3-5 夕暮れにみた光
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風にのってまとわりつくような霧雨が上がったらしい。水分を含んだ服のせいで、全然上がった気がしない。
道行く人の声は静かだ。自分が足元の石畳を踏みしめる音ですら、いつもよりひっそりと聞こえる。
ここは王都の端、端も端。丸い城壁の中の街並みの一番外側あたり。ルズアはあえて足音をひそめるわけでもなく、ポケットに手を突っ込んだまま歩いた。
重力に従って淀む空気はとても気持ちいいものではないが、静かなのはいい。周囲の音がよく聞こえる。
肌に感じる風もよく流れて、そのぶん自分の世界が広がった。ポケットに両手を封じたままで、一歩先にあるのかどうかすらわからない地を踏みしめる途方もない勇気はそこからくるのだ。
特に行き先も目的地もあるわけではないが、ルズアはぶらぶらと歩いていた。
知らない土地に居ついたらすぐ、できるだけ広い範囲を歩き回ることにしている。王都中心部の宿から徐々に行動範囲を拡げて、今日ついにサラマの大門にほど近い王都の端までやってきた。
面白かった、ここに行き着くまでは。文官も騎士も貴族や旅行者も、他には聞かれていないと思って囁く噂話、くすくす笑い、子供のいたずら、親の小言、役人たちの仕事の情報は機密に当たりそうなものまで、自分の耳にははっきりと聞こえてくる。
お前ら、話す場所は考えた方がいいぜ。誰が聞いてるか本当に分かったもんじゃねえからな――と思いながら、薄くニヤニヤ笑いを浮かべて歩くルズアの耳に、また内容が丸わかりの話し声が届いてきた。
どうやら二人。騎士のようだ。一人は騎士団服を着ているようだが、もう一人からは銀の甲冑の耳障りな音がする。戦争に行く地方兵団でもあるまいに、こんな王都の道端で甲冑を着るやつなんて、相当アホに違いない。
「どうだ、ここは知っているか?」
騎士団服の方が言っているのが聞こえた。甘ったるくて気障ったらしくてナルシシズムにまみれた、貴族の腐ったような男の声だ。
「さあ、なんだ?デカい屋敷だな」
対する甲冑の方は、せっかちで堅苦しそうな低い声で答える。
なるほど、確かに二人が向いている方向には巨大な建物があった。周りの家々と比べてもいっとう大きい。
見えはしなくても、庭とおぼしい空間から吹き抜けてくる風でわかる。デカい庭だ。そこからして建物もデカいことは想像に難くない。しかし、人の出入りが少ないどころか、人気のありそうな感じが全くしない。
騎士団服の男が呆れたように続ける。
「王都によく来るのにここも知らないのか、君は」
「……私は学がないのでな」
甲冑の方が鬱陶しそうに返す。
騎士のくせに学がないのか、胡散臭い野郎だ。ルズアは小さく鼻で笑った。騎士団服の方はさも聞いていなかったかのように話を進める。
「ここは八年前までは立派な貴族の仕事用の別荘だったのさ。見ての通り、今は誰も使っちゃいない。当の貴族が消えたからね」
「消えた? 没落したのではないのか」
「まあ、正確にはそう。没落の危機に追いやられた末に、一晩にして姿を消した……まさかとは思うけど、八年前の貴族間抗争については知ってるよな?」
ルズアは顔をしかめた。
その、貴族間抗争の話はどこで聞いても聞き苦しいから大嫌いだ。そんな話は俺の聞こえないところでしろ、とでも理不尽にどついてやろうか。
そうも思ったが、今は腹が減っているわけでもないので面倒だという気持ちが勝った。これが腹が減っていたり、うちの面倒くさい女どもに振り回されて気が立っていたりすれば、迷わず蹴り飛ばして金でも巻き上げているところだ。
「それくらいはわかる。貴族間抗争で一晩にして没落した……消えた貴族……」
甲冑の男は答えながら、記憶をこねくり回しているようだ。
「……なんだっけか。アルーフェン公爵家、だったか」
「ご名答だ。ここは当時の最上級貴族、アルーフェン公爵家の別荘だった建物さ」
「八年前にうち捨てられた割には小綺麗じゃないか」
「国王から保存しておくように命が下っているからね。いつ誰が住んでもいいくらいにはきれいになっているが、まあ見ての通り今はがらんどうさ」
少し芝居がかったような話し方は、ルズアの耳に妙に引っかかった。 甲冑の男がなおも会話を続ける。
「なるほど? 消えてなお王家の庇護を受けられるとは、よほどの大貴族に違いないだろうな。なぜ一夜にして蒸発するようなことに……」
「君は本当に少し勉強をした方がいい。読み書きくらいなら教えてやってもいいから」
騎士団服の方の声にイライラが混じった。
「裏でよからぬことをしていたのさ」
「そういうことなら、悪事に手を染めた公爵家を騎士団として検挙したのは君たちの家だろう?」
「だから言っただろう、消えたんだって。汚れ仕事の最中に、人の恨みを買って復讐されたんだ。自分の家の土地に火を放たれて、そのまま一家全員ドロンさ。どうもその火事で死んだわけじゃないみたいでね――僕らも血眼になって探したけど、結局未だに見つかっちゃいない」
「しかしまあ、そんな事件があって、しかもそれが八年も前となると……そやつらも生きているか怪しいな」
「そうだな。それで、どうだ? どうせここまで来たんだから、建物の中は見ていくかい?」
「いや……いい。観光に来たわけではないのでな」
そこで少し会話が途切れる。ルズアはいつの間にか自分が立ち止まって話を聞いていることに気がついた。
無駄な時間を使ったものだ。余計に気分が悪くなった。おまけにまた雨が降りそうで、服はとっくに濡れているし、さっさと帰るに越したことはない。
ルズアは二人の方を一瞥するそぶりを見せると、フードで赤髪を隠して二人の後ろをさも今来たように、急ぎ足で通り過ぎて行った。
「なんだ、観光するのだって多少の勉強だぞ」
通って行った赤髪の少年に気づく様子は微塵もなく、小さくなりつつあるルズアのはるか後ろで、騎士団服の男が会話を再開した。
今度は甲冑の男がイライラ気味に、
「だからそんなことをしに来たのではない。私は君に話したいことがあっただけだ」
「そのためにわざわざこんなところまで?」
「どこかに落ち着いて話すより、移動しながら話した方が盗み聞きされる危険は少ない」
「ならこんなに人の少なくて声の通る場所じゃなくても……賑わしい大通りの方がよかったんじゃないか」
「……まあ、そうだな。大通りに向かいながら話そう。とは言え、今回は大して重要な話ではないのでな」
二人はくるりと踵を返すと、ルズアが去った方とは反対方向へ早足で歩き始めた。
「ふん……なるほど、聞こう」
騎士団服はちらっ甲冑の男へ目をやり、顎に手を当てて呟く。甲冑は重々しい声で口火を切った。
「私たちが追っている少女……いや、追っている〝モノ〟についてだ」
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憎らしいほど晴れ渡った夜空に、満月と冬の星座がきゃぴきゃぴ光っている。城下町へ移動してから、はや二週間が経とうとしていた。
狭い宿の窓際。人のごった返す小さなロビーの隅っこで、椅子の上に膝を抱えて縮こまったポルは、分厚いメモ用紙の束をめくっていた。
城下町は、王都の門に近づけば近づくほど建物が密集して人も多い。シェンが言うには、ここら一帯は家の隙間にさらに家を建てたようなところばかりで、どこの宿もこんな有様なんだそうだ。
王都観光に浮かれた旅行客が狭いところで騒ぐものだから、横から腕や尻がぶつかって鬱陶しい。かといって部屋に戻っても、あまりに狭くてシェンと二人でいると膝を突き合わせることになる。
そんなこんなで、当分夜中の魔術の練習もお預けだ。魔法陣から光が出るのが厄介だった。早寝のシェンの真上を夜な夜な照らし続けるのも迷惑だろうし、外で練習するわけにはもっといかない。
図書館でメモした資料と魔術書を読みふけるくらいしかすることがなく、皮肉にも寝る時間が早くなって頭はスッキリしていた。スッキリしたところで、現状、魔女についてなにもわからないのには変わりないのだが。
『もう、ダメなんじゃないかしら……』
シェンがふらりとやってきたところへ、ポルがついに泣き言を漏らす。
「まだ目ぼしい情報はないのですカ?」
シェンは持っていたサンドイッチをポルに手渡した。もう部屋着になったのか木綿の薄い服で、片手には小さなガラスのコップに安酒を盛っている。ポルはメモの束を膝に置いて、サンドイッチをかじった。
『ええ……もう図書館は、どこの配架の本も大体見たはずなんだけどね』
シェンが頷きながら、ポルの椅子の肘掛に腰を下ろす。
