2-2 鉄と血の街
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“鉄と血の街アーラッド”
森から抜けた道の脇に、ちょっと物騒な街の名前が書かれた立て札が立っている。歩きながら議論をするふたりは、そんな立て札を大して気にもかけずに通り過ぎた。
「騙されたんだろ。あの森は獣は出ねぇって話だったじゃねえかよ」
『確かにそうかもしれないけど。滅多にないことだって起きるんだし、それにおかしいことが多すぎるのよ』
「ここが安全だってほざいた野郎の頭がか?」
『ちがうわ、鹿が自分から襲ってくること!その上狼と共闘するなんて以ての外よ。あれは一体何がしたかったのかしら?そもそも狼でさえ、明るい森の中で昼間から活発に動き回る動物じゃないわ。おかしいことだらけ』
「そうかよ。まあ、てめえの訓練くらいにはなったんだから文句ねえだろ」
ルズアはぶっきらぼうに話を終わらせると、顔を上げて正面を向く。ポルは一瞬続けたそうにそわそわしたが、ルズアにつられて行く手を見た。
いつの間にか市街地に入っていたらしい。二人がいたのは、大きな荷馬車が行き交う賑やかな通りだった。煙突からもくもくと煙を吐き出す建物がいくつも見える。雪が積もっているのに、埃と砂のにおいがした。目に入る家並みはみんな一様に灰茶色で、無骨な背の低いものばかり。その後ろから高い煙突が顔を覗かせ、そこから立ち上る白い煙で夕焼け空が少し霞んでいた。
ぽつりぽつりと灯りがともる家々の窓を眺めながら、ポルはきょろきょろ歩く。議論のことはさっぱり頭からすっぽ抜けてしまっていた。
「よおそこの兄ちゃん!いいもん持ってんじゃねぇか!」
突然、すれ違った男がこちらに声をかけてきた。もうもうと黒いひげを生やした中年の男だ。
「あ?」
いきなりルズアはギロリと男を睨む。男は小柄な体をさらに縮ませて、胸の前でゴツゴツした手を振った。
「そ、そんなに睨んでくれるなよ。怪しいもんじゃないって」
後ろでそわそわしていたポルはすかさず前に出て、ぺこぺこと何度も頭を下げる。男はさらに手を振った。
「いやいや、お嬢ちゃんが謝ることじゃねぇんだ。ただ俺は、そのでっけぇ鹿の足に用があるだけでな」
男が指さした先には、ルズアが肩に担いでいる鹿の足があった。ルズアはさっき鹿と狼を倒したあと、散々ポルに渋られながら足を二本器用に解体して、血抜きついでとばかりに担いで持ってきていたのだ。
「俺ぁこの街で肉を売ってる店のもんなんだが、今週たまたま鹿肉の注文があったのに鹿肉が入らなくなってな。よかったら俺に売ってくれねぇか?」
対するルズアは少し悩むそぶりをする。その横で、ポルはひたすらルズアの手に『売りましょう。売りましょう。売りましょう』と綴っていた。
「買値はいくらだ?」
ルズアは渋い顔で男に問う。男は大げさに手を広げて、笑顔で言った。
「七千ベリンでどうだ!」
「安いね」
ばっさり切って捨てるルズア。しかし、男の顔から笑顔は消えない。
「わかった、じゃあ九千!」
「まだだな」
「一万二千だ!」
「てめぇ、おちょくってんのか?」
ルズアがもう一度睨めつけると、男の顔から笑顔が消える。ポルは後ろで『ねえ、もう売りましょうよ。もういいわよ。まだお金には困ってないんだし、ねえ』と訴えていた。
「……わかった。じゃあ一万五千……いや、二万だ。申し訳ないがこれが限界だ」
今度は男も渋い顔になった。
「……まあ、いいだろう」
ルズアは空いた手を差し出して、財布を探る男を催促する。あたふたと男が一万ベリン札を二枚手渡すと、無造作にコートの内ポケットにそれをしまい、鹿の足を二本まとめて男に渡した。重さと勢いで一瞬男がよろめく。
「ありがとな、兄ちゃんとお嬢ちゃん。助かったぜ。……おかげで財布がすっからかんだがな」
