2-5 祭りのあとで

**********


 宿に戻ったポルは、真っ先にベッドに倒れこむ。クローゼットの上で待っていたアイテルがピィ、と鳴いた。

 ポルは指一本も動かせない倦怠感にまかせて目を閉じる。決勝が終わって見事にルズアが優勝したはいいものの、その後が大変だった。当然優勝すれば賞金の授与式を兼ねた閉会の儀があるわけで、当然シェンに勝って大満足したルズアがそんなことを考えているはずがないわけで。あのまま腹を空かせたルズアはグラウンドを出てまっすぐ控え室を突っ切り、さっさと食べ物を探しに出て行ってしまったらしい。

 控え室に行ったポルが見たのは、慌てふためいてルズアを探す役人の姿。仕方なく自分も外を回ってルズアを探すと、彼は近くの菓子屋を物色していた。死ぬ気でしょっぴいてきて、「そんなもん出るか!俺は戻って飯を食う!」と大抗議するところをなんとかなだめすかし、グラウンドの入り口から追い出してみせた。決勝戦がよほど面白かったのか、賞金を取るという当初の目的はきれいさっぱり忘れていたようだが、こちらは全然面白くない。控え室から出る時に、役人が「お疲れ様です……本当にありがとうございました……」と言った時の、あの申し訳なさとも憐れみとも取れる疲れた顔が忘れられない。

 その後皆が三々五々席を離れはじめた観客席に戻って閉式の儀を見たポルは、式中のルズアがずっとそわそわしながら俯いているのを見て、ただ単にああやって大衆の前のかしこまった場に出るのが性に合わないだけなのだというのを悟り、なんとも言えない気持ちになった。

 そして受け取った賞金百万ベリンだが、ルズアはグラウンドを出るやいなやポルに袋ごと押し付けてきた。持ち金を全部なくした前科があるのでこんな大金を持つのは怖くて仕方ないが、とにかく旅費は戻ってきたのだ。ルズアに何度もお礼を言ったが、帰る途中に町の人々からかけられる声に耳を塞ぐのに必死で聞いているのか怪しかった。

 ポルはしばらくして起き上がると、机に座ってカバンから便箋とペンを取り出す。一番上に「メルへ」とだけ書いて筆が止まった。一連のことを書いたら、きっとメルに怒られるだろう。呆れられるかもしれない。でも今ペンを握りながら、そんな罪悪感や横着を叱られる前の怖さに似た感情とは裏腹に、遠く離れた街から自分の身に起こったことを、お屋敷のメルへと手紙に綴る高揚感が心を支配していた。

 窓の外からも部屋の扉の外からも、武闘祭の終わりの大騒ぎが地鳴りのように聞こえてくる。そしてこの街では一躍有名になってしまったルズアの名前も。当の本人は決勝戦でシェンに食らった肘が思ったより痛かったのか、鳩尾の下あたりを忌々しそうに摩りながら部屋に戻っていったが、おそらく静かさからしてもう爆睡しているようだ。

 旅費にして持ち歩くには百万ベリンは多すぎるので、明日にでもルズアの剣を武器屋に研ぎ直してもらい、必要な分以外は貴金属にでも替えておくのが無難だろう。ルズアに賭けた賭け券を土産物屋へ持っていけば、おばあさんの古本屋でいくらか本も買える。ポルは一通り考えを巡らせてほっとため息をつき、外を見た。

 大人子供構わず酔った人々が当たらなかった賭け券を破り捨てたり、隊列を組んで勝利の女神を讃える歌を歌ったり、喧嘩をしたりキスをしたりしていた。紅い星の粉を散らしたような暖かい街明かりに照らされ、あまり好きではないどんちゃん騒ぎさえ今日ばかりは少し美しくも、羨ましくも思った。

 ポルはちょっぴり微笑むと、メルへの手紙の冒頭に文字を書くのを諦めて、窓から見える通りの喧騒を見たままにペンを走らせた。


**********


 ポルがメルにあてた手紙を書き上げた、次の朝。

 ポルはアイテルに手紙を託して、部屋の窓から空に放った。今日は昨日と違って、灰色の雲が薄く空を覆っている。眼下の道に踏み固められた雪も、昨日ほどきらきらしてはいなかった。