ポルはちらりと彼女を見上げて、
『魔女についての記述がないわけじゃないのよ。大昔に流行った魔女裁判や、村八分になった女性を魔女呼ばわりする話は山ほど出てくるわ』
「でも、それはポルさんが探している〝魔女〟ではないト?」
『そうよ。文字と独自の文化を持って、大陸戦争を生き抜いた、魔術使いの血統については何もないわ。私の探してる〝魔女の一族〟……正式名称〝イスマン族〟に当たりそうなものはまだ見つからない。この魔術書を書いてある文字ですら、どこにも見当たらないのよね』
「なるほど……詰み、ですカ」
シェンはつぶやいた。ポルのサンドイッチから具がこぼれそうになっているのを見かねたのか、ひょいっと取り上げると全部自分の口に押し込んでしまった。
ポルは気にしていないどころか、それに気づいているのかも微妙なようすでため息をついている。
『詰み、かしらね。古いアルバート語の魔方陣や怪しいオカルト本、不思議な呪術師や霊媒師の親子の話もたくさんあるけど……そこに出てくる魔術や魔法と、魔女の一族の魔術は違うの。この魔術は、占いでも予言でも、呪いでも手品でもないし、降霊や憑依でもない。何より違うのは……』
「違うのは?」
『〝魔女の一族〟の魔術は、きちんとしたやり方さえ踏めば誰にでも使えるの。もちろん〝魔女の一族〟として生まれた人間は、それまで全く魔術と接点のなかった人間よりずいぶん使いやすい。学問や芸術に生まれつきの得意不得意があるようなものだわ。でもそのくらい。何年も練習を積みさえすれば、血統や素質はあまり関係ない。習得のしかたや効率よく使う方法までよく洗練されていて……きっちり代償を払いさえすれば誰にでも使えてしまう。良くも悪くも、ね』
「じゃあ、我やルズアさんでも、訓練さえすれば使えるのですカ?」
『ええ、そのはずよ。〝詩人が楽器と言葉を学び、東国の高僧が自らの悟りを開くなりゆきに、我々の魔術はよく似ている〟……って、魔術書には書いてあるわ』
シェンはちびっ、とコップの安酒をすすった。真剣な顔で、
「だからこそ、かも知れませんネ」
『え?』
「誰にでも使えてしまう力だからこそ、一族の他には絶対に漏らしてはいけなイ。一族以外にはわからない暗号めいた文字を使ってまで、数少ない書物の情報も意図的に知られないようにしているのだとしたラ……」
シェンはもう一度コップに口をつけた。
「そう簡単に、〝魔女の一族〟の痕跡をつかめるはずはないのかもしれませン。王立図書館の資料を探したところで、そもそも王国の誰一人として〝魔女の一族〟を認知していないことだってあり得まス……彼らは意図的に、自身の痕跡を消しているのですかラ」
『そうかも知れないわ。厄介ね』
ポルはとんとん、と肘掛の上でメモの束を揃えた。
『図書館の司書にも〝魔女の一族〟について見たことがないか、聞いて回ったんだけど……やっぱりどの方も知らないって言うわ。エルヴィーさんも、いつも道ですれ違う司書のおばさまも、他の方もよ。禁書庫も探したいんだけど、偉い人の紹介状がなきゃ入れないらしいし……これ以上ここにいても仕方がないのかもね』
シェンの頭をくしゃっと撫でて、ポルは立ち上がった。シェンもそれにならう。
『あと五日そこらで通行証の期限が切れるわ。明後日までに何も目ぼしい情報がなければ、早めに王都を発ちましょう』
「次はどこへ? 見当はついてらっしゃるんですカ?」
『全然。行き先はルズアに相談して決めるわ』
「そうですカ。ポルさん、」
シェンは小さくポルの袖を引っ張った。小首を傾げたポルに、シェンは片手のコップを少し持ち上げてみせる。
「少し飲みませんカ。この辺りのお酒は安さの割に美味しいですから、飲まずに去るのはもったいないでス」
ポルは一瞬逡巡したが、やがて小さく口の端を上げた。
『じゃ、少しだけね』
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『図書館勤務はいつからでしたっけ?』
「五年前よ」
『担当の書架は?』
「主に哲学ね」
『なら、哲学分野の本には詳しい?』
「全部とは言い切れないけど、置いてある本の内容は大体知ってるわ」
『〝イスマン族〟という民族について、担当の書物で見たことはありますか?』
