1-11 〝友達〟


 空は鉛のような雲に覆われていた。雪の積もった綺麗な路地も、お菓子のような住宅街の家々も、エリーゼとお屋敷を抜け出した日のようにきらきらしてはいない。

 しかし、そんなことをいちいち目にいれている暇はなかった。あとからさっきのメイドがくるはずだ。なるべく早く、商店街の人混みに紛れてしまわなければ見つかる。特にイース河を渡るまでは一面畑で見通しのいいところだ。せめてそこを早く抜けてしまわなければ。

 私は走った。商店街への道のりはうろ覚えだが、まあ、何とかなるだろう。住宅街を抜けて、白に染まった畑の道をひた走りに走る。息がきれて何度も膝が折れそうになり、やっとのことでイース河の橋を渡り切った。

 速度を緩めて何とか息を整えながら、少し歩くと商店街に入った。間違えずに来られてよかったものだ。生理的に出た涙を拭いて、周囲を見回す。初めて来たときと同じ、威勢のいい呼び込みの声が飛び交い、私にとっては珍しいものが様々な店にずらりと並んでいた。

「おう!エリーゼの妹ちゃんじゃねえか!」

 通り過ぎた青果店から、聞き覚えのある声。立ち止まって振り返ると、青果店の主人ジルさんが、半袖シャツにエプロン姿で手を振りながら近づいてきた。

「おうおう、久しぶりだなぁ。今日はねえちゃんと一緒じゃないのか?」

 さあ、どう答えたものか。私は少し笑って、首を横に振った。

「おうそうかそうか、一人でおつかいか?偉いなぁ」

 ジルさんはよしよしと私の頭を撫でる。しかし、すぐに真剣な顔になった。

「カリアに聞いたぞ。この間裏路地に入ったそうじゃねえか」

 少ししゃがんで、私と目線を合わせる。そんなに子ども扱いしなくてもいいのに。

「あそこはほいほい入っちゃいけねえぞ。あそこから先は、ろくでもないやつがうろうろしてるからな。特にポルちゃんみたいな可愛い女の子には危ないところだ」

 私は何度も頷いて見せる。これからその裏路地に向かおうというのだが。

「ははは、何もしゃべってくれねぇんじゃ、分かったかどうかわかんねぇぞ。恥ずかしがり屋さんか?ねえちゃんとは真反対だなあ」

 ジルさんは立ち上がると、体を反らして笑いだす。

「まぁ、それはいいや。道に迷わねえように、暗くなる前に帰るんだぞ」

 私はもう一度大きく頷く。すると、おもむろにジルさんは店の中に歩いていき、大きな紙袋を持ってきて私に手渡した。

「さっき入った一番いいやつだ、持って行きな。お代はねえちゃんに言っておくからよ」

 中を見ると、つやつやした美味しそうなりんごやオレンジだった。きっと――ルズアは喜んで食べるだろう。

 私は深くお辞儀をして、店を離れることにした。

「次はお姉ちゃんも連れてくるんだぞー」

 ジルさんは手を振って見送ってくれた。

 青果店を出て、雑踏にまぎれたつもりで、早足で歩きながら考える。

 商店街の人に私の顔を知っている人は少なくない。言わずもがな、この間エリーゼと来た時にいろんな人に紹介されたからだ。その上、人の多いところを迂闊に行動するのは危険だと、バッカーニーの件で思い知った。

 となると、人混みもなかなか安全ではない。下手をしたら、すぐに私が抜け出したことがお屋敷の人にばれてしまう。木を隠すなら森だとは思ったのだが、安直すぎたみたいだ。早く通り抜けるに越したことはない。

 私はさらに足を速めて、商店街を奥へ奥へと進む。小さな広場を通り過ぎ、商店街の端に着きかけたところで、見覚えのある宿屋と軽食屋の間の道を見つけた。

 別に他にも裏路地に入る場所はいくらでもあるのだが、何となく以前の場所から行ってみようと思ったのだ。私はためらうことなく裏路地に入って行った。

 そして、すぐに後悔することになった。


**********


 路地裏に一歩踏み入れると、とたんに気温が下がった気がした。実際日があまり当たっていないのだが、賑やかな商店街と、人気のない路地裏との雰囲気の差のせいでもあるだろう。小さな港に高級住宅地、市場や商業の場、農地と農家、さらにスラム街がひしめき合う、世に社会の縮図と称されるこの町イーステルンでしかおそらく味わえない、コントラストのはっきりした空気だ。

