3-2 おとぎのくにの景色

**********



「は?」

 高く日が昇った午前の街道。隣を歩くポルの言葉に、ルズアは普段の仏頂面をさらに歪めた。

「はあ?」

『勝手に決めてごめんなさいって……』

 ポルは申し訳なさに首をすくめた。今朝ルズアが起きる前に、二人で決めたことを話したらこれである。予想はしていたが、やはり居心地が悪い。

「知るかよ。俺は困らねえ」

『……そうね』

「てめぇの頭が悪いのは今に始まったことじゃねぇしなぁ?」

『そんな言い方……』

「はあ?」

『ごめんなさい』

「てめぇの持ってる金品は誰が取った賞金だか知ってんだろうな?」

『はい』

「それで持つ食い扶持をよくも増やしてくれたぜ」

『せめてシェンに聞こえないように言ってよ……』

「じゃあ聞こえるように言ってやる。今度てめぇが一文無しになったらまずあいつを殴って金目の物ぶん取るからな。なぁクソチビ?」

「我の話ですカ?」

 前を歩いていたシェンが笑顔で振り返った。シェンの後ろには絵画の背景のように、曲がりくねった真っ白い砂の道と見渡すばかりに晴れ渡る空が広がっている。昨日野宿した森を抜けて、街道の周囲は開けた荒野になりつつあった。

「てめぇの話だよ。勝手なことをしてくれやがって」

 ルズアは八つ当たり気味に吐き捨てた。慌ててポルがルズアの腕を引っ張る。

『だからそんなこと言わないでよ! 私が悪かったから!』

「分かってんじゃねぇか。分かってんだったらなんとかしやがれ、その血の巡りの悪りぃ脳味噌をよお」

 いくらなんでもポルはむっとして、文字を綴っていたルズアの手をぽいっと放る。


 シェンは陽気にぶらぶら歩きながら、一言一句に耳をすませていた。

 昨日寝ていないせいでポルが短気になっているのも、目覚めてから何も食べていなくてルズアが不機嫌なのも、目にみえて明らかだった。お互いかたくなにそっぽを向くポルとルズアを、シェンはさっきと同じにこにこ顔で前から見守る。

 なんという取り越し苦労だろう。自分はこんなに、何も気にしていないのに。何も考えていないのに。

 しかし、まあこのまま後ろがピリピリしていても気分が良くない。シェンはなにも聞こえていなかったふりで、わざと全く別の話題を振ってやる。

「ところでポルさン。この荒野を越えたら王都ですけど、王都に入る手段はあるんですカ?」

 まさか彼女が知らないわけはないと思うが、王都はぐるり城壁に囲まれていて、それをくぐるには、審査を通る必要がある。

 ポルはぷいっ、とルズアなんか知らんと言わんばかりに、小走りでこちらへやってきた。

『もちろん用意してるわ。検問を通らなきゃならないのはメルから聞いてるから……』

 おもむろにかばんを探って、ポルは厚手の羊皮紙の封筒を取り出した。飴細工のようにかわいらしい紫色の封蝋が陽にきらめき、シェンは一瞬目を奪われる。

『これ』

 中から出てきたのは、封筒と同じような厚手の羊皮紙のカード。字の読めないシェンには何が書いてあるのか分からないが、どうやら関所でもらえる通行証のようだ。

『私もルズアも国籍を証明するものがないし、関所に発行申請に行けないのよね。うちの使用人が二ヶ月くらい前に入った時の通行証を送ってもらったわ。有効期限が三ヶ月だからギリギリだけど……検査する方も顔を覚えてるわけじゃないんだし、これでなんとかなるでしょう。ただ、問題はね……』

 ポルは通行証を封筒に入れて、かばんにしまった。

『二枚しかないことなのよ』

「なるほド……?」

 シェンが首をかしげる。荒野を吹き渡る乾いた風が、さあっと二人の髪を揺らしていった。

「つまり、誰かが入れないト?」

『いいえ。全員通る策はあるわ』

 ポルの頬が、少し自慢げに動く。

『こちらから行くと、城壁の北側にあるサラマの大門から王都へ入ることになるわね。サラマの大門は巡礼者が通る門なのよ』

「なるほド」

『巡礼者は、巡礼が終わるまで聖職者としか話しちゃいけないの。だから検問の時に憲兵と受け答えできないのよ。巡礼者が通るために、門には王都の聖職者が控えてるわ』

「聖職者が検問をするんですカ?」

 シェンは瞳をきらめかせた。

『まあそうね。ただ普通の検問とは違うわ。彼らは信徒かどうかを区別するだけで、国籍や出自は問うちゃいけないの。だから、巡礼者は聖書の一節を一言一句間違えずに言えたら入れてもらえるのよ』

