1-17 旅立ち

**********


 威勢のいい雄鶏の声が、どこからか裏路地にも届いた。

「……ん……」

 ルズアの目が覚めると、刺すような寒さが体を貫いた。いつもより一段と空気が冷たいので、ルズアは硬い古ベッドにしばらく横になったままぼうっとここしばらくの記憶を辿る。

 何日前だったか。三時ごろにポルと会って、歌姫と会って、商店街の軽食屋に行って数年ぶりに腹一杯食べて……あとなんの話をしたんだっけ?旅がどうとか魔術がなんだとか、あとは聖なんとかいう水が云々……

 それからはずっと、いつもと同じようにろくでなし共とカネと食い物の取り合いをしていた。あんなに食べたのにすぐ腹が減るのが気にくわなくて、いつもよりすぐに喧嘩になった。もう出て行く街の連中なので、いつもより容赦しなかった。

 そうこうしていると、あれよあれよという間に日が経った。ルズアの勘定している限り、今日ポルが出立するはずだ。ルズアはベッドから下りると、外に出た。

 家の中と寒さは変わらないが、いつもより少し風が強かった。あたりがどれくらい明るいかは分からないが、いつも夜中まで騒いでいるろくでなし共がうるさくない。すんすんとルズアが鼻を動かすと、商店街で一番近いパン屋の方から、煙とパンの匂いが風に乗って流れてきた。どうやらまだ日の昇らない早朝のようだ。

 少しだけ周囲をぶらぶら歩いて、家に戻る。窓のそばに置いていた皿には、夜分の間に雪がてんこ盛りになっていた。家の中に持って入ると、ランプをつけて雪を炙り溶かし、口に含む。死ぬほど冷たかった。

 ルズアはそのままテーブルの前の椅子を引いて腰掛け、見えない目を閉じて思案する。ポルが旅に出るのは今日の午前十時ごろだと言っていた。なんとも早く目覚めすぎてしまった。

 そういえばもともと以前はポルを一発ぶん殴ってやるつもりで行ったが、結局腹が膨れて満足したのでそのまま帰ってきた。そのうえ歌姫がついてきたわりには、想像以上にさっさと話がまとまったので、今まででその日は一番気分が良かった。やっとここから確実に抜け出せる。ついでに、いつかここを出られたらとまだ考えていた頃、ここでないどこかでしようと思っていたことにもチャンスがやってきた。ただの人探しなのだが……どれもこれも、こんな目では一人じゃできなかったことだ。今まで街の外にすら出られなかった。“赤い歌姫”がどうだとか魔術がどうだとか、そんなことはどうでもいい。視力を取り戻すことに大した興味はない。ポルが「なんでもできる水」を「ルズアの視力が取り戻せる水」と言わなかったのは、彼女がそれが無礼でお節介だとわかっていたからだろう。やり方の汚い女だとルズアは思った。

 しかし、彼女がこうまでして屋敷の外の人間と旅に出たがる理由は、そんな条件を聞かなくたって簡単に察しがついた。逃げたかったのだ。耐えられなかったのだ。二度目に無鉄砲に屋敷から逃げ出した日の延長なのだろう。

 そんなある種彼女のわがままとすら言える見せかけの条件を飲んでまで、誰かの助けを借りなければこの辺りから出ることもできない自分が気に入らなくて仕方ない。それでも理由がどうあれこんな運が天から巡ってきたのだ、文句を言ってみすみす機を逃すのは愚かだ。ある意味自分もあの箱入り娘と同じだったのかもしれない。絶対にこんなゴミのような場所を、何としてでも抜け出してやる、屋敷から抜け出したポルと同じように。不思議と身勝手なポルを責める気にはならなかった。

 その時ふと、外から体を引きずるような、不規則な足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる。ルズアは慌てて水を飲み干し、立ち上がって窓から皿を出した。同時にドアが派手に開いて、千鳥足で顔を真っ赤にした父親が入ってきた。

「おぅテメェ……どこから湧いてでやがったバカ息子が……」

 わけのわからないことを口走りながら、椅子にぶつかって尻餅をついた。ルズアが黙ってそれを眺めていると、

「ってぇなコラァァ!」

 理不尽に逆上して椅子を殴った。自分の拳の方が痛かったのに腹が立ったのか、今度はルズアに殴りかかってきた。酔っているくせにパンチはいい。間一髪で避け、足を払うと簡単にうつ伏せに転んだ。片手でそのまま両腕を後ろに捻りあげ、もう片手でなんとか両足首を掴むと背中に乗って全体重をかけて、動けなくしてやった。床に海老反りで固定された父親の格好は、相当体の柔らかい人間じゃなければどこかしらを痛める。父親にこんなことをしたのは初めてだった。

