1-9 月に祈りを
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頭上に厚く垂れ込めた黒雲が空を覆い尽くし、外にはらりはらりと雪をを降らせていた。
「エリーゼ、急ぎなさい」
「はいはいはい」
玄関の前に止まった二台の馬車のうち片方のドアを開けながら、ペレネが声をかける。するとエリーゼが慌てて玄関扉から飛び出してきた。
エリーゼはひょいっと身軽に馬車に乗り込むと、私の左に座る。その後に護衛の若い男が乗り込み、外からペレネがドアを閉めた。二台の馬車にそれぞれ乗った御者が、鞭を勢いよく振るう。
「いってらっしゃいませ」
恭しく頭を下げるペレネを後に、馬車は正門をくぐった。
私は例によってメイドの格好をしている。当然病院には人がたくさんいるからだ。初めて公認で外に出るのがこんなこととは、何とも皮肉な話じゃないか。
膝の上では丸いバスケットが揺れている。お腹がすくだろうからと料理長が持たせてくれたシュークリームや菓子パンが、中でいい匂いを放っていた。しかし、全く食欲をそそりもしない。
雪は、だんだん強くなっていく。車中はしんしんと積もる雪が奏でる静けさで埋め尽くされ、使用人たちが乗ったもう一台の馬車を私たちの馬車が追いかけて走る、微かな蹄の音や雪と車輪が擦れる音が虚しく聞こえるのみ。
エリーゼは左隣で、正面の空を睨んで何か考えている。メルは自分の揃えた膝を見つめていた。エリーゼが時折思い出したように取り出す懐中時計によると、お屋敷を出て二時間ほど経った頃。
馬車を引く馬の蹄の音が、柔らかい新雪を蹴る音から固い石畳を蹴る音に変わった。舗装されていない公道から雪をどけた病院の敷地内の道に入ったのだ。
目を上げると、巨大な教会のシルエットが視界の悪い雪の夜に浮かび上がった。三角屋根と、その両側に一対の高い塔がそびえる荘厳な灰色の影。教会の前に白い旗がかかっており、赤い十字架とオリーブの葉が描かれているのが見える。ここが聖エルブ病院、アルバート王国で三本の指に入る大病院だ。
馬車は徐々にスピードを落とし、入口の雨避けの下に入って止まった。
「着きましたよ」
御者が優しく声をかけると同時に、先に前の馬車から降りていたフットマンがドアを開ける。護衛とエリーゼが先に降り、私も続いてメルの手を取って降りた。
「馬車を置いて来まさぁ」
御者はそう言って鞭を振るい、馬車は二台一緒に雪の中を走っていった。
護衛に囲まれながら、見上げるような木の両扉をくぐり抜ける。その先は、美しい石灰岩の大聖堂を改修した受付と待合室だった。
繊細なステンドグラスが行く手の天井に、正面には女神と羽の生えた子供を模した白大理石の像が、安らかな顔でそびえ立っている。その前を、ベールをかぶった修道女姿の看護婦や車椅子の若者、医者と大声で口論している老人などが忙しなく横切っていく。聖堂いっぱいに並ぶ待合用の長椅子は、かつては信徒用の椅子だったようだ。雪と遅い時間のせいで、誰も座ってはいなかった。
説教台を造り替えた受付テーブルに、私たちが近づく。するとあまりの大所帯に、何事かと周りの視線がこちらに集まった。
「リーアン・アトレッタ様ですね」
受付看護婦がメルを見て言った。その瞬間、僅かに看護婦の顔が曇ったのを私は見逃さなかった。
「三階奥の治療室でございます。あちらの扉の向こうに案内がおります」
左側の扉を示した看護婦にしたがって一行が向かうと、扉の向こうではよれよれの白衣を着た医者が待っていた。
「ご案内致します」
色白のひょろっとした医者は疲れた様子でぺこりと頭を下げ、無言で歩きだした。恐らく母の担当医なのだろう。葬式みたいな沈痛な雰囲気を醸し出しながら、赤茶の絨毯を敷き詰めた廊下を歩き階段を上っていく背中を見ていると、とてもじゃないが希望のある想像はできない。