「じゃあ、誰か聖書が読める人がそれで入ればいいト。我は知りませんし、ポルさんは無理として……ルズアさン?」

 二人が同時に後ろを振り返る。ずいぶん後ろを、ルズアはまだふて腐れた顔で天を仰ぎながら歩いていた。顔を見合わせた二人は、どちらからともなく肩をすくめる。

「ルズアさんは聖書をご存知なのでしょうカ……」

『いえ……読むのはあなたよ』

「是我吗? 为什么?」

 シェンは素っ頓狂な声を上げたが、すぐに小さく首を振ると、

「……失礼しましタ。なぜ我なのですカ?」

 ポルは右手を顎に当ててふう、と鼻から息を吐く。

『失礼かもしれないけど……あなた、この国に来る時はどうやって来たの?』

「エン国から出る商船で来ましたヨ。荷物と一緒ニ」

『ならきっと、入国の検問は受けてないわね? それなら普通の検問を通るわけにはいかないわ。あなたの訛り、この国の人じゃないって分かっちゃうもの……入国の検問を通ってないのまでバレたら確実にお縄になるわ』

「そうでしタ……なおさら巡礼者の検問を通るしかなさそうですネ」

 シェンは力なく笑う。

『大丈夫。聖書は私が知ってるし、なんならアーラッドで買ってきたわ。あなた、覚えるのは得意?』

 さっきの笑みのまま、シェンは小首を傾げる。ポルは一瞬目を泳がせたあと、ついと視線を逸らした。ちょっと媚びてみたくなっただけだったのだが、効きすぎたらしい。

 シェンは前に向き直った。

「ついて行くって言いましたかラ。できることはしますヨ」

『あら、ありがとう。じゃあ……そろそろ休憩しないかしら?その木のあたりとか』

 ポルは適当に、まばらに生えた木の中で一番大きそうな木を指して言った。

 空はまったく陰りをみせない。冬の残る弱い日差しが、南中高度からやさしく降り注いでいた。

 歩けば歩くほど視界が開け、空は広く、大地は緑から茶色になっていく。そして湿地を通る河のように、白砂の街道が伸びている。

「そうですネ。さすがにお腹が空きましたシ……」

 まだ一食も食べていないルズアはなおさらだろう、と言うかわりにルズアを流し見る。

 別に、彼の分を二人が食べてしまったとかそういうわけではない。朝を食べる用意をする前にどこかに行って、しばらく待ったり探したりしたが結局出発する直前まで戻ってこなかったのだ。

 戻ってきて開口一番「飯がなかった」とか言っていたので、おそらくポルがまだ食べ物を持っているのを知らずに、わざわざ森の中に探しに行ったらしかった。よく戻ってこれたものである。

 シェンは後ろを振り返った。

「ルズアさん、少し休憩しませんカー?」

 ルズアはさっきよりも後ろで、首を回して耳を擦りため息をつくと、あからさまに面倒くさそうに叫び返した。

「勝手にしやがれ!」

 シェンとポルは顔を見合わせた。

「行きましょうカ、ポルさン」

 手を引いて進もうとするシェンを、ポルが引き戻す。

『いえ、待ちましょう』

 シェンが小さく頷いた。



 ルズアが追いつくのを待って、一行は森の端で休憩することにした。

 ポルはさっき指差した大木の根元で足を止める。一日歩くのはだいぶ慣れて、起きてからずっと歩いていても足が棒になることはなくなってきた。

 後ろに森を、前に荒れ野を臨む木陰。今までこんな広い世界を見渡したのは、イーステルンの海の水平線を見たとき以来かもしれない。ずっとずっと遠くに、低い山が連なっているのが見える。

