすぐに分かった。薄ピンクに赤と白の花弁を散らした柄の、可愛らしいメモ用紙。去年の誕生日、メルが真新しいペンと一緒にポルにあげたものだ。ろくなプレゼントが用意できなかったからと、ポルはその場でそのメモ用紙を一枚とってペンを下ろし、見事な絵を描いてくれた。メルと、メルが昔可愛がっていた綺麗な赤カナリアの絵だった。今でも写真立てに入れて飾ってある。去年のことなのに、やたら懐かしく感じた。
外に出られなかったポルは、自分で手に入れたものでなければプレゼントするのは嫌だと言って、メイドに頼んでプレゼントを用意させることもしなかった。だからポルからの贈り物は、いつも質素だった。でも、いつもうれしかった。
ちょっとだけ回想に浸りながらメモを取り上げると、そこにはポルの、癖のある崩し字で、こう書いてあった。
“お昼寝するから起こさないでね”
「まったくもう……」
ポルが昼寝をしていないことなど、メルには火を見るより明らかだった。
母が殺されたこんな時に、ポルは護衛もつけず誰にも言わず、こっそり外に出て行ったのだ。
警備の目をたったひとりでどうくぐったのか知らないが、考えてみれば、伯爵との会談が終わったのはちょうど買い物係のメイドが屋敷を出る時間で、そういえばその時間には護衛も交代時間だったような。ポルなら、それだけ条件がそろえば簡単に抜け出してしまうに違いない。
「まったくうちの護衛はどうなってるんだろ……門が開く時間に持ち場をガラ空きにして交代をするなんて、ほんとに平和ボケしてるんだから」
裏の通用門は護衛を若手に任せているからか。若者は力もスタミナもあるからこそ裏門に配置されている、と家令だかペレネだかが言っていた。この小さな街の住宅街は、今までよほどでなければのどかで平和だったから、新人の教育もいつのまにかなあなあになっていたのだろう。どうやらそれを何とかするのが、当主としての初仕事になりそうだ。
その時、コンコンと小さくノックの音がした。
「失礼します」
忙しなげな声がしてこちらの返事を待たずにドアが開いた。白髪で黒の燕尾服を着た、家令の老人が入ってくる。部屋に踏み入れるなり、家令は頭を垂れて話し出した。
「お嬢様。先ほどの伯爵との会談ですが……」
「うん」
メルは敢えて家令の声を遮る。
「これからは私がアトレッタ家当主。本気だよ」
家令が顔を上げた。
「全てこの家を取り仕切られるおつもりですか?」
「もちろん」
メルはすかさず、つらつらと答える。忠誠心の厚いこの老家令が、本気でメルを心配していたからだ。
「だって、私が当主だもん。きちんと取りしきれなきゃこの家は守れないよ。そうでしょ?」
「ええ……」
「一人でいきなり、一から全部取り仕切るのが無理なのは分かってる。だから協力してくれるよね?」
「……御意、当然でございます。お嬢様が本当にそうとおっしゃるなら、使用人どもは精魂込めてお仕えするまでです」
老家令は恭しく頭を下げる。メルは満足げに笑った。
「それなら、早速仕事だよ。護衛たちの警備と交代の仕方をみっちり見直させて。それと」
メルは少し思案する。警備の見直しを今すぐしたら、どうなるか。当然ポルが人目を盗んで帰ってこられない。
母はもういないからといって、ポルがこそこそ外に出る必要がないかというと、もちろんそうではないのだ。そもそもまだ一昨日のことだし、何せ母は殺されたのだ。垣根の外をほとんど知らない、籠の鳥のポルを屋敷から出して、わざわざ危険に晒そうとする使用人はここにはいない。もし今回出ていったのがばれたら、ポルはさらに厳重な檻に入れられてしまう。こればっかりは当主になったばかりのメルの一存でどうにかできることでもない。
