3-3 王立図書館の女騎士
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時刻はもうすぐ午後一時。
真南を過ぎたはずの太陽は、雲に隠れてどこにいるかわからない。シェンは擦り切れた白いシャツの中からこっそり懐中時計を出して、時刻を確かめた。
周りを見渡すと、目の前に迫ったサラマの大門にぞくぞくと人が集まってくるのがよくわかる。簡素な馬車で乗り付ける富裕市民、馬やロバで向かってくる旅人や役人、商人。
その中にたくさん紛れているのは、黒い修道女や修道士の格好をしていたり、みすぼらしい身なりをした巡礼者。
ルズアが昔着ていたというぶかぶかのシャツと半ズボンに、雨避け代わりの自前のボロ布をかぶったシェンは、どうやら上手く装えているようだと心の中でほくそ笑んだ。
大門の足元にたどり着くと、締め切られた丸太の門の前に等間隔で警備兵が立っているのが近くに見えた。
あまりに門が大きいので、その数も尋常ではない。二十人近くの騎士が槍を持って守る大門の前には、開門待ちの人だかりができつつあった。ポルが言うには、アーラッドで武闘祭が終わり、王都の近くの別の町でも有名な祭りが一気に終わった直後のこの時期は、王都への観光客がいちばん多いんだそうだ。
その人だかりの端っこに、黙々とこうべを垂れる巡礼者の列があった。シェンは最後尾に並ぶと、ポルに借りたガラスの十字架を握って祈るふりをしながら、頭の中で必死に聖書を復唱した。
緊張で手がうっすら汗ばんできた頃。
ハウ、ルック……ハウ、ルック……
地鳴りのように、大門のそばから声が上がりはじめた。シェンが顔を上げると、大蛇のように太いロープで騎士たちが丸太の門を引いているのが見える。
ハウ、ルック……ハウ、ルック……
やがてその掛け声は、開門待ちの群衆を巻き込んで大きなうねりとなっていく。
——かいもーん‼
遠くの誰かの開門の合図が、空気を震わせる。怒涛のようなざわめきと一緒に、サラマの大門から人がなだれ込んで行った。
それと同時に、静かな巡礼者の列でも人々がちらほらと顔を上げだした。列から顔を出して前を覗くと、真っ白い修道服を着た王都の聖職者が門の中に立っている。短い筒を耳に当てて、一人一人巡礼者に聖書を耳打ちで読み上げさせているようだ。
巡礼者の列がどんどん短くなり、一般の人の半分以上が門の中に消えた頃。ついにシェンの前にいた修道女が門の向こうに姿を消した。
シェンは十字架を握りしめ、頭の中でぐちゃぐちゃになった台詞から最初の文を探しながら、一歩一歩聖職者の男の前に足を進める。死刑台に向かう囚人のような足取りのシェンを見て、聖職者はひげ面で優しく笑った。
「どうぞ、準備ができたら」
シェンは大きく深呼吸すると、一度目を閉じてから自分の心臓の鼓動を聞き、目を開いて筒に顔を当てた。
「聖典バロルホーン正版第十一章〝巡礼〟より……汝らひとども、神の御心のやさしいこと、見よ、大地に草が芽ぶくのも、天から雨を注ぎなさるのも、お前たちに家畜と家を与えたまうのも。それなのに、お前たちはなんと恩知らずなことか。神がおっしゃるには、〝ヨアルよ、信仰を忘れ、それどろっこっか……」
シェンは額から汗が吹き出るのを感じた。
「誰がすべてを与えたのかもよそにして……」
とにかく続けながら一瞬だけ聖職者の顔を伺うと、うんうんと笑顔で頷いていた。
そこから先は何を言っていたのか、頭が真っ白でわからなかった。気がついたら筒を持った聖職者が、検問する前と変わらない笑顔でこちらを見ていた。シェンは思わず手の中にあった十字架を握りしめる。