 私は思うまま、以前ここに迷い込んだ時に通った道を辿り始めた。うろ覚えではあるが、角を右へ、左へ……どこに行けば彼に会えるのかは分からないが、今はとにかく何処かへ行きたかった。

 しばらく歩いて、見覚えのある路地にたどり着いた。

 あの日転がったゴミバケツは、さらに中身をぶちまけて遠くへ吹っ飛んでいたが、確かにルズアが倒れていたあの路地だ。だから何だというわけでもないが、私はゴミのない地面に座り込んで休むことにした。地面には微かな足跡が幾つかついているだけで、ほとんど人は通らないらしい。そういえば、前もこんな人っ子一人いない所で帰り道を探せなかったわけだ。前回と同じ轍を、まさか自分から踏むことになろうとは。そしてここに迷い込んだ以前と同じように、漠然とここまで来ておいてルズアを探す手段はなかった。確かに、ただお屋敷を抜け出せれば何でもよかったといえばそうなのだが、ぼんやりとこの路地裏に行くアテがあったのも確かだ。しかしまあ現実的に、唯一の外の友達である彼に会える方法も特になく、自分は何をどうしようというんだろう。

 私は汚れた路地の石壁に背を預け、灰色一面の空を眺めながら、回らない頭に任せてぼうっとそんなことを考えていた。

 その時。

「ぎゃっはははは……」

 聴き覚えのある下品な笑い声が角の向こうから聞こえた。声の距離からしてとても近いわけではないが、安心できるほど遠いわけでもない。あの時の人たちだ、間違いない。この笑い声はあの日ルズアと私を散々罵倒してルズアにぼこぼこにされた、男二人のうちの細い方だ。

 見つかったらまずい。すぐさま立ち上がり、声の反対側へ走った。足元のごみを何とかよけながら、スキップするように走った。

 路地は長くなかった。すぐに曲がり角にたどり着いた。そこを曲がると、一旦壁にもたれて呼吸を落ち着ける。

「おお?」

 すぐそばで男の声がした。私は息をのんだ。静めた心臓が跳ね上がる。

 声がしたのは左のほう。そっちを見ると、道の真ん中あたりに三人の男と一人の女が立っていた。

 垢だらけの汚らしい服を着て、威嚇的な雰囲気を醸し出す男たちと、この冬だと言うのに露出多めの服にぺらぺらのコートを一枚羽織った長い髪の美女。

「おお?どこのお嬢ちゃんだ?」

 男のうち、クマのような髭もじゃの一人が言った。

「さぁ?俺は知らねぇが……」

 二番目にそう言ったのはのっぽの男。こっちを向いてしゃがむと、

「お嬢ちゃん、どっから来たんだい?」

 答える術がない。私は黙っていた。

「おい、お前は引っ込んでろ。怖がってんだろお」

「痛ぇ!」

 三人目の禿げた男がのっぽの男の頭を殴った。のっぽの男は頭を抑えて立ち上がり、禿げた男を睨みつける。だが禿げた男は無視し、こっちを見て人の良さそうな笑みを浮かべた。

「お嬢ちゃん、道に迷ったのかい?お兄ちゃんたちと一緒に来な。可愛いお嬢ちゃんが一人じゃ帰れないだろう?」

「ちょっとぉ……私はぁ?」

 女が禿げた男にブスッとした顔で詰め寄る。

「はっは、お前に負けず劣らず可愛いお嬢ちゃんだよ」

 男が女の肩を抱き寄せると、女は腕の中からきつい目でこちらを睨んだ。私に何の罪があると言うんだ。

「兄貴!どうしたんすか?」

 新しい声が、突然後ろから加わる。私は思わず飛び上がって振り返った。一瞬で後悔と絶望が体中に広がる。

 こんな男たちに構わず逃げていれば良かったのだ。後ろから来たのはさらに三人の男。そのうち二人は、この間ルズアにやられた男たちだった。

「あん?ああ、可愛いお嬢ちゃんがいてよぉ、道に迷ったみてぇだから案内してやろうと思ってな」

 禿げた男が答えた。すると、この間のひょろりとした男が私をまじまじと見て大笑いし出した。

「ひゃっははは、そいつは面白ぇ!この女、この間あのクソガキと一緒にいた女ですぜ」

 痩せた男は後ろからいきなり私の肩を掴んだ。とっさに払って逃げようとしたが、思ったより力が強くて振り払えない。禿げた男は眉をひそめた。

「あのクソガキ……ルズアか?」

「そうでさ。ひひひ、聞いてませんかね兄貴?あいつが女連れて歩いてたんですぜ」

「あぁ……」

 男の顔に嫌な笑みが浮かんだ。

「その話なら聞いてる……と言うことはお嬢ちゃん、ルズアの家を探してるんだな?」

 こういう時はどう答えれば最善なのだろうか。自分を問い詰めていると、痩せた男が顔を覗き込んできた。所々欠けた黄色い歯の間から漏れる酒臭い息が顔にかかって、私は思わず顔をしかめた。