最後にぼそっと男がつけたしたのを聞いて、ポルは非常に申し訳なくなった。鹿の足を担ぎ直した男は、今度はポルに向き直ってにかっと笑う。
「ところでお嬢ちゃん、このおっかねぇ兄ちゃんとは隣町から来たのかい?見ねえ顔だが、旅の人かい?」
ルズアが答えた。
「そうだが」
「やっぱりな。こっちから来る道を知ってるのは、隣町の限られた商人だけだ。俺はそいつらとよく取引するんだが、さてはそいつらの誰かに教えてもらったんだろ?他のやつはみんな森を迂回する街道から来るからな」
それを聞くと、ポルはルズアの手に慌てて文字を綴った。ルズアは軽く頷いて、男に答える。
「ああ、そうだ。一つ聞きたいんだが、今抜けてきた森に普段危険な獣は出るか?」
「いんや?明るい森だから、夜でもないと滅多に出ねえよ。ただこの森はでけえから、何も知らねぇ人間が入ると迷う。だから森を通り抜けようとするやつは少ねえんだ。この辺りで長いこと商売してる人間だけが知ってる、実は安全で快適な秘密のルートを兄ちゃんたちは通ってきたってとこだ」
男は得意げに胸を張る。ポルはうんうん頷いて少し思案すると、再びルズアに何かを伝えた。ルズアは眉を寄せて、
「……そんなもん自分で言ってきやがれ」
ポルの手を振り払った。
ポルは一瞬むっとするが、すぐ観念したようにため息をついた。カバンから紙と鉛筆を取り出して走り書きをし、男に近づくと、男の空いた手を取って少し膝を折る挨拶をする。そのまま走り書きを男に見せた。
『とんだご無礼をいたしまして申し訳ありません。鹿肉のお代と、いい情報をありがとうございました』
男は少しの間驚いたようにポルの顔と走り書きを交互に見ていたが、しばらくすると、何も聞かずにっかりと笑顔を作った。
「いんやそんな!礼には及ばねえよお嬢ちゃん。お嬢ちゃんたち旅人さんだろう?ここで会ったも何かの縁だ、俺がおすすめの宿を教えてやるよ」
驚き顔になるのは今度はポルの番だった。あれだけ金銭をぶんどっておいて、そんなに親切にしてもらえるとは。ポルは意見を求めてルズアに目をやったが、ルズアは我関せずの知らん顔。それなら勝手に決めても文句は言うまい、ポルは男に向き直って微笑んだ。
『それではお言葉に甘えて、よろしくお願いしますね』
男は、ふんわりと花が咲くようなポルの笑顔を数秒凝視したあと、ぎこちなく顔を逸らした。
「お、俺に任せろ。少し歩こうじゃないか」
人の行き交う通りは徐々に宵闇に沈む。オレンジ色の光に満たされた夜の街には、二人の出てきたイーステルンの商店街より男の人をたくさん見かけるような気がするなと、ポルは思った。
男はしばらく一緒に歩いたあと、「じゃ、俺の店はここいらだから!」とせこせこ離れていった。ルズアと二人で、男の言ったことを頼りに知らない道を進む。
“ここから二番目の角を左に曲がった路地に、大きな宿屋がある。この街でも一番安心な宿屋だが、この街は商人が多いからもう部屋がねえかもしれん。もしそこでだめなら、そこから同じ道をまっすぐ行って右に曲がると闘技場がある。その前の通りを一本挟んだ向かいにも宿屋が一軒あったはずだ。だが……”
ポルたちは男が教えてくれた、一つ目の宿屋を訪ねた。しかしこれも彼の言った通り、部屋どころかロビーまで人でいっぱいだった。早々に諦めて二番目の宿を目指す。さっきの大通りに比べると半分くらい狭い道は、街灯の灯りがよく届いてさっきより明るい。
『この街は男の人が多いのね』
横を歩くルズアに、ポルがきょろきょろしながら伝えた。
「鍛治の街なら当たり前だろ」
答えたルズアは片手をコートに突っ込んで、周囲をぎらぎら睨みつけながら歩いている。さっきの男によると、ここは鍛治の街だそうだ。そこかしこの喧騒も多少血の気に満ちている。ただ自分の鍛えた武器自慢をしあう男たちがいたかと思えば、すぐそこでは二人の屈強な男が作業着にそれぞれ長剣を持って睨み合っていた。二人の中間には別の男が立っていて、その男が合図をした途端、剣を持った男たちは雄叫びをあげてぶつかり合った。