「そうね……今まで読んだ本で見たことはないわ」
『何かで聞いたことは?』
「ないわね。全然知らなかったもの」
『知っていそうな人物はこの図書館にいらっしゃる?』
「どうかしら……特別そういう話に詳しそうなのは、歴史や占いの書物の担当者くらいしか思いつかないけど」
今日も栗色の髪をきっちり結わえた司書のおばさんは、困り顔に微笑みを浮かべながら、目を細めてこちらを見ていた。
図書館前の路地。ポルは王都を発つ前の悪あがきとして、司書に聞き込みをして回っていたのだ。
聞き込みをするのは二回目だが、最初の時は〝魔女の一族〟について何か目にしたことがあるかどうか、それだけしか尋ねていなかった。だから念のために質問を増やして、もっとたくさんのヒントを得ておこうと思ったわけだ。
一通り質問を終えたポルの顔に、隠しきれない落胆を見て取った彼女は、
「ごめんなさいね、この間も尋ねてくれたのに。あれから少しは探してみたんだけど……やっぱり見つからなくてねぇ」
『いえそんな……とんでもないです』
ポルは笑顔を作ると、ペンを持った手をひらひら振った。
『何度もごめんなさい。もうすぐ王都を発つので、もう一度情報収集しておこうと思っただけなんです』
「あら、もう行ってしまうの? 寂しくなるわ」
ポルは少しはにかんだ。午前の眩しい陽気が伏した自分の睫毛を真上から照らす。薄黄色に霞む視界のせいで、長い年月がぎゅっと詰められたせつなげなおばさんの顔は見えなくなった。
『本当にそれだけなんです。ありがとうございました』
「また探しておくわ。もしもう一度会えたらお話ししましょう」
ダメかもしれないけど、とおばさんは小さく付け加えて笑った。ポルはにっこりと頷いて深々と礼をすると、白い石畳を図書館へと向かった。
『図書館勤務はいつからですか?』
「九年前だけど?」
『担当の書架は?』
「今はないけど、昔は政治分野の書物担当だったわ。どうして?」
『なるほど。〝イスマン族〟という民族について、担当の書物か何かで見かけたことはありますか?』
「前も言ってたわよね、それ。聞いたことも見たこともないって言ったじゃない」
『知っていそうな人物はこの図書館にいらっしゃる?』
「どうかしらね。ここにある本の内容については、各分野の担当の司書が私より詳しいけど。一人一人聞いてみたらいいんじゃない?」
ポルは思わず困り顔で頬に手を当てた。
おばさんの次のターゲットは、司書仕事中のエルヴィーだった。すでに打った手を彼女の口から提案されると、なんだか余計に手詰まりな感じがする。
『実は……以前一度丸一日かけて司書さんに聞いて回ったことがあったんですけど、やっぱり誰も知らなくて。エルヴィーさんなら、詳しそうな方をご存知かと思ったんです』
「ふうん、それだけ聞いて回ったなら誰も知らないんじゃないの……そんな困った顔されても分かんないもんは分かんないわよ」
エルヴィーはぶっきらぼうにそう言うと、あくびを噛み殺しているような顔をした。
二人が今いる閲覧室には、午前中は窓際に日が射すのでとても眠い。それでもなぜかエルヴィーはここが気に入っているようで、いつもあくびをしながらここで仕事を片付けている。
ポルはそわそわと椅子に座りなおすと、
『禁書も探してみたいんですけど……』
「禁書?」
エルヴィーが顔を上げる。
「禁書室は紹介状がないと入れないわよ」
『ええ。どなたの紹介状があれば入れるんですか?』
「王宮勤めの官僚。まあつまり大臣クラスの文官ね。それか王立大学の学長、騎士団の兵団長……それくらいね」
エルヴィーはまた眠そうに俯く。ポルは思わず身を乗り出した。
『その紹介状を見て実際に禁書室に通すのはどなたなんです?』
「それは……ここの司書と警備隊員だけど」
『じゃあ、その担当の司書さんや警備隊員さんの紹介状じゃダメなんですか?』
「そりゃダメよ。そんなの、担当の司書と警備隊員がいくらでもバレずに好きな人間を禁書室に入れられるってことでしょ。職権乱用の温床よ」
少し考えれば当然である。ポルはもう一度、居心地悪そうに椅子に座り直した。
『や……やっぱりそうですよね。じゃあ、王都で図書館以外に情報が集められそうなところはありませんか』
