1-10 二時の鐘

 玄関扉のすぐ右側にある応接室の前に、少し前を歩くメルが着いた。遅れて玄関ホールに下りた私は、階段の手摺の陰に引き返して隠れる。同時にメルが扉をノックすると、中から家令が扉を開けた。

 メルが「お待たせいたしました」と挨拶して扉の向こうに消えたのを見計らい、手摺の陰から抜け出す。そして、応接室の隣の部屋へ、なるべく足音を忍ばせて走り出した。

 応接室の隣には書庫がある。玄関ホールにつながる応接室の隣から、お屋敷の端まで広がる書庫だ。遠い書庫の入り口にたどり着くころには、ちょっと息が切れていた。念のため音を立てないように扉を開き、中に入る。

 一歩足を踏み入れた瞬間、紙とインクの少し湿ったような、独特の匂いが鼻をつく。十五年間慣れ親しんだ空気の中、書棚と書棚の間を私は早足で迷わずに歩いた。床と壁を埋め尽くす本棚、地下と二階まで吹き抜けた広大な空間に、無秩序に渡り階段が巡らされているので、まるで立体的な巨大迷路を歩いているみたいだ。しばらく歩くと、応接室と接する壁にたどり着いた。

 壁を見渡すと、真ん中で一か所、びっしり並んだ書棚が途切れている。そこには巨大な深緑の東国風のタペストリーがかけられていて、その手前には大きな銀の甲冑が弓矢を持って立っていた。

 私はそこに駆け寄ると甲冑とタペストリーの間に滑り込み、少しだけ甲冑を前にずらす。壁との間が少し広くなったところで、タペストリーをめくった。

 すると、その裏に壁と同色でほとんど見分けのつかない、小さなドアが現れた。このドアこそ応接室につながっているのだが、応接室の方からはアンティークのクローゼットで隠されている。

 私はドアの端に手をかけ、音を立てないように慎重に引き開けた。その向こうはクローゼットで塞がっているのではなく、クローゼットの後ろの板が外されていて、それなりに小柄なら中に忍び込めるようになっている。私はそこに身を乗り出し、クローゼットの扉のわずかな隙間から応接室を覗き見た。

「……お母上の件は……本当に悲しいことですな」

 エルンスト伯爵が重々しく言ったのが聞こえた。伯爵は少しうつむいて、クリスタルのテーブルをはさんでメルと向かい合っている。伯爵の後ろには、エルンスト家の若い執事が無表情で立っていた。

「……お悔やみ、ありがとうございます」

 メルは微かに笑った。その裏に少しの動揺と、刺すような視線を隠している。

「話に聞くと、王宮へ向かわれる途中だったとか」

「ええ、そうです」

「そのような晴れ晴れしい時に……惜しいものだ」

「ええ」

 エルンスト伯爵の顔は、やはり悲しいというより残念そうにしか見えない。私はこみあげてくるむかむかを飲み下した。

 少しの間沈黙が続く。メルをじっと見る伯爵に、うつむくメルは視線を合わせない。静かにテーブルの上の紅茶を啜って、慎重に口を開いた。

「ですが……母のためにわざわざお越しいただいてありがとうございます。母も喜んでいると思いますわ」

「いやいや、母上とは昔からのよしみだ。当然のことだよ」

 伯爵も紅茶を啜る。一瞬だけメルの表情を伺ったのが私には見えた。

「王宮へのご奉公も終えられず急逝されたということだ、やり残したこともたくさんあろうに……」

「そうですね。母は仕事熱心でしたから」

 母がやり残したこと……私はいっそう耳を澄ませた。おそらく、これから伯爵の本題に入ろうとしている。私がここまで来た時間を考えても、想像していたより話が早い。メルを侮って慎重さを欠いているのか、それともよほど思い通りにいく自信があるのか。