「どうなんだ?え?あのガキに会いにいくなら案内してやらなくもないんだぜ?」

 頷いてたまるものか。私は勇気を振り絞って男の顔を睨みつけた。しかしそんな些細すぎる抵抗も虚しく、今度は禿げた男が女を抱いたまま近づいてきて、私の首に手を回して顎を撫でた。激しい嫌悪感。稲妻のような寒気が走る。

「そうとなったら、俺たちがルズアの所まで案内してやるよ。一緒に来な。悪いことはしねぇからよ」

 案内ではなく、強制連行だった。肩を掴む手と、首に回された腕は、一ミリたりとも抵抗を許さないようだ。隣から五寸釘のように刺さる女の視線に耐えながら、自分の無知さと無鉄砲さを後悔するほかないのだった。


 一体、一行はどこまで行くのだろう。

 少ししか歩いていないはずなのに、とても長い距離を歩いた気がした。

「なぁお嬢ちゃん、どこのお家の子だい?」

 禿げた男が、私の首に手を回したまま話しかけてくる。私はさっと顔を逸らした。

「おいおい、恥ずかしがらなくてもいいんだぜ?お嬢ちゃんの着てる衣装を見たら、いいとこのうちの子だってのは分かるんだからよ」

 ここで正直に答えていいとはさすがに思えない。そもそも、声で答えることのできない私にどうしろと言うのだろう。

「何とか言えっつってんだろうがア!」

 何も反応せずにいたら、細身の男が私の頭を掴んで至近距離から怒鳴りつけた。くさい唾の飛沫が顔にかかる。

「おい、女の子に乱暴はやめねえかよォ。緊張してんだよな、お嬢ちゃん?それこそあのガキに聞けば分かる」

 斜め後ろから髭もじゃの男がたしなめる。細身の男は、舌打ちをして引き下がった。その代わり今度は私の腰に腕を回す。無様に痙攣して身体が動かない。足がいうことをきかない。ろくに雪を踏みしめることもままならなくて、動け、動けと何度命令しても、転ぶことさえうまくいかなかった。耳の奥で聞こえる脈が際限なく速くなっていく。

「まぁ、どっちにしろこんな女、あのクソガキにはもったいねぇっすよ兄貴。俺らで持って行きましょうぜ」

 痩せた男は、空いた手で鼻をほじった。禿げた男がにやりと笑って、

「はは、まぁ焦るな。面白ぇのはこっからだ」

 一行はさらに細い路地に入っていた。禿げた男が指さした先に、ボロボロの木造の倉庫らしきものが立っている。壁は所々穴が空き、ドアに至っては外れかけてもはやあまりドアの役割を果たしていない。

 男が合図をすると、前を歩いていたのっぽの男がそのドアを思い切り蹴り開けた。

「おいクソガキィ!いるかァ‼」

「ぎゃああ‼」

 後ろからガンッ!と言う鈍い音と野太い悲鳴。

 周りの男たちは一斉にそちらを振り返ったが、私は首と腰を押さえられていて見られない。

「こんのクソガキぃぃぃぃ!」

「ぎゃああ!」

「ぶっ殺せぇ!」

 雄たけびをあげて周りの男たちが後ろの方へ突っ込んでいく。悲鳴や怒号、何か金属っぽい物で殴打する音が続けざまに起こった。隣で抱かれていた女が「ひっ……」と声を漏らして男にしがみついた。

 その時、私の顔のすぐ横、細身の男の顔との間に丸っこい金属板のような物が突然差し入れられた。次の瞬間、ものすごい音がして金属板が細身の男の頭をぶん殴った。自然と私の腰から手が離れる。首に手を回している方の男も、驚いて力を緩めたのが分かった。

「痛ぇなこの野郎ォ‼」

 殴られた細身の男が怒り狂って向かってくる。その瞬間、突然私の足が浮いた。吊られるような息苦しさ。背中から誰かに掴まれている。そのままぐるんっと視界が一転し、腰に衝撃。私は勢いでボロ小屋のドアの中に転がり込んだ。