「さあ、お通り下さい。神のご加護を」
聖職者は一礼すると、次の巡礼者を手招きする。シェンは立ち止まったまま、思わず肩を撫で下ろした。汗で滑り落ちそうになった十字架を持ち直し、シェンはくるりと門に背を向けて走り出した。
サラマの大門をくぐったシェンは、人ごみに紛れてあたりを見回した。
伸びをしても、周りは背の高い大人ばかりで視界が悪い。人々の頭の上から、石灰石の白い建物が曇り空に溶け込むように少しだけ見えた。
人の騒ぎ声、車輪や蹄の音で耳からの情報もなんら頼りにならない。とにかくもう少し人通りの少ないところに行かなければ、右も左もあったものではない。歩く群衆の足元をかいくぐり、シェンは二人の姿を探した。
しばらく闇雲に人の群れをかき分けていると、大通りの端に到達した。前後を見回して一番近い横道に入る。道幅は半分くらいになったものの、両側の建物がきれいなおかげで暗くはない。無数の垂れ幕や洗濯物が、道の上にロープで渡されて、旗のようになびいていた。
シェンは小走りでさらに横道へ、横道へと逸れていく。
入り組んだところに入るほど人は少なくなり、やがて手を広げれば建物の壁が両手につくほど狭い、誰もいない道に入った。さすがにここまでくると、陽の光も届かず湿っぽい匂いがする。
道、というよりその建物の隙間を少し歩くと袋小路に突き当たった。シェンは被っていたボロ布を肩に巻き、持っていた十字架をポケットにしまってあたりを見回す。
右手に古びた窓。その左隣に小さな扉と腐りかけた木の庇。正面上に壁の溝、さらに上には鉄格子のついた窓。そして足元には、薪の山。
シェンは猫のような目で笑って、思い切り地面を蹴った。薪の山まで三歩で助走。土むき出しの地面を踏み切り、山の頂上に両足で着地して跳び上がる。ガコンッ!と大きな音を立てて薪が崩れるのと同時に、張り出した窓枠の上を掴んで宙返った。
バキッと派手に木の庇を踏み抜き、勢いを殺さず正面の壁の溝に手をかけてぶらさがる。
「ふぅっ……」
息を吐いて壁に四肢を踏ん張り、指の力と足の力で体を持ち上げる。左手を離して一瞬、頭上の窓の鉄格子に掴まった。そしてそこからは、するすると窓の格子をよじ登る。あっという間に、シェンは二階建ての屋根の上に立っていた。
「
ため息とともに、感嘆の言葉が口をついた。
屋根の上から見る景色は一点として邪魔するものがない。足元からひたすら連なる、いくつもの四角い屋根。それをずっと辿っていくと、白い街の中にそびえる尖塔が三つ、竜の鱗のように黒ぐろときらめいていた。大聖堂だ。
そしてその向こうにわずかに霞む、青い屋根の巨大な王城。大聖堂と並ぶ高さの塔の先に、小さく青と銀の国旗が翻っていた。
美しい円形の城壁から放射状に伸びる道、城の下を突っ切って流れる河。サラマの大門からほど近いこの場所からでも、淡白くぼやける街のすべてが、道と河のもとに整然と並んでいるのが見える。
今まで歩いてきた世界と一線を画す、あまりにも広大で均整のとれた別世界。雲の上のように、幻想的な透明の景色。
それはまるで〝あの世〟みたいで、シェンの意識の奥底を一瞬底冷えするような恐ろしさが走った。
カーン……コーン……
ふきつける北風を劈いて、甲高い鐘の音がした。はっと我に返って目を凝らす。大聖堂の尖塔のてっぺんで、小さく光るベルが二時を告げていた。シェンは走り出した。
屋根の間をとび越えとび越え、建物の上から道を見下ろして二人を探す。模型の中を動き回るからくり人形のように、眼下で人々がせわしなく動き回っていた。しかし、あの目立つ赤髪はいっこうに見えない。