 ポルは部屋を出ると、隣の部屋をノックする。珍しくルズアが不機嫌そうに出てきたので、そのまま剣を武器屋へ預けに行こうと提案してみた。ルズアはこれまた珍しく、気に入らなそうだがすんなり了承すると、毛布がぐちゃぐちゃのベッドの脇に置いてあった剣を適当に腰に引っさげた。

『ねえルズア』

 宿の階段を下りながら、ポルはルズアを頭からつま先まで眺めて言う。

『なんでその格好なの?コートは?』

旅に出る前に着ていた薄い半袖の白シャツにぶかぶかの半ズボン姿のルズアは、顔をしかめて吐き捨てる。

「めんどくせえ」

『……めんどくさいのはわかったけど、靴くらい履かない?』

「めんどくせえんだよ」

『あー……あらそう』

 ポルは溜息をついた。昨日はちゃんとした服も着ていたくせに、今日は機嫌が悪いのだろうか。といっても彼が持っている靴はブロントで旅装を揃えたときに買ったブーツしかないので、せめて面倒臭くても履いてくれそうな靴をもうひとつ新調するしかなさそうだ。ポルは街で見た靴屋の場所を思い出しながら、宿屋一階の食堂に入った。

 そのとたん、さあっと音を立てるように食堂じゅうの人の視線がこちらに集まった。客はそんなにたくさんいないはずなのに、そこかしこで自分たちのことを囁く声が否応なく耳に入る。聴覚の鋭いルズアならなおさらだろう。早足でテーブルの間を抜け、そっと宿屋を出た。

「ああっ⁉︎」

 突然、宿屋の横から大声。飛び上がって扉の右側に振り向くと、初等学校くらいの男の子が三人、目をキラキラさせてこちらを見ていた。

 ルズアはうるさそうに一瞬顔をしかめたが、すぐに何事もなかったかのように歩き出す。ポルがついて行こうとすると、男の子たちが二人を取り囲んだ。

「ねえねえ!兄ちゃんって昨日武闘祭で優勝した人だよな⁉︎」

「あぁ?」

無邪気に話しかけてきた三人の中の一人を、ルズアは上から釘のような視線で刺した。男の子たちの間に緊張が走る。それを悟ったポルは、半歩後ろではらはらしていた。

「あ、あの、兄ちゃんすげー強かったよな」

「あ、それって昨日使ってた剣⁉︎」

「金ぴかじゃん!かっけー!ちょっと見せて!」

 さっきの緊張は一瞬でかき消えたのか、男の子たちは興奮したように口々に騒ぎ出した。なんて純粋で可愛らしい生き物なんだろう……とポルがほっこりしている一方で、ルズアの眉間のしわがどんどん深くなっていく。

「うるっせえぞクソガキ。そんなに見てえならテメェらのドタマかち割ってやる」

『何でそういうこと言うのよ⁉︎』

本気で剣を抜こうとするルズアを慌ててポルが制止する。

「剣抜けっつったのはこいつらだろうが!」

『脅さなくてもいいでしょう⁉︎子供相手に何を……』

「子供相手に喧嘩売られるたぁナメられたもんだ」

『誰も喧嘩なんか売ってないってば!』

 しかし、ルズアが剣を抜こうとしたのを見た男の子たちはさらに面白がっているようだった。

「おおおー!兄ちゃんもっと剣抜いてよ!」

「後ろの姉ちゃんって兄ちゃんのカノジョなの?」

「ねえねえ俺とも戦って!」

「兄ちゃんってなんで靴はいてねーの?」

「ばか、プロは寒くても薄着と裸足で根性見せてんだって!」

「なるほど!やっぱ強い男は根性だよな!」

「姉ちゃんってなんでさっきからしゃべんないの?」

「兄ちゃん、昨日の武闘祭みたいにかっこいいのやってよ!」

 ついにルズアの中で何かがプッツンと切れた気がした。

「うっせえええ!テメェら一発ずつ殴ってやるから黙ってろ!」

右の拳を振りかぶろうとするルズアに、さすがに男の子たちの顔も凍りついた。ポルはなんとか腕を掴んで止めたが、その隙に今度は左手で剣を抜く。男の子たちが三人揃って息を飲んだ。ポルは焦って思い切り横にルズアを突き飛ばし、なんとか矛先を男の子から逸らした。

