2ー5 タイムパラドックスが起きない理由
「昔、人の目では見れないくらいちっちゃな電子が、箱の中でどんな状態になっているかって実験が行われたんだけど、Aという点にあることと、Bという点にあることという、相容れない結果が重なり合っているっていう結論に至ったんだよね」
「よくわからんな。一個の電子だっていうなら、どんな状態でどこにあるのかなんて、一つしかないはずなんじゃないか?」
「そのはずだよね。そのよくわからない解釈で一番有名なのは、シュレディンガーの猫だね。箱の中の猫が生きているのか死んでいるのかは、箱を開けるまでわからない。だから生きている状態と死んでいる状態は重なり合っている」
「聞いたことはあるけど、なんかしっくりこないんだよなあ」
「結局開けて見てみたら生きているか死んでいるかは確定するし、開けなくても観測ができないだけで、結論はもう出ていると思っちゃうと、納得いかないところだよね。でも、大事なことはここからだよ」
「大事なこと?」
「私たちが見て聞いて感じている。つまりは観測している世界は一つだけに思うけど、私たちが観測していない世界もあるんじゃないかな。というか、違う結果を観測した世界っていえばいいのかな」
「違う結果を観測した、世界?」
「例えば、歩き出す時に右足から歩いた世界と、左足から歩いた世界。その瞬間に、分岐した両方の世界が存在しているんだよ。私たちは選ばなかった世界を見れないだけなんだよ」
カナタがいうには、様々なことを行った世界と、行ってない世界が複数存在し、枝分かれし、お互いに観測出来ないだけで存在しているというのだ。
こういった事象は、おそらくパラレルワールドなんて称されているものだろうと、遥は解釈した。
観測出来ないからわからないだけで、複数の世界は存在し、カナタの口ぶりではお互いへの干渉はなさそうだ。
けれども、まるで子供のいう嘘みたいに空想的な話を、まだうまく飲み込めそうになかった。
「なんか簡単には信じられない話だな」
「そりゃそうだよね。証明できないんじゃ、わかるわけないよね。なら、観測して証明出来れば、この解釈は正しいってことになるんだよ」
「……ってことは、まさか」
「うん。観測されたんだよ、私たちがいた世界以外の、無数の可能性の世界が」
カナタの話によると、カナタのいた研究所の所長が、今の世界から抜け出し、他世界を観測するために重要視したことは、光の速度を超えることだった。
現状存在するあらゆる物質の中で、最も早く移動できるものは光であるという。アインシュタインが提唱した相対性理論によると、光の速度に近づけば近づくほど、その物質の時間は遅くなる。
実際に行われた実験でもその説は証明されている。だとすれば、あらゆる物質の最高速度を誇る、光を超えることが出来れば、今の世界を超えられるのではないかと、研究所の所長のケーアイ博士は仮説を立てた。
しかし、そもそも光を超える速さの物質など存在が仮定されても、見つかっていないからこそ、ただの仮定としか扱われない。見つからないものは、存在しないのだという否定的な声に耐え忍び、長年研究を行った。
長年の研究に命すらも燃やしていた結果、ついに見つけることができたのだ。光の速度を超える、素粒子iの存在を。
さっそく素粒子iについて研究を重ね、光の速度を超えた世界を観測した結果、あらゆる世界と隣接しており、情報を保管してある、空間と呼ぶことすら正しいのかわからない世界に辿り着いたのだと語っていた。
「便宜上、時の図書館と名付けられたその場所は、ありとあらゆる時間軸の情報が保管されていたんだって。ちなみに、図書館っていうのはものの例えだから、本がいっぱい置いてあったり建物内だったり、そういうところではないみたい」
「わかったとは完全にいえないけど、要は別の世界ってやつは見つけたんだよな。それとタイムパラドックスが起きないってことと、どう関連があるんだ?」
「私たちがこの時代に来た時点で、もうすでに私たちが来ていない世界と、来た世界に分かれるだけなんだよ。私たちが生まれたのは、私たちがここに来ていない世界でしょ。だから私たちが来たという出来事のもとで、新しい世界が生まれるだけって理屈なんだよ」