「王宮と図書館以外に大して国の情報を保管しているところなんてないし、あっても一般人が入れるところじゃないわ。ま、ここは諦めることね。王立図書館だってなんでもあるわけじゃない、地方の大学機関の方がたくさん資料や情報を持ってたりするもんよ。王都の他を当たりなさい」
目を上げることもなく、エルヴィーは手元の資料をめくっては書き込みながら言い放った。
ポルは『わかりました、ありがとうございます』と返事を書きおいて、席を立った。もう一冊一冊本をめくっている時間もない。もう一度司書や文官への聞き込みに徹して、王都の次に行く場所を決めるしかなさそうだ。
去り際に頭を下げたポルを、エルヴィーはちらりと見て軽く手を振った。
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結局、それっぽい情報はなにもなかった。
これで何か見つかれば、もう少し王都にいて調べ物をしてもよかった。もし直接〝魔女の一族〟に関する情報がなくても、つながりそうなものがあれば次の行き先を決める手がかりになる。
そう思ってしていた最後の聞き込みだったが、やはり特になんの成果も上げられなかった。もう、あとは魔術書に書いてあることと関係しそうな場所を、しらみつぶしに回るしかあるまい。
夕日に染まる白亜の楼閣。赤金に輝く王立図書館は、当然ながらポルがここへ初めて来た日と寸分たがわず同じ姿だった。同じはずなのに、あの時のドキドキだけは、今はもう絶対に思い出せない。ポルは年老いたロバのように、図書館の門へ続く石畳の小径をとぼとぼ歩いた。
年老いたロバといえば――年取って捨てられた、ロバと犬と猫とニワトリが音楽隊を組んで、盗賊退治をするこっけいな童話が図書館にあったっけ。アルバート王国の南方に伝わる伝承らしいが、西の果てのダマト帝国では、ロバはラクダ、ネコはジャックラビット、ニワトリはコブラとして伝わっているそうだ。
ラクダと犬とウサギとコブラなんて、すぐにでも食物連鎖が始まりそうな組み合わせである。そんな動物たちが集まって仲良く盗賊を倒すなんて、年を取って心身擦り切れれば誰とでも仲良くなれるとでも言いたいのだろうか。
みんな年老いてくたくたになっているからこそ、あの場は毒蛇コブラの一人勝ちになりそうなものだ。
後日談にはそんな殺伐とした話になっていたら面白いんだけどなあ、などとポルは他愛もないことを考えていた。ここしばらく頭はフル回転しっぱなしで、少しはどうでもいいことを考えたい。すべての思考を放棄したい。
明日の午前にはルズアに相談して行き先を決めて、もうここを出ようと思う。もう最後の今夜くらい、それこそ観光してもいいんじゃないか?
脱力感が体を支配して、ポルは肩を落とす。
なんとはなしにふと辺りを見回すと、いつもの道とは逸れたところに入ってきていたようだ。左も右も、見たことがありそうで見慣れない建物が並んでいた。
その時、
「あっいたいた、見つけた!お嬢さん!」
背後から上ずった女性の声が、建物の壁に鋭く反響した。
ポルが勢いよく振り向く。道の先には、夕焼けを背にした司書のおばさんが息を切らして立っていた。いつも持っている書類の束を抱えて、どうやら走ってきたようだ。
ポルは慌てて駆け寄り、メモ用の紙を取り出した。
『どうなさったんですか⁉』
おばさんはしばらく息を整えると、書類の山を持ち直した。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃって……たまたまここに入っていくのが見えたものだから」
ほーっ、とおばさんは大きく息をついた。制服のタイトスカートではさぞ走りにくかっただろう。へにゃへにゃと笑うおばさんが、いつとなく書類の山を落としてしまわないかポルははらはらした。
『私に何かご用ですか?』
ポルが言うと、おばさんはとたんに真面目な顔になって少し辺りを見回す。そしてポルの耳元で囁くように、
「ええ、大事な用よ。今朝聞いてくれたことについて」
今朝聞いたこと、といえば〝魔女の一族〟のことだ。
「ただ、今更役に立たない情報かもしれないわ」
『いいえ、どんなものでも構いません。ぜひ聞かせてください』
ポルは思わずおばさんに詰め寄っていた。
おばさんは引くことなく、もう一度周囲を見回して声をさらに落とす。
