6ー8 また会える未来を信じて

 元の時代に戻る瞬間を、遥は決して楽観視していなかった。感動的な雰囲気を引きずることは、命取りだと感じていた。

 戻った先というのは、今にも看板に押し潰されそうになる、危機的状況であるのだから。

 徐々に体が再構成されていく気配を、肌で認識した。意識も少しずつ鮮明となっていった。

 遥はタイミングを計っていた。存在が時空に再構成されて時が動き出す瞬間を狙って脅威から飛び出す腹づもりだった。糸状に連なった素粒子が結合し体が形になっていく。自分は自分であるという確固とした感覚が戻り神経が反射的に電気を走らせた瞬間に遥は一歩前へ踏み出した。これで避けることができるか。


「遥くん!」


 悲鳴にも似た素直の声を認識した。懐かしさを覚えたが悲痛さを孕んだ声の意味を考えるとまだ看板の脅威下にいるのだろう。せめてもう一歩踏み出そうと考えたが急な命令に体がついていかずにつんのめった。

 上など見なくてもわかってしまう。きっとこのままでいると無慈悲な鉄の塊に押しつぶされる未来が待っている。一歩も動ける気がしなかった過去の自分よりも成長はしているはずだがそれでも未来は変わらなかったのだろうか。

 悔しくて宙を睨むと死の恐怖が恐ろしい顔をして迫っていた。いやだ。このまま何もしないでいることなんていやだ。

 遥は懇願するように祈るようにただ生きたいと念じた。


 その瞬間にはじけた音をどう表現していいのかは、遥にはわからなかった。


 気がついたら、看板は地面に落下し、身の毛もよだつような音をまき散らした。

 けれど、遥の体に衝撃や痛みは何もなかった。手足はきちんと動くし、どこからか血が出ている様子はなかった。仄かに光る左手には、カナタと交換し、リムに触れられたブレスレットが光を放っていた。本来なら持ち出すことはできなかったブレスレットは、しっかりと遥の左腕に収まっていた。


「遥くん大丈夫? 怪我はない?」


 素直は心底心配した様子だった。街灯に照らされた瞳は、雫で濡れていた。


「大丈夫、なんともないよ。心配してくれてありがとう」

「本当にびっくりしたんだから……でも、本当に良かった」

「心配かけてごめんな」


 へたり込んだ素直を安心させるために、遥は素直の頭を撫でた。思わぬ大胆な行動を受けて、素直は驚きのあまり動けなくなっていた。


「え? ええー!? どうしたの遥くん?」

「あっ、つい……嫌だった?」

「違うの。嫌じゃないの。ただなんていうか……遥くん、ちょっと大胆になった?」


 まさか過去の世界で同じ時を繰り返していた、なんてことはいえるはずもなかった。答えに困って笑顔で誤魔化したら、素直は不思議そうに首を傾げていた。

 遥は周囲を見渡した。カナタの姿を探したけれど、見つからなかった。タイムスリップした先に戻るのであれば、カナタも近くにいるはずなのに、どういうわけか見当たらなかった。


「素直さん、変な質問かもしれないけど、カナタを見なかった?」

「カナタ……さん?」


 素直はひとしきり考え、申し訳なさそうな様子で遥に向き直った。


「ごめんね、考えてみたけど、カナタっていう名前の人が思いつかない」

「え?」


 どういうことだろうと疑問は尽きないが、再度素直にいった。


「天鳥カナタだよ。俺の幼馴染で、よく一緒にいるところを、素直さんも見てるはずだと思うんだけど」

「……ああっ。カナタちゃん、だよね。わたしは見てないよ。でも、不思議だな。どうして忘れちゃってたんだろう」


 絞り出すように考えてやっと、カナタのことを思い出したようだった。あれだけカナタのことを意識していた素直が、カナタのことを忘れかけるはずがなかった。不自然極まりない状況だと感じた。

 遥は嫌な予感に身を震わせていた。徐々に記憶が整理されて、奥深くに眠っていくというカナタの言葉を、思い出していた。


「遥くん?」


 心配そうな素直に大丈夫だと答えたけれど、うまく笑顔を作れたかどうか自信はなかった。






 にわか雨はすっかりと過ぎ去って、穏やかな夜には月の光が降りていた。すっかり整備された伊坂山公園には、冷たい風が吹き抜けていた。冷え切った息吹は雨すらも凍らせてしまいそうなほどだった。

 セントラルタワーは、恋人たちを祝福するように、カラフルな色彩でムードを高めていた。クリスマスムードを一人で味わう夜は、少しだけ切ない。聴き飽きるほどに繰り返されたクリスマスソングも、いざ孤独の中で流れてくると物悲しい。

