5-9 再会の朝
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しゃばしゃばと、遠くでなにかの流れる音がする。
みず……水。ああ、そういえば色々あった。
真っ暗な急流。のしかかる水圧。感覚がなくなるくらいの冷たさ。真っ青なシェンの頰……
息を飲んで、がばっと起き上がる。
どうやら、ポルは横になって眠っていたようだ。
肩から何かが滑り落ちる。見ると、きれいに乾いた毛布が足の上にかかっていた。
妙に寝覚めが良くて身体がぽかぽかする。と思ったら、身体の下には寝袋が敷かれていて、枕の位置に白衣が丸めてあった。
「おはよう、ポル嬢」
淡々としたスティンの声が、穴の壁に反響する。
目をこすって視界のピントを合わせると、穴の入り口で、こちらを振り返っているスティンが目に入った。外が明るい。朝が来ているらしい。
スティンは小さくため息をつくと、大股でこちらにやってきた。昨日ポルがつけた炎は、きれいさっぱり消えている。地面に丸く残ったわずかな煤を踏んで、ポルの横までやってくると、彼はこちらの顔も見ずに枕元へかがんだ。
「シェン嬢は無事だったよ」
言いながら、さっとポルの首筋に触れる。骨張った冷たい手に、ポルはぴくりと肩を跳ね上げた。
スティンは数秒ポルの体温と脈を確かめたあと、無表情で白衣を拾い上げ、ぱさぱさ軽く叩いて伸ばした。
彼の背越しに、ポルは穴の中を見回す。やはり昨日と同じ、ポルのちょうど向かいにシェンはうずくまった格好で座っていた。
寝袋を敷いた上で乾いた毛布にくるまり、ちょっとぼさぼさになった長い黒髪を下ろしている。目にかかった前髪の奥で、黒い瞳が所在なさげに泳いでいた。
「溺れた人間を助ける時に」
スティンが白衣を羽織りながら呟く。
「自分も川に飛び込むのは最悪のやり方だ。よっぽど力と泳ぎに自信があるのでもなければな」
ポケットの中身を確かめるスティンの顔を見て、ポルは少しだけ首をすくめた。
「二度としないように」
スティンはきっぱり釘をさすと、立ち上がってズボンの膝を払う。
ポルはスティンの手をつついた。
『……エルヴィーさんみたいなこと言うのね』
「姉さんはこんなこと言わない」
スティンはピシャリと言って踵を返すと、今度はシェンの前に屈んで様子を見だした。
ポルはすん、と肩を落として、周囲にルズアの姿を探す。ルズアはポルから少し離れた壁際で胡座をかくように座り、俯いた格好でうつらうつらしていた。
ポルはずりずり起き上がり、寝袋の上から立ち上がった。とたんにぐうぅ……と腹が鳴る。
毛布を拾い、少し振って伸ばすと、そろりそろりルズアに近寄って、背中へかけてやる。すると、ルズアの肩がピクリと動いた。
ルズアは少し顔を上げて、ポルを目の端で睨む。それから肩にかかった毛布を取って、ポルに押し付けた。
「よし。早いところ町に戻ろう」
スティンが言った。
ポルが振り返ると、彼は穴の入り口から少し外へ出て、ちらり空を見上げているところだった。
「ポル嬢、もう戻れるな」
ポルはうん、と頷いた。
手に持った毛布を適当に広げて畳み、小脇に挟んで、自分が寝ていた寝袋を叩くと土を払う。それを雑にくるくる巻くと、カバンを取りにシェンのそばへ近づいた。
シェンの目が、前髪の隙間からポルを見上げる。
ポルはシェンと視線をばっちり合わせると、少し微笑んでみせた。
シェンの表情はぴくりとも動かない。拾われたばかりの子猫みたいに、硬くて居心地の悪そうな顔をしている。
ポルはさっさとカバンを拾って毛布と寝袋を突っ込むと、シェンの横にかがんだ。