ほどなく建物のつらなりが大通りで途切れ、屋根の上を渡れなくなった。シェンは靴を脱いでポケットに突っ込み、辺りを見回す。向かい合った建物のベランダの間に、洗濯物を吊るして渡してあるロープを見つけると、四つん這いになってそれを伝い始めた。その時、
「はぁあ⁉︎」
聞き覚えのある声が飛んできた。声のする方に目をこらすと、角から見慣れた二人が連れ立って曲がってきた。赤い髪に黒いコートの少年と、紺色のメイド服で世話係に扮した少女。シェンは吊るしてあった洗濯物に適当につかまって、ロープからぶらさがった。
「大方の場所も決めずにどうやって会うってんだよ! 町中探し回るつもりだっ……」
ぶら下がったまま勢いをつけて、身長の三倍あろうかという高さから、大声で騒ぐルズアの前に着地した。
突然降ってきた少女に、周囲の通行人がざわめいた。さすがに、裸足で飛び降りると足が痛い。骨に響く。
「……はぁ?」
ルズアが惚けたような声を上げて、ポルに目を向けた。ポルは突っ立ったままぽかんとしていた。
ここで喋ると周囲に巡礼者でないことがバレてしまう……もう十分巡礼者らしからぬ登場の仕方をしてしまったが。シェンは痛みの引いた足で立ち上がり、砂を払う。素早く棒立ちの二人の手を取って、横道へ駆け込んだ。
「放せクソチビ!」
なおも大騒ぎするルズアを無視し、袋小路に突き当たるまで目に入った角を曲がり続ける。やがて、さっきの場所よりは少しだけ広い建物の隙間にぶち当たり、シェンは足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫ですネ」
シェンは肩に巻いていたボロ布を取った。
「お二人とも無事に入れたようでよかったでス。とにかく、これからどうしますカ?」
「落ち合う場所も決めずに別行動たぁ大した頭だぜ。どっから降って湧いてきやがった」
ルズアが食ってかかった。シェンはさも当然のように、
「建物の屋根の上からお探ししてたんですヨ。道を歩いて探すなんて無理でス。人が多すぎて」
「はん、だとよ」
ルズアは嫌味な笑みをポルに向ける。ポルは反論の術がないのか、もじもじしながらルズアを睨み返した。
「ここからどうするんですカ?ポルさン」
『そうね、とにかくシェンは私の服に着替えて……そのままじゃ不便でしょう』
身分を偽っている状況で、元着ていたエン国の民族衣装は少し目立ちすぎる。ポルはカバンをまさぐると、白いブラウスとピンクのスカートを出してよこした。
「相分かりましタ……ルズアさん、あっち向いててくださイ」
「お前の着替えなんか見えねえよ!」
「知ってまス! 気分の問題でス!」
「はぁん⁉︎ やんのかクソチビ!」
『やるわけないでしょ。気分の問題よ、いいから早くうしろ向いて』
ポルにぴしゃりと言われ、「めんどくせえ、これだから女は」とブツブツ言いながらルズアは後ろ向きに地面に腰を下ろした。
『もう三時ね。お腹がすいたわ』
ルズアの隣に、ポルも腰を下ろす。
「てめぇに計画性のけの字もないせいで、昼飯の時間もなくなったからな」
『上手いこと言えなんて言ってないわよ』
「今ののどこが上手えんだよ」
『ここを出たらお昼にしましょう。その後は……私は早速図書館に行くわ』
「図書館から行くバカがいるか。泊まる場所をさがすのが先だろうがよ」
『それくらいわかってるわよ。城壁を出たところの城下町で宿を探そうと思ったけど、よく考えたらシェンは一度出たら王都に入れないわ。私たちは入城管理局の判をもらった通行許可証があれば、ひと月は何回でも出入りできるんだけれど……』