 どれだけ時代が変わろうとも、やはり月は綺麗なままでこの地球を見守っているのだろう。もしかしたら今もあそこに、リムがいるのだろうか。人類の叡智えいちを超えた超常的な力で、今の自分も見られたりしているのだろうか。もう触れられないかもしれないけど、たしかにここにいるから。

 湧き出た気持ちが、なんらかの形でリムに届いていればいい。そう強く願った。

 慣れ親しんだ洞穴を眺めて、お世話になりましたと、頭を下げてお礼を呟いた。

 痛いほど冷たい空気を目一杯吸い込んで、吸った倍以上の時間をかけて吐き出した。ここの空気も吸い納めで、景色も見納めだと思うと、やはり郷愁の念が顔を出した。その感情を表すなら、未練。今後一切満たされることはない、悲しい感情。

 それでも、行かなければならない。それが、未来を選んだ者の選択であるはずだから。

 全ての思いを断ち切ろうと、決心を重ねたその瞬間。

 声が、聞こえた。


「カナタ!」

「……遥」


 遥は急な勾配にも関わらず、全力で駆け抜けていた。決して楽な道のりではないはずだった。疲労はまだ蓄積されていて、いつ倒れてもおかしくはないはずだ。それでも、遥はスピードを落とすことなく、真っ直ぐカナタへと向かっていった。


「勝手に、どこへ行くつもりなんだ?」


 荒ぶる呼吸を整えながら、遥はカナタに向けていった。焦燥のせいか瞳は尖っていた。カナタはスっと目を細めた。


「ここではない遠く。ちょっと彼方まで行ってくるよ」

「俺の未来には、お前がいて欲しいっていったじゃねえか」

「大丈夫だよ、遥。遥の未来には、幼馴染の私はいないけど、カナタはちゃんといるから」


 張り付いたような笑みで、カナタは淡々と言葉を紡いだ。遥には見えないように隠した後ろ手は、感情を押さえ込むように揺れていた。


「なあ、カナタ」

「なにかな?」

「カナタ……お前は前に、俺と一緒にお風呂に入ったことがあるっていってたけどさ……俺にはそんな記憶はない。それだけじゃない。カナタをおぶっていった記憶も、幼い頃にあったようなやりとりも、覚えていないんだ」

「うん。そうだと思う」

「俺はカナタのことを幼馴染だと思っていた。何故なら、幼馴染だっていう情報だけ与えられていたから。でも、今は気付いてしまった矛盾を思うと、頭がバラバラになりそうだ。カナタは一体……何者なんだ?」


 カナタは浮かない表情で笑みを作ると、一歩、二歩と遥から遠ざかった。遥はまるで拒絶されているように感じて、一歩近づいた。


「こないで! お願いだよ、遥」

「カナタ……」

「違うの。遥のことが嫌いになったわけじゃない。ただ、何もいえないだけなんだよ。きっと遥は、私のことを忘れてしまうけど、だからといって過剰な干渉はダメなんだよ。それが、タイムトラベラーとしてのマナーだから」

「そうか、やっぱり」


 遥は力なくうな垂れた。記憶が曖昧になっていく過程から、どうしても消えなかった疑念や不安。カナタが使用した道具の効果が徐々に切れていく度に、違和感に襲われた。

 その答えは、とても単純なことだった。


「カナタは……未来からきたんだな」

「にゃははは」


 肯定も否定もしなかったけれど、答えとしては決定的だった。

 もう遥は、カナタを引き止めることはできなかった。自分自身も、未来を手に入れるためにリムの手を振り切ったのだから。だからこそ自らの都合で、カナタを返さない選択なんてとれるはずがなかった。


「遥。せっかくのお別れなんだから、笑顔を見せて欲しいな」


 カナタは気遣うように、遥に顔を寄せた。


「わわっ!?」


 頭ではわかっていた。脳では理解していた。理性は働いていた。

 それでも、遥は最後の瞬間までワガママを貫かずにはいられなかった。

 絶対に離さないほどに強く、遥はカナタを抱き寄せていた。


「わかってる。俺がこんなことをいう資格なんてないことを。未来を望んだ俺が、カナタに帰って欲しくない、なんてこと」

「遥、痛いよ」

「俺はもう、カナタなしじゃいられない。カナタのことが好きで仕方ないんだ」

「私も……好きだよ。でも、私たちが結ばれる未来は、初めからないんだよ」


 遥の行動とは裏腹に、カナタは決して遥を抱きしめ返すことはなかった。遥の想いに応えない。それこそが、カナタの引いた最後の一線だった。

 カナタは、母親のように優しい手つきで、遥の手を解いた。カナタの決意を知ってしまい、遥は抵抗する気力をすっかり失くしていた。


「遥、顔を上げて」

「……ああ」

「あははは。涙なんか流しちゃって、恥ずかしいの」

「カナタこそ、涙目になってんじゃねぇか」


 二人の目元から雫が落ちる。涙に呼応したのか、ハラハラと雪が舞ってきた。切ないのにおかしくて、悲しいのに嬉しかった。ただ雪が降ってきただけ。奇跡と呼ぶにはちっぽけすぎる現象は、二人にとっての最後の思い出として刻まれた。