『なるほど。ああやって力くらべする時は仲介人をつけるのね』
そう言った途端、隣でルズアがふうん、と小さく呟いたのをポルは聞き逃さなかった。
『何を考えているのかしら?』
「腹が減った」
『そうね』
「食い物を持ってそうなやつを探せ」
『探してどうする気?』
「仲介人はお前がやれ。俺が殴る」
『意味がわからないわよ、さっき狼と喧嘩したばかりでしょう?』
「最近人間と喧嘩してねえ。なまりそうだ」
『喧嘩しても食べ物は手に入りません』
「どうだか。喧嘩したほうが早いぜ」
『それは宿に着いてから考えましょう、ね?』
二人は最初の宿屋があった通りから一歩入った道にやって来た。さっきと打って変わって仄暗い通りは静かで、ランプの暖かい灯りに照らされながら、たくさんの若い男女が手をつないで雪のこびりついた石畳に影を落としている。カフェや料理店、靴屋などが並ぶ小洒落たところだが、変わっているのはたくさんの店が“シーズンにつき賭博受付中!但し上限額○円”のような文句が書いた看板を出していることだ。
『シーズンにつき賭博受付中、ですって……なんのシーズンかしら?』
「さあ、知るかよ。なにか祭りか催し物でもあるんだろ」
『なるほど』
ポルは何の催しがあるのかと周囲に目を凝らしながら、さっきの男の言ったとおりにもう一つ角を曲がる。すると、さらに細い道の先で、砂岩のレンガを積んで作ったアーチをいくつも組み合わせた、巨大な建造物が行く手を遮っていた。ちょうどこの道の突き当たりが建物の入り口になっているようだ。ひときわ大きなアーチに、鉄の巨大な錠がついた頑丈な丸太の扉、その上には鮮やかな赤と緑の垂れ幕がかけられていた。布には大きく白抜きで “二月祝勝武闘祭”と書かれている。
『見えたわ、あれが円形闘技場ね。入り口に二月祝勝武闘祭って書いてあるんだけど、あれが……』
「シーズンの祭ってわけか」
『そうみたい』
暗い道を通り抜け、闘技場の目の前にたどり着く。壁に沿って上へ目をやると、そそり立つ高さに目がくらみそうになった。
「でけえな……」
盲目のルズアもそれを敏感に感じ取ったらしい。まるで見えているかのように、闘技場を見上げるそぶりをする。闘技場の壁沿いにはまた細い道が走っているが、人っ子一人も見当たらない。
『闘技場の前の通りだから、このあたりに宿が……』
ポルは闘技場沿いの道との交差点に立って左右を見る。
『……あった』
案外あっさり見つかった。右に曲がって少し先に、小さなランプに照らされた宿の看板が見える。
“闘技場の前の通りを一本挟んだ向かいに宿屋が一軒あったはずだ。だが……そこはさっき言った宿屋ほど安心とはいえねえ。ならず者や賭博師やらがずいぶんいるかもしれないから気をつけろよ、特にあんたらは若いしな”
親切にもそこまで教えてくれたさっきの男の言葉をもう一度思い出しつつ、ルズアに確認する。
『さっきのおじさん曰くあんまり安心なところではないそうだけど。あそこで構わない?』
「宿に泊まれるなら御の字だぜ」
ルズアは闘技場を見上げたまま、しんみりと言った。
『じゃあ、決まりね』
ポルはルズアの袖を小さく引くと、円形闘技場を傍らに宿屋へと向かった。
宿屋のドアを押すと、ちりりりん、甲高いドアベルの音。そこは夜の始めの憩いにぴったりな、ゆったりとした空気に食事とワインや菓子の香りが漂う暖かくて狭いロビーだった。昨晩ブロントで泊まった宿よりずっと小さくて、テーブルの並びも雑然としているが、不思議と居心地がいい。ずっといたら気持ち良くうたた寝できそうだ。軽食屋を兼ねているようで、夕食時だからか人が多い。食事をしている男女、隅っこでボードにサイコロを転がしている老人たち、ワインにチーズをつまみながら静かに語らう数人の男。誰も彼もが思い思いにくつろいでいる。さっきの男が言ったような柄の悪さが、本当にピンとこない。