 腰の次は背中を強打し、肺から息が抜けて呼吸が止まる。床が鼻の先に迫って思わず目をつぶった。抱えていた果物の袋は中身をぶちまけて、落ちたつやつやのリンゴが部屋の端まで逃げるように転がっていく。

 柱のような物に頭をぶつけて、ようやく止まった。どん、と音がして後ろのドアが閉まったのがわかった。

 何とか息を吸い込むと、こんどは気持ち悪いほどの酒の臭いでむせ返った。嗅いでいるだけで酔ってしまいそうだ。思わず鼻を手で覆った。上体を起こして辺りを見回すと、柱だと思ったのは椅子の足だった。

 自分のすぐそばには汚れたテーブルと椅子、その向こうにはシミだらけのソファと潰れかけたベッド。自分の後ろには割れた窓。臭いの原因はソファの周りに散らばった山のような酒瓶だった。

 そして、そのソファの向こうから、不気味で大きな鼾が聞こえる。戦慄が走って、体が震えた。ぐおぉ……と規則的ないびきは時々途切れては、また思い出したようにリズムを刻む。

 私は恐る恐るソファに近づいた。

「てめぇら人んちの前でぎゃあぎゃあ騒ぎやがって……近所迷惑って言葉を知らねぇのか?バカどもが」

 外から覚えのあるドスの効いた声。壁もドアもボロボロなせいで、鼾の音がかき消されるほどよく聞こえる。

「うるせぇ!てめぇの存在が近所迷惑だってんだよォ!クソガ……ひイィ!」

 細身の男の甲高い声、ごすっ!と何かを殴る生々しい音。外がどうなっているのか想像もつかない。しかしその時、

「ん……んぁあ?なんだぁ……騒がしいぞお……」

 今度は部屋の中から嗄れた声がした。見ると、ソファの向こうから大きな人影がむっくりと起き上がったところだった。

 巨体の上にちょこんと乗ったげっそり顔は真っ赤に染まっている。その顔に負けず劣らず真っ赤な、ぼさぼさの口ひげと髪。年は中年くらいの男。小豆ほどに小さい、血走ってとろんとした薄灰色の目が、ぎょろりとこちらを見た。

「おお……?誰だぁ?女の子かぁ……?」

 男は笑っているのか、口元をひくひく痙攣させながら口角を釣り上げた。隣にあった新品の酒瓶を手に取ると、素手で思い切りコルクを抜く。

「へへ……可愛い……お嬢ちゃん……酒、飲まねえか?俺が奢るっからよぉ……」

 男はソファから立ち上がったが、もう完全に平衡感覚が狂っているらしい。こちらに進もうとして同じ場所でふらふらとステップを踏み、しまいには転んで床に酒をぶちまけた。どう見ても酒に呑まれていて、意識がはっきりしているかどうかすら怪しい。何をするかわかったものではない。ちょっとでも距離を取ろうと、私が這って後ずさったその時。

 バンッ!と勢いよくドアが開く。ついに耐えきれなくなった蝶番が一つ外れた。そこに立っていたのは、赤毛に鋭い黒の瞳をした細身の少年。整った顔は擦り傷だらけで見る影もなく、目の上が大きく腫れ上がっているわ、頬はぱっくり裂けているわ、唇も切れて血が流れ出しているわ、見るだけでひやりとする。服にも所々血が滲み、大きなスコップを担いでいるところは、まるで地獄から這い上がってきたみたいだった。しばらくぶりのルズアはあまりにもひどい有様で、真っ白になった頭の隅に、さっき細身の男を殴ったのはあのスコップだったのか……と、どうでもいい考えが浮かんで消えた。

 ルズアは小屋の中をぐるりと見るような動きをすると、転んだあと再び床でいびきをかき始めた中年男の方を向いて、顔をしかめた。こっちに大股で歩いてきて、私の方へ手を伸ばす。いきなり服の背中をつまみあげられた。首が締まりそうになる。次の瞬間には思いっきり外に放り出され、私は無様に地面に転がり、思わず咳き込んだ。