そこで、メルは口を開いた。
「今日の日没に王都に行くよ」
これで警備の隙間も少しはできる。ポルなら何とかするはずだ。
家令は目を見開いた。
「それはお待ちください、お嬢様……」
「行くよ。仮に仕方ないとしても、国王のお呼びに母さんが行けなかったのは変わりないもん。なるべく早く行かなきゃ」
彼の言いたいことは分かる。母の二の舞になりかねないと。しかしこの老紳士が自分の心配と当主の判断、どちらを尊重する人間なのか、あいにくメルはよく知っていた。渋い顔で彼はお辞儀した。
「……畏まりました。なるべく早く、できる手は尽くしましょう。ポル様にもお伝えを」
「必要ないよ。ポルは今疲れて昼寝してる。使用人たちに、ポルの部屋のそばに行かないでって言っておいて。置き書きだけしておくから」
「御意。ではそのように」
家令は再び、一つ礼をして出て行った。彼が去って行く足音を聞きながら、ぽつりとつぶやく。
「何か考えでもあったのか……それともここに耐えきれなくなったのかな、」
ポルは。
**********
「それで?」
呆れたようなバカにしたような怒ったような、低い声。
新雪がそのままの人気のない裏路地、私は絶対零度の視線の前で縮こまっていた。
「勝手に帰るっつったのはどこのどいつだ?あァ⁉」
耳をふさぎたくなるのを、すんでのところでこらえる。
「てめえよぉ、まさかまたばったり俺にあったのがラッキーとでも思ってるんじゃねえだろうな?」
確かにラッキーかもしれないが、喜ぶ気にはとてもなれない。私が何も答えないのに痺れを切らしたのか、彼は大きな舌打ちをした。
「いいか、俺にとっちゃてめえなんかここで会ったが百年目なんだよ」
今の、使い方おかしいわよね……と思ったら、頭の中がそのことでいっぱいになってきた。考えることから逃げているのはわかっているのだが、だって、こればっかりはうだうだ考えてもどうしようもなかったのだ。もちろん悪いとは思っている。そうだ、悪いと思っているんだから謝らないと。まずはそれからだ。
『……ごめんなさい』
しかし謝ってどうにかなると思っているわけでもない。甘んじて怒られるより他にないし、怒られるだけで済むなら死ぬよりましだ。
そもそもどうしてこうなったかというと、やはり時間は少し前にさかのぼる。感情に任せて勝手に帰ると言った矢先、結局不慣れな入り組んだ裏路地で勝手に帰れるわけもなく、またわけの分からない道に入って迷ったのである。そして散々歩き回って疲れ果て、絶望してうろついていたところ、運がいいのか何なのか、以前と同じようにルズアにばったり再会したわけだ。要は初めてここで迷った時と同じ轍を、寸分たがわず完璧に私はなぞってみせたのである。微塵も学習していないとも言う。
ともあれルズアを見た瞬間、なんて自分は身勝手なんだという思いに、これを逃して一生お屋敷に帰れないのはまずいという思考が圧勝した。これでたまたま逢えたのも何度目かだ、ここで見失ったらこんな幸運はもう起こらないかもしれない。前回のように半分泣きつく勢いで彼に案内を頼み、今に至るのだった。
「てめえなあ、どれだけぬくぬく生活したらそこまでバカに育つんだ?金持ちの家では脳みそが腐る病気でも流行ってんのか?あ?」
そこまで言われると、ちょっとむかつく。これでもかというほど軽蔑したルズアの顔から私は目を背けた。私がバカなのは、そりゃあ私が一番わかっているけれども。
「自信満々で帰るっつーから、今日もあの頭の悪そうなメイドでも連れてきたんじゃねえのかと思ったが」
やっぱりそこまで言わなくてもいいんじゃないか、確かにエリーゼは頭悪そうに見えるかもしれないが、実際全くそんなことはないのに!
