5-11 償い


「出ていきな!」

 オバサンの金切り声が部屋中に響く。

 ポルたちは、陰気臭いリビングルームで突っ立ったまま身を寄せ合っていた。

 対するオバサンは、硬そうな二人がけソファに座って、手に持ったパイプを振り回していた。

「おめぇたちみてえな変なのを! 家に入れたばっかりに! あたしゃまた! ここらの女どもに訳のワカンねぇ噂を立てられんだぁ!」

 四人は俯きながら、ちろちろと顔を見合わせる。

 オバサンは勢いよく立ち上がって、偶然正面にいたシェンに詰め寄った。

「さっさと金置いて出ていきなぃ、このみっともねぇ異国人め。おめぇみたいに怪しいのがいるから、うちに騎士なんぞが来んだぁ」

 パイプをシェンの胸元に突きつけて、

「ろくなもんじゃねえってんだぁ、ぁったく。あたしがまるで人殺しでもしたみてぇに、いきなり家探しされるとこだった! おめぇたちがここにいりゃ、ひっ捕えて追ん出してやったのにおめぇらときたら、人んちの部屋を占領しといて、肝心な時にはいやしねぇ」

 オバサンが、うっすら煙の立ち上るパイプをぐりぐりシェンの鳩尾に押し付け始める。ポルは後ろ手でシェンの腕をそっと引いて、自分の背に隠した。

 オバサンはキッとポルの顔を睨んで、

「おめぇはいかにも性根の曲がった金持ちの小娘みたいな顔してらぁ。あ? 金持ってんなら部屋代さっさと寄越しなぃ。一部屋一晩五千ベリン。合わせて三万ベリン、ついでに迷惑料で一万ベリンくらい取ってやったっていいんだでぇ……それでおめぇたちとはオサラバだ」

 言いながらポルを上から下までじろじろ眺め回す。

 ポルはできるだけ反省して見えるように、精一杯肩をすくめた。

 後ろのシェンは本気で悪く思っているらしい。珍しく素直にしゅんとしている。

 もう一晩休んで行きたいのは山々だったが、こうなってはまあ、仕方がない。怪しい騎士をここに来るよう仕向けたのも、昨日の昼出て行ったきり帰ってこなかったのも、仕方がなかったとはいえ全部自分たちがしたことだ。何も言い訳できない。

 ポルはちらり、ちらり、と他の三人を振り返って小さく頭を下げると、早々に退散すべく、二階へ続く壁の梯子へ足を向けた。

「あ……いや、あの」

 スティンが突然か細く声を上げた。

 全員の視線がスティンに集まる。

「彼の件で、ご迷惑をかけたのはほ、本当に申し訳なかった。で、でも……言っておくが、僕たちも彼のことを知らないんだ。僕たちをいつのまにか、勝手につけてきただけで――」

「だからなんだってんだぁ?」

 オバサンが遮る。木の皮みたいな顔をさらにしかめて、

「あ? おめぇらが連れてきたにゃぁ違えねえんだろ」

「でも、か、彼を追い払ったのはシェン嬢だ。それに彼は騎士でもなかった。だからあまり言わないでやってくれないか……」

 へろへろの声音で、スティンが頑張って反論する。

 オバサンはついに立ち上がった。

「追い払ったかどうかなんてぇどうだっていい! 騎士かどうかなんざぁ知ったこっちゃねえ! ウチにあんなのが来た時点でこっちぁいい迷惑だっつってんだぁ」

「分かっている、僕たちが悪かった。で、でも……せめてあと一晩、泊めてくれないか?」

「図太いデカブツだねえ――」

「ああ、何とでも言ってくれ。僕ならいくらでも謝るから……迷惑料が要るというのなら、可能な限りで差し出そう。だから今日だけ……贅沢を言うならあと二日。お願いできないか? この子が――」