 自分で立てるのに、わざわざつまみ出すことはないじゃないか。心の中で悪態をついてのろのろと立ち上がる。雪と泥を払い、辺りを見回して驚いた。

 そこにはまさに、死屍累々という言葉の相応しい光景が広がっていた。倒れた人間の鼻血や、傷口から流れる血が白い雪に映える。さっき私を取り巻いていた全員がみごとに気絶していた。いや、気絶で済んでいると思いたい。抱かれていた女まで、禿げた男の下敷きになって昏倒している。禿げた男はルズアの攻撃から彼女を守ろうとしたらしい。そんなチンピラたちの健気さの片鱗さえ踏みつぶし、場に居合わせた人間誰一人として逃がさぬ所業だった。

「来い」

 後ろからルズアがゆっくり歩いてきて、地の底から響くような声で言った。追い越しざまにこちらをぎろりと睨みつける。遠ざかる彼の背中が視界に入って、唐突に足が歩き方を思い出した。できるだけそっと、彼の神経を逆撫でしないよう数歩後ろをついていく。

 どこに向かっているのだろうと思いながら、のろのろと歩くことしばらく。ルズアは二つほど角を曲がったところで急に立ち止まった。私も足を止める。

 何があるのかと待っていたが、ルズアはいつまでたっても黙って立っている。私は辺りを見回したが、特に何か変わったものがあるわけでもなさそうだ。私が何かするのを待っているのだろうか。何をすればいいのだろう。そういえば、助けてもらったのにお礼を言っていない。他に思いつかないし、私は意を決して後ろからルズアの手をつついた。

『ありがとう』

「あぁ?」

 何も、振り返ってまで睨まれるようなことは言ってないじゃないか。他に言うことがないか、言葉を指から絞り出す。

『助かったわ』

「そうか。それで?」

『え、ほら……助けてくれてありがとう』

「食い物は?」

『あっ……ああ』

 思わず納得してしまい、文字を綴る手がぱたりと落ちた。そりゃそうだ、考えてみれば他に何があるというんだ。私はおそるおそる、再びルズアの手を摑まえた。

『ごめんなさい。あなたの家に置いてきた』

「置いてき……た……?」

 言っている意味が分からないと、表情が脱落したルズアの顔に書いてあった。あの口の悪さであれだけ舌の回るルズアがまともに言葉が出てこないほどのショックと言ったら、相当なのだろう。食べ物蔓だと思われていようと助かったのだから構いやしないが、そこまでの反応をされると多少はこちらだってショックだ。

『ほら、あなたの家に置いてあるから』

「怪我損かよ……」

 話を聞いてもいない。確かに怪我をする羽目になったのは私のせいなので、そう言われるのなら私にも考えはある。

『ねえルズア、この辺りに水場ってある?』

「水場あ?水道なんてねえぞ」

『じゃなくていいから』

「イース河だろ」

『他にはないの?』

「街中の水飲み場は夜にしか行けねえ。井戸はあったが、どっかのバカが変な物放り込みやがって使えねえ」

 メルたちから聞いた話だが、イーステルンの水道は、一部の富裕な家や公的な施設までしか敷かれていないらしい。ここにあるはずもないのは知っていたが、井戸や町の水飲み場すら使えないとは。さぞ不便だろう。

『じゃあ、いつもイース河の水を飲むの?』

「はあ?まさか。この時期は雪を溶かせばいいだろうがよ」

 なるほど、その手があった。ここが雪の街でよかった。

『そう、ならそこに立って』

「立ってんじゃねえかよ」

 もうルズアがガンを飛ばして来ようと怯まない。腹はくくった。

『じゃあそのまま屈む』

「はあ?嫌だね」

『嫌じゃない』

「おちょくってんのか?」

『おちょくってるように見える?真剣に言ってるんだけど』

「知るかよ」

 悪態をつきながら足元の雪を蹴って、ルズアは道の端にどっかり腰を下ろす。なんとか言いつつも要求は呑んでくれた。私はルズアの後ろにあった塀の上から、なるべくきれいな雪をすくい取った。手で押し固めながらルズアの正面にかがむ。

『ちょっと冷たいけど我慢して』

 コートのポケットからハンカチを取り出すと、固めた雪を溶かしてハンカチの端を濡らした。頬の一番大きな切り傷に、そーっと、慎重に慎重にハンカチが触った瞬間、

「いってぇっ!何しやがるクソアマ!」

 私の顔めがけて殴りかかってきた。のけぞって避ける。間一髪だった。びっくりさせてしまったようだ。

『傷口をきれいにするだけよ、騒がないで』

「あぁ?てめえ洒落で言ってんのかァ?」

『洒落で……いえ、でも今ヘンな人に見つかったら困るから』

「今じゃなくても困るとは思わねえのか?」

『思う』

 私は淡々と答えた。コートのポケットから、さらにガーゼや包帯や消毒薬の小瓶を取り出す。初めて会った時のルズアの顔を思い出して、万が一のために持ってきたのだが、まさか使う羽目になるとは。前回ちゃんとしたお礼を持ってくると言っておいて、食べ物を持って出なかったのは完全に失態で、逆になぜこんなところに頭が回ったのかはわからない。運よく食べ物が手に入ったからよかったものの、ここまでひどいことになるとは思っていなかった。余分な気回しが役に立ってよかったものだ。