「ってぇなクソアマ!」

ルズアは一瞬よろめいて、今度はポルに怒鳴る。

『子供に乱暴はやめなさい』

 ポルはこっそり後ろを振り返る。目立ちすぎる自分たちの周りには遠巻きに道ゆく人々が立ち止まって、人垣ができつつあった。怪訝な顔でひそひそ話す者もいれば、小さく黄色い声を上げている女性すらいる。

「じゃあ俺に乱暴はいいってのかよ」

ルズアはそれどころではないようだが、あまりここにいてもいいことは一つもない。

『この子たちを殴るよりましでしょ。ほら行くわよ、子供にまで靴履いてないって言われちゃったじゃない。面倒じゃない靴でも買いに行きましょう?ご飯もまだ食べてないし』

「……命拾いしたと思いやがれ、クソガキども」

 ほら、ご飯の話を出せば難なく釣れる。ポルはやれやれと思いながら、ルズアの腕を引っ張って男の子たちに軽く手を振り、足早に大通りへと歩き出した。後ろに「……あの兄ちゃん怖えんだな」「でもカッコよかったよな、あの剣」「あの姉ちゃんも強いよな、怖え兄ちゃんを一発で黙らせるんだからさ」などと声を落として男の子たちが話しているのを聞きながら、ルズアの機嫌が悪い原因はきっとこう囃し立てられることなのだろうと悟る。アイテルが戻ってきたら、できるだけ早くこの街を出ようとポルは決意した。


**********


 冷たい雪の上で目を覚ました。

 雪のやわらかいところを選んで腰をおろしたはずなのに、眠っている間に薄い敷物の下の雪だけが自分の体重で固まってしまっている。腰が痛い。しかし、少し動くと腰どころか腹にも背中にも鈍痛が響いた。

「……案外きてますネ」

 独り言を呟いたのは、東国の民族衣装に身を包んだ黒髪の少女。人通りのない建物の隙間から、少女はわずかに見える曇り空を見上げた。まだ新しい雪は降らないだろう。

 少女はゆっくりと立ち上がると、濡れた敷物をたたんで荷物袋に入れた。ほんの小さな動作でも、体の中が重く痛む。昨日の武闘祭決勝で、ルズアとかいう赤髪の少年に吹っ飛ばされた痛みだ。ここまでダメージを負ったのは久しぶりかもしれない。少女は大して中身の入っていない荷物袋を担ぐと、建物の間から出た。

 鍛治の街はいつもと変わらず蒸気と金属の音で溢れていた。日はもう高い。昨日は武闘祭終わりの大騒ぎに巻き込まれて、随分寝るのが遅くなった。とても静かとは言えないこの街中でこんな時間まで眠ってしまったのはそのせいだが、眠気はまだしつこく彼女の瞼をおろしてくる。道ですれ違う街の人が、武闘祭のことでたまに話しかけてくるおかげで起きていられると言っても過言ではない。

 少女はあてもなく工場道を歩きながら、これからどうすべきか思案を巡らせた。手に入れるはずだった賞金はない。あまり体が痛むので、医者にでも寄りたいところだがそんなお金もないし、なんなら減ったお腹を満たすお金すらない。そしてここにいる理由もないので、この足で街を出てもいい。しかし、この街は今少女がいる工場道から真反対の街道以外には、周囲をぐるりと森に囲まれている。森に踏み入れたところで今日明日雪をしのぐ場所を確保するには、多少心許ない。

 ぐるぐる考えていると、ふとすれ違う人の熱を帯びたひそひそ声が耳に入った。道ゆく人が一様に何かを振り返っている。少女はその視線を追ってみた。なるほどその先には、人目を引く鮮やかな赤毛があった。武闘祭優勝者の少年だ。昨日と打って変わってみすぼらしい薄いシャツと半ズボンに裸足の格好。そしてあまりにも不釣り合いなことに、隣にきちんとした身なりの、お嬢様然とした少女を連れていた。……いや、少女に連れられていると言った方がいいだろうか。