「おいクソ親父、よく聞け」

「は、な、せ」

 空気の多い、裏返った哀れな声を無視する。

「てめぇの世話を焼くのはもう飽きた。散々だ。今日から俺は旅に出る。当分帰ってくるつもりもない。野垂れ死ぬなりなんなり好きにしろ」

 そう言うと父親の背中を蹴って飛び退いた。父親はしばらく動けないようだったが、少ししてのっそりと立ち上がり、家が崩れそうな声で叫んだ。

「あんだとテメェ!そんなら俺はどうしろってんだ!俺が飢えて死んでも構わねえってかクソガキ!親への敬意を教えたはずだろうが!」

 やはり、最後までロクなことは言わない。

 ルズアはベッドの前に歩いていくと、ベッドを左に押して動かした。下から出てきた埃だらけの床を手でまさぐって、一枚だけ剥がれかけた床板を探り当てる。そっと上に持ち上げると、できた隙間から手を入れた。

 ルズアがそこから取り出したのは、黒い鞘と金の柄の、細身の長剣。ずっと昔から唯一家にあった大切な剣だが、絶対に使うことなく父親がいない時に手入れだけ続けていた。ルズアはついてきた埃と虫を払い、すらりと剣を抜く。

 冷たく鋭利な鋼の刃が、ランプのオレンジ色の光を反射して不思議な金の閃光を放つ。ずっと怒りで喚いていた父親が一瞬で静かになった。

 ルズアは剣を鞘にしまうと、黙ってドアに向かう。ドアを開けた瞬間、父親が突然後ろから腕を掴んだ。そのまま殴りかかってくるのをなんとか剣の鞘で受け流す。

「本当に行くのかこのクソガキ!人でなし!この、この……!」

「この期に及んでもそれか、クソ野郎!」

 手首に柄を打ち込むと父親の手がぱっと離れた。体勢を崩した隙をみて外に出ると、壊れたドアを思い切り閉める。中でドタッと酔った巨体が倒れる音がした。ルズアはボロ小屋のような家に迷いなく背を向ける。振り返ることなく歩くルズアの背を、家の中から響く罵声が追いかけた。


 *********


 早朝から家を出てきたルズアは、小金と食べ物を漁りながら商店街のあたりをぶらぶら歩いていた。

「……っち」

 空きっ腹を鳴らしながら思わず舌打ちをする。食べても食べても腹がすくのは理不尽だ。ポルがいないのに出発するわけにいかず、結局腹の足しになりそうなものは見つからない。気がついたら日が高くなっていたので、ポルの屋敷に向かうことにした。迎えに行くような格好になるのはやたら気に食わないが、向こうが遅いせいだ。

 閑静な住宅街に入り、音と感覚を頼りに屋敷に近づく。さっきから雪がちらついていた。雪は好きではない。周囲の音が聞こえにくくなるからだ。

 しかし、ルズアの耳は背後から近づく足音を聞き逃しはしなかった。

 とっさに屈むと、ヒュッと鋭い音とともにさっきまでルズアの頭のあった空間をを回し蹴りが抉った。背後の襲撃者に体を向ける勢いで、相手の軸足を低い蹴りで払う。

「ぅおっとっ」

 襲撃者は間抜けな声を上げながら片足で器用に飛び退く。その声に聞き覚えがあった。

「てめえ、あのチビどものとこのメイドじゃねぇか」

 ルズアが凄むと、エリーゼはにへらっと笑った。

「いやぁ、覚えていてくださるとは恐縮です。改めまして、エリーゼ・アックバーンと申します」

「それは前二回も聞いた」

「あぁ、そうでした……ねっ」

 突然のミドルキックを横に大きく跳んで避け、追撃の勢いを乗せた拳をかわして姿勢を低くし、後ろに回り込むと同時に腹めがけて殴りかかる。エリーゼはそれをひらりと躱した。