 シェンが言うには、あの山の向こうに王都があるらしい。三人は大木を囲んで座った。

『食べるわよね?』

 ポルはカバンの中から、ビスケットの大きな缶と干しリンゴをとり出した。

「あるんじゃねぇかよ」

 ルズアは悪態をつくと、ポルの手から食料を奪い取った。どうせ全部食べてしまうだろうので、ポルはカバンから大きな田舎パンを出すと力ずくで半分に引きちぎった。片方をシェンに渡し、またせわしなくカバンをまさぐり始める。

『水とピケットどっちがいい? アーラッドから持ってきた水、もうあんまりないけど』

「むふ」

 片手間にルズアに聞くと、ルズアはビスケットを口に詰め込んだまま答えた。よく聞こえなかったので、適当に水筒を出すと乱暴にもぎ取られる。仕方なくピケットの瓶を開けていたら、今度は反対側でシェンがかちこちの田舎パンにかぶりついていた。

『これつけて食べなさいよ。美味しくないでしょう』

 マーマレードの瓶を渡してやる。心底嬉しそうに受け取るシェンを横目に、ポルは田舎パンをかじった。歯が折れそうだ。

『……三日も置くとパサパサね』

「いいエ?おいしいですヨ」

 いかにも美味しそうに食べるシェンを見ていると、ちょっとだけ美味しく思えてくるような、気がしなくもない。いや、やはりカサカサなのには変わりないが。

「このお酒、いただきますネ」

 シェンは、ポルが開けたピケットとカップを取って注いだ。

 さっきからポルは妙にじっとしていられなくて、あれもこれもものを出しては置いたり渡したりする。外で風呂敷を広げるのが、どうしようもなく楽しいのだ。ようやくマーマレードと一緒にパンを食べ終わったシェンの横で、ポルは今度は黒表紙の聖書を開いた。

『シェン、せっかくだから、さっき言ってた聖書の一節を覚えて』

「我は読めませんヨ」

 シェンが答える。ポルは隣でとうに昼飯を空にしていたルズアを小突いた。

『ねえ』

「んあ?」

 よし、機嫌がいい。ポルは心の中でガッツポーズした。

『今から私が言うこと、声に出して読んで』

「は?」

 やっぱりそうでもないかもしれない。

『いい? いくわよ? 聖典バロルホーン正版第十一章〝巡礼〟より。汝らひとども、神の御心のやさしいこと、見よ、大地に草が芽ぶくのも、天から雨を注ぎなさるのも……ルズア?』

 ルズアを見上げると、なにやらむつかしい顔をしている。

『聞いてる?』

 ルズアは突然ポルから手を引っ込めると、なにやら眉間のしわを伸ばすように押さえて、唐突に語り出した。


「聖典バロルホーン正版第十一章 〝巡礼〟より。

 汝らひとども、神の御心のやさしいこと、見よ、大地に草が芽ぶくのも、天から雨を注ぎなさるのも、お前たちに家畜と家を与えたまうのも。

 それなのに、お前たちはなんと恩知らずなことか。神がおっしゃるには、〝ヨアルよ、信仰を忘れ、それどころか誰がすべてを与えたのかもよそにして、まるで頼りにならぬものばかり頼みにしているものどもがどれだけ愚かであるか、よく知らしめよ。敬虔な人どもは、とたんに自らを恥じ、うち震えてひざまずく。そういう者には、それらを救うことがどのような苦難であったかよく理解できるであろう。〟」