頭の中だけで反論する。こっちに非があるのは間違いないんだから、立場くらいはわきまえている。私は至って冷静に答えた。
『いえ、今日は一人で来たわ』
「一人でえぇ?」
ルズアは信じられないとでも言いたげに叫んだ。
「てめえんちの警備はザルなのか?てめえみたいな重要人物を一人でほっつき歩かせるくらいなら、盗みにだって殺しにだって簡単に入れらあ。あの”赤い歌姫”が殺されたってのに……」
そこまで言って、ルズアは急に口を噤んだ。見ると、しまったという顔をしている。そしてごまかすように、ポケットから中身のぎっしり詰まった小さな袋を取り出したかと思うと、中に入っていた大きなクッキーをばりばり頬張り始めた。きっと私がぐるぐる迷っている間にどこかでくすねてきたんだろう。
ルズアはどうやら話を続けるのはやめたようだった。母の話をそんなに続けたくないわけがあるんだろうか。私に気を遣っているとか?いままでこれだけ言っておいてまさか。ただ単に、”赤い歌姫”が好きだったとか?それにしたら、彼も相当母の死がショックだったとみえる。彼にも好きなものがあるのかと思ったら、少しだけ丸まっていた背筋が伸びた。気まずく尻切れた会話を終わらせて、別の話をしようと再びルズアの手を取る。
『やっぱり街の人も知ってるのね。そのこと』
「知らないわけねえだろ。やけに立派な葬送の馬車が住宅街に走ってったのを、街の物好きが見てすでにちょっとした騒ぎになってたっつーのに、次の朝から新聞売りが通りで大騒ぎだからな。街中とんでもないことになってやがった。今頃知らない奴なんていねえよ」
彼は腹にものが入ったからか、少し饒舌になっていた。そんなにとんでもないことになっていたのか。母の影響力もさながらだが、それが心配だ。なんせこの騒動に収集をつけるのは現アトレッタ家当主、メルなのだから。私には、母を殺した犯人を見つけるという途方もないやり方でしか、それを支えることはできない。今メルがしなきゃいけないことを、表で手助けすることはできないのだ。それぞれの役目っていうのはそういうことだと割り切るのは、ちょっと今の私には無理そうだった。
『そう。それじゃあもう、きっと国中に広まってるわね』
「ああ……だろうな」
さっきの剣幕はどこへやら、ルズアはしんみりと言った。考え込みながら、ぽつり、ぽつりと歩き出す。私も歩をあわせてそれについていった。
「それで、こんなところにこんな時に、何しに来たんだ?連れもいねえのによ」
ルズアは思案顔のまま、正面を向いてもっともな問いをする。何しに、と言われても何と答えればいいんだろう。強いて言うなら屋敷の外に出たかったのと、誰か屋敷の人じゃない人と話をしたかったのと……誰かと言っても、つまりルズアしかいないわけだが。私が来たせいでさんざん迷惑を被ったらしい人に、あなたに会いに来ただなんて言えるほど無神経にもなれまい。だからって理由はない、なーんて言ったらバカにされる。そんな顔はもう飽きるほど見たから結構だ。それっぽい理由をひねりだすに限る。
『手がかりを探しに来たのよね。母さんを殺した犯人の。メルに頼まれたから』
まったく嘘というわけではない。私はルズアを見た。彼は何だかより一層深刻な顔になって、ひっきりなしに動いていたクッキーを食べる手も止まっている。
「お前な」
ルズアが重々しく口を開く。いつも人を脅す時に使うドスの効いた低い声とは違う、重みのある声だった。
「そういうことは軽々しく言うもんじゃねえ。分かんないでもねぇけどよ、てめえの気はな。舌が回ると余計な恨みは買うし、厄介ごとにも巻き込まれる」
驚いた。彼がこんなに真剣に、他人に忠告している。ただ乱暴なだけの人ではないとは当然思っていたが、こんな声でこんなことを言う人だとは。
そう思っていると、ルズアは再びクッキーをばりばり貪り始めた。
「それで、何かあったのか?」