 スティンはシェンの背中を小さく押して、ポルの影から出す。

「昨晩、この町の南にある河で溺れてしまって……だから、少しちゃんと休みたいんだ」

 オバサンはそれを聞いて、はたと静かになった。

「……ポロンソスから還されたのけぇ」

「え?」

 スティンが聞き返すと、オバサンはいかにも気に食わなさそうに、もっと顔をしかめた。

「町の南にある、谷の底の河だぁ。そんなことも知らねぇのか」

 シェンがオバサンの顔を見上げる。ギロリとオバサンの視線がシェンに刺さった。

「ポロンソスに流れた子が還されてきたら、町の衆は迎えなきゃなんねえ」

 そう言って、オバサンはどっかりソファに腰掛けた。ギリ、とパイプを噛んで、

「おめぇはポロンソスの河が禊いで町に返ぇしてきたんだぁ。河が、気に入ったから食うのは今度にしてやる、町に置いとけってな……」

 口と鼻から煙をもくもくと吐く。ルズアがこれ見よがしに顔を歪めた。

「河のご意向に背いちゃいけねぇんだよ、ふん。もしおめぇを追い出しでもしてみろ、町ぁ流れてなくなっちまう、あたしのせいでそんなになりゃぁ、ただじゃすまねえで……けっ」

 オバサンは吐き捨てて、勢いよくそっぽを向いた。

「……好きにしなぃ。そのかわり、宿代はきっちりはらってもらうけぇ」

 ぺっぺっ、と野良犬でも追い払うみたいにパイプを振る。

 四人は誰からともなく、ちらちら視線をかわし合った。オバサンの気が変わらないうち、真っ先にポルがもう一度小さく頭を下げて、二階への梯子へ駆け寄る。

 その後へ逃げるようにシェンが続き、ルズアもえっちらおっちらと歩いていく。

 最後に残されたスティンは、その場でそわそわ足踏みして、

「あ、ああり、ありがとう」

 舌を噛み切りそうな勢いで言うと、急いで二階へ向かっていった。

 オバサンはソファの肘掛けに頬杖をついて、そっぽを向いたまま何も言わなかった。



 ポルが寝室に登ると、天井近くの小窓からは小さく陽が差し込んでいた。

 壁にくっきりと浮かび上がる、温かい金色をした窓格子のかげ。部屋中がその光にうっすら照らされて、昨日の昼間出て行ったきりの寝室は、ひんやりする空気と裏腹になんだかポカポカした。

 ポルは狭い木床に座って、カバンを下ろす。大の字に寝転がったら両手両足が壁につきそうなくらいの、納屋みたいな部屋。

 目の前には、おがくずを詰めた麻袋のベッド。その上にころんと、小さな布の包みが転がっている。

 昨日スティンとルズアがもらってきてくれた、雑穀を丸めた食べ物の包み。唾を飲んで眺めていたら、からり……と控えめに部屋のドアが開いて、そこからシェンの黒い頭が覗いた。