 正面の虚空を見つめたまま、ルズアは言い切った。


 ぽかんとしているのは、ポルだけではなかった。シェンまでが目を皿にしてルズアを見ている。木の上のスズメのさえずりが、三人の間にやたらうるさく響いた。

「なんだ。何か間違ってんのかよ」

 ルズアが不機嫌というより怪訝そうに、固まっている二人に問いを投げつけた。

『い、いえ……なんで言えるのかしら……』

「知ってるからに決まってんだろ」

『いや、そうだけど……ええ、ありがとう。助かったわ』

 ポルは慌てて聖書のページを繰る。驚くことに、一言一句一文字たりとも間違っていなかった。

『さ、さあ、シェン……覚えられそうかしら?』

「えっト……」

 シェンは一瞬逡巡して、

「すみませんルズアさん、もう一回言ってくださイ」

「はあ⁉」

 ルズアが身を乗り出す。

「なんでだよ」

「必要なんでス! 王都に入るのニ!」

「自分で読め!」

「アルバート語は読めませン!」

「そんならこんくらい一発で覚えろ!」

「む、無茶言わないでくださいヨ!」

「お前もアホなのか?」

「ルズアさんに言われたくないですヨ。今度はちゃんと意味をメモして聞きますからお願いしまス」

 シェンはそそくさポルから紙と鉛筆を受け取って書く準備をすると、仏頂面でひざに頬杖をついてルズアを待った。

「人にものを頼むにしてはいい態度だな」

 ルズアの嫌味を、シェンは微動だにせず聞き流した。ちっ、と舌打ちをしたルズアは大仰に腕を組んだ。

「もう一回しか言わねえぞ」

 ルズアがそう言ったのを聞いて、ポルは静かに聖書を閉じた。



***************



『見えたわね』

 ポルは背の低い木の隙間から、目を凝らしてつぶやいた。

 一行は山の頂上にいた。森の端で休憩した時に、遠くに連なっていた低い山だ。

 あれから午後いっぱい歩いて、もう太陽は沈んでいる。あたりはうっすらと紫を残す空からの光に、ぼんやり照らされていた。

『あれが王都?』

 そして山を降りた先には、さっきと同じような荒野と、その向こうにここから見てもそそり立つほど大きい城壁が鎮座している。

 手前の荒野にはところどころに明かりがついていて、よく見るとそこには小さな櫓が建っていた。

「そうです、あれが王都ですヨ。街道は河の方に曲がっていきましたから、ここからはまっすぐあの大門まで行くだけでス」

 シェンが真剣な顔で答える。地図とシェンの話によると、この山は南の方で途切れて、そこを王都から流れてくるラエニ河が横断しているらしい。街道はポル達のはるか後ろで南へ曲がり、その河の方へ伸びていた。

 しかし、一行が入ろうとしているサラマの大門は山に面しているそうなので、ポルたちはわざわざ街道を外れて山を登ってきたのである。

『城壁まで、どれくらいあると思う?』

 ポルが問うと、シェンは目を凝らす。視線の先には、黒々と不気味にそびえる巨大な街。

 世界一美しい街と謳われる王都フェブリネの夜の姿は、まるで魔王の城のように、底抜けに恐ろしい。

「そうですネ……見たところ二里弱、といったところじゃないでしょうカ」

『つまり八キロ弱、かしら?普通に歩いたら三時間はかからないわね。明日は別々に出発しましょう。城門とここの間にある櫓には憲兵が常駐してるはずだから、万が一のためにここから別々に来たふりをしなきゃ』

「わかりましタ」

 シェンは大きく頷いた。

「では我は、お二人が出て一時間後に出発しまス」

『オッケーよ。聖書は覚えた?』

「なんとか」

 覚えたばかりの巡礼の章を、シェンは一気に復唱してみせる。すると、シェンの反対隣で地面に腰を下ろしていたルズアが反応した。

「神がおっしゃるに〝は〟だ」

「……すみませン」

 シェンが少し驚いた顔で、不服そうに言った。ルズアは聞いていないようで、またあらぬ方向を向いて黙りこくっている。ポルはかばんをごそごそ探していた。

『あとルズア。あなたはこれを持ってて』

 ポルが取り出したのは二枚の通行証。そのうち片方を、腕を組んだルズアに押し付けた。

「なんだよこれ」

『城門の通行証よ。実家の使用人のを貸してもらったの』

「へえ」

 ルズアは怪訝そうに、ポルの目の前で通行証をぺらぺらとしてみせる。

 ポルはそれを捕まえて、書面をもう一度確認した。期限はまだ切れていない。お屋敷近くの関所のスタンプはちゃんと入っている。名前は、料理長の爺の名前になっていた。

『そう。少なくとも城門を通る時は、あなたはこの……〝ヴァロウスキー・スワンコフ〟さんでいてね』

 ポルは料理長の名前を読み上げる。

「知らねえよ、そんなやつ」

『名乗るだけでいいのよ。知らないのはわかってるわ』

 そう言いながら自分の通行証を見る。名前は〝ドリー・テルベル〟と書いてある。数年前に屋敷に来た、中年のメイドの名前だ。

『とりあえず、準備はできそうね。あとは明日、起きてからにしましょう』

 ポルはかばんを下ろして、地面に座った。隣にささっ、とシェンがやってくる。

 前の荒れ野も後ろの荒れ野も、周囲の世界はまるで水に沈むように、どんどんと暗闇に溺れていった。空には重い雲が垂れ込めてきている。雪ならまだしも、明日は雨が降らなければいいが。