「んじゃあ王都内で宿を探すしかねえだろ」
『そうね、多少お高く付くけどそれしかないわ。王都内にいる間に、複製魔術で通行許可証をもう一枚作る。そしたらシェンも出入りできるわ』
「それができんだったら最初っからそうすりゃいいじゃねえか!」
至近距離で怒鳴りつけてくるルズアの額を、ポルはうるさそうに押し返す。
『私だってそんなに器用に魔術が扱えるわけじゃないんだってば! 正直何日かかるかわかんないわ。通行証がもう一枚できるまで外で野宿なんて嫌でしょ?』
「あっそ」
『ええそうよ』
ポルはちらりとうしろを振り返り、シェンがもうすぐ着替え終わりそうなことを確認した。
『私はご飯を食べたら図書館に行くわね。シェンとルズアは宿を探してくれる? 通行証の期限が一ヶ月しかないから、できるだけ急いで資料を探さなきゃいけないわ』
「ポルさン、終わりましタ!」
ルズアが文句を言う寸前、シェンの声が彼を遮った。ポルとルズアが同時に振り返る。そこには清潔な白いブラウスと、裾にプリーツの入ったピンクのフレアスカートを身にまとった、小さな令嬢がいた。
『まあ……よく似合ってるわ!』
ポルは立ち上がって、シェンの頭を撫でる。どこで覚えたのか、シェンは得意げにスカートをつまんで貴族の礼をしてみせた。
「ありがとうございまス。こんな服を着るのは初めてですけド……」
『ちょっと髪型が合わないわね。後ろ向いて、可愛くしてあげる』
シェンは嬉しそうにくるりと背中を向け、ポルはシェンの髪飾りを外しだした。
「急いで資料を探しに行くんじゃねえのかよ」
ルズアのつぶやきが、二人の耳に入るわけもない。ルズアは不貞腐れたように、再び二人に背を向けた。
**********
ちりんちりん。大通り沿いの軽食屋から、爽やかなドアベルの音。ポル、ルズア、シェンの三人が遅い昼ごはんを終えて外へ出できた。
『もう四時だわ! あと二時間で図書館が閉まっちゃう』
ポルは歩きながら地図を眺める。ルズアが顔をしかめた。
「明日でいいじゃねえかよ。今から行って何すんだ」
『今からでも十分できることはあるわ。場所さえわかれば明日からは方位魔術で間違いなく行けるし、どれだけ本があるか見てこないと……』
「分かったから前見て歩け!」
「あっ⁉」
叫んだシェンがポルに飛びつく。間一髪のところでポルの横を馬が掠めていった。
「……大丈夫ですカ?」
『あー……ごめんなさい。大丈夫』
ポルは地図をシェンに渡す。
『ありがとう……えーと、それで。シェンとルズアは、二人で宿を探してほしいの。できるだけ図書館の近くだと嬉しいわ……わがまま言ってごめんなさいね』
「構いませんヨ、ついてきているのはこっちですかラ」
シェンはそう言うと、さっきポルが結わえた長い三つ編みを揺らして小首を傾げる。分かってやっているのかそうじゃないのか、彼女のこういう仕草はずるいくらいに愛らしい。
頭のてっぺんから編みこんだ髪型は絶妙に彼女に似合っていて、ポルはちょっと嬉しくなった。
「それなら、図書館までは一緒に行きましょウ。そこからは別行動でス」
ポルが頷くか頷かないかのうちに、シェンはポルの袖を引っ張って歩き出す。馬に轢かれないか心配されているらしい。
ポルはとっさに文句を言うルズアの腕をひっつかんで、ルズアをしんがりに三人は連なって歩き出した。
軽食屋のあった通りをまっすぐ行くと、王城の城壁に突き当たる。美しく円形に連なる城壁を、地図を持ったシェンの勘を頼りに、南東方向へぐるりと回り込んだ。
するとやがて、王城の下を突っ切って流れ出る河に行きついた。王都の真ん中に横たわるラエニ河は大河でこそないものの、王都の水源であり、王城への水運の経路でもあり、そして王都外壁の守備にも重要な役割を果たしている。
そんな河にかかる橋はもちろん立派だ。王都の外壁と同じ黒砂岩でできた、アーチ型の橋。
下流に目をやると、同じアーチがいくつもいくつも行儀よく並んでいるのが見えた。その上を人や荷馬車が登っては降り、その下の藍色の川面に浮かぶ小舟からは、船頭の唄う舟歌が聞こえてくる。
ポルはあんまり嬉しくなって、装飾の凝った欄干から身を乗り出して手を振った。すると真下を通りかかった小舟の船頭が、髭もじゃの顔でにっこり笑って手を振り返してくれた。
ラエニ河を渡ると、王都の主要な公共施設がひしめく地区に入った。
緩やかに曲がる道を進むと、まず行く手に見えてくるのは民間の裁判を扱う民事最高裁判所。石灰岩と黒檀を組み合わせた、三つの三角屋根が連なる豪奢な施設だ。巨大な貴族の屋敷を彷彿とさせる。
屋根の下には紫の垂れ幕がかかり、十字架と天秤を組み合わせた金色のモチーフが刺繍されている。道に面した黒檀の扉からは、ブラウンの制服の文官が出入りしていた。
民事最高裁判所を通り過ぎてほどなく、その隣に煉瓦造りの堅牢な建物が見えてきた。
箱のような姿、白い風景の中の赤煉瓦は、いやでも周りから浮いて見える。刑法と騎士団法をつかさどる、軍法会議所だ。
ガラス扉の入り口の上には、民事最高裁と違って藍地に銀の五芒星の垂れ幕がかかっていた。出入りするのは、ラピスラズリ色の騎士団服たち。
「もうすぐ中央通りに出るみたいでス」
シェンが言い終わるか言い終わらないかのうちに、左右が突然開けた。
『これが、中央通り?』
ポルは千鳥足になって左右を見回す。王都の南門から王城の正門をつなぐ中央通りは、道幅が広いせいか、王都北側のサラマの大門から続く通りよりは人が少なくみえた。
「右手に王城の門がありますから、そうみたいですネ。……ポルさん、まっすぐ歩いてくださイ」
「まっすぐ歩かねえんだったら放しやがれ」
後ろでイライラしたルズアが、ポルの腕を振りほどこうとする。ポルはルズアの腕を握るかわりに、周りを見るのを諦めてシェンの後頭部に視線をやった。我ながらなかなかきれいに編みこんだ髪型だ。
とりとめもなくそう思うポルの視界の端を、見上げるような王城の門が通り過ぎていく。明日ここを通ったら、もう少しちゃんと見ようとポルは心に誓った。もちろん馬に轢かれなければ、だが。
「着きましタ。ここが王立図書館でス」
中央通りを渡り、まっすぐ横道に入ってほどなく、シェンが立ち止まった。地図をぐるぐる回しているシェンの向こうには、荘厳な建物が鎮座している。
二つの塔が左右にそびえ、それを回廊がつないだような格好の真っ白い姿が、オレンジの日光を反射している。
正面の鉄門の位置からは塔が二つしか見えないが、回廊の上から覗く二つの尖った屋根から察するに、四つの塔が正方形に回廊で繋がれているらしい。
王国の叡智と秘密を司る楼閣が、雲の切れ間からさす西日に照らされて、蜃気楼のように霞んでみえた。
「ここで分かれましょウ。ポルさン」
ぽうっと王立図書館の様相に魅入っていたポルは、シェンの声にふと我に返った。
『え、ええ。そうね。六時には図書館が閉館するから、またここで落ち合いましょう。宿探しに時間がかかったら、私はここでしばらく待ってるから』
ポルはそう言って、カバンをまさぐる。
『ルズア、お財布持って行って。できれば通行証を出さなくても泊まれるところがいいわ』
「注文が多いぜ」
ルズアは不服そうに、ポルの手から財布を取った。