カウンターの席に空きを二つ見つけると、二人はそこに座った。カウンターの中には背筋のしゃきっとした、白いあごひげの特徴的な老翁がいる。ルズアが二晩宿泊する部屋と夕食のメニューを頼むと、老人は宿台帳を彼に手渡し、「メニューはそこに」とカウンター奥の壁の看板を指差して去って行った。
ポルはルズアに注文するものを伝えると、宿台帳を受け取って名前を書き込む。予約が多くて、五日後まで部屋がほとんど空いていない。二晩二部屋取るのがやっとだった。これもあの二月祝勝武闘祭の影響なのか、どうやら台帳を見る限り開催されるのは五日後か……などと考えていると、注文した料理が運ばれてきた。ライ麦パンに、豆と鶏肉の蒸し物、卵のスープのセットだ。ポルが宿台帳を返すころには、ルズアはもうパンにかぶりついていた。
無言でポルが食事を済ませると、隣でルズアが追加注文したバケットとチーズの塊を完食するところだった。
『あなたよく喉に詰まらせないわね……』
「は?なん……ゲホッ」
『ごめん』
最後のチーズの塊を喉に詰まらせてしばらく悶えたあと、「人が食ってる時に話しかけやがって」とブツブツ悪態をつきながら、ルズアはおもむろに席を立った。
「外歩いて来る。朝までには戻る」
『まあ、こんな時間から何しに?』
「歩いてくるだけだ。知らねえ場所だからだろうが」
『あら、じゃあ先に寝ると思うから言っておくわ。あなたの部屋は階段を登って、右手の突き当たりから三番目だから』
ポルが言うと、ルズアは返事もせずに踵を返して出て行った。
聞いてもいないようなルズアの態度にため息をつきながら、ポルは着ていたコートを脱いで椅子の背にかける。皿を引いてもらった後のカウンターに、カバンの中から地図と簡易百科事典を出した。アーラッドの項目を探して広げる。
アーラッドは、イーステルンから南西六十三キロに位置する。ソードクルス男爵の領地なので、商業貴族バストロ公爵の勢力範囲。武器生産が盛んで、バストロ家の貿易売上に大きく貢献している。と、百科事典からは読める。しかし武器職人の街で、バストロ公爵が直接支配していないということは、密輸や横流し業もさぞ多いことだろう。
ポルは百科事典をペラペラめくりつつ、紙とペンを取り出して走り書きしながら考える。
アルバート王国の貴族は、王から与えられた五つの爵位――公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵によって位分けされる。公侯の爵位をもつ貴族は、低位の貴族を傘下にし、従える風習があった。それで言えば、エルンスト伯爵が他の貴族を従えているのは、八年前の貴族抗争から続く異例の事態なのである。
今いるアーラッドの街は、商業貴族バストロ公爵家の傘下、ソードクルス男爵領にある街だ。現在最も力のある貴族はバストロ公爵家とエルンスト伯爵家で、その二家が他貴族を従えて実質国中を支配している。貴族のトップに王が立ち、その下に階層的に貴族たちが従う国の仕組みは、国家の腐敗を招くとあらゆる政治学者や哲学者が主張してきた。しかし、今やもうこの仕組みをがらりと覆せるほど、王家は力を持っていない。数少ない貴族に王国の重要な部分を一手に任せている現状で、いつまで王が権威を保っていられるのか……ポルがおよそこの街と関係のないことを考え始めたころ。
コンコン、と後ろの窓を叩く音が、周囲の話し声や物音を縫ってポルの耳に届いた。
ポルが椅子から下りて振り返ると、窓の向こうには見覚えのある小さなシルエット。コンコン――その正体は、黒鷹のアイテルだった。
ポルはカウンターに広げたものをしまって、カバンを肩にかけると窓に近寄った。窓を開けたとたん、冷たい風と一緒にアイテルがぴょこんと入ってくる。前の宿屋を出てから森に入るとどこかへ飛んでいって、森を抜けても戻ってこないのでどうしようかと思っていたが、なんだかんだついて来ていたようだ。ほっと胸をなでおろしつつ、肩に乗せて耳をかいてやると、アイテルは気持ち良さそうにうっとり目を閉じた。ポルは窓を閉じて、そのまま席に戻る。しかし、ここにアイテルを連れて居座るのは目立つことに気がついた。とりあえずご飯代を払って部屋に戻ろうと思い、バッグの中をまさぐって財布を探す。薬瓶、毛布、紙束、保存食、百科事典――がさがさと探し回ってしばらく、ポルは思わず首を傾げた。どうにも財布だけが見つからない。
魔術で広げていて探しにくいからか。椅子の上にカバンをおいてもう一度奥底まで探しても見当たらない。
そういえば。さっき台帳と一緒に宿代を払った時、コートのポケットに財布を入れたのをポルは思い出した。ポルは椅子の背にかけてあるコートのポケットをひとつひとつ探る。だが、やっぱり見つからない。
おかしい。そんなはずはない。もう一度ポケットを全て探ったが、ない。座っていた椅子の周りを探したが、落ちてもいない。
いよいよポルの顔から血の気が引いてきた。『この辺りで財布見ませんでしたか?』と紙に走り書きをして、カウンターの中の老翁に見せたら首を横に振られてしまった。
退屈したのか、アイテルが肩の上でピイッと鳴いてばささと羽ばたく。これ以上長居はできない。ポルは小さく足踏みをすると、紙に『お食事代は後で必ず払いますから、少し離れます!』と老翁へ書き置いて客室への階段を駆け上がり、自分の部屋に入って鍵をかけた。
質素な木のベッドと端のくすんだ鏡、新しい水の入った水瓶、小さなクローゼットと机が置いてある小さな部屋。天井の真ん中につるされたランプをつけると、ポルはベッド横にある窓のカーテンを閉めて、おもむろに床に座った。アイテルが飛び立ってクローゼットの上に止まる。
ポルはかばんをひっくり返して中身を全部出すと、ひとつひとつ拾ってチェックした。ペン入れ、着替え用の服、ランプ油、インク瓶――確かめてはカバンに入れ、最後にさっきまで読んでいた簡易百科事典をぺらぺらめくってなにも挟まっていないことを確認すると、ちらけていた荷物が全部片付いた。
本当に財布がない。ポルはベッドに寝転がると頭をぐしゃぐしゃかき回し、はあ……と大きなため息をついた。旅に出てたったの数日で、財布をなくすなんて。
だがしかし、宿代を払うまで確実に持っていた財布だ。落ちてもいないしあの老翁に届けられてもいないということは……
盗まれた。それしかあり得ない。
財布をポケットに入れたままコートを椅子の後ろにかけて、地図に夢中になっていただけなら未だしも、コートを置いてアイテルを迎えに行ったのは、今思えば完全に不用意だった。貴重品には気をつけてカバンだけは肩にかけて行ったのに、とどうしようもない言い訳が頭に浮かんだが、ポルは起き上がって首を振るとそれをふりはらう。
こうしていてもどうしようもない。ポルはコートを着てかばんを肩にかけ、部屋に忘れ物がないか再三確認する。アイテルのために備え付けのコップに水を汲んで置いてやり、急いで部屋を出た。
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午前一時。
宿屋の食堂には人気もなくなり、カウンターの老翁も奥に引いてしまっていた。ポルはそわそわしながら、夕食を食べた席にぽつんと座っていた。たまに通りかかっては話しかけてくる酔っ払いを無言でやりすごしながら、睡魔に負けて船を漕いだり、目を覚ましたりを繰り返す。
何度めか、ポルがうつらうつら意識を手放しかけたその時。
ちりちりん!と目の覚めるようなドアベルの音とともに、大あくびをしながらルズアが戻ってきた。
「おい」
ごんっ!
カバンに顔をうずめていたポルをルズアが後ろから小突く。ポルはカウンターの角に思い切り額をぶつけて、額を手で押さえながら振り返った。
「いつまでこんなとこに根っこ生やしてんだ。ガキはさっさと寝やがれ」
ルズアは顔をこれでもかと歪めて中指を立てた。永眠しろとでも……とポルは思いつつ、椅子から下りるとルズアの手を取って文字を綴った。
『ルズアを待ってたの。ちょっと……その、ね。話したいことがあって』
「なんじゃそりゃ。気持ち悪ぃ」
失礼な!と返しそうになったが、そんなことはどうでもいい、今はもっと言わなければならないことがある。彼がどんな反応をするかは予想するまでもない。恥ずかしさで泣きそうになるのを堪えながら、ポルはことの次第を話した。
『えっとね……ルズアが出ていってから、コートを脱いでここに座ってたんだけど……途中でアイテルが戻ってきたから、そこの窓に迎えにいってる間に……どうもお財布を盗まれたみたいで……』
「はあ?」
『あの……お財布を盗まれちゃった』
「はあ」
『他にありそうなところはみんな探したけど見つからなくて……その。ごめんなさ――』
言い終わらないうちに、ルズアはポルの手をむんずと掴んで歩き出した。つんのめるポルを尻目に勢いよく宿屋から出ると、向かいの闘技場のアーチの一つに入る。周りに人がいないか見回すと、手を離してポルに向き直った。
「財布を盗られた」
『……はい』
「財布を盗られただと?」
『ごめんなさい……』
「てめえこのっ……このクソ女……ただで済むと思うなよ……」
最初こそ怒鳴り声だったのが次第にしりすぼみになり、肩をがっくりと落とすルズアを見て、ポルは怖さより情けなさが勝ってたまらなくなる。
「てめえはよりにもよって全財産が入った財布をコートのポケットなんかにしまいやがって、頭でも湧いてんのか?明日の飯はどうしてくれんだよ……」
明日の飯どころか、これからの旅費をごっそり持って行かれたのだ。ルズアに頭が上がらないばかりか、メルにもらった旅費だったので、メルにも申し訳が立たない。
『……なんとかする』
ポルは肚を決めて宣言した。
『とにかく、これからの旅費も明日食べるものも、少しでもなんとかする。頑張るわ。宿泊費は払ってあるから、明日までは泊まれるし……今夜の晩ご飯のお代、まだ払えてないしね……』
「あーあ……もう知らねえよ。勝手にしてくれ」
そう言うとルズアはうなだれながら踵を返し、宿へ足を踏み出した。
しかし、すぐに立ち止まる。唐突にポケットを探り出したかと思うと、中から少しシワになった一万ベリン札を二枚取り出した。鹿肉を売った時のものだ。
「忘れるところだった。こいつなら使える……」
ルズアはそれをポルの手にぐしゃっと押し付けると、さっさと宿へ戻っていった。
ポルはしばらく、信じられないという顔で一万ベリン札を眺めていたが、それをカバンの底にしまうと、ルズアにお礼を言うべく小走りで彼の後を追った。
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