『何か?』
「その手がかりとやらは」
『……いいえ、まだ』
ルズアは突然笑い出した。
「はっは、ざまぁねえや。わざわざこんなところまで来て何もねぇとはご苦労さんなこった」
すっと現実に引き戻された気分だった。たぶん今の真剣なトーンの彼は幻かなにかだったのだろう。ルズアはにやにやしたまま、
「てめえはバカだな。当てがねえのに行き当たりばったりで探して、なにも見つかるわけねえだろ。目処くらいつけてからにするんだな」
ルズアは食べ終わったクッキーの袋をぐしゃぐしゃと丸める。
「例えば、例えばだぜ。どこかの貴族の仕業だとかな」
『貴族?なんで?』
私は眉をひそめた。
「そりゃあ、あれだ。貴族はろくなことをしねえからさ」
ルズアは両手をクッキーの袋と一緒にポケットにしまい、目の前の空を睨む。
そんな、貴族を頭ごなしに疑ってかかるわけにはいかない。根拠がなければ目処がついていないのと同じではないか。またも私が黙っていると、彼は吐き出すようにつらつらとしゃべりだした。
「それにどうだ、考えてもみろよ。歌姫はもともと貴族の看板役、要は貴族の”持ち物”のはずじゃねえか。”赤い歌姫”はその常識をひっくり返した。手前の金と権力で手前の地位を築きやがった。そのうえ国民にも好かれるんじゃあ、貴族からしてみろ。目障りでしょうがねえだろ」
確かに一理ある。私がうなずいてみせると、ルズアは声を落としてぼそりと言った。
「目障りな相手は、平気で消しやがるのがこの王国の貴族さ。八年前、貴族の権力闘争の頃にはよく聞いた話だ」
八年前の貴族の権力闘争なら、私も知っている。アルバート王国にあった三つの大きな貴族権力の衝突のことだ。しかし衝突といっても、文字通りの衝突らしき事態はほんの一部。実際はほとんどが水面下の争いだったと言っていい。発端は他国の戦争だと言われているが、未だに憶測が流れるだけではっきりしたところは分からない。分からないまま、国民たちには忘れ去られようとしている歴史のひとつでもあった。
話しぶりを見るに、ルズアはそれを鮮明に覚えているようだった。まあそもそもスラムの住人たちが、富裕層にいい思いを抱いているとはあまり考えられない。ここの人たちはみな金持ちの話になるとこんなにギラギラするものなのだろうか。
しかしルズアの言うことには確かに筋が通っている。そんなに知っているならもしかして、彼なら私の持てる情報から新しい手掛かりを見つけられるんじゃなかろうか。
『でもね、ルズア。こっちにも目処がないわけじゃないのよ』
私は母の遺した手がかりや事件の奇妙さを、ルズアに話すことにした。きっと私一人で考えるより、早く答えにたどりつけるかもしれない。”よく知らない人にほいほい大事なことを話しちゃだめなんだよ”というメルの忠告が脳裏をよぎる。でも、このお屋敷の外できっと一番私と話しているのはルズアなのだから、お屋敷の外では一番よく知っている人だ。メルには申し訳なかったけれど、私は頭の中でそう言い訳した。
どこへ向かっているのか、ゆっくりと歩みを進めながら、ルズアに起こったことを最初から話していく。ルズアはむつかるような、考え込むような、怒ったような変な顔をしながら聞いていた。もちろん話すといっても、いつものようにルズアの手を借りて文字を綴っている。そうやって、ちょっとばかり長い時間をかけて話した。
母が王都へ向かったこと。母の部屋に不思議な侵入者が来たこと。同時に母が刺されたという報告が着いたこと。聖エルブ病院へ向かったこと、そこで母が冷たくなっていたこと、葬式のこと、二人のメイドが話していたこと、母の日記のこと、エルンスト伯爵とメルの会談のこと、全部、全部。
話し始めたが最後だった。
まるで地面に埋まった植物の蔓のように、言うつもりのなかったことや言いたくなかったことまで、例外なく私の指から言葉となって零れ落ちる。
