1-13 ベルンスラートの魔術書
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「……い……おい……」
なんだか、あったかい。
あたりは真っ暗闇。すぐそばで人の声がする。重たい頭をもたせて、ゆさゆさと揺すられている感覚が気持ちいい。
「……ポル……ポル!」
人の声が、私の名前を繰り返している。そういえば、聞き覚えのある声だ。誰かに呼ばれているのかもしれない。周りの状況を知りたかったが、まぶたが上がらなかった。もう少しだけ、このままでもいいだろうか……
「起きやがれこのクソチビ女ぁ!」
怒号と同時に息をのんだ。ずざざざざ……と意味の分からない音がして、肌のいたるところに何かが刺さる。ぱっと目を開けると、ルズアの赤髪が視界を埋めている。
私はルズアにおぶわれた格好のまま、知らない家の垣根に横向きに突っ込んだらしかった。どうやら考えるに、彼はおぶった私を横方向に思いっきり振り回して、私は遠心力で垣根に突っ込んだというわけだ。肌に刺さったのは垣根の木の枝で、葉っぱがばらばらそこら中に散らかった。まったく、彼は私を起こしたかったのか、それとも私への鬱憤を晴らしたかったのか何なんだ。どちらもか。
「……起きたか馬鹿野郎」
野郎じゃないのに!とどうしようもない言いがかりが頭をよぎったその瞬間、ルズアがぽいっと手を離した。私は慌てて着地し、何とか態勢を整える。枝や葉まみれになった体をぼそぼそときれいにしながら、あたりを見回した。
『ここは……?』
「お前んちの馬鹿でかい屋敷だ。見覚えもねえのか?」
私はもう一度あたりを見回し、正面にある高い生垣の上を見上げて理解した。そこから、見覚えのある屋根の端っこがのぞいている。私が突っ込んだのは、お屋敷とは道を挟んで向かいにある家の垣根だった。お屋敷の屋根の向きから判断して、恐らく裏門とは違う方向の生垣の外に私たちはいるのだろう。二回しか外に出ていない私が、道理でぱっと分からないわけだった。
『はあ、間違いなく私の家だわ』
もう一度服を払って軽く目をこすり、ルズアに向き直る。
『ここまで、どうもありがとう』
ルズアは半分呆れたような、半分鼻で笑いたいような変な顔になった。
「ありがとうじゃねえんだよバカが。相手があの飲んだくれどもじゃなかったことに感謝でもしてろ。いい加減自分の身分をわきまえやがれ、お、じょ、う、さ、ま」
これでもかと眉間にシワをよせ、わざわざ目と鼻の先の距離まで近付いて凄んでくる。おそろしく腹が立つ顔をしていた。人をこき下ろすこの視線は、本当に盲目なのか本気で疑いたくなるほど洗練されている。あんまりな返事に、こっちも返さないのは悔しくなってきた。
『それで、よく私の家がわかったわね。どうして知ってるのかしら?』
ルズアのマネをして、ちょっと横暴な言いがかりをつけるくらいのつもりで言ったら、彼はそれを歯牙にもかけない様子で姿勢を戻した。
「さあな、この辺りは金持ちだらけだから、ちょくちょく生活資本を調達しにくるだけだ。こんな馬鹿でかい建物が建ってたら、嫌でも知ってるぜ」
『それじゃ答えになってないわ。私の家がどうしてその、こんな馬鹿でかい建物だとわかったの?』
「はっ、普通に考えろよ。この町に住んでる貴族がいねえのはてめえだって知ってんだろ。貴族がいなかったら、”赤い歌姫”がここいらのちょっとした金持ちが住む住宅街の中ではトップの金持ちだ。当然屋敷もビッグだろうよ。何度もきてんだから分かる」
なんだ、ここには何度も来てるのか。なんだかそれを聞いたら、急にお屋敷の垣根が薄っぺらくなったような気がした。じわじわと、もう一度お屋敷にこもりきりの生活に戻る勇気がわいてきた。
『そうね、確かに。実際私の家はここで間違いないし……わざわざ送ってくれてありがとう。いい加減、そろそろ帰らないと』
私は一歩歩んで、彼の手に綴った。
『じゃあ、またね』
ぐだぐだルズアを引き留めて別れを惜しんでいても仕方ない。私はあっさりと、そのまま踵を返す。垣根の上からちょこっと見えるお屋敷の屋根から裏門の方角を推測し、振り返ることなく早足で歩いた。もう日はほとんど沈んで、道沿いに家先の灯りが漏れている。
「おい、ポル」
後ろから私を呼び止めるルズアの声がしたような、気がした。風に揺られた垣根の葉音で、はっきりとは聞こえなかった。
私は振り返らなかった。振り返ったら、また外への誘惑と胸の詰まるようなお屋敷からの逃避願望に、せっかくさっき出たなけなしの勇気が負けてしまう。
「おい、ポル!」
しかし、次はまぎれもなくはっきりと聞こえた。彼が私を呼び止めるなんて、よっぽどな用でもあるのだろうか?
振り返ってしまった。彼は少し遠くで、真冬の衣服としては薄手すぎるズボンのポケットに手をいれたまま、こちらを向いていた。
「そっちの門、閉まってるぞ」
歩を進める足が固まる。
「………お前、どうやって抜け出して来てどうやって戻るつもりなのか知らねぇけど、門の鍵を開けて出て来たんだよな?こんな時間まで開けっ放しになってるわけねえよ」
固まったまま、沈黙。
当然である。少なくとも私が鍵をくすねたメイドが買い物から帰ってきた時点で、裏門は閉められているはずだ。首尾よく抜け出せたのはよかった。だが、出てきた時の自分に問いたい。
一体どうやって戻るつもりだったんだ?
裏門は閉まっていて、この時間なら警備もいる。正門が開いているわけはないし、門番が詰めているので開けてはくれるだろうが、それこそのこのこ外に出たことを自首しに行くのと同じだ。
庭師のお兄さんが垣根の手入れも欠かさないので、お屋敷をぐるりと囲む垣根も人が通れるような穴が開いている可能性はない。もちろん開けるわけにもいかない。音で誰かが飛んでくるだろう。いよいよお屋敷の中に戻ることに絶望感を感じ始めて、それなら穴を掘ったら……と無茶苦茶なことが頭を駆け巡る。高さ約三メートルの垣根と、固く守られた門。どう戻ればいいっていうんだ、私は。
仕方なく、もそもそとルズアの所に戻る。
「で?いい方法は思いついたのか?」
また鼻で笑われた。ルズアの顔を直視できない。
『よ……よく裏門が閉まってるって分かったわね』
「お前がアホみたいに寝てやがる間に見に行ったんだよ。誰か詰めてそうな気配がしたから、そこの垣根の角で戻ってきたけどな」
『あらそう……』
「それで、どうやって中に入るんだ」
『……どうしよう』
私は思わず頭を抱える。
「てめえは正真正銘のバカだな」
ルズアは真顔で毒づくと、おもむろに垣根に耳を寄せた。しばらくそのままにしていたかと思うと、少し顔をしかめて垣根から離れ、くるりと踵を返して正門の方向の角に向かって歩き出した。私も慌ててついて行こうと、足を踏み出す。
「お前はここにいろ」
後ろも振り向かずぴしゃりと一言。私は足をもとの位置に戻した。
見ていると、ルズアはそのまま角まで歩いて行って立ち止まり、そのまま微動だにしなくなった。数分間そうしたあと、またおもむろにこちらへ戻ってきた。
「お前んちの警備がクズで助かるぜ」
『はあ……クズってねぇ……』
「この垣根は思ったより分厚いみてえだな。向こうに人はいない。あっちは正門だな?やたら人が集まってるが何かあるのか?」
『え?いえ……今日は特に何も無かったはずだけど』
どうやら、主に音と気配から今の情報をすべて察してきたらしい。恐ろしいほどの鋭さだ。お屋敷の庭は横長で、自分たちのいるこの横辺の角から正門までは結構な距離があるというのに。
いや、そこに驚いている場合ではない。正門に人が集まっているって、どういうことだろう?そんなことは外から客を迎える時か、家の重要人物が出入りする時、特に遠出する時しかない。エルンスト伯爵がまさか戻ってきたのか?それとも今家にいる唯一の重要人物……メルがどこか遠くに出かけるのか。だとしたら、メルが遠出する理由は「王都に行く」と言っていたことしか思い当たらない。不覚にも生々しい母の死がフラッシュバックする。いくらなんでも急ぎすぎじゃないか。
ルズアに目をやると、垣根を見上げる仕草をしては、その向こうに耳をそばだてている。私は再び湧き上がる黒い渦をなんとか振り払った。
「だいたい三メートルくらい……だな?今なら行ける」
ルズアはポツリと呟くと、私の方に直った。
「お前、運動は得意か」
『え、ええまあ。かけっこや木登りなら小さいころからよくしてるわ。苦手ではない、かしらね』
「そうか、ならいいな」
『え?何が?』
ルズアは彼から五メートルほど先の道を指差した。
「あの辺りから走って来い。思いっきりだ。ここで全力で踏み切って、出来るだけ高く上に跳べ。いいな。出来るだけ真上に跳べよ」
『ねえ、何がいいの?』
「靴は脱げよ。雪だから痛くはねえだろ、ちょっとくらい冷たくても我慢しろ」
『だから、どういうことなのって』
「……急げ。門の方が騒がしくなった」
『ああもう、わかったわよ!』
大方何をしたいのか想像がつかないでもないが、もう少し説明してくれてもいいのに。そう思いはしたが、はたまたバカをやらかしたのは私である。文句は言えなかった。私はとりあえず靴を脱ぎ、靴下をその中に入れた。
「それを垣根の向こうに投げろ」
言われたとおりに後ろに数歩下がって、思い切り靴を投げる。カサッ、とかすかに向こうの木か何かに靴が引っかかった音がした。
「よし。そのままあとはさっき言った通り」
結局説明するつもりはないらしい。私はさっきルズアが指差した二つの地点を目で確認し、歩測する。踏切位置からスタート位置までおよそ四メートル半、広めの歩幅で約五歩。スタート位置について、ルズアを見る。数秒してルズアがこくりと頷いた。
地面を蹴る。できるだけ初速のスピードを出し、勢いに乗って歩測通り五歩で踏切位置に到達、そのまま利き足で思い切り踏切って真上に飛び上がる。出来るだけ高くなるよう、足を曲げて高さを稼ぐ。
その瞬間、ルズアの手が私の足裏を捉えた。重力に従って高度を下げる寸前の体を上に押し上げる。
「飛び越えろ!」
ルズアの声と同時に、上への推進力と膝のばねを利用してさらに跳び上がる。二段ジャンプのような体だ。踏み台にする格好になったルズアには、内心でものすごく謝った。
私の体はふわりと垣根の高さを超えた。しかし、垣根の厚さが行く手を阻む。そのまま垣根の上をとっさに掴み、棒高跳びよろしく勢いを利用して方向転換、足から垣根を越えることに成功した。あとは落ちるだけ。
ガサッ、ぼすっ!
小気味の良い音を立てて、まだ誰も踏んでいないらしい、厚く積もった雪の上に下半身から落ちた。柔らかい雪粒が舞い上がる。痛くはあったが、硬いところに落ちなかったのは幸運としか言えない。
右手にひりひりする痛みを感じて目をやると、手首の上あたりが擦れて血が出ていた。垣根の上を飛び越えるための支柱にしたせいで、落ちる時に垣根の端の枝に引っかかったのだろう。傷は大きいがあまり深くはないようだ。
まさかこんな方法で戻れるとは思ってもいなかった。ほうっと息をついて垣根を振り返ったが、厚く茂った葉や枝でほとんど向こうは見えない。それでも、ほんのわずかな隙間から、燃えるような赤毛が消えるのを見たような気がした。
私は垣根から目を逸らす。とにかくお屋敷の中に戻ってきてしまったのだから、なんとかして部屋に帰らないといけない。立ち上がろうとすると、足が冷え切って感覚がなくなっているのに気づいた。霜焼けにならないか心配だが、靴を脱がなければルズアが痛い思いをすることになったのだろう。靴は片方が少し遠くの雪の上に落ち、もう片方は木に引っかかっていた。
両方の靴を拾って履くと、抜き足差し足で屋敷に向かう。途中で正門の方に目を凝らすと、母が出かける時に乗っていた金細工入りの黒い馬車が石畳の上に三台止まっていて、真ん中の馬車の扉の向こうに、メルの金糸の髪がひらりと消えるところだった。馬車の周囲には護衛の背広がたくさん、メイドも数人控えている。玄関のそばにペレネが見えるが、エリーゼの姿は見えなかった。やっぱり遠出するらしい。行くとしたら王都だろう。
警備が厳重になったのは、母が最後に出て行った時より馬車が一台増えたのを見れば明らかだ。この不安が杞憂で終わってくれればいいのだが……
「おや!お嬢様?」
突然後ろから声がかかり、背筋が凍る。振り返ると、庭師のお兄さんがスコップを持って素っ頓狂な顔でこっちを見ていた。
「どうしたんっすか?こんなところで。メイドの姉様がたがお嬢様はお昼寝中だって言ってたんですが、お目覚めになったんですね」
『え、ええ。そう、さっき目が覚めちゃって。メルはどうも私に門出を見せるのが嫌だったみたいね。でもちゃんと近くで見送りたかったから、こっそり下りてきたのよ』
口から出まかせというのは思ったよりすらすら言えるものだ。
「そうなんですか……やっぱり妹思いなんですね、ポル様は。いつも微笑ましいですよ」
『いえ、当然のことじゃない。家族だもの』
相手の勘と頭が良すぎないのも幸いだ。
「うんうん、そうですよね……って、どうしたんですかこの怪我!深くはないみたいですけど……こんな傷、なかなか治りませんよ!俺が手当します!」
庭師のお兄さんは、私の手を取って叫んだ。
『階段で転んだだけよ。たいしたことないわ。自分で手当できるから、私はそろそろお屋敷に戻るわね』
「いえっお気遣いなく、ポル様はここにいてください。手当ならここでもできます。メル様をお見送りするんでしょう?」
『もういいの。メルは変に勘がいいから、あまり長居すると気づかれちゃう。じゃあ』
「あっ……」
庭師のお兄さんを滅茶苦茶な手口でやり過ごし、私は屋敷の裏手から勝手口を目指した。
そろそろと勝手口から厨房に入ると、中には誰もいなかった。料理人もメイドも、作りかけの料理をそのままにどこかへ行ってしまっている。妙だが、ラッキーには間違いない。抜き足差し足で厨房を出ると、他の部屋から物音が聞こえてほっとした。何かあったわけではなく、たまたま全員食堂やメルの見送りに出払っているだけらしい。
人目をさけて玄関ホールの隅っこを速足で通り過ぎ、屋敷の端にある階段を目指す。誰ともすれ違わないままあっさり階段までたどり着くと、三階まで静かに上った。
結局、全く誰にも見つかることなく自室までたどり着いた。私はそっと音を立てずに扉を閉めて、ため息をつく。ソファに座るとポケットから消毒液とガーゼを取り出し、手早く腕の傷の処置を済ませた。まさか自分も使う羽目になろうとは。ぐるぐると包帯を巻くと、なんだかすごく大怪我をしたみたいになってしまった。
消毒液を棚に片づけ、クローゼットにコートをしまい、窓の外をのぞこうとベッドに歩み寄る。ふと、ベッド脇の小机に出て行くときには見当たらなかった小さな紙が置いてあるのに気が付いた。
手に取って見ると、出て行く前にメルの部屋に置いたメモの裏に、メルの字で返事が書いてある。
“王都に行ってくる。母さんの仕事ができなかったお詫びと、私が当主になったという正式報告にね。目が覚めたらアイテルを飛ばして”
目が覚めたらアイテルを、ということは帰ってこれたか心配してくれているのだろう。なにもこんなに急いで出る必要もなかったろうに、私が出立の騒ぎに乗じて戻って来れるよう計らってくれていたみたいだ。思いつきでずいぶん気を遣わせてしまった。
いや、抜け出すにしてももっと計画的にすればよかったと悶々しながら窓の外を見る。ちょうどメルを乗せた馬車の一団が門から出て行くところだった。私はすぐに部屋を出て、向かいのメルの部屋に、一応ノックしてから入る。暗い部屋の中に廊下からの光がさした。かごの中の鳥や動物たちがぼんやりと照らされ、うとうととまどろんだり目を瞬いたり、時々眠そうな声をあげる影が浮かび上がった。目を凝らしてぐるりと見渡すと、天井の角でらんらんと光る二つの黄色い目がある。黒鷹のアイテルが、時計の上からこちらを見下ろしていた。
ドアを開けたまま、アイテルに一歩二歩、近づく。そういえば、どうやってメルのところへ行けと指示すればいいのか分からない。そもそも彼をこちらに呼ぶ方法すら分からなかった。しかたなく、じっとアイテルと見つめ合いながら考える。するとしばらくして、すうっとアイテルの方からこちらに飛んできた。私の頭の上を旋回して窓枠に止まる。窓を開ければいいのだろうか。
そっとカーテンをめくり、試しに窓を開けてみる。アイテルはばさばさっと飛び立ってもう一度私の頭の上を一周し、窓から外へ出て行った。方向からしてお屋敷の反対側に回ったようだ。慌てて窓を閉めると部屋を出て自室に戻り、ベッド横の窓からアイテルの影を探すと、見えた。はるか上空を、メルの馬車の消えた方向へと一直線に飛んで行く。
いくら猛禽が賢い動物だとはいえ、どう躾けたらあんな指示を仕込めるようになるんだろう。アイテルが鳥の姿からインクの染みくらいになり、米粒より小さな点になって、やがて夜の闇に消えていくのを眺めていると、コンコン、控えめなノックの音がした。ベッドから降りて、すぐにドアを開ける。
「お目覚めですか、お嬢様」
妙にニヤニヤした顔で、エリーゼが立っていた。
「さぞお疲れでお腹も空いていらっしゃることでしょう。お夕食の時間ですよ」
そして、意味ありげな視線。
今回の企みにエリーゼがいつの間にか勘付いていたことを、私は察した。やっぱり隠し通すことなんてできなかったみたいだ。私は気まずくなって、ひとつうなずくとエリーゼの横を通って部屋を出る。
「知ってますからね、お嬢様」
すれ違いざまに、エリーゼは私の耳にこっそりささやいた。足を止めてエリーゼを振り返ったらやっぱりにやにや笑っている。いつから知っていたのか問いただそうとすると、エリーゼは人差し指を口元に当てた。
「私とメル様だけですけどね。次はちゃんと教えてくださいよ」
そういうと私の肩をぐいぐい押しやる。
「さ、早く行った行った。のんびりしてるとお夕食が冷めちゃいます」
ほっとする間も、聞きたいことを聞く間も与えない。しかし思えばこちらだって、どうやって抜け出して外で何があってどうやって戻ってきたのか問いただされたくはなかった。私はあきらめてもう一度うなずくと、エリーゼを置いて小走りで食堂へ向かった。階段にさしかかる時、エリーゼがのんびりと部屋の向こうへ歩いていくのがちらりと見えた。