「多くを残して逝ってしまわれたのでしょうな……」

「そう、ですね」

 メルが机の下で拳を握りしめている。母の死を繰り返し強調されることに動揺しているらしい。無理もない。かくいう私も体が震えて、音を立てないのに必死なのだ。

「やり残されたことが為されぬままなら、お母上も悲しまれる……」

 メルは答えない。

「お母上が不在の今、アトレッタの家は貴女しかおられん。しかし……不遇な運命とはいえ、なにもそのようにお若いうちから苦労をされることはあるまい」

 私は伯爵を睨みつけた。

「私もお母上が心を痛めたまま天に召されるのは心苦しい。何分、愚かな私の提案ではあるが……お母上の残された事をやりおおせるお手伝いをさせてはいただけないかね」

 伯爵は真摯にメルを見た。そして待った。

 メルの後ろに立っている家令が空になった紅茶を黙って注ぎ足した。しかし、メルは動かない。

「具体的なお話をしたほうがよろしいですかな?」

 痺れを切らしたのか、伯爵が自ら沈黙を破った。メルをまっすぐ見たまま、テーブルに少し身を乗り出す。

「王宮へのご挨拶の準備、アルバート国民への事件の公表のこと、経済面での援助やメル嬢の後見も務めましょう。すべてを一人でやるとなると、並々ならず苦労を強いられる。貴女は女性ですし、まだ若い。心細い部分もおありになるのではないかね?」

 メルはここで頷きはしなかった。まだ黙っている。黙ったまま、何を言おうか考えているようでもあった。

 しかし、メルの沈黙に乗って伯爵はどんどん押してくる。

「この件も、いま貴女が受け入れてさえ下されば、準備や手筈もすべてこちらで整えさせていただくよ。何も心配されることはない。お母上のよしみなのだから、遠慮することなく頼って……」

 ばんっ!

 メルが机を叩いて立ち上がった。激しい音が伯爵の言葉をさえぎる。

 メルの顔からはいつもの色味が失せていた。目は睨みつけるように鋭く伯爵の目を見据えている。どうやら、考えるのはやめたようだ。

「アトレッタ家の当主は私です。若かろうと苦労しようと私です。母がそう遺しました。私は母の遺志を全うしようと思うのですが?」

 対する伯爵は驚いたように目を見開き、そしてみるみるうちに顔が真っ赤になった。しかしその直後メルの目を直視して急に青ざめたかと思うと、「……そうか」と呟いた。メルは震える声でまくしたてる。

「ご親切なお申し出、本当にありがとうございます。しかし、失礼ではございますが、今大変家内がごたついておりますので……お引き取り願います」

 ここまでだった。伯爵は一瞬まだ粘ろうかと逡巡しているようだったが、次には大人しく身を引いた。

「……そこまでの決意を聞かされては、私から言うことは何もないですな。しかし、今後も何かあれば、遠慮なく私に言ってくれ」

「ありがとうございます」

「それなら、私はこれでお暇しましょう。次にまた会えるのを楽しみにしておりますぞ」

 伯爵は立ち上がると、丁寧に紅茶の礼をし、若い執事を連れて出て行った。家令がお見送りのためにあとを追い、メルは応接室にひとり取り残された。

 メルが何やら立ったままで考えている。私はそっとクローゼットの扉を押して応接室に出た。

「ひっ⁉」

 扉の音に驚いたメルは跳んで振り返る。が、すぐに私の姿を見て大きく息をついた。

「そんなとこから見てたの」

 私はメルの隣に駆け寄る。

『ここしかないじゃない』

「まあ、そうだね」

 以前この扉の存在を教えておいたので、メルは納得してうなずいた。私はメルの手をつつく。

『ねえ、メル』

「うん」

『母さんがこの家を継ぐようにメルに遺したって……本当?』

 さっきの話で、どうしてもそこが気になっていた。

「嘘だよ」

 メルはさらっと言った。

「そんなことは一言も言ってなかった。直接でも、日記の中でも。そりゃ当然、アトレッタの名前を継ぐには私かポルしかいないんだけどさ」

『……私は入らないわよ』

「そうかなあ?うーん……でもとにかく、母さんは私に選ばせたかったんだと思う。家を継ぐのか、継がないのか……」

 最終的にはメルがどちらの選択もできるように、歌を教えておきながら家を継ぐことは一言も言わなかった、ということらしい。

「でも、もう継ぐって言っちゃったし。どうせ、私も結局はそのつもりだったんだけどね」

 メルは少し苦い笑みを浮かべた。私は笑顔を返せない。

 メルはすごい。数時間前まであんなに泣いていたのに、アトレッタ家の当主は私だと、たったあの一言で割り切ったというのか。それとも、当主たるものもはや泣いている暇などないという決意なのか。

