2ー6 往復ビンタは夫婦になってから
暗がりの降りた住宅街を、二人並んで歩いていった。普段目にしているようで、新鮮で古めかしい景色。いつも歩いている道ではあったけれど、いつもよりも暗い。電灯の数がもといた時代よりも少ないせいだった。犯罪防止効果があるというブルーライトの電灯は、この時代にはまだ設置されていなかった。
カナタと進む道のりは、素直と体験したデートとは違い、老夫婦のような平穏な心持ちでいられた。幼馴染という関係性は、他人よりも近くて、近過ぎるゆえに感情は揺れない。胸に抱いている感情は、きっと安心感だ。
平然と歩いていると、幼い頃の記憶が呼び起こされたりもするが、遥はカナタとの思い出を回想できずにいた。確かに夜道を一緒に歩いたという事実は考えられるのだけど、それがどんな思い出に起因するものなのか、わからなかった。
「カナタ」
「なーにかな?」
「きっと昔もさ、こうやって二人で夜に出かけたことって、あったんだよな?」
カナタは、一瞬顔を伏せ、作ったような表情を見せていた。
「聞き方が変だよ。昔の遥は、私を色んなところに連れてってくれた。無理しておんぶとかしてくれてさ、星が見える綺麗な丘とかに連れて行ってもらったなあ」
「そう……だっけな」
いわれてみるとそうだったような気はするが、映像として記憶に流れてはこなかった。というか、昔の自分はわざわざカナタをおぶったりしたのか。
ふと恥ずかしい気持ちに襲われて、一旦話題は打ち切ることにした。
空気を切り裂く音とともに、北風が吹き抜けて、二人は首をすくめた。雪こそ振ってはいないものの、海から運ばれる寒風は、体温を徐々に奪っていった。
「さっむーい。遥! 手!」
「はいよ」
左手を差し出すと、寒さから逃れるためかガッチリと握ってきた。手袋をしてなかったのでまだ寒さは残っていて、自らのポケットにカナタの右手ごと入れた。
冷たかった手は徐々に熱を取り戻していったけど、とりあえずその手はポケットにしまったままでいることにした。
素直とは違って、ドキドキと胸を弾ませたりはしない。けれど握っていると、とても安心する暖かい手だった。
地域密着型ローカルスーパー、イサカ一番。通称イサイチは二十年前にも、活気付いた様子で営業していた。まだ商業の中心であるセントラルモールが出来ていないせいか、客足は多く、店内からは明るい雰囲気が感じられた。
野菜や冷凍食品の並ぶ、食材のコーナーを通り越し、弁当や惣菜の立ち並ぶ出来合いの物が並んだスペースに進んだ。遥とカナタは、お互い片親なため料理を全くしないわけではないが、洞穴の中の部屋で火を使う勇気が起きないことに加えて、慣れない過去の世界に疲労していたため、食事を作る気力はなかった。
「からあげはやっぱり定番だよな〜」
「私も好きだけど、ちゃんと野菜も摂らないと」
「お前は母さんかよ……って母さんはそんなことはあまりいわなかった気がする」
「あっ。キットカットがセールの対象になってる。ねえ遥、買っていい?」
「それは別に戻っても買えるだろ。まあでも、いいんじゃないか。カナタが用意したお金だし」
「やったー」
はしゃぐカナタの姿は、母親のような振る舞いから一転して、むしろ子供のようだった。
やいのやいのとはしゃぎながら二人は商品をカートのカゴに入れていった。二人でスーパーで買い物をした記憶は見当たらなくて、ちょっぴり新鮮な感情はこそばゆくて楽しかった。
ふと通りかかった調味料コーナーで、二人は立ち止まった。
「遥、あれ、大丈夫かな」
カナタは遥に耳打ちして、周囲には見えないよう控えめに前方の女性を指差した。
その先には、とても小柄な体躯を目一杯伸ばして、棚の上段に陳列された商品を取ろうとしていた。店員が放置していったのか、小型脚立に乗っていても、まだ身長が足りていなかった。ぶるっと震える脚立につま先立ちしていて、足を踏み出したらすぐにでもこけてしまいそうな危うさだった。
「カナタ、ちょっと手助けしてくる。荷物見ててくれ」
「うん」
カートをカナタに託し、小走りで女性のところへ近づいた。必死に商品を取ろうと集中しているせいか、近づいてきた遥の姿に気づくことなく、届きそうで届かない手を伸ばし続けていた。
「すいませーん。手伝いましょうか?」
声をかけて、やっと女性は遥を一瞥したが、再び目標に向けて手を突き出していた。
「大丈夫です。あたしの力で、やってみせますから」
「いやでも、危ないですよ」
「だいじょーぶ」
女性は強がりを続けていたが、立てていたつま先が脚立と滑り、体は後方へと傾いた。