**********



 巨大な砂岩の壁の中。荒野に開いた、見上げるような丸太の大門の間から、湿くさい枯れ草と土の匂いがひゅうっと吹き込んでくる。

 淡く白銀に地面を照らす曇り空の下で、働きアリのようにせわしなく動き回るのは城壁警備隊の騎士たち。ラピスラズリ色の鮮やかな団服、その左肩には銀の糸で刺繍されたアジサシの紋。

 ここ王都フェブリネの城壁の中、サラマの大門では、王都外に面した門から王都内に面した門まで、ずらりと通行許可待ちの人々が並び、騎士はみな簡素な受付机の上で対応に追われている。

「はい、これを持って大使館に向かってくださいね! ……ジャック! 今何時だ⁉」

 騎士団服の大柄な男が、通行人をやり過ごしながら後ろにいた後輩に叫ぶ。

「十一時二十分です!」

 後ろから、裏返った甲高い声が返ってきた。人のごった返す後ろで、馬車やリヤカーやロバや馬が、ガラガラヒイヒイ大騒ぎしていて会話するのもやっとである。

「くそ、何でこんなに忙しいんだ……! あっすみません! 次の方どうぞ!」

 十一時の開門が終わるまで、あと十分。十分でこの人数をさばかなければならないことに、男は絶望した。

「通行証を……」

 男が言ったとたん、目の前に同時に二枚の通行証が出された。

「……あ……?」

 顔を上げると、目の前に立っていたのは二人の男女だった。片方は黒いコートのフードで目立つ赤髪を隠した、悪人面の少年。もう片方は質素なメイド服を着た、大人しそうで美しい茶髪の少女。

 どうやら、富裕市民の息子とその世話係のようだ。と思っていると、少女の方がちらっと少年を見て慌てて通行証を引っ込めた。

「……通行証」

 そんな少女を尻目に、少年はぶっきらぼうに通行証を突き出してくる。

「あーはいはい、確認しますね。イーステルン南関所……発行が一月初旬になってますが、ここまでは随分かかったんですね?」

「歩きで来たからだ。あと、発行してからしばらく行こうか渋ったからな」

 少年が答えると、横で少女がうんうん頷く。

「ふーん……」

 男は少年の顔と通行証を見比べる。こいつはどうもいけ好かない。有効期限切れ一ヶ月前の通行証を持ってくるなんて、変な奴に決まっている。

「怪しいならこいつのも見ろ、同じ日に一緒に発行してもらったやつだ」

 少年は隣の少女の通行証を引ったくって鼻先に突きつけてきた。

 確かに同じ日に発行されているが、それだけでは何の証拠にも……

「おい、早くしてくれんか⁉」

「コグラーさん! あと五分で閉門です!」

 列の後ろの通行人から、受付カウンターの向こうの部下から、四方八方から悲鳴が飛んでくる。男は熊のように唸ると、通行証を少年の手から奪って突っ返した。

「わかったわかった、じゃあ二人ともこの名簿と許可証に名前書いて! ……後ろの方! 後ろの方は向こうのカウンターにお回りください! あっちも今空きました! 急いでください! ……ちょっと君、自筆で書いてくれ!」

 少女が二人分の名前を書こうとしたので、男は慌てて静止する。少女の手が一瞬止まった。その時、

 ピィー……

 頭上から甲高い声。次の瞬間、その音の主が弾丸のように男のそばに突っ込んできた。

「うわっ⁉」

 キィィッ、バサバサ……と派手な音を立てながら、真っ黒な鳥が視界を遮った。

「痛てぇっ、やめろ!」

 後ろに飛び退く男をよそに、カウンターのすぐ内側へぽとりと落ちた黒鷹は、したり顔で少女を見上げた。

「しっ! あっち行け! ……このクソ忙しい時にっ痛ぇっ!」

 ギャァッ、ピィィ!