シェンが肩にかかった毛布をきゅっと握り込む。ポルはその隙間から覗く小さな手を取って、
『大丈夫だったのね』
シェンはふい、と目を逸らした。
『よかったわ。あのまま流されちゃったらどうしようかと思ったんだから』
ポルはシェンの頰をつんつん突いた。シェンはしばらくされるがままにしていたが、ポルの指が離れると、腕に顔を埋めた。
「さあ君たち、出発するぞ。今は朝の五時だが、ポル嬢、町の方角はどうしたらわかる? 川沿いを上って、そこからだ」
いつもの自信なさげな彼とはまるで別人のように、スティンは妙にはきはきしていて元気だ。
ポルはカバンを肩にかけて立ち上がると、スティンの隣へ歩いていった。
『そうね。朝も木こりの笛が聞こえるはずだから、そしたら町の方角がわかるんじゃないかしら。町の近くまで戻れれば、誰か道を知ってる人に出会えると思うわ。来た時とちがって足場のいいところを選んで歩けるから、少しは早く進めると思うの。どう?』
「じゃあ、木こりたちが森に出る時間までに出来るだけ川を遡ることだな」
『そういうことね。まあ、あんまり着かないようなら方位魔術を使うわ。今やったら間違ってぶっ倒れちゃいそうだから、最終手段にしたいけど……』
「間違って?」
『ええ。どうせだから歩きながら話しましょう』
「……ああ、そうだな」
スティンが頷いたのを見て、ポルは穴から一歩出る。そのとたんに、やわらかい朝日で視界が白んだ。
川からの湿った冷たい風が、ひゅおっ……とポルの頰をかすめていく。
どこからともなく、ぴいちち、ひんから、と無数の鳥の歌声が聞こえる。
谷の向こう岸から日が上る。
昨晩までの重苦しい自然がうそみたいに、爽やかで涼しくてまぶしい、穏やかな朝だった。
「行けるか、ルズア殿、シェン嬢」
ポルの背後で、スティンが呼びかけている。
ルズアはいかにも怠そうに立ち上がると、大あくびをしながら思い切り伸びをした。身体中がバキバキ言う音が聞こえる。
一方のシェンはもそもそ立ち上がって、寝袋と毛布をきっちり畳むと、のらりくらりとポルのところへそれを返しに来た。
ポルは寝袋と毛布を受け取ると、適当にそれをカバンに放り込む。シェンの表情は俯いていて全く見えない。どんな顔をしていいのか分からないからだろうか。
『大丈夫?』
ポルが尋ねると、シェンの頭がちいさく縦に振れた。
「行こう」
スティンがそう言って、穴の外へ歩き出す。
ポルは慌ててその後ろを追いかけた。ルズアが後ろに大股でついてきて、さらにその後をシェンが俯きがちに歩く。
「シェン嬢、もう少しこちらに来てくれ。ルズア殿にしんがりを頼む」
スティンが言った。
「またお守りかよ」
ルズアが吐き捨てる。振り返ると、ルズアがこれでもかと嫌そうな顔をしていた。その後ろで、ちょっとびっくりしたようにシェンが顔を上げている。
「シェン嬢、君には間違いなく宿まで来てもらわないとダメだ。今君がいちばん食事や休養を必要としている。もちろん僕たちにも必要だが」
スティンが少し笑って振り返る。
シェンは観念したように、ずりずりと足を早めて、ポルのすぐ後ろについた。
再び前を向くと、すぐ先に岩壁が迫っていた。
しかし、昨日川の中で見た時よりもずっと低く見える。しかも一箇所だけ人工的に削られ、上り下りしやすいように周囲より傾斜の緩い溝がつくってあった。
ここまで川沿いはどこも崖なので、きっと近くの住人が、貴重な岸のあるところでは安全に川へ下りられるようにしてあるのだろう。
すると、ポルたちが休んだあの都合の良い穴も、きっと人が掘ったものに違いない。