「って、わーっ」
「あーもう、危ないっていったのに!」
ぼやきつつも遥は駆け出したが、女性の体はすでに落下を始めていた。このまま手を伸ばすだけでは、間に合ったとしても、女性の体を支えきれそうになかった。
できる限り怪我を負わせないように、その場で重心を低く保ち、そのまま、ほぼ真直ぐの軌道で飛び込んだ。
ドスンドスンと二度の衝突音が響き、腹部と背部の両方に衝撃が駆けた。
「ぐええ」
「ご、ごめんなさいです。大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
「よ、良かったです。ってどかなきゃですよね。ごめんなさい」
女性はその場からから立ち上がり、遥に手を差し伸べた。吐き出し切った空気をまた肺に戻しながら、遥は女性の手を取った。
不安そうな表情で、カナタがカート押して駆けてくる姿が見えた。さらにその背後から、凄まじい勢いで突っ込んでくる男性の姿も、視認した。
「くおおおらあああ。人の嫁になにしとんじゃあああ」
駆け寄ってきた男性は、女性とは対照的に大柄で、怒りながら叫ぶ様は、まるで獰猛な熊のように思えた。放置気味の長髪から覗く瞳は鋭利なもので、視線だけで心を切り刻みかねない様相をしていた。
大柄な男性は、無理やり遥の胸ぐらを掴み、顔がくっつかんばかりにメンチを切った。漂ってくる香りは、深く染み付いたタバコの匂い。
「ちが、違うんで、す」
「あああ? 何が違うっていうんじゃ? 人の嫁の手を握りしめとったじゃないか。もっとはっきりしゃべらんかい」
「ちょっとダーリン! 誤解ですって」
「ごかいもろっかいもあるかい。このガキ握りつぶさんと腹の虫が治まらんわ」
「すいません落ち着いてください。遥はその方を助けようとしただけなんです」
「そうなんですよ。この子は、こけてしまったあたしを庇ってくれただけで」
「可愛らしい嬢ちゃんを連れてるってのに、コイツは人の女に手を出したんか? なおさら許せんわ。ぶっとばしたる!」
完全に激情しているらしく、大柄な男性には言葉が届いていないようだ。大柄な男性が、勢いよく拳を振り上げる動作が遥にはゆっくりとした速度で見えた。これはもう殴られると覚悟を決め、歯を食いしばり、恐怖から目をつむった。
「人の話聞かんかいワレ!」
怒気と殺意すらも高濃度に詰まったその声の主が、誰なのか一瞬判断がつかなかった。
あまりの驚きに目を開けると、鬼すらもちびりそうな表情の小柄な女性が、大柄な男性のスネにひと蹴りいれていた。たまらず遥を掴んでいた手は離され、遥は殴られる脅威から解放された。
心配をしてくれたのか、足早にカナタが近寄ってきたけれど、気になったのは小柄な女性の行動だった。よろめきうつむいたタイミングに合わせて、大柄な男性の胸ぐらを掴み、有無をいわさずにビンタを三発叩き込んだ。しかもすべて往復ビンタだった。
「この方はね、脚立から落ちたあたしを助けてくれたんだ。しかも、自らが下になって身を呈してだよ? なんと男気のあるいい男じゃないか。それをアンタは何? 人の嫁を取っただとか。たかが助けておこして手を握っただけじゃないか。何女々しいことをいってんだい」
「ご、ごめんなさいハニー」
「謝んのはあたしにじゃないわ! ほらっ、とっととその方たちに謝んな!」
何が起きたのか、遥にはわけがわからず混乱は続いていた。ただ、現状の事実だけを述べるのであれば、熊を思わせるような大柄な男性が、たかが高校生に、スーパーの真ん中で土下座をしていた。その背中は、先ほどまで遥の胸倉ぐらを掴みいきりたっていた男のものとは打って変わり、とても小さく弱々しいものに見えた。熊のようだった滲み出る雰囲気も、今やアリのようなちっぽけさだった。
「ほんとうに、もうしわけありませんでした」
「本当に、ごめんなさいです」
可哀想になるくらい、かすれ気味の謝罪とは対照的に、小柄な女性は堂々と頭を下げた。
そして自らは顔を上げて、小さな子供を見るように慈愛と諦観を込めた瞳をちらつかせた。
「うちのダーリンは、ちょっぴり早とちりさんなんですよ。今回は大目に見て頂けないでしょうか?」
「だ、大丈夫ですよ。だからもう、許してあげてください」
大の大人に情けないほど謝罪をされてしまったら、もう許す他に選択肢はなかった。
小柄な女性は、頭を上げることを阻止するためか、左足で大柄な男性の頭をぐりぐりと踏んでいた。
女性って、怖い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます