1-15 手紙と道しるべ

 メルはさっさとソファの私の隣に腰を下ろした。厳しい顔でこちらを見る。

「ポルはこんな顔になるまで頑張ってくれたみたいだし、早いとこ情報交換して休もう。まず私から……」

『あー、でもメル……先に着替えたり水浴びたりしたら?疲れてるんでしょ?』

「いいの。メイドたちにも後でいいって言ってあるし、早く言わなきゃ忘れちゃいそうだから」

 メルは指先で自分の頭を小突いてみせた。メルがどことなく、焦っているようにしか私には見えなかった。

「私から言うよ。とりあえず行き帰りは特に何もなかった。当然前に母さんが泊まった街は避けたけどね。それで、王宮で国王と王妃に母さんの件のお詫びと、私がアトレッタ家を継ぐっていう報告で謁見してきたわけなんだけど」

 メルは頭をぽりぽりと掻いて、少し顔をしかめた。

「国王陛下がね。母さんを殺した犯人探しを、ぜひとも手伝いたいって申し出てくださった。うちには優秀な騎士がいるから安心しろ、情報はばらまかないから、ってさ。”赤い歌姫”が殺されたとなると、国民にも大きく影響する。国民が少しでも早く犯人を捕まえることを望むだろうって」

『それはまた……』

 余計なことを、とまでは言わないがなんというか……

「余計なことを」

 メルがため息混じりに私の内心そのものをズバリ言ってのけた。そのとおりだ。それはつまり、王宮の騎士や官僚を使って犯人探しをしようということ。その騎士の大半にどこの家の息がかかっているかを考えると、当然喜べはしない。

『またエルンスト家に、まんまとつけ入る隙を見せることになるわね』

 国内一の騎士貴族、エルンスト家は優秀な騎士を世に出すことで権力を築いた。犯人探しをするにあたって、国王が機密を明かすような上級の騎士にも、エルンスト家の門をくぐった者はたくさんいる。彼らは当然みな国王に忠誠を誓っているのだが、国の一部でありながら独立した権力である貴族と縁を切りきった者はそういないだろう。この家を母から受け継いだとおりに守るということは、どの貴族にもつかないということだ。それを前提にすると、私たちの問題はできるだけ私たちで解決するのが、今は一番無難なのだ。

「そうなんだよね……確かに陛下のご厚意は嬉しいっちゃ嬉しいんだけど……ごめんね、断れなかった」

 メルがうなだれる。私はその小さな頭をそっと撫でた。

『いいのよ……私が言うのも何だろうけど、一流貴族ですら国王の申し出を正面から断るのは難しいのよ。それは歴史が証明してくれている。メルはよく頑張ったわ』

「……うん」

 メルはゆっくり頷くと、私に向き直る。

「エルンスト家がつけ入る隙をこれ以上与えないために……なんとかしなきゃ」

『うん、そうね。たくさん可能性があるわ。エルンスト家は国王からの情報を元手に私たちに恩を売って、最終的には何らかの見返りを求めてくると思う。そうやって私たちと距離を詰めるのが一番手っ取り早いわ』

「犯人を捕まえたのが伯爵の手柄になったら、みんなの歌姫を守って悪人を成敗したお偉い伯爵のカッコいい話に、私たちは最後まで付き合わなきゃいけなくなる。その最後って、私が昔の母さんみたいに、エルンスト家の歌姫になることなんだよね。それはわかってる……」

 メルは頭の中を整理するように、ゆっくりと話す。私はうんうんと頷いた。

『それだけに留まらないかもしれないわね。国民に愛され、国王の寵愛を受けているアトレッタ家の歌姫たち。それを伯爵が永遠に自分のものにするためには?伯爵家つきの歌姫にするだけじゃダメだってことは、皮肉にも母さんが証明したわ。他に縛りをつけようとするでしょうね。私は、やっぱり母さんの時と同じように、あなたもエルンスト家との結婚に持ち込もうとするとしか思えない』

 メルは目を見開く。

「メル・アトレッタ=エルンストにはなりたくないよ!ねえポル、私は母さんじゃないんだよ、まだなりかけの歌姫だよ。母さんならわかるけど、なにもそこまでして手に入れる価値が私にあると思う?」