 ポルは部屋の角へ動いて、シェンを迎える。おずおずと入ってきたシェンは、所在なさげに入口の脇で正座をすると、静かに戸を閉めた。

 ポルはベッドの上にあった布の包みをパッと取って、シェンを小突いた。

『お腹空いてるでしょ』

 シェンは上目でポルを見る。その目の前で、ポルは包みを開いた。

 中から、大きな葉っぱにくるまれた丸いものが出てくる。爽やかな植物の香りが、一瞬で小さな部屋に充満した。

 ポルはさらに葉っぱをめくる。少しベタついた雑穀の塊が覗いた。鼻にそれを近づけてふんふん嗅ぐと、少しかじった。

『……大丈夫。傷んでない』

 わずかに塩っぽい旨味で、空きっ腹が鳴りそうになる。それをなんとか堪えて、シェンの手に包みを押し付けた。

『ほら、食べて』

 シェンはだらりと包みを掌で受けたまま、数秒ポルの膝のあたりを見つめていた。そして、

「……ポルさんの方がお腹空いてるんじゃないですカ」

 その瞬間、ついにポルの腹がぐう、と鳴る。

 今度はシェンがポルの手に包みを押し付けた。

 ポルは腹を必死で凹ませながら、さらにそれを押し返す。

『あなただって一緒でしょ』

「これポルさんのじゃないんですカ」

『私はもう食べたの』

「うそでしょウ」

『ほんとよ。あなたがいない間に』

「お腹空いてるんでしょウ」

『いらないわ。何にも食べたくない』

「我もでス」

『あなたは食べなきゃダメ。スティンの言ったこと聞いてなかったの?』

「お行儀が悪いですよポルさン、食べ物を手から手にあちこちするのハ」

『じゃあ早く受け取りなさいよ。何が嫌なの? 私がかじったから?』

 シェンは黙った。

 そして、ぎっとポルを睨んで包みを奪い取った。

 無茶苦茶に包みを剥がして葉っぱをばりばり破り、手がべちゃべちゃになるのも構わずに雑穀の塊を掴んで思い切りかぶりつく。

 ポルはふ、とため息をついて、あぐらをかいた膝に頬杖をついた。ポルにつき刺さっていたシェンの視線が、食べ物を咀嚼するうちにだんだん柔らかくなっていく。

 いらないと言っていた割に、シェンはあっという間に包みの中身を全部食べ切ってしまった。指にへばりついている蒸した雑穀の残りかすを、一生懸命ぺろぺろ舐める。

 ポルは喉の奥で笑った。シェンの膝の上にある包みを取ってくしゃくしゃ丸めると、それをベッドに放ってカバンを肩にかけ、立ち上がった。

『そんなに舐めたら指がふやけちゃう。お行儀悪いわよ』

 シェンの両腕を引っ張って無理やり立たせる。

『行きましょう』

「どこに」

 ポルは答えずに、部屋の横引き戸を開ける。梯子をジャンプで下りて、シェンがついてくるのを待った。

 シェンは、ちまちまと一段ずつ梯子を降りてきた。ポルは左手にあるルズアたちの部屋の扉をノックする。

「どうぞ」

 スティンの声が聞こえた。

 すぐさま扉を開く。スティンは部屋の奥の机で、一昨日取ってきた薬草をぷちぷちちぎっていた。ルズアは帰ってきたままの格好で、ベッドに大の字になっている。

 二人にはほとんど目もくれず、ポルはさっさと部屋の右手にある窓へ向かう。

 ポルの胸下の高さにある、横引きのガラス窓。木でできたつっかえ棒の錠を上げて取り、きし、きしし……と開いた。人一人通れる幅の窓枠にのぼる。窓のすぐ外には土瓦でできた一階の屋根が続いていて、ポルはそこに下りた。

 後ろを振り返ると、シェンが窓の中から不思議そうにこちらを見ていた。

 ポルはおいで、と手を差し出す。

 シェンはポルの手を無視して、ひらりと窓枠を飛び越え、音もなく屋根の上に着地した。行き場のなくなった手を、ポルはごまかすように窓枠へ伸ばして、窓を閉める。

「何しにきたんでス」

 シェンが疲れた声で尋ねる。

 ポルはもう一度振り返って、ゆっくり土瓦の上に座った。

 眩しい青空がぱっと視界に広がる。

 昼の太陽が家の後ろから照り付けて、影と日向の境界線が、屋根の真ん中あたりをくっきりと横断していた。

 屋根の途切れた先には、向かいの家の屋根が少しだけ覗いている。左右の空が少しだけ両隣の家の外壁に遮られているほかは、まるで宙に放り出されたみたいに、なんにもない景色。