「本当は機密事項だから、普通の人には漏らしちゃいけないんだけど……私、実はここの副司書長なの。だから、哲学書の一般書架以外にも担当があってね。本当は禁書室の担当でもあるの」
ポルは激しく頷いて先を促す。
「今日の昼は禁書室の仕事でね。お嬢さんと朝お話ししたから、こっそりその〝イスマン族〟についてもう一度探してみたのよ」
ポルは自分の鼓動が早くなっているのを感じた。
『そ……そしたら?』
「一冊だけ……一冊だけ、〝イスマン族〟について書いてある本が見つかったわ」
くらくらした。体の隅々まで電気が走ったような興奮で、息がつまる。ポルは一瞬だけぎゅっと目をつぶって、期待で震える指先で紙に文字を綴る。
『……なんて、書いてあったんですか』
おばさんはポルの高ぶりを感じ取ったのか、あえてゆっくりと口を動かす。
「仕事中だったし、ずいぶん長いページにわたって書いてあったから内容は覚えてないの。ごめんなさいね……でも書いてあったことは確かよ」
『本当ですか……それもずいぶんな文量……』
信じられない。
感嘆と不信、二つの意味で湧き上がってくるそんな言葉が、脳の中で渦巻いた。
これだけ探して、司書にも聞いて回って一切情報がなかったのに、そんなに都合のいい話があるのかという疑念。本当にそこに情報があったところで、禁書室だから見ることはできないという歯がゆい落胆。冷めやらぬ喜びの陰から、霧のように黒いそいつらが頭を出した。
ポルは尋ねた。
『その本のタイトルは?』
これさえ聞いておけば、他の土地で似たような本を探すことだってできるかもしれない。
だが、おばさんは困ったような顔をして、
「それがね、その本にはタイトルがないの……薄くて小さくて、真っ黒な表紙なんだけど、まっさら。著者も出版年もタイトルもなんにも書いてない不思議な本なの」
いかにも魔女の情報が載っていそうな、どんぴしゃりの怪しさだ。それなのに、タイトルがないとなれば自分の手元からはなおさら遠ざかる。
おばさんは、今度は不安そうに辺りを見回した。
「使えない情報かもしれないけど、この際話しておくわ。タイトルはなかったけど、私ちゃんと配架場所だけは覚えてきたの。本当は絶対に漏らしちゃいけないことだから他言無用でお願いできる? 必要ないなら言わないわ。余計な秘密を知っても良いことはないもの」
『いいえ、聞きます。教えてください!』
おばさんの最後の言葉を聞かずに、ポルはもう答えていた。
おばさんは書類を片手に抱えると、耳を貸すように合図してくる。ポルは少し背伸びして、さくらんぼ色のルージュを乗せたおばさんの唇に耳を寄せた。
「禁書室書架K列、683の3」
ポルは急いで紙の端にメモを取り、そこを破いてポケットにしまった。
「覚えた?」
『ええ』
二人は神妙な面持ちで、どちらからともなく一歩離れた。
『わざわざ私のために、ありがとうございます。本当に』
「いいえ、今更になっちゃってごめんなさいね」
『必ずお礼はします』
「いいの、構わないわ。機密事項をしゃべったことで一般利用者からお礼をいただくなんて……気持ちだけ受け取っておくわ」
申し訳ない気持ちが、嬉しさを凍りつかせる。司書のおばさんがしたことは職権乱用と秘密漏洩だ。そんなことをしてまで、自分のために情報を教えてくれたのだ。
お礼すらできないのをもどかしく思ったが、ポルは感謝と誠意を込めておばさんの言う通りに引き下がる。
『本当にありがとうございます。助かったどころじゃありません……なんと言ったらいいか』
「利用者様の探している本を見つけるのが、司書の仕事よ」
『ええ、まさかあるなんて思ってもいなかったです。考えることができたので……お先に失礼します。また会いましょう』
ポルは深々とお辞儀をすると、ほとんど走るようにおばさんとすれ違って路地を戻る。まもなく六時の開門があるはずだ。全速力なら間に合う。一刻も早くシェンとルズアに会わなければ、とにかく時間がない。
ポルはポケットの中で配下場所のメモを握る。角を曲がる瞬間、おばさんの背中がちらりと見えた。
「さようなら」とおばさんが手を振るころには、ポルは沈む日のオレンジにたやすく飲まれて見えなくなっていた。おばさんはふふっと笑った。
「よかったわねぇ」
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