 詰め寄るような剣幕に、私は思わず少しのけぞった。母亡き後の“青い歌姫”の名が、今のメルにとって以前より重いのはわかっている。でも嘘をついてまで、そんな価値はないなんて言えない。

「やっぱり、そうなんだ」

 メルのつぶやきで、私は自分が言葉に詰まっていたことに気がついた。不安げなメルの顔を見ながら散らかった頭の中から答えを大急ぎで探す。私の思う真実を伝えなきゃ、メルは余計に悩むことになるだろう。

『ええ……そうね。あなたの名前は王侯貴族からスラムの貧民まで知ってるわ。特に貧しい人々には、あなたの歌は特に大事な気晴らしでしょう。国民の心を動かすにはね、国民の楽しみを動かすのがとても効果的なのよ』

 メルはちょっと視線を落とした。小さな肩がすくむ。

「名前……ね。そうだよね。伯爵は、私の名前が欲しいんだ……」

 そう呟くと、一呼吸おいて、やっと聞き取れるほどの小さな声で言った。

「……歌じゃなくてね」

 私は押し黙った。いつものクセでべらべら喋ったことが急にやましくなった。拾い忘れたメルの言葉がないか反芻する。いくら事実を伝えるにしてももう少しやり方があったろうに、メルの名前が一人歩きしているって言いたいんじゃなくて、メルもちゃんと歌姫として一人前で……くだらない言葉しか浮かんでこない。脳みそが油をさしていないからくりになったみたいだった。

 そのまま、少し沈黙が続いた。不安な沈黙だったのは、私にとってだけではなかったようだ。メルも私も互いの表情を伺い続け、先に口を開いたのはメルだった。

「伯爵は国民の心をつかむために、私の名前が欲しい。それに、犯人をつかまえたら、伯爵の大手柄だ。でも私、アトレッタ家は独自で犯人探しをするって言ってきちゃった。伯爵がもしなかなか犯人が見つからなくて焦りだしたら?私たちに先を越されないように、適当に犯人をでっち上げることは?」

 ひとり言の末、メルは私を見る。私は慎重に、メルの手に文字を綴った。

『あり得るかもしれないわ』

「それはまずいよ。どうすればいい?」

『私たちが先に犯人を見つけるしかない。でも幸いなことに、犯人の情報源は今のところアトレッタ家にしかない。もう私たちは彼らよりはるかに犯人に近いところにいるはずよ』

「じゃあなんとかなるかもしれない?もちろん……もちろん、簡単じゃないのは分かってるんだけど……」

『そうね、簡単じゃない。ただし私たちは、伯爵側ができるだけ新しい手掛かりを手に入れられないようにできるわね。それで少しは時間が稼げるわ。伯爵が万が一暴挙に出ることは懸念して、ぎりぎりまで凌ぎましょう』

 私は言葉を選び選びメルに話す。メルは真剣な顔の奥に心配そうな顔を引っ込めて、こくこく頷いた。

『犯人捜しは私の役目。彼らより先に犯人を見つけるのは私よ。メルは心配しなくても大丈夫……だと思ってて』

 言いながら胸がざわざわした。確証のないことを自信満々に話すのは気持ち悪い。アトレッタ家当主を言い切った時のメルの姿が、さっと頭をよぎった。メルは顔じゅうから必死で寄せ集めたような変な笑顔を浮かべて、こっちを向いた。

「そう……そうだよね。そのために、ポルに頼んだんだから。次はポルが話す番」

 メルは耳を傾けるふりをしてうつむいた。そんなに無理しなくてもいいのに、やっぱり先に休めばいいのにと、メルの顔を見て思う。だがきっと言ったところで聞かないだろう。それよりなるべく早く要件を済ませた方がいいみたいだ。メルに私の部屋に移動するよう伝えると、二人で立ち上がった。

 私は一足先に自室に入り、メルはカラスを窓の外から回収してからやってきた。

「うわっすごっ」

 入ってきたメルが開口一番、足の踏み場のない部屋に率直な感想を述べてくださった。メルはおそるおそる部屋を横切ると、私の部屋の窓から再び見張りのカラスを放つ。その間にソファに散乱した資料をどけ、そしてそこにメルと二人で腰を下ろした。