 ポルはこつこつ、と自分の右隣の瓦を叩いた。

 シェンが不満そうな顔で、そこへ腰を下ろす。

『カバンの中のもの、いろいろ濡れちゃったから。乾かそうと思って』

 言って、ポルはカバンを膝の上に乗っける。中へ無造作に手を突っ込んで、ぼいぽい手当たり次第に物を出し始めた。

 毛布。

 本。

 寝袋。

 本。

 薪の束。

 缶詰。

 本。

 毛布。

 薬瓶がいくつか。

 ビスケット三缶。

 真新しい大きな布が二枚。

 ランタン。

 大判の羊皮紙。

 ポルのワンピース。

 エプロン。

 肌着が何着か。

 矢の束。

 水筒。

 ルズアのシャツ。

 酒瓶。

 ナイフ。

 財布。

 貴金属を詰めた袋。

 寝間着の替え。

 シェンが持っていたボロきれ。

 本。

 手紙。

 櫛。

 煮炊き用の取手付き缶。

 干しリンゴ。

 スプーンやフォークが入った皮袋。

 スティンの論文。

 本。

 寝袋。

 麻のひも。

 火打ち石。

 インク瓶。

 ペン箱。

 ガラスの十字架……


 べっとり湿った中身をしこたま出しまくって、最後に魔術書が出てきた。

『ねえ、見て……これだけ濡れてない』

 ポルは魔術書をめくる。乾ききっているページは、一枚一枚ぱらぱらと小気味良い音をたてた。

「……なんででしょうネ」

 シェンは絶妙に、どうでも良さそうな調子で言った。ポルが魔術書を渡すと、シェンは親指でぱららら……と勢いよくページをめくり、ポルに返した。

 ポルはこともなげに返ってきた魔術書を開いて、

『濡れない魔術がかかっているんでしょうね。長いこと保存される間、水でダメになったりしないように』

うん……そう」

『濡れないだけじゃないかもしれないわ。火をつけても燃えないとか、引っ張ったり切ったり刺したりしても破れないとか』

「……試すわけにいかないのが残念ですネ」

『そうね』

 俯くシェンの横で、ポルはうん、と背伸びした。

『試してもしそうじゃなかったら、大事だものね……』

 魔術書を横にほっぽり出してカバンを取ると、中表に裏返す。

『これ、すごいのよ。このカバンの中、魔術でめちゃくちゃに大きくしてあるって言ったでしょう? これね、裏返しても必ず内側になった部分が広くなるのよ。わかる?』

あい

 シェンは生返事で返す。ポルはそれを気にも止めず、ぱんぱん、とカバンの湿気を払って投げ出した。

『シェン、昨晩ケガとかしなかった?』

「エ……ええ、擦り傷程度でス」

『そう、じゃあ大丈夫そうね。さあ、シェン……ここにあるカバンの中身をね、全部屋根の上に広げて乾かすのよ』

「全部?」

 シェンが顔を上げた。ポルはうなずいて、

『そうよ、全部。本や紙はもう乾かしてもダメだろうけど……なるべく間隔を離して干してね。毛布とか肌着とか、風で飛びそうなものは何か重いものをのせて』

ドゥイ

 ポルは返事を聞くなり、自分のワンピースを掴んで思い切り宙へ放った。

 さっ、とシェンの目が弧を描くワンピースを追う。次の瞬間、シェンは飛び上がって空中でそれをキャッチしていた。

 ひらりと着地し、ワンピースを屋根の上に広げて置く。ひゅうっと吹き抜けた緩い春風に、シェンの手の下でワンピースがぶわりとふくらんだ。

 今度は、ポルがスプーンやフォークの入った皮袋を放る。シェンは片手にワンピースを持ったまま、無駄のない動きで受け止める。


 そうして、二人で屋根の片端から持ち物を並べていった。

 シェンは、重いものを投げても涼しい顔で受け取ってみせた。どれだけ高く放っても、空中できれいにキャッチして音もなく着地する。

 ポルはいつの間にか、夢中になってシェンとじゃれていた。

 これでもかと小さな薬瓶をいくつも同時に投げてやったら、まるで飛んでいる虫を捕らえるツバメのように、一瞬で一つ残らず片付けてしまった。


 ポルの手元には、毛布二枚と食料だけが残った。

 これで最後、とポルは、昨晩魔術で乾かしたふかふかの毛布を一枚高く放り投げた。

 風に煽られて広がる毛布が、一瞬陽光を遮る。

 目にも止まらない速さで、シェンの影がそれに飛びついた。空中で絡み合う毛布とシェンの小さな体が、蝶のように屋根へ舞い降りる。

 その瞬間。

 はらりと踊る長い黒髪の隙間から、昼の光に照らされたシェンの横顔がゆらりと輝いてみえた。