「そういえば、今だから気付いたことがあるんだ。リムちゃんが私たちを帰してくれなかったのは、帰したくなくなったっていってたけど、本当は遥のためだったんじゃないかってこと」

「俺の、ため?」

「うん。だって、今の遥には怪我一つないでしょ? きっとリムちゃんは、遥が怪我をしたり痛い目にあったりすることから、守りたかったんだよ」


 いわれてみれば、その言い分は正しいように感じた。自ら一歩踏み出しただけでは足りず、気がつけば不思議な光と共に衝撃から離されていた。そんな芸当は、生身の人間が出来ることではなかった。

 リムからの深い愛情を感じて、張り裂けそうな気持ちは、少しだけ大人しくなった。


 そうだ、と前置きして、カナタはさらに心配事を吐き出した。


「遥はこの先、急に子供ができたり、大変な苦労をすることになるかもしれないけど、誠実に向き合いなよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。そんなことするつもりはないぞ」

「……素直ちゃん相手にラブラブしてたよね」

「見てたのかよ。いや今はそれはいい。あれは未遂だったんだ」

「……え? そうなの?」


 カナタは心底意外そうにいった。あまりにも見事なキョトン顔は、遥にとっては心外だった。


「なんだよその顔は」

「ごめんごめん。でも、あんなにいいムードだったのに、なんで断っちゃったの?」


 その件については明確な答えがあるにはあるが、平然と口に出すことは恥ずかしさを極めた。


「……カナタとの約束の時間があって、あまり遅れすぎると怒られるって思って」

「あははははは」


 カナタは豪快に笑い声をあげて、遥は肩身が狭い思いをした。


「笑うなー」

「ごめんごめん。でも、これで私の心配事は何もなくなったよ。私がここにきたことに、意味があってよかった」


 カナタは一度両目を閉じた。何かしらの余韻を味わっているようで、雪の中に佇む姿は神話のモチーフになったとしても、おかしくないように感じた。

 再び見開かれた瞳に映ったのは、強い決意を秘めた色。


「それじゃあ、今度こそお別れだね」


 タイムペンダントが起動された。どこに飛ぶのかは遥にはわからなかったが、カナタの帰る場所について、微かに想像は巡らせていた。

 カナタの体は透明な膜に覆われ、徐々に形を失くしていく。反射光はプリズムとして鮮烈に印象付けられた。

 まだ涙も乾ききっていないままで、カナタはいった。


「遥、忘れちゃうかもしれないけど、お願いがあるんだ」

「……なんだ?」


 カナタの体が、色を失くしていった。


「遥はこれから好きになっていく子に、全力を尽くすこと。そうすれば、きっとその恋はうまくいくよ」

「自信はないけど、がんばってみるよ」


 カナタの体が末端から光へと変わり、形が曖昧に変化した。


「それで……女の子が産まれてくると思うけど、精一杯可愛がってあげること」

「もちろん、ドン引きされるくらいに可愛がる」


 素粒子は糸のように流れ出でて、カナタの体は分解されていった。


「その女の子は、ワガママだったりお転婆だったりすると思うけど、本当は寂しがりやのファザコンなので、広い心で受け止めてあげること」

「カナタ、それって……」


 周囲がどんどん景色に溶けて、本来見えることのないホールのような物が出現した。


「何があっても、家族みんなで元気に長生きすること!」

「カナタ……」


 カナタの姿が消えていく。存在そのものが世界から漏れ出して、目の前から遥か彼方への旅路につこうとしていた。

 カナタは、笑った。

 別れに相応しいように。

 泣き顔で終わりにしないように。


 最高の笑顔で、さよならをした。


「今までありがとう……きっとまた、会えるよ」


 最高の笑顔が光となって消えた瞬間を、遥はじっと見つめていた。

 カナタの正体を完全に悟った時、思いの残滓が押し寄せて感情の波は止まらなかった。

 それでも、今はどれだけ悲しくても、きっとまた立ち上がろう。

 いつかまた、カナタと出会うその時まで、立ち上がり続けなければならない。

 けれども今だけは無様に寝転がったままでいることを許容した。ハラハラと雪が体に落ちる。この気持ちだって、温かい春が訪れて、いずれ溶けてゆくだろう。視線の置き場も定まらなくて、優しさを乗せたような月の姿を、瞳に映し続けた。

 いつまでも、いつまでも。

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