『一応この本をざっと全部読んで、書庫の資料と照らし合わせる作業なんかをしてみたわ』

“魔術書”を手に取って、序章のページを開く。メルが覗き込むなり、「なんだこれ、ぜんっぜんわかんない」と顔をしかめた。序文を訳して読んでやると、彼女はいまいち理解しているのか理解していないのか微妙な顔になった。

『この本千ページ以上もあるし、軽くまとめて話すわね。まず、言語や所々にある情報からしてこの本が書かれたのは……おそらくだけど、約八百年前、の可能性が濃いと思う。序文にもあったけど、この本にはちょくちょく“戦争”の表記が出てくるの』

「約八百年前の戦争……ってえっと……えと……“大陸戦争”のこと?」

 学校で習った記憶を必死に辿っているのか、メルが難しそうな顔をしてぼつぼつ言った。

『そうよ。前にも言ったけど、他の書物や歴史書にもこの文字を使う民族は見当たらないから、この言語そのものがかなり局地的かつ閉鎖的にしか使われていなくて、もう滅びてしまっている可能性も大きいわ』

 へえ、それで?とメルは先を促す。

『それで本の話に戻るけど、この本は最初の方から順に簡単で実生活向きの魔術から、より複雑で攻撃的な魔術へと並べられているわ。例の透明人間も、この本の真ん中あたりに書いてある“透過魔術”っていうので説明できる。多少複雑な魔術みたいね』

「ふうん……それってまず、この本は信用できるってことだよね?魔術が本当にあるかどうかなんて証明できるの?」

 訝しげな顔をするメル。私は口角をちょっと釣り上げて、いかにも大仰にテーブルを打ってみせた。

『それがね』

 それこそ私が今の今まで必死になっていたことだ。私はベッド脇のチェストから水差しと、全く同じ意匠の小さなガラスコップを三つ持ってきて、テーブルの上にある魔法陣の前に置いた。

 コップの一つになみなみと水を注ぎ、こぼさないようにそっともう一つのコップに水を移してみせる。当然のように同じ量の水がもう一つのコップに移った。こぼれそうな水入りコップを、不思議そうな表情で私の手元を目で追うメルに渡してやった。タネも仕掛けもありません、というやつだ。

 次に残った二つのコップを並べ直す。渡した水をちびちび飲んでいるメルに、静かに見てて、と合図する。そして私は魔法陣の端に手を置くと、目を閉じた。


 心を静かにし、周囲と自分の境界をひたすら取り払っていくイメージ。さっきやった通りに、繰り返す。

 しばらくすると、うっすらと魔法陣が金色に光った。徐々に光は強くなっていき、二つのコップが溶け合うようにひとりでにお互いを飲み込み始める。後ろでメルが息を呑み、水をこぼした。

 光はさらに強くなる。メルは手をかざしながら目を凝らしていた。溶け合うように合体していた二つのガラスのコップは、今や片方が片方を飲み込むような形になっていた。私が魔法陣から手を離すと金の光は一瞬で消え、そこには最初と全く何も変わらない、たった一つのコップが置かれていた。

 私はそれを取り上げると見てて、とコップを小突いてみせ、そこにいっぱい水を注いだ。

 某然としたようにこちらを見ているメルから、もう一つのガラスのコップをそっと取り上げる。メルはよほど驚いたようで、水を全部ドレスの上にこぼしてしまっていた。

 机の上の紙を全部除ける。手品を見せるように、大きさも形も全く同じ水入りのコップと空のコップをそこへ並べた。水入りの方を持ち上げると、中身を空のコップに移してみせる。