『じゃあ、また後で。いってらっしゃい』
ポルが手を振ると、シェンが満面の笑みで振り返した。
「
二人の姿が見えなくなると、ポルはくるりと振り返って、王立図書館の鉄扉の門をくぐった。ここなら存分に周りを見て歩いても、馬に轢かれることはない。
隅っこにベンチが置いてあるだけの、枯れかけただだっ広い芝生を、ポルはさも珍しそうに見回しながら歩いた。
門から続く石畳の小径は、正面の入り口につながっている。紫檀の丸い入口扉は開け放たれていて、その両脇には大槍を持った屈強な騎士が立っていた。ポルがなんとなく小さく会釈をすると、騎士は顔色一つ変えずに会釈を返してきた。
白亜の階段を数段上って扉をくぐると、そこは見上げるような本、本、本の世界。
渋いこげ茶の絨毯から、規則的に白い石の柱がそびえ立っている。入り口の正面にはピカピカに磨かれたカウンターがあって、本を持った人が行列を作っていた。
そしてその行列に大波のように迫る、黒い本棚。身長の三倍や四倍はあろうかという本棚はあまりに高すぎて、ところどころに梯子と手すりがついている。
そこからさらに見上げるようなところにある天井には、凝った模様や絵画が描かれていた。
ポルの真上に、古アルバート語を組み合わせた円陣。その右側には、これまた古アルバート語の聖書の冒頭が書かれ、左側には有名な詩の一節が書かれている。
入館するのに受付の手続きは必要ないらしいので、ポルは直感で左側の本棚に飛び込んだ。
ツンと鼻をつく、古びた紙と埃のにおい。お屋敷の書庫より、もっとずっと重みのある香りだ。本棚の背表紙を眺めていると、どうやらここには詩集や戯曲、小説、物語の類が置かれているようだ。天井の図版が、どんな本が置いてあるのかを示しているらしい。
ポルはどきどきした。高ぶる気持ちのままに、本棚の森の間を駆ける。
白亜の柱を数本通り過ぎると、回廊を抜けて塔の部分に突き当たった。そこは円形の閲覧室になっていて、シンプルな長机と柔らかそうな椅子が何列も並んでいる。
山のように本を積み上げて読みふけっている人や、一冊の本を広げてノートにメモを取っている人、各々が自分の作業に没頭していた。ポルはしばらくそれを眺めていたが、やがて踵を返して、今度はきっかり右方向へ続く書棚の列に入った。
頭上には、巨大な農民の絵が見える。案の定ここは農業書の列だった。しばらく行くと、天井はアルバート王国の地図になった。今度は地理学書と地図のエリアだ。
それが終われば、また円形の閲覧室。ポルは、今度は足を止めることなく右へ曲がろうとした、その時。
「おっと……っと」
すれ違いざまに、向こうから来た人と肩が触れた。ポルはとっさに振り返って頭を下げる。
「あー……お嬢さん。図書館内は走らないでね」
頭上から降ってきたのは、気だるげな女性の声。
顔を上げると、大槍を背負って青い騎士団服をきっちり身にまとった女の人が、こっちを見下ろしていた。
傷みかけの短い黒髪に黒縁眼鏡、底の見えない黒い瞳。がっしりした背の高い体格、英雄伝説の主人公を絵にしたように勇ましい佇まい。
初めて見るこんなに堂々とした女騎士を、かっこいい……と思わざるを得なかった。
ポルはこれでもかというほど、うんうんと頷いた。女性は返事することもなく背を向けると、大股で去っていく。ポルはその姿が本棚に隠れるまで、ずっと釘付けになっていた。
**********
『そう、それでね、こう振り返ったら、こーんな大きな槍を背負った女の人が』
「おおお!」
『騎士団服を着て仁王立ちしてるのよ! こうやって胸張って』
「それデ?」