そして言葉にすることで、否が応でも最初の最初から鮮明に思い出す。私のなかで、事態の一部始終がはっきりとしたかたちを持ち始めた。今まで逃げるように、ぼんやりとしか思い浮かべることのなかった感情が、感情よりもっと激しい何かが、はっきりと意識の表面に浮き上がり、私の心をいとも簡単に砕いた。
私の足が止まった。
ルズアも足を止めたのが見えた。
同時に、指の先から零れるにも足りなかったことばが、目から溢れ出した。ぼとぼとと、大粒の涙が次から次へと足元へ落ちては、踏み固められた雪を溶かす。
情けなかった。こんな風に泣くつもりなんかこれっぽっちもなかったのに。ここに来て忘れかけていたあのもやもやの塊は、感情の渦に変わって、とんでもない形で猛威をふるった。考えるところと感じるところが別々になったみたいに、泣くつもりはないと叫び続ける私を無視して、涙は流れ続けた。まるで他人の身体だ。ついに、文字を綴る指が動かなくなった。
ルズアが振り返ったのが分かった。彼に追いつこうとすると、今度は体が震え出した。息が詰まる。感情の渦さえぼやけるくらい、頭がまっしろになっていく。目の前で、ルズアはゆっくりと空を見た。
「もう日が暮れるな……」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ぽつりと呟いた。それと同時に、膝が自分の体重を支え切れなくなる。ひやっとする、高いところから落ちるようなあの感覚が一秒遅れてやってきた、その時。
肘の上を強く掴む手。そのまま体が乱暴に引き上げられ、舌を噛みそうになる。気がつくと、ぼやけた視界の真ん中に鮮やかな赤毛があった。
どうやら、私をルズアがおぶる格好になったらしい。なおさら情けない。情けない情けない情けない、同じ文字列が頭の中を大音量でうわんうわん叫びまわって、余計に涙が出て、その涙はよれてぼろぼろになったルズアの白いシャツを濡らした。
ルズアはそのまま、えっちらおっちらと歩き出した。
「だからなあ」
誰に言うとでもないように、彼は小さく呟く。
「自分の情報をべらべら喋るもんじゃねえって今言っただろうが。後悔するぞ。今後のために言っておいてやる」
やっと聞き取れた台詞は皮肉だった。気分のいい言葉じゃないのに、ルズアらしいその言いようが、頭の先から足の先までを飲み込むまっくろい濁流をすうっとかき回す。身体からふっと力が抜けて、一瞬で今泣いた分の疲れがどっと襲ってきた。詰まっていた息を吸い込むと、視界が霞み、ルズアの髪のぼんやりした赤の中に沈んでいった。
それから先どうしていたかは、あまり覚えていない。
何か話した気がするが、そのままうとうとと浅い眠りに落ちた気もする。次に頭がはっきりするまで、私はよく知りもしない彼の背中に自分を預けた。それだけは覚えている。
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細い路地を右へ左へ、しばらくゆっくりと歩いていくと、徐々に周りがうるさくなってきた。
商店街の夕暮れの雑踏、夕飯の買い物に来る主婦を誘う売り子の声、早い仕事上がりついでの酔っ払いのどんちゃん騒ぎ、迷子の泣き声。ルズアにはそれで、商店街がすぐそこなのがわかった。
冷え込んできた空気。飛び立ったカラスたちの、人をバカにしたような鳴き声。日がくれてきたことは見えなくても知っていたが、酔っ払いの騒ぎようからすると、恐らくだいぶ夜も近い。完全にあたりが暗くなる頃には、今度は裏路地のろくでなし共が派手に騒ぎ出すだろう。
そんな周囲が見えているのかいないのか、ルズアの背中におぶさった少女はぼうっと呟いていた。
『歌いたかったんだもん……』
背中に文字を綴る指に力がなかった。どうやら思ったことを指からだだ漏れに漏らしているだけで、自分が何を喋っているのかいまいち分かっていないようだ。