「いやあ!体動かすのはやっぱ楽しいですね!こういう……うわっ⁉不意打ちは反則ですよ!しかも顔はっ!なしですっ!外道っ!」

 ルズアの蹴りと拳がエリーゼを掠める。エリーゼは数歩距離を取って間合いから外れた。ルズアはエリーゼを睨みつける。

「反則もクソもあるか!いきなり後ろからきてどっちが外道だ!」

「べ、別に危害を加えるつもりはなかったんです!」

「本気で言ってんだろうな?」

「いえ、お嬢様と一緒に旅に出るというので、もし多少のことでへたばるような人間では困ると思いまして。一応この間お手紙をお届けしたときにわかってはいたのですが、もう一度確かめておきたくて。ご無礼をいたしました」

「あん時だって勝手に来ておいて……」

「よく承知しております。本当に手前都合で申し訳ございません。それに、どうやら私の杞憂だったみたいですしね……いやぁ、本当に素晴らしい身のこなしようです……あの、厚かましいお願いなのですが……」

 エリーゼがうずうずし始める。ルズアは一瞬顔を仰向けた。どうもこの女は頭のネジがぶっ飛んでいるらしい。こいつをなんとか屋敷まで誘導して引き取ってもらえないだろうか。

「あの……得物を使わせていただいても構いませんか?」

 という頃にはもう得物を手に構えていた。メイド服のスカートの中から取り出したのは大振りのナイフと、もう一回り小さいナイフの二本。

 ルズアは黙って腰にくくりつけていた長剣を抜いた。


**********


 ひゅっ、ごすっ。

 雪のちらつく静かなお屋敷の庭で、物騒な音が空気を切り裂く。お屋敷を出る当日、庭の小さな林の入り口で私は弓を構えていた。短い弓の弦を引き絞り、五メートル先の木にぶら下がった的を睨めつける。

 ひゅっ、カラン――今度は乾いた音。

「集中力が切れてきていますよ、お嬢様」

 私の横からペレネが嗜めた。一本目の矢が的の中心を抉り、二本目は掠めただけではるか後ろの木に刺さっている。ペレネは私の手からそっと弓を取り上げると、にっこり笑った。

「おやつにいたしましょうか?」

『……そうね。そうするわ』

 ペレネから弓を受け取ると、弓袋に入れて背負って、お屋敷に戻った。

 食堂はひっそりしていた。テーブルの上にはいつものように、焼きたてのお菓子が置かれている。今日は山のようなマカロンだ。ペレネが淹れてくれたミルクティーを啜りながらマカロンをかじっていると、メルがやってきて隣に座った。

「荷物は部屋から持ってくるようにメイドに言っておいたよ。これ、旅費」

 メルは小さな革財布を机の下で手渡してくれた。私がお金を持っているわけもないし、この家のお金は今はすべてメルのものなのだが、それでもやはり申し訳なく感じる。

『ありがとう』

 私は思いきり笑ってみせた。メルもにっこりして、うんうん頷く。

「いいのさー。それと、アイテルを連れて行きなよ。何かあったら私のところに手紙を持たせて寄越して。何も持たずに戻ってきたら……その時はポルに何かあったと思って、全力で探しに当たるから。それでいいよね?」

『ええ……でも、ちゃんと連れて行けるほど言うこと聞いてくれるかしら?連れて行って逃げられたんじゃ、冗談にもならないわ』

「大丈夫だと思うけどね、賢いし人見知りはしない子だし。それよりさ、エリーゼ知らない?さっきから探してるんだけどいないんだよね。アイテルよりよく逃げるんだから」

『さあ、見てないわ。買い物にでも出たんじゃ……』

「メル様、メル様」

 突然、庭師のお兄さんが小走りで食堂に入ってきた。

「屋敷の前でエリーゼさんと見知らぬ赤毛の男が喧嘩してるんですが……」

困惑顔で身振り手振り説明する。メルが私と同時に眉をひそめた。

「はあ。……はあ?なんでまた?」

庭師のお兄さんは肩をすくめる。

「さあ……。よく分かりませんが、喧嘩なのか取っ組み合ってるのか、遊んでるのか、なんなんだか……」

「なんだそりゃ……まあ、報告ありがとう。下がっていいよ、すぐ行くから」

庭師のお兄さんがせかせかと食堂を出て行くと、私とメルは顔を見合わせた。

『一体何事かしらね……』

「ね……」

メルが最後のマカロンを食べ切ると、私たちは外に出た。


 走って門に近づくと、刃の交わる金属音が聞こえてくる。

「ちょっと⁉何やってんの⁉」

 メルの声で、門の前の二人はピタッと動きを止めた。門番に槍を向けられながら、ルズアとエリーゼはなぜか本当に刃を交えていた。ルズアは長剣、エリーゼは二振りのナイフを手に、ルズアは無表情で、エリーゼはものすごく楽しそうに。