哎呀あいやあ……」

黒髪の少女は薄く笑うと、小さな武器屋に入ろうとしている二人に駆け寄った。

ウェイ!そこのお二方!」



 たった今武器屋の扉をくぐろうとしていたポルは、足を止めて振り返る。ルズアもしぶしぶ振り向いた。声の主は昨日武闘祭決勝戦でルズアに敗れた小さな異国人の少女だった。

「てめぇは昨日の……」

ルズアがすかさず顔をしかめる。ポルは微笑んで小さく会釈をした。

「覚えていただいて光栄でス、ルズアさン。我は福珅、シェンとお呼びくださイ」

武闘祭の時と同じように、シェンは右掌に左拳を当てて礼をする。

「それは昨日も聞いた。何の用だ」

吐き捨てるように言うルズア。シェンはにっこり笑うと、

「いえ、道でお見かけしたので声をかけたくなっただけですヨ。なんせ奥様を連れていらっしゃるので驚いてしまいましてネ」

けっ、とルズアはシェンの言葉を撥ねつけた。

「誰が奥様だぁ?こいつはただの旅のお荷物だっての。おちょくんのも大概にしろ」

『お、お荷物でごめんなさいね!』

ポルがすかさず反論するが、シェンの言葉にさえぎられた。

「なるほど、と言うことはルズアさんたちは旅のお方なのですネ。商人の多い街ですからてっきり商人の方なのかト」

「んだったら何だよ!イーステルンから徒歩で来る商人なんかいるか!」

「徒歩での旅ですカ。それはご苦労なさったでしょウ。これからどこへ向かわれるのでス?」

 よっぽどルズアはイライラしているのか、どうにもころころと手玉に取られているようにしかポルには見えない。ルズアがシェンの質問に一言も答える気がないのは火を見るよりも明らかだが、一人で啖呵を切っている間に旅人であることも徒歩での旅であることもしゃべっている。

「んーなことこいつに聞け。俺は知らん」

ぐいっと親指でポルを指すと、ルズアはポルには目もくれず一人で武器屋の中に入って行った。

 がしゃん!と虚しく閉まる扉。

 残された二人はそろって扉をほうけたように見ていたが、やがて少し気まずそうに顔を合わせた。

「初めましテ……シェン・フーと言いまス」

 少し申し訳なさそうに、シェンが苦笑いしながら言った。ポルは慌ててコートのポケットから紙と鉛筆を取り出す。

『こちらこそ初めまして、私はポルよ』

 シェンよりさらに申し訳なさそうな面持ちで、綴った言葉を見せる。シェンはそれを眉間にしわを寄せてしばらく見つめると、今度はポルの顔を見て首を傾げた。

 やはり、とポルは頭の中で独りごちて紙を裏返す。東洋の国、エン国出身の彼女がアルバート語を読めないのは不思議でもない。ポルは何とか昔お屋敷で読んだエン国語の知識を引っ張り出す。エン国語でさっきと同じ言葉を綴ると、シェンは目を丸くした。

「ポル……さン?ですカ。貴女はエン国語がお話しできるのですネ?」

『読み書きなら……日常会話くらいはなんとかね。さっきは連れが失礼してごめんなさい』

「いいえ、こちらこそ突然失礼いたしましタ。ルズアさんはいいんですカ?」

 シェンは武器屋のドアに少し目を遣った。ポルはその視線を追わずに、

『構わないわ。どうせ入っても私、武器のことは分からないもの』

シェンはふーん、と頷く。

「そうですカ。ところで、ポルさんとルズアさんは旅でどちらニ?」

『今のところは王都に行こうと思ってる。その先はまだ考えてないわ……シェンちゃんは旅の方?それともエン国から来た商人の方かしら』

シェンは思案するように一瞬上に目を遣ると、再びにっこり笑う。

「我は旅の者ですヨ。祖国に帰る以外には特に行き先も目的もありませン」

『まあ……誰か道連れの方がいらっしゃるの?』

「いえ……」

シェンの笑顔がわずかに翳ったのを見て、ポルは慌てて言葉を続ける。

『その歳で一人旅なんて大変ね……そう、そういえば、昨日の武闘祭の怪我は大丈夫?』

「このくらい、平気ですヨ」

両手を広げてみせるシェンの顔にさっきと同じ笑顔が戻ったのを確認して、ポルはほっと胸をなで下ろす。

 その時、ギイッ!と後ろのドアが思い切り開いた。

「おいポル。修理代の会計は先払いだとよ」

 ルズアが顔を出して言い放つと、ドアは閉まった。やれやれ、とポルはため息をつく。

『……ですって、ごめんねシェンちゃん。また会ったらお話ししましょう』

 ポルは紙と鉛筆を片手に、ドアノブへ手を伸ばす。

「待ってください、ポルさン」

 シェンがポルに一歩詰め寄った。ポルは小首を傾げて応える。

「ポルさんたちも旅の途中でしょウ?どのみち我はすぐに祖国に帰れそうもありませン。ぜひ旅にご一緒させてはいただけませんカ?」

 少しの間、沈黙の帳が降りる。ポルは再び紙に返事を綴った。

『そうね、私は構わないけど……』

 ガンッ!