『だって、一度でいいから喜んでほしかったのよ……私見たのよ、母さんが嬉しそうにするの……メルが歌ってる時だった……私もそうすればよかったのに』
ルズアは黙って聞いていた。あんなに絡まれて、そのうえいっぺんにあれだけ泣いたら疲れもするだろう。同じようなことを、ポルは延々と呟き続けていた。母親に喜んでもらうために、歌いたかったんだと。
母親を亡くして悲しくないはずはない。だが、ポルのつぶやきにはそれだけで説明のつかないものがにじみ出ていた。屋敷という箱庭で暮らしてきて、ポルの経験するものが少なかったということは簡単に想像できる。箱庭サイズの人生経験に、母の死はあまりに大きかったようだ。屋敷を抜け出してここまで来たことだけでも十分気丈と言えるだろう。鼻をくすんくすんやりながら、ポルは涙をルズアのシャツにしみこませていた。
あたりはいよいよ暗くなってきたらしい。イース河からの風が冷たくなってきた。足を速めたいのはやまやまだったが、ポルは体重のわりにものすごく背負いにくい。余った服の布地のせいでどれだけそっと歩いてもずり落ちてくる。よっこらせ、と背負い直すと、その勢いでポルはルズアの後頭部に頭のてっぺんをぶつけた。ポルの首から力が抜けて、手がぱたりと落ちる。打ち所が悪かったのか。足を止めて聞いてみると、寝息らしきものが聞こえてきた。
「こいつはバカなのか……」
ルズアは思わずひとりごちた。自分がこのまま誘拐されるとか、よからぬことに巻き込まれるとか、そういうことは微塵も考えなかったのか。ご身分を分かっていらっしゃらないにもほどがある。
「はあ」
ルズアは商店街へ出る道から、イース河に向かう道へ方向転換した。自分のような身なりの人間が、こんな見るからに金持ちの家の、しかも能天気に眠りこけているお嬢様をおぶって歩いていたら、とんでもない誤解を招きかねない。それをわかっているくせに、柄にもなくキザったらしいことをしている自分が気持ち悪くて吐き気がしそうだった。だがどうせこのままほっつき歩かせておけるかというと、そうもできないのは分かっていた。まさか良心が残っているわけじゃあない。昨日からさっきまで何も食べていなかったから、確かに最初は食べ物目当てだったはずなのに、なんでだろうなと自問自答を繰り返す。なんでなんだろうな。
商店街まで案内するくらいさっさと済ませるつもりだった。だが途中で目の当たりにしたポルのその絶望には、たしかに自分にも身に覚えがあった。声がない故に泣き叫ぶこともできず、静かに崩れ落ちたポルの姿があまりに生々しくて、走馬灯のようにいろんなものが頭をよぎった。全部自分の、古い記憶だ。自分にこんなことをさせるのも、彼女に醜い同情心を抱くのもそいつのせいだった。
「あーあ」
イース河を渡りながら呟く。この辺りに住み始めてからというもの、ろくでなし共と父親以外にまともに話した人間はいただろうか。いや、いなかったわけではないが、ここまでちゃんとした会話をしたのはいない。盲目の自分と久々にまともにしゃべったのが、まさか声のない少女だとは偶然にもほどがある。ポルは指で綴る文字と小さな息遣いや足音、そして今背中にある温もりだけの不可解な存在だ。同情心のほかに何かあるのだとすれば、そういうことだろう。腕っぷしが強くなっても、そんなしょうもない理由で行動を変えられるほど、精神的には子供なのか。ルズアはため息をついた。
どのみち放っておいてこれ以上周囲に囃し立てられちゃ自分だって迷惑だし、ポルも帰れなきゃ困るわけなので、理にかなった判断のはずだ。そんなことを考えながら、ルズアは畑を吹きわたるしょっぱい海風に身震いしては静まり返る雪道を歩いた。
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