三階まで階段を上がり、長い廊下を一番奥まで進んだどん突きにある両開きドアの前で、医者が止まって振り返った。私たちも合わせて止まる。
「……ショックを受けられるかもしれません」
濃い隈のできた目を伏せて、医者は重々しく言った。嫌な想像は外れてはいないようだ。
医者がゆっくりと扉を押す。
その向こうにあったのは……白い四角い箱のような、無機質な治療室。
母にお付きで行ったメイドと護衛、そして病院の看護婦が二人、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。母についてお屋敷を出た二人の従者はいない。一人は最初の連絡に来たからいるはずはない。しかし、もう一人は……恐らく別の報告をしに、私たちとすれ違いにお屋敷に向かっているのだろう。
何の報告かはすぐに分かった。
彼らの中心に白いベッドがあって、その上に白い服を纏った母が横たわっていた。透き通るように白かった肌は今や青ざめ、前が開いた服からは薄赤い包帯の跡と、大きな二つの傷が覗いていた。心臓のすぐ上あたりと腹部だ。さっきまで血が流れ出していたように血痕が生々しい。
包帯の痕や、ベッド脇に放置されて倒れたいくつもの薬瓶、散らかった布の山、金属の小さな器具たちが、手の施しようがなかったことを物語っていた。
私は母に近づく。ベッドの端にいた護衛が詰めて、スペースを空けてくれた。
シーツの上に投げ出された手を握ると、体温は感じられない。そこにあるのはまぎれもない”赤い歌姫”の亡骸だった。
「ここに運び込まれて間もなく……お亡くなりになりました」
医者の声が、事実を告げた。
「あ……ああ……」
答えたのは、掠れたメルの声だった。
「あああぁぁ……!」
悲痛な叫びを上げながら、後ろのメルが膝から崩れる音。
母の枕元で祈りを捧げていた二人の看護婦が目を上げる。歌姫の嘆きは恐ろしいほど美しく、恐ろしいほど哀しかった。
誰もが呆然と立ち尽くす中、一人、安らかな顔をしているのは母だけ。私には、うっすらと微笑を浮かべているようにすら見えた。
ああ。死に顔にすら浮かべられた微笑みが、私に向けられたことは一度もなかったのか。
私は押し寄せる感情の渦を塞き止めようと、看護婦たちに倣い頭を垂れて、ただ祈りを捧げた。
**********
四日後の夕暮れ過ぎ。聖エルブ病院に程近いテリーベンスト中央広場で、母の葬儀が行われた。
葬儀は、他国へ視察に行っている国王の代理として后妃も参加する盛大さ。参列者は大きな広場を埋め尽くしてもなお足りないほどだった。
喪主は当然、遺された一人娘のメル。だが実際は、家令やペレネ達が事を仕切っていた。
「“赤い歌姫”は神の思し召しにより天に召され……」
広場の中心にある池の側、そこに置かれた豪奢な母の棺の前では、神父が死者を送る言葉を捧げている。アトレッタ家の人々の後ろの方で、メイドのふりをして参列している私の耳にはほとんど止まらなかった。どれもこれもが私やメルの悲しみには軽薄な言葉に思えて、あちこちで聞こえる啜り泣きすら、馬鹿馬鹿しかった。
参列中、私は遠目にエルンスト伯爵家を見つけた。ディヴはぽろぽろ涙を流して真剣に悲しんでいるようだった。バッカーニーは気難しそうな表情をしていた。エルンスト伯爵は悲しい、というより残念そうな顔をしていた。私はむかっ腹が立って目を逸らした。
そのまま何事もなく、葬儀は終わった。
とっぷりと日は暮れ、参列者も三々五々帰っていく。山のように白い花が入れられた母の棺は、黒い馬たちに牽かれてお屋敷へ帰っていった。母がお屋敷の庭に埋葬されることを望んだ、そうだ。私は当然知らなかったが、いつかそんなことをポロリと漏らしていたと家令が言っていた。