 空のコップに水が注がれていく。半ばまで入った。ふちまで入った。ついに溢れた。溢れても止まらない。全ての水を注ぎ終わる頃には、テーブルは水浸しになっていた。


 数秒のだんまりの後、メルは眉間にしわを寄せて身を乗り出した。

「……え?ど、どういうこと?」

『さっきの二つのコップを融合して一つのコップにしたのよ。つまり、今このコップの中には、見た目は変わらないけどコップ二つ分の空間がある』

 私はいま空になった方のコップをもう一度ちん、と小突いた。

「そ……そうなの?ほんと?よくわからないけど……」

『ええ、まあね。私もよ。でも、これで魔術が実在することは証明できた』

「う、うん?うん……」

 こんなにいきなり言ったところで、まあ飲み込めるわけはないだろう。私だって、本当にできた時は自分で度肝を抜いた。こんなにあっさり証明できるものが、どうして世では絵空事なのかまったく不思議に思うくらいだ。

『何か仕掛けがあるわけでもなんでもないの。ただ誰も知らないだけで、魔術は存在していた、ってことみたい』

「そういうこと、なんだろうね……」

 釈然としない顔で唸るメル。私は苦笑するしかない。

『私もびっくりしたわ。なんでこんなことが起こるのかもまだ、いまいち……』

 思わず頬をかく。

『でも、これで確実にエルンスト伯爵より犯人に近付いたことだけはわかったわ。実際に使えるなんて、“魔術”があることの何よりの証拠じゃない?あとはこれを使う人たちが誰か、突き止められれば』

 私はメルの方を見る。メルは少しだけ笑っていた。さっきの変な笑みではない、頬の緩んだ自然な笑みだ。

「そうだね、ありがとう。ポル、私、なんでも協力するよ」

 撫で下ろしかけた胸が、うっと詰まった。協力が必要なのはメルの方だろうに。安心させるつもりで言った話が、なんでそんなことになったんだろう。疑問が頭の中をぐるぐる回るだけで、ろくな答えは出てこなかった。きっと私もメルももう疲れすぎている。

 本当はもう一つ、話したいことがあった。この本の最後のページのこと。が、今はその時ではないみたいだった。計らったようにメルが立ち上がり、続きを話そうとした私の手からするりと遠ざかる。うーん、とうなりながらメルはドアの方に向かった。

「よかった、安心したよ。これで母さんのこと、ちょっとでも進歩できたわけだし。いままで私たちが考えてたことは、大体間違ってなかったのかも……ぐえっ」

 メルが後ろ手で開けようとしていたドアに突然頭をぶつけた。少しふらつくと、目の前でいきなり横向きにゆらりと倒れる。ソファの上を転げて何とか抱きとめた。メルの顔を確認すると、

「……ん……ぐぅ……」

 寝息を立てていた。

 私はふっと肩を撫で下ろす。今までも眠気を必死に我慢していたに違いない。改めてじっくり見ると、メルもやはりひどい顔をしていた。

 先に着替えたら、とは言わんこっちゃない。私はなんとかメルの体を持ち上げると、床に散らばった紙を避けながらベッドに運んだ。長いドレスのせいで簡単には運べなかった。

 髪留めと腕の装飾を外して毛布をかけてやると、かすかに唸って体を丸めた。試しに頬をつんつんしても起きない。あの一瞬でよくもこう熟睡できたものだ。

 話したかったことは、彼女が目覚めてからでいいだろう。とても起こす気になどなれないし、私もできるだけ、さっきのように言葉選びに失敗したくはない。“魔術書”の一番最後のページの話は、いわば母の犯人探しの副産物にすぎなくて、そのうえ私のわがままで、おまけに今一番話しづらいことだった。彼女の寝相を見ながら、今日はメルのベッドで寝るしかないかな、と現実逃避気味に腹をくくって、私は部屋を出た。


**********


 イーステルンの路地裏。夜のボロ小屋奥、潰れたベッドに、赤毛の少年ルズアが大の字に寝ていた。ドアは蝶番が壊れ、窓ガラスは割れてなくなり、壁には穴が空いて夜風が忍び込むどころの話ではない。