 ルズアの悪態をかわしつつ、出来るだけ手際良く処置を終わらせていく。消毒薬で傷に触れる度に、正確に顔に殴りかかってくるのを避けるのが大変だった。本当に盲目なのかと思うほどだ。とりあえず腕や顔の大きな傷を布で塞ぎ、小さな傷は消毒だけでも済ますことができた。

『はい。終わり』

 ルズアの血でまだらになったハンカチを、ポケットにしまう。

『怪我損って言ったから。ほら……ないよりは得かと思って』

 ルズアはそれを聞いてすっくと立ちあがった。私の上に淡いルズアの影が落ちる。

「お節介クソ女」

 吐き捨てると泥まじりの雪をおもいっきり私へ蹴りつけ、くるりと背を向けて大股で歩き出した。

 私は口に入りかけた泥をぺっと出して、服と顔の泥を払うとあわてて立ち上がる。走って彼の後を追った。すぐに追いついたが、見向きすらするわけはない。

『ねえ、待ってよ』

 返事もない。

『ねえってば。私、そんなに変なことしたの?ねえ』

「誰がしてくれって頼んだんだ?」

 やっと、凄みの効いた声が返ってきた。

『怪我をしたらこうするものでしょ?違う?お医者様に聞いたって同じことを言うと思うわ。大人しく最後まで終わらせてくれたじゃない』

「大人しかった?俺が?あれだけぶん殴って?」

 ルズアは半分呆れ顔をしていた。お礼代わりに勝手にしたことなんだから、喜んでもらいたかったわけでも、有り難がられたかったわけでも当然ない。でも間違ったことは何一つしてないはずだ、そんな顔をされる筋合いが一番ない。

『ああそう、じゃあ子供みたいに大暴れするのはどうなのよ』

「黙れチビ」

 地団駄を踏みたくなる。どうしてこうもまともな会話にならないんだ。

『……分かったわ。お節介で悪かったわね』

「ああ悪かったね。てめぇのせいでここんとこ散々だぜ」

 ルズアは足を止めると、腕を組んでこちらを向き直った。私は彼を睨め返す。

『どういうことよ』

「てめぇがこんな所までのこのこ来たせいで、バカ共の冷やかしのネタを増やしちまったよ。俺が女を連れてたのと勘違いして、喜んでからかってきやがる。鬱陶しくてしょうがねえ」

『それも私のせい?』

「そりゃそうだ」

『最初に私の持ち物をひったくったのはあなたじゃない』

「追いかけてきたのはてめえの責任だろうが」

『あらそう……よく分かったわ。とにかくもう来なければいいのね』

 自分の顔が、意思に反して勝手にうつむいていく。ルズアの方は薄ら笑いすら浮かべていた。

「ああ、そうしてくれ。ここはお前みたいな奴がくる所じゃねえんだよ。そもそもなんで来たんだ?あ?まさか本当にこの間のお礼だとか吐かすんじゃねえだろうな」

 私は思いっきり鼻で笑ってやった。

『まさか。こんなひねくれ者のためにそんなことしないわ』

 ルズアは目を細める。

「そうかよ」

 さらっと流して、ルズアはそれ以上何も言わなかった。もう限界だ。

『それなら私はもう帰るわ。お望み通り、二度とここには来ないから』

 嫌味のつもりで繰り返して、私はくるりとルズアに背を向けた。後先はとりあえずどうでもいい、この場から離れれば万々歳なのなら、そうしようじゃないか。悔しいような切ないような悲しいような虚しいような、どうしようもない気持ちが、ただでさえ明るくなかった気分を蟻地獄のように引きずりこみ、胸をぎりぎり締め上げる。

「勝手にしやがれ」

 追い打ちをかけるような声を後ろに聞きながら、やっと見つけた彼とは逆の方へ一人で歩く。太陽は西に大分傾いて、路地にはもはや日もあたっていなかった。

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