 突然開いた扉が、ポルの頭を横から殴った。

「おい鈍臭女、遅え……てめぇまだいたのかよ」

ルズアは悪びれもせず、シェンを睨めつけた。

『痛い』

 ポルは軽い目眩を覚えながら、ルズアに再び抗議する。

「知らねえよ。こんくらい避けろ」

『人と話してる途中に攻撃しないでちょうだい。卑怯だわ』

「卑怯もクソもあるか。いつまでもこんなとこでベラベラ話し込んでる方が悪い」

『大事な話なの。仕方ないでしょう』

「なんで怒ってんだ?ガキかよ」

『あなたこそなんで怒られないと思ってるのよ。子供でも納得がいくわ』

「なーにが大事な話だ。せいぜい大事な話の途中でも後ろからの攻撃を避けられる反射神経を鍛えとけっつってんだ。鈍臭女」

『シェンちゃんが一緒に旅したいんですって』

「は?」

『この娘が、シェンちゃんが、私と、ルズアと、一緒に、旅を、したい、って言ってるの』

 ルズアは全く飲み込めないとでもいいたげな表情で、ポルの後ろにいるシェンの方へ顔を向ける。しばらくしてポルの方へ首を戻すと、

「で?」

顔をしかめるのはポルの番だった。

『私は構わないけど、あなたは?』

ルズアはもう一度シェンの方へ顔を向けると、しばしそのまま彼女に視線をやり、

「さあ」

再び勢いよく扉を閉めて武器屋の中に引っ込んだ。

 二人はお互いに呆れ顔を見合わせる。ポルはもう一度ちらりとルズアの消えた方に視線をやると、

『……保留、ですって』

 シェンは一歩下がって、「そうですカ」と小さく頷いた。

『私たち、多分明後日の昼頃にはこの街を出るわ。西の街道からね。その時までに考えておくわ。街道の入り口で待っててくれる?』

 ポルは少しかがんで、小さなシェンの顔を少し下から覗き込む。シェンは満面の笑みで答えた。

「わかりましタ。明後日の正午、街道の入り口でお待ちしてまス……それとポルさン」

シェンは一瞬口ごもってから、少しトーンを落として尋ねる。

「ポルさんはどうして文字でお話しなさるのですカ?」

『ああ、』

ポルは屈託なく微笑んだ。

『声がなくて。こうでしか話せないの……面倒かけてごめんなさいね』

 随分この対応にも慣れたものだと、ポルは自分で思った。シェンは小さくかぶりを振って、

「そうでしたカ。失礼なことをお尋ねしましタ……ではまたの日ニ、再見ツァイジエン

一礼すると、くるりと踵を返して小走りで去っていった。ポルは飛び跳ねるようなシェンの後ろ姿をしばらく見送ると、さっきできたたんこぶを軽くさすって武器屋の扉をくぐった。


**********


“盗みには気をつけてってあれだけ言ったのにポルのばか!……って言いたいとこだけど、済んだことは仕方ないよね。なんとかなってよかった”――


 そこまで読むと、ベッドに座ったポルはそっと、もう何度も読み返したメルからの手紙を畳んだ。旅に出る前よりメルの字はちょっときれいになっている気がする。ひとりでに苦笑いが浮かんだ。

 黒鷹のアイテルが手紙を持って帰ってきたのは今日の早朝。春になる前にたんまり雪を降らせておこうとしているかのような、垂れ込める重い雲を背負って戻ってきたアイテルは、今机の上でうとうとしている。

 シェンとの約束は今日だ。ちゃんとアイテルが戻ってくるか心配で、窓を開けて寝ていたためか、体が凍りつきそうに寒い。ポルはいそいそと靴下を履いてガウンを羽織ると、外にルズアが剣を振りに出てきたのを確認してそっと部屋を出た。


