1-14 王宮にて

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 屋敷を出発してから、二日目の昼下がり。真っ赤なじゅうたんが敷かれた広い廊下を現歌姫となったわたし、メル・アトレッタは静かに歩いていた。

 喪に服すための黒いドレスが、ヒールの足音の後から床を摺る。わたしの前にはアルバート王国の宰相、ゼグラが案内役として歩いていた。意識してうつむき気味になると、ゼグラのぴかぴかの靴が目に入った。

 わたしの後ろからは大量の足音がついてくる。お屋敷から連れて来た護衛と使用人がすぐ横と後に続き、その外側を槍を持った王宮近衛兵が十人ほど。とても固い警備だ。仕方ないとはいえ、動きにくくてしょうがない。

 すれ違う役人はみんな深く頭を下げ、中には膝を折って頭を垂れる人までいる。宰相のお迎えといいそれといい、わたしはいつの間にそんなに偉くなったのか聞いてみたいくらいだ。アトレッタの家は貴族と同じくらい有名だが、わたしは貴族でもなんでもない。母さんだってそうだった。まあどのみち、どういうことなのかは今のわたしにはさっぱりだ。

 アーチ型の大きな窓から、さんさんと日光が降りそそぐ美しい廊下。その突き当たりにある、こまかい細工でいっぱいの見上げるような大扉の前に、わたしたちはやってきた。宰相ゼグラは時代遅れのくるくる白髪を、ひょこひょこ揺らしながら振り返った。

「王の間でございます」

 扉の両側に立っている兵士が、ゆっくりと扉を開けた。

 その向こうは、大聖堂かと思うくらい巨大な広間。白がメインの空間を、まっすぐ突っ切る紅いじゅうたん。鏡のようなぴかぴかの床。ずっと高い天井からは大きな金のシャンデリアが吊るされていて、右側の壁には歴代のアルバート国王の肖像画が一、二……二十近くずらり。左側は立派なバルコニーになっていて、青い空と美しい雪まじりの庭が広く見渡せた。

 宰相に連れられて、わたしたちは王の間に足を踏み入れる。紅いじゅうたんの先には、両側に二本の柱の立った階段があって、そのてっぺんに宝石をちりばめたごうかな玉座があった。

 玉座にゆったり腰かけるのは、すばらしい衣装を着て黄金の王冠をかぶった、栗色の髪、口ひげ、瞳を持つ四十代半ばの引きしまった男性。この部屋の主……そしてこの国の主、アルバート国王サンセメッド・オル・アルバートだ。

 その横には、きれいなドレスを身につけた黒髪の美しい女性、王妃テリーシャが寄り添っていた。

 二人の頭の上には巨大な旗がかけられている。濃い青の地に銀糸でぬい取りされた、翼を大きく広げたくちばしの細い小鳥。その左胸、心臓のところに北極星を表す星模様。アルバート王国の国章で有名な「アジサシの紋」だ。二人はその下から、柔らかく笑ってこちらを見下ろしていた。

 階段の手前あたりで、わたしは足を止め、膝を折って頭を垂れる。周りの人も一斉に膝を折った。ゼグラはあたふたと小走りに玉座の方へ行き、階段の下で姿勢を整えこちらを見つめる。

「お久しゅうございます。本日はお目にかかれてこの上なく光栄に存じます、国王陛下、王妃殿下」

 わたしは頭を垂れたまま、うやうやしくそう言った。緊張で汗が噴き出すのがわかった。すると、国王がゆっくり立ち上がる。

「久しいな、メル・アトレッタ嬢。よくきてくれた。どうか顔を上げてくれ」

 人を安心させる深いテノールが、王の間に響いた。おそるそおそる顔を上げると、国王は父親が娘を見るような優しい顔でこちらを見ていた。

「美しくなりましたな、メル嬢。いや、アトレッタ殿と呼ぶべきかな……最後にそなたを見たのはしばらく前になるが、いまやもう立派な大人の女性だ」

「ありがたいお言葉……ですが、今はもったいのうございます。今日私はお詫びに参ったのです」

「お詫び?はあて、何のお詫びだ?」

 国王はゆっくりと前に屈んだ。わたしはちらりと国王の顔を確かめる。

「母の件でございます。母が亡くなったのは王宮に向かう中途だったと存じております。母が国王へのご奉公を全うすることが出来なかったことを、お詫びに参りました」

 それを聞くと、国王は悲しげに表情をゆるめた。

「ああ……そういうことなら余は気にしておらぬ。むしろ余がここに呼ばなければ、貴殿の母上がなくなることもなかったのではないかとも思うほどだよ」

 わたしは慌ててもっと頭を下げた。

「いえっ、そのようなことでは……どうかお気を煩わされませんよう……」

「まあまあ、そう焦らずともよい。一番彼女の死を悼んでいるのは貴殿であろう?葬儀に参列出来なかったことは非常に残念だった。視察の帰りに大嵐に遭って足止めを食らっておったのだ。テリーシャに代わりに行ってもらったが……余も心より追悼申し上げる。貴殿の母上はこの国の誰より美しく誰よりも淑やかで、彼女の歌声は国中の民の心を洗った。非常に素晴らしい歌姫だった」