母の棺を追って、私たちもお屋敷に帰った。
庭の隅には白大理石の立派な墓が立てられるそうだ。私たちは母の埋葬を見届けた。
そこからはほとんど覚えていない。覚えているには、私はあまりにも色々なことに疲れすぎていた。きっとメルも同じだろう。
私は部屋に帰ると、窓から差す月の光に祈り、そして死んだように眠った。
**********
厨房の近くにある使用人の休憩室に、背の高い一つの人影があった。
広くない部屋だが、壁に小さなランプが一つしかないので薄暗い。もう時間が遅いからか、部屋の中も外も静まり返っていた。
「ペレネさん?」
不意にドアが開いて声が入ってきた。部屋の中の人影、ペレネは小さく首を動かす。声の主はエリーゼ。そっとドアを閉めると、エリーゼは声を低めて言った。
「何やってるんですか?こんな暗いとこで」
「いえ……少し考え事を」
ペレネは平坦に返す。
「ふぅん……」
エリーゼは持っていたランプを消して、ペレネに近寄る。ペレネは自分の正面に向き直った。
「あなたこそ、こんな時間にどうしたのです」
「いやー、別に」
「……そうですか」
ペレネはそれっきり黙り込んだ。エリーゼも合わせて黙り込む。重い沈黙が続いた。
「……今言うのも何なんですけど」
しばらく経って、エリーゼが先に口を開いた。
「どうして、あの時私にお嬢様達の前ですべての報告をさせたんです?私みたいに口下手じゃあ、お嬢様たちが傷つかないよう上手に伝えるなんてできませんよ。私は事実を伝えることしか……」
エリーゼは皮肉っぽく笑った。笑顔の端に、後悔と自棄気味な感情がうっすらと浮かぶ。
「なら聞きますが、あなたはどうして答えたんですか?事実を事実として、ああやって真正面から包み隠さず」
「……そう来ますか」
エリーゼはぽりぽりと頬を掻いた。
「一応、考えて言ったつもりではあったんです……だって、お嬢様達には知る権利があります。それに、お嬢様達はどう聞いてもちゃんと立ち直れる方です。たとえ今言わなかったとしても、何としてでもすべて知っていたでしょう。私たちがぼやかした部分まで全部、受け止めようとすると思います……うちのお嬢様達なら」
ペレネは黙ってエリーゼの答えを聞いていたが、やがて力無く笑った。
「私も同じ理由ですよ……お嬢様方はお強くていらっしゃる。私の方が……よっぽど弱いくらいです」
最後にぼそっと漏らされたペレネの珍しい弱音に、エリーゼは少し目をみはった。しかし、それにはあえて触れることなく話を続ける。
「それで、たまたま会ったついでに話しますけど……こっちで待機していた人には、まだ報告してないことがあるんです」
ペレネが目を上げてエリーゼを見た。
「それは?」
「奥様を刺した犯人のことですが」
エリーゼはさらに声を落とす。
「奥様は事が起こる前、窓を背にしたソファに座っておられました。そして窓から入ってきた刺客に後ろから刺された、と」
「ええ……それで?」
「奥様のいらっしゃったお部屋は四階、宿の最上階です。窓に背をさらして奥様を休ませたのは、明らかに護衛たちの失敗と言えるかもしれません。しかし……宿の警備はかなり厳重だったはずなのに、宿の敷地に入って四階に登るまで、誰一人として刺客の姿を見ていないそうなんです」
「……どういうことです?奥様を刺したところも、誰も見ていないということですか?」
「いえ、そうじゃなくて……刺した瞬間は部屋にいた護衛と執事が見ています。刺客の姿も。ただ、事があまりにも一瞬だったために、容姿の証言は曖昧です」
「一瞬だったとは?」
エリーゼはランプを足元に置くと、左手を平らにして屋根を作り、右の人差し指を人に見立てて、その上からぴゅうっと飛び降りる動きをした。