「……ん……っるっせぇ……」

 ルズアはぼそっと寝言をつぶやくと、この寒いのにかぶっていた薄い毛布を蹴っ飛ばしてくるん、と丸まった。

 その時、びゅおっと強い北風が窓から吹き込んだ。同時に、壊れそうなドアの向こうから風の音にかき消えそうな足音。

 寝ているルズアはその足音を聞き逃さなかった。知らない足音だ。飛び起きてベッドから降りると、一瞬で臨戦態勢をとる。

 足音は家のドアの前でピタリと止まった。次に、軽くノックする音。こんなあってもなくても変わらないような家のドアを、ノックする人間なんて今までいたことはない。

「……誰だ」

 凄んでみたが、ドアの向こうの誰かは答えない。ルズアは静かに手元にあった酒瓶を持った。

「ルズアさん、ですか?」

 しばらくして、ドアの向こうから女の声が返ってきた。その声にはっとする。この声は……

「ルズアさんのおたくで間違いないでしょうか?」

 女は再三問うてくる。ルズアは酒瓶を体の前に構え、低い声で威嚇した。

「だったらどうした?」

「なるほど、そうでしたか。ようやく見つけました!いやあ長かったですよ。ルズアさんに大切な所用があってきたんです」

 癪に障る剽軽なしゃべり方。ルズアは痺れを切らした。

「誰だか言えっつってんだろうが!そこまで礼儀がなってねえとは、てめえはどこのチンピラだ?この辺りのろくでなし共は全員シメたはずだが?」

「物騒なこと言わないでくださいよ、怪しいものじゃあもちろんありません。じゃあ正直に言いますよ。私はアトレッタ家の屋敷にハウスメイドとして使える者です。名はエリーゼ・アックバーンと言います」

 ルズアは黙る。この声と話し方は初めてポルに会った時、商店街の入り口でちらっと聞いた。ポルを大泣きしながら迎えに来た頭の悪そうなメイドに間違いない。身分を詐称しているというわけではなさそうだ。

「歌姫の家の使いだあ?そんな人間が何の用だ?」

「ポル様から書簡を預かってきたんです。ようはお手紙配達係ですよ。まさかとは思いますが、ポル・アトレッタお嬢様はご存知ですよね?」

「さあ、知らねえな」

「んええっ、そうなんですか!ポル様は知ってるとおっしゃってたんですがね……なんでも、お嬢様がここで迷われたときに道案内してくださった方だとか。いやはや、その際はありがとうございました」

 ルズアは近くの椅子を思い切り蹴倒した。

「知らねえっつってんだろ!」

「待ってくださいよ、知らなかったなら申し訳ございません。でもあいにく、お嬢様にはここの家に住む赤毛のルズアという殿方に用があると仰せつかってきているものでして。もしあなた様がルズア様で間違いないなら、書簡とそのときのお礼のものだけでも置いていかせていただけませんか。損はさせませんから!」

 ルズアはぎりっと歯ぎしりをした。自分が文字を読めないことをわかってバカにしているのか。

「礼をされるようなことをした覚えなんざねえが、モノがあるならもらおうじゃねえか。それだけ置いていけ」

「わかりました、わかりました。じゃあお礼だけでもお渡ししますから、ドアを開けていただけませんか?置いていくにしたって、こんなとこに放っておいたら誰かに持っていかれてしまいます。ここに来るまでだってなかなか愉快な方々にお声かけいただいてですね、なかなか大変だったんですから!」

「女目当てのここいらのサルどもがどうか知らねえが、てめえみたいに怪しいやつがほっつき歩いてたら、俺なら問答無用で寸刻みにしてる」

「じゃあ今寸刻みになってない私はラッキーですね!いやあ、ちゃんと護身術くらい身につけておいてよかった!」

 ルズアのイライラは沸騰寸前だった。このつかみどころのない話し方、態度、なにもかもが気に食わない。そんなことはどこ吹く風、相手は向こうのペースでしゃべり続ける。

「ということで、なんとかこのラッキーに免じてここを開けていただけませんか?」

 ルズアはついに思い切りドアを蹴り開け、目の前にいた外套をかぶった女に酒瓶で殴りかかった。

「うわっ⁉︎いきなりだなあっ!」

 女は一歩後ろに飛び退いて酒瓶を避けた。ルズアは構わずそのまま踏み込み、さらに勢いをつけて振り下ろす。女は籐のカゴに入った荷物を抱えたまま、またもひらりとかわす。それが数回続き、ルズアは防戦一方の女を徐々に道の脇に追い詰めていった。