 国王は体の前で十字を切り、短く祈った。一大国の王が真剣に死を悔いるほど、母さんは寵愛されていたらしい。畏れ多いことだ。

「……ありがたきお言葉。母も冥界で喜んでおりますでしょう」

「……ふむ」

 国王は大きくうなずくと、玉座に座り直した。表情が少し厳しくなる。

「ところでだが、その”赤い歌姫”を刺した犯人とはどのような人物なのか、何か情報はないのかね?」

 その質問にわたしは答えようとして、慌てて口を閉じた。わたしが正式にもらった情報といえば、ここまでくる間に護衛のリーダーから伝え聞いたものだけだ。知らないはずの情報をわたしは山ほど知っている。気をつけて言葉を選び、もう一度口を開く。

「私は同行していなかったので詳しくは分かり兼ねますが……相当の手練れであったようで、犯行は非常に素早くこちらの情報も曖昧でございます」

「相当の手練れ……ふむ。だが大まかな容姿くらいは分かるであろう?」

「伝え聞いた情報ではありますが。体格からしておそらく男性。使った得物は赤い柄と金の鍔の、刃渡り約五十センチほどの短剣。その他は……布とと帽子で顔のほとんどを覆い、黒ずくめの衣装と手袋ですべての皮膚を隠していたので、肌の色すら分かりません」

「身体の大きさなども?」

「はい……はっきりと目処をつけることはできなかったようで、おそらく大柄であるという程度しか」

「……そうか。それでも有意な情報には変わりあるまい……」

 サンセメッド王はあごひげに手をやりながら、眉にしわを寄せた。わたしは返答に困って、目があちこち泳いだ。

「……ほんの少ない情報で申し訳ございません。この事件はアトレッタ家の失態でもございますので、私共で独自で捜査しようと思っておりますゆえ……どうかお気を煩わされませんよう」

「いや、アトレッタ殿よ。貴殿はまだ家の立て直しで忙しいであろうし、単独では調査できる範囲も限られてこよう。”赤い歌姫”は国民の希望の星であり、国民の誇り高さの象徴でもあった……彼女の訃報が国中に広まれば、犯人の捕縛への要望が大きなうねりとなって押し寄せるであろう。国のためでもある、どうか余に協力させてはもらえまいか」

 国王の真剣な申し出に、わたしは思わず顔を上げる。ゼグラが国王にちらりと目をやったのが見えた。

「いえ……ですが……国王陛下……」

「今ここで貴殿が言われた情報については箝口令を敷き、今後の捜査に当たっても情報の共有は最小限にすることを約束する。心配されることはない。騎士の中には優秀な情報網や人材を揃えておる。必ずや、出来るだけ少ない情報から多くの成果を引き出せる。今日明日は王都に滞在されるかね?」

「ええ……はい、明々後日の明朝に王都を発つつもりです」

 断るすきが、なかった。

「ならばよろしい。疲れているだろうが、明日再び城に足を運んでもらえんかね?遣いの者を寄越してくれてもよいが。事件の状況をもう少し詳しく聞かせてほしい。あー……ついでに、息子と娘に何か歌ってやってくれるとありがたいぞ。”青い歌姫”よ」

 そう言うとサンセメッド王はにっかりと笑った。横でテリーシャ妃もほんわりと笑っている。

「……はい、かしこまりました」

 わたしはもう一度頭を垂れる。わたしにはまだ、王の申し出をうまく断るのは無理みたいだ。

「余から話すことは以上だが、貴殿は何か他に言いたいことはあるかな?……ないのなら、手間を取らせた。今日は長旅で疲れたであろう、ゆっくり休まれるとよい」

 サンセメッド王がやさしい声で、ほれ、ほれと立ち上がるように急かしてくる。

「では、失礼いたします」

 わたしはていねいに礼をして立ち上がる。国王の顔を一度じっと見て、ゆっくりと背を向けると、またぞろぞろとお付きを連れて王の間を後にした。ゼグラは一緒にこなかった。

 扉の外にいた新しい案内役の侍女についていきながら、わたしは考える。お屋敷にいい知らせは持って帰られなさそうだった。アトレッタ家の一存では、エルンスト家の干渉をさけられなくなってしまったのだ。母さんなら、どうしただろう。うまく国王に一言申し出られたのだろうか。これで、国王にあんなに寵愛された母さんの代わりになれるのだろうか。唇を噛んで、赤くもやがかかったような母さんの姿を思い浮かべる……きっと、母さんはこう言ったろう。