 シェンは笑っていた。

 黒い宝石の瞳を細めて、真珠の歯を覗かせて、真夏の巻雲みたいに滑らかな白金色の鼻筋と頰を、きらりと青空に描いている。

 ポルの目に、その絵が思いがけず烈しく焼き付いた。

「くへへ」

 遅れて、ポルの耳に喉から漏れたようなシェンの声が届く。

 まっさらで無垢で飴細工みたいに尊い彼女を、ポルは呆気に取られたまま見つめていた。


 数分かかったのではないかと感じるくらい、毛布がゆっくり、ゆっくり屋根に落ちて、ふさ……と微音を立てた。

 いつのまにかこっちを見ていたシェンと目が合う。

 シェンの笑みが、一瞬でしゅん、と萎んで音もなく消えた。

 ポルは慌てて微笑を作ったが、間に合わなかった。

 シェンはふいっとポルに背を向けて、陽だまりの毛布の上へ座り込む。


 ポルは足元にあったビスケットの缶を二缶むんずと掴んで、窓をこじ開けるとそこから中へ投げ入れた。

 残ったビスケットの缶一つをやはり勢いよく掴むと、もう一度投げるつもりだった毛布を引きずって、ひょいひょいシェンの隣へ向かった。

 日向に並べた荷物の間へ毛布を広げ、ごろんと横になる。

 涼しくて温かくて眩しくて爽やかで、溶けそうなほど気持ちがいい。からっと乾いた晴天の下、人肌のぬるま湯に浸かって、その流れへ身を任せているみたいだ。ポルは寝そべったまま缶の蓋を回して開けて、中のビスケットをばりばりつまんだ。

 頭上に、青い服を着たシェンの胸と白金色の喉がそびえ立っている。その上に描かれた輪郭は、さっきの笑みが跡形もなく、何かを警戒するように、じっと何もない虚空を見つめていた。

『ねえ』

 ポルはシェンの手をまさぐって、文字を綴った。

『この缶ね、ビスケットが湿気らないように防水魔術をかけてあるの。すごいでしょう? びしょ濡れになっても美味しいわ、食べる?』

 シェンは小さく首を振った。

『そう』

 ポルはもう一つ、ビスケットをつまんだ。

『なにを見てるの?』

 ぴいちち、ぴいちぴいち――

 小鳥が、二人の頭上を遊びながら飛んでいった。

「べつに……」

 シェンが低い声でつぶやいて、

「……なにも」

 ふっとうつむく。そこで、シェンを見上げているポルと目があった。

『なにも?』

 ポルは足で毛布を蹴り、ずりずり上へ移動する。揃えたシェンの膝に頭をのせて、真下からシェンと見つめあった。

『あなたって、何考えてるの?』

 シェンは答えない。ポルはシェンの手を包み込むように文字を綴る。

『全然わかんない。でも、なんにも考えてないようには見えないし。だから勝手に憶測してもいいけど、そんなことしたらあなた絶対怒るでしょ。本当にエン国まで帰るつもりだったの? 正気のあなたなら、絶対考えないと思うけど』

 シェンはやはり答えなかった。

 ポルはシェンの顔を、じっと見つめ続ける。


 静かに、数秒が過ぎていった。

 空の青い光で逆光になったシェンの輪郭が、ぎらぎらと角膜に焼きつく。

 瞬きしたら、目蓋の裏にその輪郭がくっきりと映った。もう二度と消えないんじゃないかと思うくらいに。

 すると突然、暗くかげったシェンの顔が溶けるように歪んだ。ポルは少しだけ視線を逸らす。

『……別にいいんだけどね、もう。問題はあなたがこれからどうしたいのか、よ』

「どうしたいっテ」

 シェンの声は掠れていた。

「どうしたいって、なんですカ」

『そのままよ。あなたがどうしたいのか。私たちについてきたいのか』

「我が決めることじゃありませン」

 やたらきっぱりとシェンは言い切った。ポルはシェンの顔を横目で盗み見る。

『いいえ、あなたが決めることよ。あなたがどうするかは、私たちじゃ決められない』

「あなたを裏切って、財産を全部盗んだ人間を裁くのはあなたでス。そうでしょウ」

『無理よ、そんなの』

 ポルはもう一度シェンに向き直って、正面から睨んだ。

『何よ、裁くって。無理だわ。できたとしてもしたくないわね、そんなの』

 聞くなり、シェンは目を見開いて、

「そんなことを言ってるから――そんなこと――」

 喉にものが詰まったみたいに、言葉が途切れて出てこない。

 シェンは思い切り足元の毛布を拳で殴る。殴った手を毛布に押し付けながら、目を血走らせて怒る表情が溶けるように緩んで、あれよあれよと言う間に困った顔に変わっていった。

『そんなこと言ってるから、何?』

 ポルは容赦なく追い討ちをかける。

『言いたいことがあるならはっきり言ってよ。あなたって、本当に何考えてるかわかんない。言ってよ。私だって嫌なのよ』

「なにが」

『あなたのことがわからないの、私だって嫌だわ』

 ポルはぶつりと言葉を切った。


「なんでそんな意地悪言うんですカ」

 しばらくして、シェンが小さく口を開いた。

「そんな言い方されたら、ついてきますって言うしか――」

『あら、ついてきて欲しいなんて言ってないけど』

 ポルはにやりと笑った。

『そんなに仄かした言い方したかしら?』

 シェンがますます顔を歪めた。もはや何がなんだか、なんの表情なのかもわからないくらいくちゃくちゃの顔をしている。

『あなたがそう取ったということは、ついてきたいんでしょう。違う? 違うならはっきり言って』

 シェンは答えに詰まったように、口を噤む。

 ポルはますます笑った。

『違わないなら、いいわ。私だってあなたが来てくれなきゃ困るもの。明日からもよろしく、シェン』

「まだ何にも言ってないじゃないですカ!」

 シェンが叫んだ。

 蝋燭の火が消えるように、ポルの笑みがふっと消える。

「黙って、くださイ」

 ポルは言われた通りに、おとなしく黙ってシェンの顔を見上げる。

 シェンの目は、ポルの顔を睨み返してくるでもなく、あらぬ方向に逸らされるでもなく、穴でも開きそうなくらい鼻先の虚空を見つめていた。

 吐瀉物を我慢するときみたいになりふり構わない必死の形相で、じっと虚空ばかり見ている。


 ポルは黙って待った。

 シェンが言った通りに、何もしゃべらなかった。

 熱でもあるんじゃないかと思うくらい、シェンの顔は真っ赤だった。

 とにかく何か言ってやりたかったけれど、出かかった言葉を全部飲み下す。

 紺青色をしたエコールの月夜。圧しかかるような静寂の末、マリーが言った「いつでも戻っておいで」を、ポルは呪文のように何度も胸の内で繰り返した。

 あのとき、きっとマリーが飲み下したであろう言葉は、今ポルの口から出かかっているのと同じような言葉に違いない。

 ポルは待っていた。

 すると、不意にシェンがふう、とため息をつく。空気が抜けるように表情がゆるんだ。残ったのは――心の底から諦めたような無表情。


 やっぱりダメだ。

 と、ポルは思った。間髪入れずに、思い切りシェンの胸倉を下から掴んで屈ませると、至近距離で睨みつけた。

『待ったわ。待ったわよ』

 ポルは指で凄んだ。

『結論どうなったのか説明してよね、このバカ。いつまで自分の言葉で言わないつもり?』

 シェンは今度は真っ青になって、口元でぶつぶつ言った。と思ったら、次の瞬間、目にうるうる涙を溜め始めた。

『嘘泣きでもいいわ。ちゃんと話してくれるなら』

 ポルは釘を刺した。

「……嘘泣きじゃないでス」

 シェンが震える声で囁く。

「嘘泣きじゃないでス……」

『じゃあ、ちゃんと泣いて』

 ポルは睨みつけていた視線を、ふと緩める。

『私はあなたのことが知りたいの。お願いよ。泣くなら泣いて。あなたの考えてること全部出して、今ここに』

「全部って、どこからどこまででス」

『全部は全部よ。あなたが話せることぜーんぶ』

「無理ですヨ、どれだけかかると……」

『無理じゃない。どんだけでも聞きたいから、どんだけでも話させるわ。スティンには申し訳ないけど、あなたがちゃんと話して、答えを出すまで寝るのも休むのもお預けだから』

「無茶苦茶……言いますネ」

 シェンの声は上ずって、消え入りそうに小さくなっていった。

 ポルはシェンの胸倉を掴んだまま起き上がって、今度は彼女の膝の上に跨り、ずいっとシェンの顔を見下ろす。

『償うのよ。あなたの中身を、何から何まで全部見せなさい』

 シェンは怯えきった目でポルの顔を見上げて、震えるため息をつくと、ポルの胸に額を預けてつぶやいた。

「……わかりましタ。そうおっしゃるのなラ」

 太陽は南中高度を通り過ぎ、二人の影が屋根の上で少しだけ長く伸びていた。



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