 そしてついに、女が道の端で固まった雪の小山に足を取られた。ルズアはその瞬間に女の胴をめがけて酒瓶を振りかぶる。

「っあーもう!」

 女は籐のカゴを脇の雪の小山に投げ出すと、酒瓶を左腕で受け止める。ルズアは手応えと同時に、相手の骨の一、二本をいただいたことを確信した。そのまま姿勢を低くして下から頭のあたりを蹴り上げる。

「なんつー乱暴なっ」

 女は屈んでかわし、

「それならもう容赦しません!でりゃっ!」

 羽織っていた外套のなかからナイフを二本取り出した。さっきの手応えはハズレだったらしい。柄をしっかり両手に握ると、右のナイフを頭の位置に斬り込んでくる。間一髪で避けたルズアだが、赤毛が数本ナイフにかかった。その直後、次は正面から腹の位置に左のナイフで突き。ルズアはそれを低姿勢のまま横に飛んで避けた。

 そのとき、ルズアの足が女の置いた籐のカゴを蹴飛ばした。籐のカゴはゴロゴロと転がり、中の包みが飛び出す。

「ああっ!」

 女が驚きの声を上げる。包みと一緒に入っていた手紙が雪の上に落ちて、封蝋がゆるかったのか手紙の中身がはみ出した。その瞬間だった。

「久しぶり、ルズア。覚えていないかもしれないけど、ポルよ」

 二人は同時に息を飲んで凍りついた。手紙から美しい女の声がしたのだ。

「突然手紙をして申し訳ないわね。きっと『手紙が喋るなんて』って思ってるでしょう?それについては色々あるの、また今度説明するわ。それで本題なんだけれど、」

 ルズアは急いで手紙を拾ってたたみ直した。声は止まったが、辺りを見回しても固まっている女以外誰もいない。手紙を振って指で弾いて匂いを嗅いでみて、ぶん投げてもみたが、それは全く何の変哲もないただの手紙だった。

 ルズアはもう一度手紙を開く。すると、また手紙が話しだした。

「私、これから長旅に出ることにしたの。そこであなたにお願いがあるのだけど、私の旅の道連れになっていただけないかしら。もちろん断ってくれても構わない。旅の目的や行き先についてはまた後日話すけど、あなたにとって決して損でないはずよ。だから少し考えておいてもらいたいわ。一週間後のお八つ時、イース河の橋の下で会いましょう。その時にこちらから色々説明するから、あなたの答えを聞かせてください。情報が少なくてごめんなさい、ではまた」

 それっきり手紙は静かになった。

 しばらくして、ルズアがぼそりとつぶやいた。

「……何が『手紙が喋るなんて』だ」

 それにだいいちポルは――本当にポルからの手紙だと信用するのなら、彼女も言葉が話せないはずだ。では当のこの手紙の声が誰かというと、ルズアには覚えがあった。数年前に表通りの商店街でたまたま聞いた歌声と同じ。“青い歌姫”メル・アトレッタの声だ。透き通るような神々しい特徴的な声を、音や雰囲気で人を判断するルズアが忘れるはずがない。

「いやあ、ほんとに。びっくりしました。なんつー仕掛けですかね」

 やっと我に返ったらしい女が、あっけに取られて言った。ルズアが顔をしかめる。

「てめえが知らねえのに俺が知るか」

「んーいや、なんていうか……知らないわけじゃないんですけど」

 女はぽりぽりと頭をかいた。

「私も信じられないんすよ。お嬢様が発見したもんらしくて。何をどうやるのか知らないですが、“魔術”って言うらしいですよ、そういうの」

「あ?なんて?」

 ルズアの口元が引きつった。なんだ、あの女は金持ちの屋敷に引きこもりすぎで頭がおかしくなって、ついに悪魔に魂でも売ったのか。じゃなきゃ聞き違いだろう。対する女はあっけらかんと肩をすくめた。