 本当に私の後を継ぐ気なのね、最初はそれくらいで十分よ、と。


 **********


 黒い表紙を開いて六日目の昼下がり。窓の外に広がる空では、まだらに浮いた雲が太陽を見せたり隠したりしていた。どうやらこれから天気が悪くなりそうだ。

 日の差す部屋には円形の複雑な図形や、古代文字と現代文字が入り混じってごちゃごちゃに殴り書きされた紙が無数に散らばっている。その上様々な文字で書かれた本が大量に落ちていて、足の踏み場もないような有様だった。

 その中でテーブルに向かい、私は一人”魔術書”をめくっていた。メルがお屋敷を出て三日目に、この本には目を通し終わっていた。もっとも千ページ以上ある古代文字を解読しながらなので、斜め読みすることすら楽ではなかったが。

 どうやら最初の方に簡単な魔術や実用的な魔術が書かれ、最後の方に行くにつれて複雑なものや攻撃的なものが増えていく構成のようだった。そして案の定、真ん中から少し前あたりに”透過魔術”、光を歪めることで物体を透過して見せる魔術の項目を発見した。つまり、この本の中では母の部屋に侵入した透明人間の説明がついたということだ。

 そしてもう一つ、この本を読んで得られた大きな情報があった。

 この本の、最後の最後のページ。見るところ著者の大きな喜びと共に……そしてそれと反して忌まれでもしているかのようにひっそりと書かれた、たった一ページに私の心は大きく惹かれていた。

 だがやはり、これらの情報が成果となるには確証が足りない。何よりこのとんでもない”魔術”の実在を証明しなければならない。それができなければ、この本が全てうそっぱちだったことになるわけだ。透明人間だけじゃ誰に話したところで納得してもらえない。私は三日前から、”魔術”の実証作業に取り組んでいた。

 ふう。私はため息をついて伸びをすると、持っていたペンを投げ出して、床に散らばった紙の中を探る。

 しばらくして見つけたのは、複雑な円形の図、いわゆる魔法円が大きく描かれた紙。この本の中では、”魔法陣”と呼ばれていた。それを目の前に置くと、”魔術書”の最初あたり、紙に描かれたのと同じ魔法陣の載ったページを開いて、その隣に並べる。

 最後に今しがた空になったインク瓶と、さっきまでアイスティーの入っていたガラスのコップを紙の向こうに置いた。

 紙に描かれた魔法陣の端に手をかけ、一度”魔術書”のページに目を通してから、インク瓶とガラスのコップを見据える。そのまま、ゆっくりと今見たページのフレーズを頭の中で繰り返す。

 自分の内を見つめよ、そして外界と主体との境界を排除せよ。限りなく自分を、一つの物体として見つめよ。自らは莫大なエネルギーを持った一つのモノだと……

 それと共に、雑念を一切排除していく。頭の中で繰り返すフレーズさえも次第に消えていった。

 感覚が研ぎ澄まされてゆく。感じ取れる物すべてを自分の内に受け入れる。だんだんと、自分が周囲のものに溶け込んでいくような、そんな錯覚を味わい始める、その時。

 魔法陣が金色に光を放ち出した。最初はうっすらと、だが徐々に強く。私はそのまま微動だにすることなく、目の前のインク瓶とガラスのコップを見つめていた。

 突然、隣り合わせに置いたインク瓶とガラスのコップに変化が現れ始めた。

 両者が触れている端っこから溶けるように一体化し始めたのだ。しばらくすると、どちらかといえばガラスのコップがインク瓶を飲み込むような形で溶け合い、そして……

 コンコン。ノックの音で私は飛び上がった。それと同時に魔法陣の金色の光が霧消する。

「お嬢様ー、よろしいですかー?」

 ドアの向こうから聞こえてきたのは、エリーゼの能天気な声。私はガラスのコップとインク瓶の中途半端な融合体を、見つからないようゴミ箱に投げ入れ、慌ててドアを開けた。

「……お嬢様、また顔が大変なことになってますけど」

 私の顔を見た瞬間エリーゼが呆れたように言った。

「昨日は一体何時にお休みになったんです?」

『えーと……いつだったか』

「寝てないんですね」

『あー……うん。そうね』

 またばれてしまった。

「なんでばれたんだろうみたいな顔しないでくださいよ。鏡で自分の顔見てください、誰でもわかります」

『そうですか……』

 そんなにひどい顔になっていたのか。鏡を見る間も惜しくて、気がつかなかった。

「メル様がお帰りになりましたよ。そーんな不健康な顔でメル様に何か言われても私知ーらなーい。もしかしたら、これからポル様が寝るのを確認するまで私が添い寝しろって命が下ったりして!」