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夕ご飯と風呂を済ませて部屋に戻った私は、早速隠しておいた”魔術書”を引っ張り出した。ちょっと乗った埃をふっと吹き飛ばす。黒い表紙に不可解な金文字が、相変わらず底知れない気味悪さでてらりと光った。
メルが王都に行って、帰ってくるまでに約一週間弱と見積もって、その間この家にいるアトレッタは私だけ。家のことは家令が取り仕切っているとはいえ、私もしっかりせねばなるまい。外では前回より色々あって身体は疲れ果てていた。このまま眠れたらどんなに幸せか。でも、私のために大急ぎで王都に向かったメルに、せめて何か土産を用意したい。一週間のうちに私ができることと言えば、メルと約束したこと、まずは腰を据えてこの本と向き合うことだ。少しだけでも多く手をつけておきたかった。
ぼすっとベッドに座り、重々しい漆黒の革表紙を開く。ページの間から薄く埃っぽい臭いがふあっと漂った。
扉の見開きには表紙と同じ古代文字で書かれたタイトル”ベルンスラートの魔術書”。そしてその下にこうあった。
“この書はオーゲン・ベルンスラートが太祖暦六七九年に著したものである”
太、祖、暦。元の言語の意味を汲んで、無理やりに現代アルバート語を当てるとそんな言葉になるだろう。一族の始祖から数えて、六七九年目という意味の暦だ。つまりこの本が書かれた時点で、これを書いた一族は六七九年の歴史を持っている。私の予想通りこれがかなり古くに絶滅した言葉なら、一族の始祖は一体何百年、いや何千年前にあったのか予想もつかない。この暦を知っている暦と照らし合わせることができればいいのだが……
あくびをかみ殺し、私はもう一枚ページをめくった。すると、詩風に書かれた序文が出てきた。
“今でこそ僅かにといえど存在している「魔術」
それを操る者がこの世から消え去ってしまっても、魔術の存在そのものは消え去らない。
それは、ともすれば非常に恐ろしいものを、真に知り制御する者がいなくなるということである。
我々が出来ることは、魔術を知る者、世に言う「魔女」の血を広がり過ぎぬよう細々と、しかし絶対に絶やさないことである。
しかし、先の戦争のようなことが起これば、そのわずかな血が絶えてしまわぬとも限らない。
そのために、ここに唯一の「魔術書」を残すのである。
人間は怠惰で欲深い生き物だ。
無知な者には、魔術は万能に見えることだろう。
それは全くの間違いだ。
魔術といえども物々交換と変わりはない。
代償の要らないものなどこの世にはないのだ。
利益だけを求める愚か者にはそれが解らないのである。”
なるほど魔術とやらには、ずいぶん現実的な考えを持っているようだ。この”先の戦争”とは一体どの戦争のことだろう。ここウエスト大陸の歴史上最も大きな戦乱は、約八百年前の大陸戦争だ。名前の通り大陸全土を巻き込む征服戦争で、それなら細々とした民族にまで間違いなく脅威が及んだろう。可能性の一つではあるが、可能性の域を出ない。魔女の血、戦争、唯一の……とても多くの手がかりを含んだ文なのに、もどかしいが何一つ決定的な情報がない。ここで一つ一つすべての可能性を潰しだしたら進まない。この先に何か別の手がかりがあることを信じて、もう一枚ページをめくった。
そこにはびっしり書かれた文字と、合間に描かれた幾つかの図。見る限り、円形と直線を組み合わせてどうやら人体とその周囲の物の相関を端的にあらわしているようだ。ほかには文字を組み合わせた複雑な図形、いわばよく言う魔法円のようなものも描かれている。
ここまで見ているとただの古いオカルト本だ。怪しいと言ってしまえばそれまでなのだが、あくまでも推測とはいえ母の死に関わりうる書物だ。ただのオカルト本でないことを、私が何とかして読み解かなければならない。
私はベッドのへりに座り直し、十五年間培った知識を総動員して隙間なく書かれた文章の解読に踏み出した。
“第一章……”
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