おかげで命拾いしたようなものだ。ポルは崖の溝と穴をしつらえた見ず知らずの人々に、黙ってひたすら感謝した。
**********
「そういえば昨日のアレは助かった、ポル嬢」
『あれって? どれ?』
崖っぷちの獣道を歩きながらちらりと振り返ったスティンに、ポルは軽く返した。
風はさわやかで、昨晩荒れ狂っていた川の音さえも耳に心地良い。あとは宿に戻るだけとなると、気持ちも体も軽やかだった。
もちろんこれから、シェンとはいろいろと決着をつけねばならない。でもそれは宿に帰って、休んでからだ。
「ほら。火を焚いてくれただろう」
『ああ』
ポルは生返事で返す。
「あれは不思議な火だったな。灯った瞬間に穴の中じゅうが暖かくなった。おかげで濡れた毛布も寝袋もすぐに乾いた」
スティンはやはり、いつもより数段明るくてしっかりしていた。何かのスイッチが入るとこうなるのだろうが、そのスイッチが彼のどこにあるのかいまいち見当がつかない。
『魔術をかけるときにそうイメージしたからでしょうね、濡れても消えない火は前から創れたし、おんなじようなものだわ。でも、初めてね……魔法陣なしで魔術を使ったの』
「できるものなんだな。僕も驚いた」
『ええ、本来魔法陣は補助道具でしかないから。体力なり生命力なり、何かのエネルギーを〝魔力〟に変換しやすくしたり、変換効率を良くしたりするために使うものなの』
「つまり、ということは……魔法陣を使わなければ体力と〝魔力〟の変換効率が悪くなる?」
『そうねえ、どっちかというと逆のイメージかしら。手ぶらでも効率よく体力を〝魔力〟に変換できるなら、魔法陣は必要ない。そのかわり、うまくやらないと、ちょっとの超常現象を起こすのにとんでもない体力や生命力を持っていかれて、昨晩みたいにぶっ倒れるわけ』
「ああ、なるほど」
スティンは深く頷く。
「さっきの〝間違ってぶっ倒れちゃいそう〟っていうのはそういうことか?」
『そ。そういうこと』
「いやしかし……魔法陣を使えば問題ないんだろう? 別にぶっ倒れる危険を冒さなくたって」
『そうは思うんだけどねぇ……わからないのよ。なんで昨晩はいきなり魔法陣なしで魔術が使えたのか、なんで使えると思ったのか。まだ魔法陣なしの練習はやったことなかったのに……直感だったわ、ほとんどね。だから逆に、今ちゃんと魔法陣を使えるのか、いまいち確信がなくて』
ポルは眉尻を下げて、肩をすくめた。
カンカンカン……とどこかの木をキツツキがつつく甲高い音が、森の奥から聞こえる。その音が遠く谷の対岸に跳ね返り、両耳でスキップみたいなリズムに織りあわさった。
「それはつまりーー」
スティンは難しい表情で唸った。
「どうやって魔法陣なしで魔術を使ったのかわからないから、魔法陣があったところで、間違ってそれを使わずに魔術をかけてしまうかもしれないということ?」
『そう。どうやったら意図的に魔法陣を使ったり、使わなかったりできるかわかんないの。少なくとも宿に戻るまでは、あんまり賭けをしたくはないわね……』
「……ポルさン」
シェンが突然、掠れて消え入りそうな声で呟いた。
ポルが振り返ると、シェンは申し訳なさそうに、こちらを上目でちらりと見ては視線を逸らした。
「嗯……魔術で思い出したことがあっテ」
『なあに?』
ポルは少し歩くスピードを緩めて、シェンの崖側の隣に並ぶ。シェンはすっと谷間の方へ目を逸らした。
「昨日の昼、森の中で変わった男の人に会いましタ」
ポルはうなずく。
「全身銀の鎧を着た、若くて変な男でス。ポルさんの〝魔術書〟を探していらっしゃるのだト」
『え……』
ポルは思わず足を止めた。後ろから思い切りルズアの膝蹴りが入る。
よろけて危うく崖から身を乗り出しかけ、シェンに慌てて引っ張り戻された。
『え?』
「ほ、本当でス。魔術書を欲しがっている人がいるから、代わりに探しているっテ……」
「そ、それって……ウワッ」
今度は振り返ったスティンが崖の端から落ちかける。
「前見て歩けよ!」
ルズアが怒鳴った。ポルがとっさに手を伸ばしたが、スティンはなんとか自力で体勢を戻す。
シェンは頰に手を当てて、
「名前も言っていましたヨ……えっと……嗯……グラント? グラント……ゼノセプト。たしかそんなのでしタ」
『グラント・ゼノセプト』
ポルが繰り返す。
『変な名前』
「啊……彼は、あなたを探しにベスペンツァに行かれましタ」
ポルはそれを聞くと、眉をひそめた。
『私たちの居場所は割れてるのね?』
「あぁ……」
シェンはゆっくりと、視線を落とした。
「我が、ポルさんがベスペンツァにいるト……」
『なるほど……なるほど』
ポルは俯くシェンを意にも介さず、眉間にしわを寄せて頷く。
『魔術書を探しているってことは、〝魔女の一族〟? いえ、彼が誰かに頼まれて探しているのなら、彼自身は〝魔女〟と違うかもしれないわね。どのみち、その人の情報を辿れば〝魔女の一族〟に直通している可能性は高いわ。そうよね?』
譫言のようなポルの呟きに、シェンは「あ……ハイ」と曖昧な反応を返した。
『そう、そうよね。でかしたわ、シェン……その人がベスペンツァに向かったのなら、今から出会えるかもしれない』
そう言葉にしたら、ポルは心の中がすっと凪いでいくように感じた。
頭が冷えて、思考が鋭くなってゆく。
「で……出会ったらどうなさるおつもりデ?」
シェンがおずおずと尋ねてきた。
ポルはちらりとシェンに目をやる。
『そりゃあまず、情報を聞き出すわ。〝魔女の一族〟の居処、〝聖清魔水〟のありか、母さんを殺した犯人、聞きたいことは山ほどある。たまたま出会ったあなたに名前や目的をペラペラ喋っちゃうあたり、そこまで情報を隠し立てするつもりはなさそうね。魔術書をちらつかせてやれば、いくらか喋ると思うんだけど。どうかしら』
「で、でも」
シェンはいつになく弱気だった。落ち着かない声色を、なんとか平気に装おうとしているのがまるみえだ。あたかも人混みの中で迷子にならないよう、母親の手に必死でしがみつく子供みたいな雰囲気を漂わせている。
「向こうが欲しい情報をくれたら、本当に魔術書を渡すんですカ?」
『いいえ? そんなつもりはないわ』
ポルはさも当然のように言った。
『だってものすごく貴重な資料だもの。でもそれ以上に……』
一瞬考え込んで言いよどむポルに、シェンが視線で先を促す。
『これを持ってさえいれば、〝魔女の一族〟の方から私たちを探し出して来てくれる。もちろんこっちからも彼らの居処は探しにいくわ。でも、それにしたって〝魔女〟を手探りで探し当てるよりよっぽど効率がいいから…….ようは、これは貴重な資料であり、大きい釣り餌なわけ』
「だからって……こっちが知りたいことを喋らせておいて本は返さないとなったら、相手がどんな手に出るか……」
シェンはうつむきながら、腹の底から絞り出したように囁いた。
ポルは眉をひそめる。
『そこは……あなたたちを頼みにするしかないと思ってる』
「ど、どういうことでス?」
『あなたや、ルズアやスティンをね』
「戦って追い返す、ということですカ」
『そう』
ポルは静かな目で、道の行先を見た。
『一筋縄でいかないのはわかってるわ。向こうは魔術を使ってくるし。相手が何人いるかもわからないし……だけど、私はそのために魔術を研究してきたんだもの。あなたたちはケンカと戦闘のプロで、私は魔術を使えるわ。悪くないと思うの、私たち』
「そんな……」
シェンは言い淀む。
「じゃあ、それが会った時のやり方だってことですカ」
『まあ、そう』
ポルは生返事で答えた。
『でもまあね、一度会ってみないとわからないわ。戦って逃げ切らなくてもいいならそれが一番いいんだし、あとはその時考えましょう』
「……对」
シェンはちらりとポルを見てから、正面に向き直る。漏れ出すようなため息をついたきり黙り込んだ。
ポルはシェンを見返して、ちょっとだけ微笑んでみせた。
「ポル嬢」
ふと、前からスティンが呼びかける。
「あそこにちっちゃい道があるぞ。森に入ろう」
彼はそう言うと、行手の方へ続く森の端を指さした。ポルは頷いて、少し足を速めた。
**********
ポーン……ホン……ホン……ホォン……
緑色の冷たい空気を震わせて、単調な角笛の音が行く手遠くから耳に触れた。
森の中の小道を茫洋と歩いていると、行きと比べて歩きやすいせいか、冷え切って爽快な風のせいか、金とエメラルドの海を泳いでいるような錯覚に陥る。
ひれを休める魚になった気分で、ポルは少し歩くスピードを落とし、最後尾にいるルズアの隣に並んだ。
『聞こえたわよね?』
「あぁ」
ルズアは口を動かすのもダルそうな様子で生返事をかえした。
『どっちから?』
「今向かってる方で合ってる」
ポルはルズアの答えに小さく頷くと、足を速めて先頭を行くスティンの後ろに戻る。
すると、スティンが振り返ってポルの顔を見た。ポルは満足げな表情をして見せ、今度は大きく頷く。スティンはにこりと笑って、再び前を向いた。
『シェン、大丈夫かしら? ついてこれる?』
おもむろにシェンの手を取って、ポルは少しシェンの顔をのぞき込んだ。
シェンはやはり気まずそうに目線を逸らす。その時彼女が小さく頷いたのを、ポルは見た。
文字を綴っていた手をぎゅっと握りこんで、しっかりシェンの腕を引いてやる。シェンの生温かい指は無抵抗で、ポルを振り払おうとも、握り返そうともしてこなかった。
シェンの掌の温かみを感じたまま、歩くことしばらく。
今日も街の南へ繰り出していた木こりたちを、森の中でちらちら見かけるようになってきた。
近くを通りすがった木こりたちに、方角を尋ねながら進んだ。といっても、木こりたちの使う小道に沿って歩くだけだったので、こまめに方角を確かめなくても迷いようはなかったのだが。
ぐにゃぐにゃと曲がる小道は登り坂になっていて、長く歩くうちにだんだん体にこたえてきた。
町から出てきた時は下りだったからあまり気にならなかったが、けっこうに斜面が急なのだ。それが鬱蒼と茂る木も相まって、道の行手を余計に見えなくしていた。
だから、何十回めかの道のカーブを曲がった時、突然目の前に現れた町の門には全員が驚いた。
「うわっ」
スティンが素っ頓狂な声をあげる。ポルも思わず足を止めた。
緑のトンネルさながらに、しだれて垂れ下がる無数の枝の隙間へ、無理やりねじ込んで作ったような黒くてひび割れた丸太の門。
間違ってどこか別の場所についてしまったのではないか、とさえ思った。それでも開け放たれた門の向こうには、ウソみたいに明るく陽に当たる家並みが見えていて、ポルはにわかにホッとする。
ポルは他の三人に頷いてみせると、シェンの手を引きながら、スティンを追い越して先頭に立ち、町の中へ向かった。
門をくぐったとたん、ぱっ! と頭上が開ける。
薄青色にきらめく朝の空には、ひょろり、ひょろり、白い鉛筆で描いたような筋雲が何本か横たわっていた。
やわらかい陽光に照らされて、正面に続く階段だらけの道が仄白く光っている。緑ばかり見ていた目に眩しさが刺さって、ポルは目を瞬いた。
やがて目が慣れてくると、見えてきたのは道の両側からにょきょき生えてきたような、斜面に沿ったへんな形の家々。やっとベスペンツァに戻ってこられたのか……と再び胸を撫で下ろした。
『おかえり、シェン』
ポルは振り返って言った。
シェンはやはりさっと俯いて、何も答えない。ポルは構わず、シェンの腕を握り直して正面へ続く階段へ足をかけた。
坂を登るのと、階段を登るのとでは、絶妙につらさの種類が違う。だるくて重い太腿に鞭打って、ポルは軽く息を切らしながら進んだ。
もうそろそろ、町の中腹あたりまでは来ているはずだ。徐々に人通りも、ニワトリや犬の通りも多くなってきた。
疲れ切ってボロボロなせいで出発する前より目立つポルたちは、町人とすれ違うたびにじろじろ見られる。シェンが後ろで小さくなっているのが、腕から伝わってきた。
さて、どこで曲がったらオバサンの家に戻れるんだったか。
ポルはぼうっと考えながら、曲がり角を一つ一つ覗いて進む。
ここも違う。
この角も何かが違う。
ここも見た覚えがない。
もしかしたら、もう通り過ぎてしまったのでは?
そう思って次の角を覗いた時。
「いたぁ!」
突然目の前に人影が迫って、ポルはのけぞった。
「見つけた、ポル!」
細い路地からポルの懐に走り込んできたのは、モナだった。
ポルはとっさに彼女の手を取って綴る。
『な、なに? どうしたの?』
モナは肩で息をして、長い黒髪を波打たせながら数秒ふうふう言っていた。しばらくして顔を上げると、
「ポルを探してる人がいて」
うん、とポルはうなずく。
「いやね、あのね。騎士の、甲冑着てる、男の人。みんな、騎士が来たって、大騒ぎ」
騎士——その言葉を聞いて、王都から逃げ出してきた時の緊張が蘇る。スティンを追ってきたのだろうか。こんな山の中まで? 背筋を走る寒気をなんとか無視して、ポルは片眉を上げてみせた。
『大騒ぎ? そんなに騎士が珍しいの?』
モナは大きく、何度も頷いた。
「そりゃそうだよ。騎士団は、こんなとこまで、なかなか、来ないよ。それが、〝ポルっていう、お嬢さんを、見てませんか〟って、探し回ってる。そんなんだから、ポル、あなた、よっぽど悪いこと、したんじゃないか、って町の人たちが。噂になってるよ」
「ポルさン」
隣でシェンがかすかにつぶやく。少しだけポルの手を握り返して、
「その人……その人でス」
『その人?』
ポルはシェンの手に綴る。
『その人って、シェンがさっき言ってた……』
シェンは身体を縮こめて、ポルを見上げた。そして、重々しく頷く。
騎士団に見つかったわけじゃないらしい。
その安心と入れ替わりで、腹の奥底からむくりと別の緊張が起き上がる。ポルは動かずにいたが、数秒して何度も頷き返すと、モナに向き直った。
『案内して、モナ。私たち、その人知ってるかもしれない』
「う、うん」
食いつくようなポルの返事に、モナは半歩下がる。ポルはモナの反応を見て、いつの間にか前のめりになっていた上半身を引っ込め、小さく深呼吸する。
『案内料は払うわよ』
「いいよ、そんなの。こっちが、探してたんだから」
モナはひらりと背を向けて、小走りで細い路地に入っていく。
ポルはとっさにシェンの腕を掴み直して、同じように小走りでモナの長い黒髪を追いかけた。
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