「その理屈が正しいのなら、俺たちがここで何をしようとも、俺たちの世界には影響がないってことか」
完全に納得したわけではないが、遥はわずかに胸を撫で下ろした。SF映画のように、リムと父親である暁の恋路を実らせなきゃ、自身が消えてしまうなんて展開とはならないらしい。
厳密にいえば、遥とカナタがこの時代に訪れた時点で、この時代は元いた時代の正確な過去とは分岐している。
遥たちが来ている時点で、世界そのものが分岐してしまっているのならば、未来が変わる不安はないはずだ。
「必要ない忠告だと思うけど、念のためいっておくよ。いくら元いた世界に影響がないからって、この世界に影響を与えることは、極力避けること」
「それは、どうしてだ?」
「だって、例えば近代兵器とかを大量に持ち込むことができれば、好きなように侵略することもできちゃうからね。ドラえもんでもそういう話があったね。私たちの世界に影響がないからいいなんて考え、私は嫌い」
「そりゃそうだな。カナタのいう通りだ」
自分だけが良ければいいという考えには、遥も賛同するつもりはなかった。この世界にはこの世界のあり方があるだろうし、極力不用意な接触や干渉はしないでおこうと、肝に命じた。
不意に、遥の腹から、グーと空腹を訴える音が鳴った。素直とのデート。タイムスリップ。リムとの遭遇。喋る鳩。そして世界の分岐など、様々な出来事が重なりすぎて、疲労感と空腹は普段以上に感じていた。
カナタは、腹の虫が鳴ったことに反応して、ふふっと笑いだした。何がおかしいんだとは思うが、今さら羞恥心を感じることはなかった。
「とりあえず、一旦ご飯でも食べよっか」
「それには賛成だけど、なんか食料は持ってきたのか?」
「ないよー」
「それじゃあ、なんか買ってくるしかないのか。えっと、いくら持ってたかな」
「ちょっとまって遥。持ってきたお金も、全部は使えないよ」
「え、なんで?」
「硬貨には製造年月日が書かれてるでしょ。それに紙幣も、この時代とは違うものだから、使えるとしても、この時代以前の硬貨だけだね」
「そっか。この時代にないお金を使って、そのことがバレたら警察沙汰だもんな」
「そういうこと」
まるでタイムスリップを経験したかのような周到さに、遥は素直に感心した。けれども、それだけ考えているのであれば、食料もあらかじめ持ってきてほしかったとも思う。
この時代で金銭が使えないとなると、かなり不便だ。だとしたら、一体どんな解決策があるのか。
興味が湧いてきたので聞いてみた。
「それで、金銭が使えないんだったら、どうやってこの時代で買い物するんだ?」
「その辺は抜かりないよ。ほらっ」
カナタは、張り紙が目立つ黒色のポーチを取り出した。張り紙に書かれているのは、1999年以前、という文字だ。
「これは?」
「1999年以前に作られている小銭をまとめてみたよ。大体三万円くらいかな」
「思ったより地味な手段だったな……」
がっかりとまではいかないが、思いのほか拍子抜けだった。どこか不満げな遥の表情を見つめて、カナタは頬を膨らませた。
「ちょっとバカにしてるでしょ。やろうと思えば、お金を得る方法はなんだってあるんだからね。犯罪行為になっちゃうこともあるからやらないけど」
「もしそうだったら、さすがに俺も止めてるよ」
「それに、この時代の通貨事情に無闇に干渉しないことが、タイムトラベラーとしてのエチケットだよ」
「それもそうか」
そう納得しかけたのだが、そうなると新たな問題が発生することを、遥は指摘せずにはいられなかった。
「待てよ。俺たちがそのお金を使ったらさ、この時代に同じ年代の通貨の数が増えるけど、それは干渉じゃないのか?」
遥の投げ出した疑問に、カナタは両手を組んで考え込んだ。与える影響の大きさについて考えているのだろうか。
一分ほどの沈黙を得て、カナタは遥に向き直った。
その表情はほころんでおり、奇妙なほどに花が咲くような笑顔だった。
「にゃははは」
露骨過ぎるほどに誤魔化しを孕んだ猫笑いだった。
一瞬使用した後の不安が頭をよぎるが、それなりの数の硬貨がその年代に作られているだろうし、さすがにバレることはないだろう。多分。
そう、自分自身に言い聞かせた。
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