 男が足で追い払おうとすると、黒鷹は飛び上がって爪で男に対抗する。

「っだぁあ! あっち行け! ……ああ、失礼。名前書いたんだったらもう先に進んでくれ」

 黒鷹をなんとか王都内がわの門の方へ追いはらい、男は心底イライラして振り返った。見ると、リストには読めないくらい乱雑な字で、いつのまにか二人分の名前が書かれていた。

「入ったらまず入城管理局に行って、この通行許可証に判子をもらって。地図は?」

「くれ」

 少年はやはり慇懃無礼に、今度は手を突き出してくる。男は些細な腹いせに、配布用の地図を少年の手に乱雑に押し付けた。

「はい、さっさと行った行った! 後ろが詰まってる! ………次の方! もう閉門ですから急いで!」




 怒鳴る男と騒ぐ群衆を後ろに、ポルとルズアはまんまとサラマの大門をくぐった。


 大門の敷居をまたぐと、そこはおとぎ話の世界だった。

 白い石灰岩の建物が、整然と並ぶ大通り。輝くような家々の窓と扉は、みんな可愛らしい赤や緑や青色だ。

 マントを着た旅行者、立派な犬を連れた子供、ドレス姿の貴婦人、槍を担いだ騎士、書類を見ながら道を急ぐ文官に、胸の前で十字架を握った巡礼中の修道士。目が回りそうなほど色とりどりの人波を、たまに大きな馬車がかき分けていく。

 商人が引くリヤカーは、ちゃらちゃら音を立てるガラス細工を乗せていたり、ぎゃあぎゃあ騒ぐ籠の鳥を運んでいたり、きらきら光る金刺繍の布を積んでいたり。そこかしこが珍しいものや目新しいもので溢れ、気品が漂っていて眩しい。

 振り返れば天高くそびえる灰色のサラマの大門から、川の濁流のように人が押し寄せてきていた。

「おい」

 ルズアは人波に押されながら、ポルの袖を思い切り引っ張る。

『ねえ、すごいわねここ……』

 ルズアが呼びかけただけで、ポルは勝手にしゃべり始める。

 ここの景色を一目見てから、ポルはずっと前を見て歩く気配がない。人にぶつかっても気づいてすらおらず、歩きながら後ろを見ようとぐるぐる回っている。

『ねえルズア、すごいわ。窓がおもちゃみたいよ。むこうに商人さんがいっぱいいるんだけど……何を売ってるの? 見てきていい?』

「前見て歩け」

『前? ……あら、何あれ! あれが道端で芸をする人なの⁉︎』

 ポルは歩きながら、道の端で大道芸をしている芸人を背伸びで一生懸命眺め出した。

「んなわけねえだろ! 馬に轢かれてえのか!」

『え、違うの? じゃああれは何をしてる方なの? ちょっと見てきちゃダメ?』

「ダメに決まってんだろうが……」

 どうも彼女にはルズアと意思疎通をする余裕がないようだ。周囲の様子をルズアに伝えようと喋っているのは分かるが、ルズアにはとにかく人とモノが多いことしか伝わってこない。ため息交じりのルズアの返事に、ポルはむっとした。

『ダメなの? どうせ入城管理局に行かなきゃいけないんだから、途中でちょっと立ち止まっても変わらないわ』

「じゃあ立ち止まれよ。後ろ向いて歩くな」

 これで満足か、とでも言いたげに、ポルはわざと音を立てて足を止めた。ルズアは腕を組んで、

「そう、それで? 管理局がどっちか知ってて歩いてんだろうな」

 ポルは右を見て、左を見て、顎に手を当てた。

「分かってねえんじゃねぇか!」

 ルズアがしびれを切らすと、ポルは渋々頷く。

「あと、クソチビが入ってきたらどうすんだよ。本当に巡礼までさせんのか?」

 ポルは再度しばらく考えて、首をふった。

「んじゃあてめぇは合流する気なんだな? クソチビが来るまでに管理局に行って、通行許可証に判をもらって、あいつが身を隠す場所を探さなきゃならねえはずなんだが。本当にそのつもりなんだな?」

 ポルは頬を両手に当てて、うんうん頷く。ルズアのコートの袖を勢いよく引っ張ると、

『そうだわ、ゆっくりしてられないじゃない。行きましょう!』

「だからどこに行くのかわかってんのか!」

 ルズアの叫びは、今度はポルの足を止められなかった。家々の上から覗く巨大な大聖堂の尖塔の方へと、人ごみの中に二人は吸い込まれていった。

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