『はあ。エリーゼなら別にいいけど』

「……んへぇ?いいんですかあ?」

『ダメな理由はないわよ。ちっちゃい頃よく三人で一緒に昼寝したじゃない』

「ま、まあそうですけど。じょーだんですよ、じょーだん」

『ああ、そうよね。エリーゼはお年頃だもんね、エリーゼが嫌よね』

「それどういう意味で言ってるんです?女性同士で恥ずかしがるほど私は繊細じゃないですよ?それに年齢的にはあなたもお年頃です」

『え?だって、エリーゼ美人だし。夜は男の人を部屋に連れ込んだりとかするんじゃないの?よ、夜這いって言うんでしょ、そう言うの』

「顔真っ赤にするくらい恥ずかしいなら言わないでくださいよ!私この屋敷に下宿してるんですよ⁉しかも私の部屋ペレネさんと同室だからできるわけないでしょ!そもそもどこで覚えたんですかそんな言葉!」

『書庫に法律違反で絶版になった本があって』

「はあ?」

『“寝台の上の黒蝶~美しく艶かしき女騎士の日常~”っていう本だったわ』

「誰なんですかね、書庫にエロ本隠したの」

『木を隠すなら森とは言うじゃない?隠すとしては賢い場所だと思うわ』

「そういう問題じゃないんですけど?」

『そう?じゃあどう言う問題?エロ本っていうのがどういう本のことを言うのかいまいちわからないけど……』

「分かってなかったんですか、それも問題ですね」

 私は眉間にシワを寄せて、記憶を手繰り寄せた。

『えー、つまり、その本は男だらけの駐屯地に赴任した女性騎士の寝室に、毎夜違う男性騎士が疲れを癒しに……』

「だーもうそれ以上言わなくていいですよ!もうその先は言われなくてもわかります!」

『はあ。こんな内容だったけどそれはどうなの?エロ本なの?』

「間違いなくそうですね。そもそも、お嬢様がそんなに真っ赤になって内容を言わなきゃならないようなのは大っ抵エロ本です。しかも法律違反で絶版になったってつまり、公然猥褻的な意味でですよね」

『訴訟の事例として法学書に名前が出てたわ』

「完全にアウトじゃないですか!まさか誰もお嬢様が書庫の本を隅っから隅まで読み尽くすとは思ってなかったんでしょうね!」

『その他にも似たような内容の本が幾つかあったけど』

「分かりました。どうやら趣味が統一していると言うことは、同一犯の可能性が高いですね。ペレネさんに報告して、犯人をじっくり洗い出しておきますね……あのバカ庭師と門番の男どもが怪しいかな……」

「ポルっ!」

 エリーゼの声を遮って、階段の方から無邪気な声が廊下に響いた。

 階段から顔を覗かせたのはメル。黒いドレスを着て金糸の髪を揺らしながら、嬉しそうに顔全部で笑ってはいる。しかし、その笑顔に若干疲れが見て取れた。長いドレスで走りにくそうに駆け寄ってきて、

「ポルっ!ただい……どうしたのその顔ぶぇっ!」

 抱きつこうとしてきたメルは、私の一歩前でドレスの裾を踏んづけ、変な声を上げながら前のめりに私の胸に飛び込んだ。

『おかえり。お疲れ様』

 メルの勢いによろめきながら、その手を取って綴った。メルはこちらを見上げたかと思うと、みるみる間にむーっとむくれる。

「ポルは私がいない間に何してたのさ?こーんな隈なんか作っちゃって肌も荒れてるしげっそりしてるし、どうせ寝てないんでしょ?ご飯もあんまり食べてないんじゃない?ばれないとでも思った?」

 片方の手で私のほっぺをぐいぐいつねる。わりと本気で怒っているようだった。

『ご、ごはんはちゃんと食べてるわよ』

「それ以外は当たってるわけだ」

 メルは体を離すと、

「こっちきなさい」

 私の腕をつかんでメルの部屋に引っ張り込んだ。私をソファに座らせて、メルはドレスを引きずりながらチェストの上の鳥籠からカラスを出す。

「見張っててね」

 カラスにそう言い聞かせると、窓を開けて外へ放つ。次は時計の上でウトウトしていた黒鷹のアイテルを起こして、同じように言い聞かせて今度は廊下に放った。

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