 宿の荷物を引き取って昼前。濃灰色の空のせいで太陽はどこにあるか分からないが、街は普段のように観光客や商人、労働者たちで温かく賑わっていた。武闘祭の熱気はそろそろ冷めてきているが、今だに道を歩くだけで注目の的になってしまう。

 アーラッド出身者でない者が武闘祭で優勝したという理由だけが、目を引いているわけではないのだろう。ポルとルズアは、街道へ向かう道を早足で歩いていた。

『で、どう思うの?』

「どうって何が?」

『シェンちゃんのこと』

「旅についてくるって話か?」

『それ以外にないじゃない』

「聞くってことはてめぇ、本当についてこさせるつもりなんだな?」

 ルズアの声が低くなる。呆れているようだが、それはポルも同じだった。旅に出てからの会話はずっとこんな感じで、ポルもそろそろ慣れて、いや、辟易してきていた。

『ええ、そうよ?旅は道連れって言うじゃない。断る理由はないわ』

 一方で、ルズアもポルの態度に辟易しているようだった。

「ありまくりだろうが。百万ベリンを目前で逃した相手が、賞金狙い以外で何のために俺たちにたかるってんだよ」

『たかるって……なにもそんな決めつけてかからなくても』

「最初っから疑わなきゃ遅いっつってんだ!」

『それじゃあんまり理不尽だって言ってるのよ!私たちまだあの子のこと何も知らないじゃない!』

「知らねえから言ってんだよ!一日同行するだけでどれだけ隙があると思ってんだ!せいぜいその鈍臭さを何とかしてからにしろ!」

『う……いえ、でもたった十四歳の外国からきた女の子が一人旅なのよ?放っておくのはどうなのよ』

「エン国の十四のチビ女が一人旅でどうやって食ってきたかなんて想像つくだろ!だいたいたった十四ってな、テメェだって十五だから変わんねえ!」

『あら、案外覚えてくれてるのね』

「だああからそうじゃ……」

「こんにちハ、ルズアさんとポルさン」

 突然真後ろから声がして、二人は同時に跳び上がった。

「もしかして気づいていらっしゃらなかったのですカ?」

「……てめぇ」

 ルズアがおもむろに振り返る。そこには、にこにこと愛らしいが本心の読めない笑顔でシェンが立っていた。ルズアは拳を振りかぶった。

「テメェいつからそこにいやがった!」

「ほ、本当に気づいてらっしゃらなかったんですネ?待ち合わせは街道の入り口でしたから、我はそこで待ってたんですヨ。お二人とももうアーラッドを出て街道に入ったのはご存知ですカ?」

 ポルが思い出したように見回すと、たしかにアーラッドの街並みはもう周囲にはなかった。その代わり、森に続くまばらな雑木林が道の両側に迫り、街道の入り口を示す石柱は少し後ろにある。足元は雪の積もった土ではなく、馬で通りやすい白砂が敷き詰められていた。

「……ネ?」

シェンは小首を傾げる。ルズアはちっ、と大きく舌打ちをした。口論に夢中で待ち合わせ場所を通り過ぎたことは、どう頑張っても言い訳できない。

「なにがネ、だ。俺らは別について来ていいなんて言ってねえ」

『私は言ったけどね』

「うるせえ」

「ルズアさんたちがおっしゃりたいことは分かっていますヨ。この間は少ししかお話できませんでしたガ……もちろん何の理由もなくついていかせてほしいってわけじゃありませン」

 シェンは人当たりのいい笑顔を引っ込めると、無表情にわずかに真剣さを含ませた。

「我の目的からお話しましょウ。正直、我はただ単にちゃんとした場所で休んでちゃんとした食事がしたいだけでス。あなた方がちゃんとした宿に寝泊まりしていたことは知っていますシ、あなた方の出で立ちを見れば十分それは果たせそうだと思いますのでネ。嫌味を言いたいわけではありませんガ、あんなにやられたのは久しぶりでしたヨ、ルズアさン。賞金が入るつもりでしたけド……予定外にお金が入らなかった上に、予定外に体を痛めてしまったのでネ。身体も財布もきびしい限りなわけでス」