「だーから私もよくわかんないって言ってるじゃないですか。ただ、私がここまで来れたのもその“魔術”のおかげだったりしてですね」

「はあ?」

 訝るルズアの前で、女は外套のポケットから紙切れを取り出して広げ、ぺらぺら振った。

「なんでも、お嬢様曰く“地図魔術”とか“方位魔術”って言うらしいんですけど。これはただの羊皮紙ですよ。んで、そこにこう、“魔法陣”とかいう変な模様を描いて、その裏に適当に矢印を描くんですよ。行きたい場所を思いながら、この紙切れに魔術をかけるとあら不思議、紙切れに書かれた矢印がその場所の方角を示してくれるんだとか。いやあ、ほんとにそうだったからびっくりしました。今紙面の矢印があなたのお宅をさしてます」

 女は大仰にぐいっと親指でボロ小屋を指してみせる。

「ああ、ちなみに勝手に喋ってるわけじゃないですよ。お嬢様にはちゃんと必要ならば話してくれと仰せつかっておりますから」

 この女もイかれているらしい。ルズアは頭痛がしそうだった。だが、あれだけ道に迷って泣いていたポルがルズアの家までの道のりを教えられるはずがない。女が言ったとおりなら、ここがわかった理由は確かに説明できるのだ。ルズアが黙っていると、

「じゃ、何はともあれ伝言は果たしましたし、渡すものもここに置いて行きますね。お嬢様の伝言を聞き入れてくださるかどうかはルズア様次第ですから、ぜひご検討ください。ということで」

 女はナイフをしまってのそのそ歩いていくと、籐のカゴの中身を拾い、小綺麗に整えてルズアの前に置いた。

「ちなみに、中身はポル様お気に入りのマカロンです」

 そのまま膝を折って一礼する。

「では、大変ご無礼をいたしました。失礼します」

 フード付きの外套を翻してそそくさと去って行った。


 ルズアはそこに突っ立ったまま、女の去った方を向いて一人置いてけぼりを食らっていた。魔術だとかわけのわからないことを聞かされたが、どうやらあの箱入り世間知らずお嬢様が長旅をするらしいことはわかった。それで、なんの理由だかルズアを旅の道連れにする話になっているらしい。

 さっぱり意味がわからない。あいつには自分よりもっと優秀な護衛職が屋敷に何人もいるんじゃないのか。わざわざこんなスラム街の一住人に話を持ちかけるわけなんぞ分かるもんか。ルズアは心の中でポルを質問責めにした。当事者を置いてよくそこまで話がまとまったものだ。一体どこから突っ込めばいいんだ?

 するとその時、そう遠くないところから、今度はよたよたと重くおぼつかない足音が聞こえてきた。

 ルズアは頭を振って考えを振り払った。父親が帰ってきたらしい。あの足音では、父親はまた何処かで飲むだけ飲んできたのだろう。酒代はどうせルズアが昨日日雇い職で稼いだ小金だ。遠くからは、どんちゃん騒ぐろくでなしどもの笑い声、安っぽい女たちの黄色い声、激しい喧嘩の殴り合いの音が混ざり、雑音となって耳を煩わす。毎日辟易するような喧騒だ。

「旅……」

 ルズアはふとため息交じりにつぶやいた。旅、といったらつまり、もしかしたらこのうんざりするような裏路地から抜け出せる可能性ともいえる。もう二度と耳障りな下衆どもの笑い声を聞かなくてすむかもしれない。もう二度と表通りに出るたびいちいち罵られなくて済むかもしれない。もう二度と――

 可能性が、眼前にぼっと火を灯した。この汚い貧民街の土に墓穴を掘るものだととっくの昔に諦めていたら、そんな頃になって「旅」なんていう言葉を聞こうとは。しかもどうだ、目的は置いておいても、ばかでかい屋敷に住む人間がわざわざ使いを寄こしての誘いだ。どこに行こうと構わないが、よっぽど不自由する旅ではないだろう。この目とこの身分でここを出られるまたとない奇遇だ。

「……巡り合わせか」

 大昔に、親から聞いた言葉を思わず口に出す。ちょうど派手な音を立てて家の扉を蹴り開けた父親に見つからないよう、手紙をそっとポケットにしまった。一週間後に出す答えを、ルズアは早くも確信していた。


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