『〝お嬢さん、図書館内では走らないでね〟って言うの!』
「か、かっこいいでス!」
『でしょう⁉ あんな女騎士に声かけられちゃうなんて……ロマンだわ……』
「でも図書館内を走るのはダメですヨ……」
『ええ、もう二度と絶対走らない』
「北極星に誓っテ?」
『もちろん!』
「国王に魂ヲ?」
『捧げるわ!』
「夢がありますよネ……女性の武官ハ……」
小さな宿のロビーの一角で、白樺材のテーブルにうっとりと肘をつくシェン。その隣で、ポルが座ったまま騎士の敬礼を得意げに真似していた。
安宿とはいえ王都内ともあれば、どこの街の安宿とも雰囲気が違う。食堂を兼ねた小さなロビーは、輸入ものの白樺で揃えた内装が美しい。壁際には四角いテーブルと椅子がきちんと並べられ、真ん中に質素なソファがお上品に置いてあった。
小さな窓から見える外はとうに日が暮れていたが、夜の観光に行っている人が多いのか、あまり周りに人はいない。
「なんの茶番だ」
二人の上に、くだらないとでも言いたげな声が降ってきた。ポルが後ろを見上げると、ロビーの上に張り出した二階のバルコニーの上に、どっかり座ったルズアがこちらを見下ろしていた。
何が気に入らないのか、柵に手をついて顔をしかめているが、シェンと同行し始めてから本当に機嫌のいい時がない。
ポルはおもむろに立ち上がると、部屋の反対側まで大股で歩いて階段を登る。シェンがついていこうと立ち上がりかけて、ルズアの顔を見て座り直した。
『いいじゃない。すごかったのよ、図書館。明日は一緒に行く?』
ポルはルズアの隣に座った。
「はあ? 何で?」
しかめっ面のプロであるルズアの表情筋ですら、動くのを諦めるほど意味不明なことをポルは言ったらしい。
ポルはルズアから視線を逸らした。
『……いいわよ、シェンと一緒に行くから』
「観光しに行ってんのかよ」
『ちゃんと本も探してるわ! どうせ今日ちょっと手をつけたくらいじゃどうしようもないくらいの本の山だったけどね』
「何が言いてえんだ?」
『それはこっちのセリフだわ。ちょっとくらい楽しんだっていいでしょ? 王都なのよ? どこもきれいなところばっかり』
「そうかよ」
ルズアは吐き棄てる。
「うるせえだけだぜ、こんなところ」
『美味しいものもたくさんあるわ』
「そんなのアーラッドでも言ってたじゃねえか」
『アーラッドにはないものがあるの! だって王都なのよ。国中のものが集まってるわ、ねえ。外に何か食べに行きましょう?』
「食いもんで釣ればいいっつー魂胆が丸見えだろうが!」
ルズアが思い切りバルコニーの柵を殴った。驚いたポルが首をすくめると、階下のシェンと目が合う。シェンはちょっとふくれっ面で小さく首を振った。
『いいわ、もう』
ポルは立ち上がった。
『シェンと外で食べてくる』
ルズアは返事をしなかった。ポルが階段に向かうと、シェンも合わせてぴょこんと席を立つ。二人は自然に連れ立って、小さなドアから仲良く出て行った。
扉がきしむ耳障りな音。ルズアが一瞬耳を塞げば、二人の足音はすぐそこの雑踏に消えていた。
ポルが言うには、この時期は観光客が格段に多い。荒れ狂う人の波はもう壁一枚隔てたすぐそこまできていた。
頭痛がして腹が立つ。夜の臭いが鼻をつく。そんな中まで外へ繰り出そうなんて考えるやつの気が知れない。気が知れないやつの行く末なんぞ、知るものか。
「けっ」
剣を下げているベルトの金具の位置を直して、ルズアは壁に背を預けた。どうせ、今からじゃ腹が減って眠れないだろう。
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