「けっ……自業自得じゃねえか」

ルズアがばっさりと言い放つ。シェンは少し自嘲気味に口の端を吊り上げた。

「ええ、まあそういうことになりますネ。ですからただデ、と言うつもりはありませン。ポルさん達はここから王都方面に行くのでしょウ。王都に行くのは初めてですカ?」

ポルが頷く。ルズアは肯定も否定もせず、ただ眉間にさらにしわを寄せた。

「我は王都方面からアーラッドに来ましタ。この街道を辿って行けば王都方面には向かえますが、途中で道が入り組んでいて初めて通ると迷いまス。さらにアーラッドから王都の間には大きな街はありませン。途中の民家に交渉でもしない限り、徒歩で行けば野宿を余儀無くされるでしょウ。しかもこの先森が深くなりますかラ、街道を一歩外れれば獣が出まス。普通は馬で通る道ですガ、駅舎はこの先森を抜けてからしかありませン」

「つまり何だ」

 言いたいことは分かったと、露骨に口調と態度で結論を急かすルズア。シェンはわずかに声を大きくして、

「つまりでス。ここから王都までの道案内と、道中お嬢様の護衛をさせていただこうと思いますヨ……」

シェンはさっきの笑顔をもう一度顔に貼り付けると、

「……なんてネ。ルズアさんがいるんですから護衛なんて大きなお世話だと思いますけド……ここからは案外難所でス。一人より二人、二人より三人の方がいいのは間違いありません。どうでしょウ?」

ふん、とルズアが鼻で笑った。ポルがそれを肘で小突き、相談しようと手を伸ばす。そこにシェンはたたみかけてきた。

「あとこれは余談ですが、我は料理の腕には自信がありましてネ。日持ちする食料と、火さえ起こしていただければ、野宿中でも多少美味しいものを作れますヨ」

 そこからルズアが折れるのは早かった。

 不承不承、しぶしぶ、苦虫を噛み潰したような顔で、俺は認めてないが身体が勝手にとでも言いたげに、歯の隙間から漏らすような声で言う。

「王都までだからな。弁えやがれよ」

 関節がギィギィ軋むのが聞こえてきそうな動きで拳を握り、地面の砂を蹴飛ばすと、くるりとそっぽを向いた。

 ポルはその横でわけがわからないという顔をしていた。おそらく彼が気に入らないのは、シェンにしぶしぶ同行を認めることだけでなく、結局こっちの言う通りになってしまったこともなのだろう。

 ポルは鉛筆と紙を取り出しながら歩み寄る。シェンはわずかに笑みをうかべていた。

『ごめんなさいね、随分気を遣わせてしまって。少し失礼が過ぎたわ』

「いえ、お気になさらズ。会ったばかりの人間相手なのですかラ、当然のことですヨ。ポルさんは本当にいいのですカ?我が同行してモ」

『え?ええ、もちろん。私は前から構わないって言ってたんだけど……ルズアもいいみたいだし、旅は道連れ、よ。一緒に行きましょう。とりあえず王都まで……よろしくね、シェンちゃん』

「シェン、とお呼びくださイ。ポルさン」

 シェンはポルの手を離れると、道の先に立った。

「そうと決まれば行きましょウ。この時間でしたラ、急げばもしかすると雪が降る前に森を抜けられるかもしれませン」

 シェンはすたすたと歩き出した。行くわよ、とポルがルズアの服の袖を軽く引っ張る。ルズアはポルの方を向きもしない。ちっ、と聞こえるように舌打ちをすると、ポルの半歩後ろを探るようにゆっくりと歩き出した。

 先にいくほど真っ黒になっていく森と、真っ暗になっていく空の雲に挟まれた眩いばかりに白い砂の道を、行く手を模索するような足取りで、三人はアーラッドを後にした。



 あとに残されたのは、アーラッドの子供達のささやき。街道の入り口前を通りかかった三人の男の子が、昼下がりの街道へ溶け込んでゆく三人の後ろ姿を見つけた。

「やっぱすげーな、あの姉ちゃん。今年の武闘祭のトップ二人を従えちゃったぜ」

「あの姉ちゃんも、大人になったらうちの母ちゃんみたいにおっかなくなるのかな……」

「いや、ぜったいあの兄ちゃんの方が怖いって!」

「お前の父ちゃんだって、超強いけど母ちゃんには頭上がんないだろ」

「じゃあこの街で一番強いのは母ちゃんたちなのか?」

「うーん……」



 **二章 終

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