 庭師のお兄さんが「遊んでいる」と言ったのも納得できる。メルが門番に門を開けさせると、入ってきたエリーゼは無邪気な笑いを顔いっぱいに広げた。

「……いやあ、申し訳ございません。ひっさびさにこんなに動いたもんですから……ちょっと調子に乗りすぎました!すみません!」

 申し訳なさのかけらもなく、エリーゼがコツンっと指で自分の頭を小突いてウインクする。もう、楽しそうだからなんでもよくなってきた。メルも同じことを思ったようで、はあ……と気の抜けたため息をつく。

「手前のとこのメイドくらいまともに面倒見ろ。こんな頭のぶっ飛んだやつ、野放しにすんな。しまっとけ」

ルズアが構えを解いて、剣を下ろすと吐き捨てた。メルが困惑して答える。

「えっと聞きたいんだけど、どういう状況でこんなことに……」

「この辺りを歩いてたらこいつが後ろからいきなり仕掛けてきたから、反撃したまでだ。こいつに聞け」

場の視線がエリーゼに集まった。

「……え?いや、そのですね?あれです、ルズア殿がどれだけサバイバルに強いお方なのかなあと思いましてですね。お嬢様とお二人で旅をすることを了承なさる方だからきっと……」

 めちゃくちゃな説明ではあるが、言いたいことはわからないでもない。つまりはいくら護衛役を果たせないと言われても、私と二人で旅に出る限りは簡単にくたばってしまうようでは困るというのだろう。気持ちはとても嬉しいのだが、やり方がやはりおかしい気がする。エリーゼはまだあわあわ言っていた。

「それで失礼ながら少し確かめさせていただいたんです、そしたら久々に思いっきり体動かしたからかな、楽しくなっちゃって……だっていつもペレネさんと手合わせすると物足りないんですもん。ペレネさんは長距離の武器が得意だから、体術はいまいち……」

「誰がいまいちなのですか?エリーゼ」

 声に振り向くと、ペレネがむっつりした顔でこちらにやってくるところだった。腕には白い肩がけカバンと弓を下げ、肩にはアイテルが澄まし顔で止まっている。

「そんなに私では不満なら、そこの門番でも貴女の好きなように鍛えて差し上げればいいでしょう。それとも私が陰から矢を撃ち続けるのをひたすら躱すという訓練はいかがですか?」

「そ、それはやめて下さいよ……ペレネさんが見えないところから矢を雨あられなんて……殺す気ですか?訓練じゃないですよね」

冷や汗をかくエリーゼを無視して、ペレネは私のところにやってくる。

「旅のお荷物です、どうぞ……それと、弓を食堂にお忘れでしたよ。いつも手放さないようにしてください」

『わかったわ。ありがとう』

ペレネから渡された鞄をななめにかけ、弓を背負う。見計らったようにアイテルが飛び立って、門のてっぺんに降りた。

「お嬢様」

 ペレネが神妙な声で呟く。見ると、嬉しいような、しかしどこか影のある美しい微笑を浮かべながら、チョコレートみたいに優しい色の瞳がまっすぐ私を射ていた。

「いってらっしゃいませ。私どもはいつでも……いつまでもお嬢様の帰りを待っております。いつか必ずお帰りください」

私はにっこりと笑い返した。

『もちろん。おやつは用意しておいてね』

「かしこまりました」

ペレネが一礼したその時、横からガバッとエリーゼが私に抱きついた。あまりの勢いによろけると、反対側からメルが抱きついた。

「お、お嬢様!おみやげ!お土産待ってますからね!あと、帰ってきたら私と手合わせしてください!」

『わ、わかったわエリーゼ、手紙でお土産は何がいいか知らせてちょうだいね』

「承知しました!」

「ポル、約束は覚えてるよね?破ったらただじゃ済ませないよ」

『わかってるわ。必ず守る』

二人は散々私をもみくちゃにした後、そっと離れた。二人の温度で余計に外の空気が冷たく感じる。後ろを振り向くと、ルズアが門にもたれて待ちくたびれた様子で腕を組んでいた。


 私はメルの手を取り、翡翠の深い瞳を見つめながら綴った。

『いってきます』

メルの手が私の手を握った。

「いってらっしゃい」

メルの微笑みは、まさに”青い歌姫”の名にふさわしく澄みきっていた。



**一章 終

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