「刺客は屋根の方向から降りて来て窓を割り、奥様を刺して屋根に戻った。すごく素早かったそうです。たぶんかなり手練れだったんでしょうね。それだけのほんのわずかな瞬間に、不安定な場所から、奥様のお身体を貫通するほどの傷をつけられるんですから……でも、宿の外の護衛も今回たくさんいたはずで。実際その時、奥様の部屋のある方の屋根を外から見張っていた護衛もいるんです。でも、誰も刺客らしき人は見ていない。護衛だけでなく、誰も」
「それだけの人がいながら、奥様が刺された瞬間を見た人間以外、誰も刺客を見ていないということですか。いくら手練れでも、それは不可能ですね」
「そういうことです。何かおかしいんですよ」
「なるほど……奥様不在の間に、奥様のお部屋に荒らしに入った人間とも何か関係があるのかもしれませんね……」
「……ええ」
エリーゼは顎に手を当てて考え込んだが、少しして顔を上げた。
「まあ、でももう時間も遅いですし、考え事は明日しましょうよ」
「……そうですね」
ペレネも顔を上げ、つかつかとドアの方へ歩いて行く。ドアノブに手をかけ、
「今日は少し疲れました……先に休ませてください」
開いたドアから、さっと一筋廊下を照らすほの赤い光が差した。
「ええ、どうぞ。お休みなさい」
「お休みなさい」
ペレネが出て行ったのを見送ると、エリーゼはランプを消して、真っ暗になった休憩室をゆっくりと後にした。
**********
時計の鐘の音で目が覚めた。瞼を閉じたまま、一、二……と鐘の数を数えていると、十二で止まった。十二時になったらしい。
瞼をあけると、すぐ前に金髪の小さな頭が見えた。向こうを向いたまま、こくん、こくんと揺れている。そうっと毛布から手を出して、軽くその頭を小突いてみた。
「ひゃっ⁉」
メルが飛び上がって振り向いた。ベッドの前で何か読みながら居眠りしていたらしい。がさっ、振り向いた拍子に読んでいたものが落ちた。
「ああ……おはようポル。もうお昼だよ」
メルは私を見ると、表情を和らげた。
『何してたの?』
上体を起こして尋ねると、メルは今落ちた茶色のノートを拾い、さらに床に積まれていた同じようなノートをまとめて手渡す。
「これ」
ずしっときた重さからしても、数十冊はある。全部同じだが、一冊ずつ見てみてもどれにも題名は書いていない。中をめくって見ると、どうやら日記のようだった。日によって長い短いの差はあれ、きちんと毎日つけられている。
「これ、母さんの日記」
私はあわててノートを閉じた。
『母さんの?どこから?』
「そりゃ、母さんの部屋だよ。荒らされてから、私に片付けさせてってペレネに頼んでおいたんだ……昨日の夜中眠れなくて、片付けてたら出てきた」
『ふぅん……』
「読んだらいけない気はしたんだけどね……何か手がかりがある気がしてさ。母さんを刺した犯人の」
メルは力なく笑った。
『……そっか』
私はメルの、金色の絹のような髪を撫でた。今日は二つには結われておらず、まっすぐ下ろされている。髪を結う気力もなかったのだろう。
髪を撫でていない方の手で、一番古そうなノートを取って、おそるおそる開いてみる。最初の日付は新暦七二六年六月二五日……なんと私たちが生まれる三年も前の日付が書かれていた。
ざっと見ていくと、どうやらこのお屋敷に住む前から始まっているようだ。ちょくちょく、私たちの知らない男性の名前が出てくる。登場する箇所と頻度から察するに、母の恋人か配偶者か。もしかしたら、私たちの父親かもしれない。
ぱらぱらとめくって最後の方のページをみると、そこには結婚式の日の日記があった。彼は確実に母のパートナーになったようだ。彼の名前はざっと見る限り、どこでも”フィン”とだけ書いてあった。母の使った愛称なんだろうが、きいたことのない名前だ。