 どちらにしろ、つい数日前のことだ。メルが辛くないはずも、悲しくないはずもない。母と大して一緒にいられなかった私ですら悲しいのだ。メルが、母の隣にずっといたメルがどう思っているのかなんて、計り知れない。それでもメルは泣くのをやめて、伯爵に啖呵を切ってみせた。それは紛れもないメルの強さだ。

 それに引き換え私はなんだ。平気なふりをして、他のことを考えるふりをして、母の死の謎に頭を悩ませるふりをして、心の何処かで……いや心のすべてで、母に一片の笑顔ももらえなかったことを悔いている。一片も認めてもらえなかったことを悔いている。いつか喜んでもらえると、そう思いながら生きてきて、結局何も起こらないまま突然終わってしまったことを悔いている。メルはきっと、ずっと私より悲しいはずなのに、母を想っているはずなのに、どうして私が泣きたくなるんだ。私の心が痛くなる理由なんかない。

 たとえ書庫の本を全て読み終えていたところで、たったあれだけの母の日記が読めなかった私と、母の日記を一晩で全て読み終えたメル。それは単なる強さの違いだったのだ。私は弱かった。私が向き合っているのは母じゃない。私自身の感情だ。たったこれっぽっちの気持ちのはずなのに、母と向き合うことすらできないなんて。

 でも、だからこそなおさらメルにつらい顔なんて見せられない。見せていいわけがない。つらい顔をしていいのはメルの方だ。せめて双子の姉として、強いふりだけでも続けなければならないはずだ。

「ポル?どうかした?」

 メルがこちらを覗き込んでくる。いつも通りの、無邪気な顔だった。

『何でもない。考え事よ』

「何の?」

『んー……ないしょ』

「ええー、教えてよう!」

『うーんそうね、もう少し大きくなったらね』

「何それ私だけちっちゃいみたいに!ポルだって一緒のくせにっ」

『身長のこと?』

「一センチしか変わらないよ!」

『一センチは大きいわ』

「細かいよ!そういうの、松ぼっくりのせーくらべって言うんだよ」

『どんぐりの背比べ?』

「そう!それ!いっしょってこと!」

『でも今のも私の勝ちね』

「返す言葉もございませーんっ!」

 メルはぷいっとそっぽを向いてしまった。顔は笑っていた。今度は私も少し笑う。恐ろしいほどいつもと変わらない会話だった。

 しかしその笑いも、燻る焚火が風で消えるようにはかなく霧消した。

 気がついたら私もメルも向かい合ったまま、真剣な顔で互いのつま先を見つめていた。メルがつぶやく。

「そう。そういえば、さっき中断されて話せなかったことなんだけど」

『うん』

 私が頷くと、メルは声を落とした。

「昨日、母さんの部屋に行く前に少しお屋敷をぶらぶらしてたんだけど」

『だけど?』

「使用人の休憩室で、夜中にエリーゼとペレネが二人で話してたのを聞いたんだ。まあ、盗み聞きなんだけど……その、犯人のこと、まだ昨日の夜こっちにいた人には言ってないことがあるって」

 私は固唾を飲んだ。

『……それは?』

 メルはためらいがちに、その時聞いたことを全部話してくれた。犯人は屋根から窓を割って襲ってきたこと、犯人がかなり手練れであること。母が刺される瞬間を見た者以外、外から建物を見張っていた人間も含めて誰も、犯人の姿どころか人影も見ていないということ。

 聞けば聞くほど、頭の中で歯車がかちかち嵌まっていくような気がした。姿の見えない犯人。”姿の見えない”はもはやキーワードと言っても過言ではない。

「エリーゼが部屋に入ったのを見てすぐ聞き始めたから、最初から最後まで聞いてるはずだよ」

『……そうね』

 私は曖昧な返事で返した。果たして本当に仮説通りなのかは、例の魔術書を本気で調べなければ分かるところではない。ヒントだけを目の前に揃えられてもやもやする、あの晩餐会の日と同じ気持ちが頭をもたげた。しかし今回は推論だけで満足するわけにいかない。机上でうじうじ考えて出しただけの推測を、これ以上ここで容易に結論として口に出すのは浅はかな気がした。特に、メルの前では。