私はぱたりとノートを閉じた。私の知らない母の過去を今じっくり読む勇気なんか、出なかった。
「あのね、ポル」
メルが、積まれたノートから一冊を取ってぼそりと言った。
「母さん、こんなに毎日日記つけてるのに……二回だけ、つけてないところがあるの」
メルはぱらぱらとノートをめくり、あるページを開いて見せた。新暦七二八年五月三日だけが見開きに書かれていて、一枚めくると次は五月二十一日だった。
「ここと、」
メルは別のノートを手に取り、またページを開いた。
「ここよ」
新暦七二九年一月十二日。私たちが生まれる前日だ。
また一枚めくると、今度は一月三十一日から日記は再開している。
「昨日から、ずっと読んでてわかったんだけど」
メルは日記を閉じた。
「一回目に日記が途切れた時から、”フィン”の名前が出てこなくなった。それと、その時から気になることがたまに書いてあって……」
『気になること?』
「うん……たとえば、ここ」
メルは最初に見せた一冊をひらき、ページの真ん中あたりを指差す。そこには、
“新暦七二八年十一月三十日火曜……今日は一日曇っていたけど、平和だった。とても良かった。いつか、誰かが本を取り返しに来るかもしれない。そしたらきっとこんな平和な日は終わってしまう。その時私がすることは、ただお腹の子を守るだけ”
それだけの日記だった。
『あの本?もしかして……』
「それだけじゃないよ」
メルはノートの山からもう一冊取って開いた。
“新暦七三二年十一月十八日日曜……今日は嫌な夢を見た。知らない人が窓から入ってきて、ナイフで刺された夢だった。でも目が覚めたら、閉めて寝たはずの窓が開いていた。ドアの鍵は閉めていたから、こっそり誰かが入ってきても気が付くはずなんだけど……不思議なことが起こる。ポルとメルが大きくなるまでは、正夢になりませんように”
「これと似たようなことが、何回か書かれてる。それに、仕事から帰ってきたら本棚の中身がぐちゃぐちゃになっていたとか……私たちが小さかった頃、書庫が誰かに荒らされたことがあったの、覚えてる?その時は結局いつの間にかうやむやになったけど、そのことも書いてあるよ」
『なるほど……』
その話からすると、いろいろ共通点が見える。
狙われていたのはいつも本のあるところ。そして、本を狙っていた人物の姿を誰も知らなくて、誰も突き止められていない。母が刺された日に母の部屋を荒らした人間は、恐らく私たちが生まれる前から母が持っていた本を目当てに侵入を繰り返していたとしても、おかしくない。何回侵入しても誰にも見つからなかったのは、今回侵入したときのように、姿が見えなかったからと考えれば辻褄が合う。
そしてターゲットになっていた本は、今回盗まれそうになったあの怪しい”魔術書”で間違いないだろう。
報告にきた従者が到着した時間から考えて、部屋が荒らされたのは母が刺された後、おそらく母が病院で息を引き取る前後なのではないか。
偶然にしてはできすぎている。なかなか本を盗めない侵入者は、痺れを切らして母を殺し、時間差はあれど、それでこちらが大騒ぎしている間に本を盗もうとした。または、うまくいかなくても首尾よく姿をくらませられる程度でよかったのかもしれない。母を刺した犯人と部屋を荒らした侵入者は、確実につるんでいるというわけだ。
私はメルにそれを話した。
「なるほど……」
メルは深刻な顔で重々しくつぶやいた。
「でも、ちょっとおかしい気がするよ」
腕を組んで唸る。
「うーん……だってさ、どうして今まで何回泥棒に入っても見つからなかった本が、今回すぐ見つかったの?探せば見つかる本を盗むだけなら、どうして母さんを殺すの?そんな理屈、あるはずないよ」
『……そうなのよね』
メルの声は、悲嘆に暮れていた。私は宙を睨みつけた。
『そこの理屈が通らないの……でも、この二つのことが関連していないはず、ないと思う』
「それは私も同感……だけどね。何かあるんだ、きっと。私たちが分かんない何かが……」
メルは大きく頷いて、こちらをまっすぐ見る。
「ポル、盗まれそうになったあの本、見せてくれない?」
私はベッドから下りて、クローゼットを開けた。クローゼットの上の棚に置かれた蓋のない白い衣装箱に、本が蓋がわりにのせてある。背伸びして、箱ごとそーっと本をとった。
「その箱何?」
メルの前に持って来ると、メルが怪訝そうに尋ねた。私はメルによく見えるよう、箱を膝にのせて慎重にかがむ。
『この箱は関係ないわ。ただの防犯用』
勢いよく本を取る。突然けたたましいベルの音が鳴り響いた。
箱の中に目覚まし時計を隠し、本の重みで目覚ましのスイッチが押しっぱなしになるようにしたのだ。本を取るとスイッチが入ってベルが鳴るようになっている。
耳を塞いだメルが慌てて目覚まし時計を止めた。
『病院に行く前に急ピッチで作ったの。また盗まれるといけないから』
「急ピッチでよくこんなもの思いつくね……」
メルは半分呆れていた。私の手から本をゆっくりと取る。
「それで……これがその本だよね」
黒いカバーに仰々しい金文字で書かれた不可解なタイトルを見て、メルは眉をひそめる。
「うーん……なにこれ?こんな文字見たことないよ」
『無理もないわ。おそらくかなり局地的にしか使われていなかった言葉なの。その上、もうとっくに使われてないわ』
「ふうん……これ、何の本なの?」
『何の本、ね。”ベルンスラートの魔術書”、魔術の本みたいよ』
「魔術……?」
『そう、魔術書』
「怪しいね……」
メルは顔をしかめる。私もあわせて眉をひそめた。
『でも、あながち胡散臭いオカルト本ではないみたい』
「どういうこと?」
『この本が盗まれそうになったとき』
「本が勝手に浮き上がって……窓から飛び降りて……そっか……それがこの”魔術”ってこと?」
『そうかもしれないわ。読んでみないと分からないけど』
「そう……だよね。でも、どうして母さんがこんな本を?」
『分からない。けど、この”魔術”と……この本と母さんの関係が分かれば、母さんを刺した犯人も、もしかしたらその理由も分かると思う』
「そうだね……」
『日記はメルが調べてくれたから、この本は私が調べてみるね』
「おねがいするよ。私には読めそうにないし」
その時コンコン、とドアをノックする音がして、メルは話を中断した。
メルがどうぞ、と返すとドアを開けたのは若いメイド。早口で、用件を切り出した。
「メル様、お客様がみえています」
メルは座ったまま身を乗り出した。
「お客様?誰?」
「エルンスト伯爵閣下です。今家令がお話しておりますが、メル様と会見したいと」
私とメルは顔を見合わせる。
アトレッタ家を支配下に取り込むために、何とかこの家と縁談を取り付けようとしていた伯爵。それはあくまであの時の私たちの仮説だったとしても、これで全てが裏付けされたようなものだ。母が突然亡くなり家が混乱している今の今に訪ねてくることの意味は、あまりにも見え透いていた。
うっすらと怒りをまとって、険しい顔でメルが立ち上がる。
「今行く」
そしてそのまま大股で部屋を出て行った。私も急ぎ足で続く。
「ポル様っ……」
メイドが呼び止めるのが聞こえた。外の者に見つかるから出るなと言うのだろう。しかし、そんなことを気にしてはいられない。私はメイドを無視して階段へ向かった。
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