 私はそう自分に言い聞かせ、口から出まかせ言いそうになるのを飲み込んだ。飲み込んだ出まかせはさっきのもやもやと絡まって、のどに詰まった。

「ねぇ」

 メルがこちらに向き直り、正面から私を見据える。

「これが……これが全部どういうことで、あの本が何で、昨日の、あの日に本当は何が起こっていたのか。調べてちょうだい、ポル」

 メルの声ではない、”アトレッタ家当主”の声だった。

「私はアトレッタ家の主になる。何とかこの家を守るよ。だからポルは母さんのことを調べて。納得できないじゃん、こんなの。このままじゃ……煮え切らないからさ。そうでしょ?」

 私は頷いた。このままじゃ煮え切らない。それには間違いなく私も同感だった。それ以外に私が何を思っていようと、その気持ちがあるのだけは確かだ。メルは微笑んで、私の肩にそっと腕を回した。

「ポルならそう言ってくれると思ってた……ポルは賢いもん。私よりきっとちゃんと母さんのこと、調べてくれるよ」

 メルが私に抱きつく。妙に火照った彼女の腕に、私は綴った。

『メルは強いもの。だから、私よりきっと母さんの遺したこの家を守ってくれるわ』

 メルに見えないのをいいことに、顔をゆがめて涙をこらえた。

「それじゃあ」

 メルは体を離す。

「私は仕事をするよ。まず王宮に挨拶に行く準備しなきゃ」

 メルは笑って回れ右すると、扉の方へ向かう。ドアノブに手をかけて、

「ポル、よろしくね」

 私はもう一度大きく頷いた。それを見るとメルは軽く手を振り、たまたま戻ってきた家令を連れて出て行った。

 私以外誰もいなくなった応接室。静けさが妙に耳にも、心にも響いた。今ならどんな顔をしたって許される。さっきのどに詰まったもやもやの塊が、ゆっくりと腹の中に落ちていった。

 私よりきっとちゃんと、母さんのことを調べてくれるよ……メルの言葉を反芻する。もやもやの塊が身体の中を占領して、その言葉を噛み砕けない。口の中にも腹の中にも食べ物をいっぱい押し込まれたみたいに、空気を求めて肺が大暴れする。光も音もにおいも受け付けない。何も考えたくない。このもやもやの塊は、どこからつついても爆発してしまう。怖い。触りたくない。いっそ皮膚を切り開いて、全部取り出して、外の世界で見たあの大きな河に沈めて流して、海の向こうのどこかへでも勝手に流れ着けばいいのに、その頃にはきっとまた新しいもやもやが生まれてくるだろうから、触らないように全部取り出して、もう一回あの河に沈めて、流して、海の向こうに流れ着いて、また生まれてきたもやもやは……あれ?

 私は応接室を見回した。あれ?なんで、こんなに八方塞がりなんだ?

 情報はあんなにたくさん目の前にある、私がすべきことも、メルが与えてくれた。私もちゃんとわかっていた。メルもあんなに、自分のすべきことを堂々としに行った。私はどうして、ここでぐるぐる回っているんだ?

 その時だった。

 ごーん……ごーん……と、応接室の外で午後二時を知らせる振り子時計の音が耳に届いた。頭が急速に冷えていく。うなりをあげていた鼓動がテンポを緩め、霧が晴れて視界が開けるようだ。答えを全部聞いた気がした。そうだ、そこだけには抜け道があるじゃないか……

 私は迷いなく応接室を出た。ここにいたって、母の残像で何にも見えないんだ。ここじゃないところに行かなくちゃいけないんだ。


**********


 午後二時の鐘が鳴るのを聞いたあと、私は裏庭にやってきた。運良く辺りには誰もいない。私はお屋敷の、赤煉瓦の壁伝いにそろそろと歩を進めた。

 前回初めてお屋敷を抜け出した時は、エリーゼが一緒だったので簡単に抜け出せたが、今回は完全に行き当たりばったりだ。成功するかどうかも運任せ、ただの思いつきで大した計画なんかない。それでもまだ方法を思いつくあたり、外のこととなれば、私の脳みそは多少でも回るようだった。外への期待より、場当たりの作戦で無事にお屋敷を抜け出せるかどうかで、どきどきしているのがもったいない。

 さて、とにかくまず、使用人が使う通用門の鍵を手に入れなければならない。幸いなことに今日の買い物係は、半年前に働き始めたばかりの新人メイド。言い方は悪いが、少々鈍臭い人なのも知っている。ちょっと鍵を失敬するターゲットとしてはラッキーだ。それが唯一の救いだった。これがもしエリーゼやペレネだったら、計画段階で破綻しているようなものである。

 私はお屋敷の建物裏手にある通用口にたどり着くと、通用口から伸びる階段の陰に身を隠す。そこで、コートのポケットから二本の細い刺繍糸を取り出した。刺繍糸は六本の細い糸が緩くより合わされてできている。部屋にあった刺繍糸を、二本だけほどいて選り分け、中庭に出る前に持ってきた。これならちょっとした衝撃で切れるからだ。

 その細い糸を丁寧に、出来るだけ素早く伸ばし、手すりの下の柵に端を結びつけた。もう片方を持って、急いで階段の反対側の陰に移る。これで階段の出口のところに、ちょうど人の足首の高さで刺繍糸が張られた形になった。そのまましゃがんで、息をひそめる。

 待つこと三分ほど。ドアの向こうから軽い足音がしたかと思うと、通用口から若いメイドが出てきた。足元の階段に隠れる私には気づかず、バッグから鍵束を取り出すと通用口を施錠する。そして、そのまま鍵束を持って階段を降り始める。最後の一段で、

「きゃあ!」

 張られた糸に足を引っ掛けてつんのめった。同時に私の手に糸がぷつりと切れる感触。うまくいった。その直後、私は飛び出した。

 前向きに転べば誰だって目を瞑る。その僅かな隙に、運よくメイドの手を離れて宙を舞った鍵をキャッチし、垣根のそばの花壇のむこうに放り投げ、再び階段の陰に戻る。

「痛たた……」

 幸いメイドに怪我はなかったようだ。

「ん……あれ……鍵は……」

 メイドは四つん這いになって鍵を探し始めた。

 もし、こっちに探しにきたら終わりだ。私はより息を潜めて、手にかいた汗をエプロンで拭う。今は祈るしかない。

 一通り階段の前を探すと、メイドは階段の上を見回し始める。私はできるだけ縮こまった。自分の体の大きさがもどかしい。目を細めて、息を止めて、耳を研ぎ澄ました。さあ、次はどこを探す?

 階段の上からちらちら見え隠れするメイド服に目をこらしていると、なんと都合のいいことに、メイドは私が隠れている階段の陰の反対側を探しに行った。そこは階段に遮られ、メイドから見ればこちら側は全て死角になっているはずだ。今しかない。

 私は再び飛び出した。出来るだけ音を立てないように、出来るだけ早く走る。そして何とか、鍵の落ちた花壇の向こうにたどり着いた。足元を探すと、ちょうど後ろに鍵束が落ちていた。

 鍵束を拾って通用口を覗き見ると、メイドはさっき私が隠れていたところを探し、しばらくして悲しそうに「ない……」とつぶやいて立ち上がった。私は心の中で何回も謝った。

 しかし、ここまで来てしまえばもう少しだ。メイドは探すのを諦め、階段を上って通用口を開け、その向こうに消えた。予備の鍵を取りに行ったのだ。

 もう一度辺りを確認し、通用口が閉まり切るのを待って、花壇の陰から走り出る。裏門の前で立ち止まり、鍵束の中にあった一本の鍵を探し出すと門の錠前を開いた。急いで外に出て、外から手を回すと錠前を掛け直す。数歩引いて門の上から鍵束を思いっきり投げ入れた。門の鉄格子を飛び越えた鍵束はちゃりん、と微かな音を立てて、階段から少し離れた雪の上に着地する。それを確認し、私は全速力で駆け出した。

 ついに、私は自力でお屋敷と外の世界の境界を破ることに成功したのだ。


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