1ー5 それは不安の強さ故に

 ついに天気が崩れ始め、ポツポツと雨が降り注いできた。

 まだ自宅まで距離があり、雨具を持ってきていなかった二人は、公園に立ち寄り、ドーム型となっている遊具に身を潜ませた。

 硬質な見た目とは裏腹に、内部の壁や床は弾力性に優れていて、座っていても不快感はなく、むしろ心地よい。


 数年前には、遊具で遊ぶ子供が怪我をする事態が相次いで、遊具を撤去や使用禁止にする例が多々あったらしい。

 そのような流れから、子供の安全な遊びを提供するために、危なくない遊具が開発された、という話を遥は思い出していた。


 子供による利用が想定された空間は、高校生二人が身を潜めるには少々窮屈だ。意図せずとも腕が素直の肩に触れ、気恥ずかしさから体を離した。

 しかし、気をぬくと再び素直に体が触れてしまい、また離す動作を繰り返した。

 遥が苦心している間、素直は沈黙を守っていた。誰にいわれたわけでもなく、押し黙っている。遊具内には明かりがなく、素直の表情はうかがえなかった。遥は素直に宿る感情の正体を知れずにいた。

 感じるのは深く、わずかに荒い呼吸音と、時折触れる体から伝わる体温だ。冷えた体を温めるためなのか、分厚い冬着の上からでもわかるくらいに、素直から熱が発せられているのを感じた。


 なんだか動くことも無粋であるように錯覚して、遥は身じろぎをやめた。

 自発的な動作が止み、音として知覚されるのは、絶え間なく注ぐ雨音と、本来は聴こえるはずのない、鼓動。自分だけでなく、素直の生命の揺らぎさえ聴こえてくるようだった。


「雨、やまないね」

「ああ、そう、だな」


 やっとのことで繋がれたやりとりは、ただ事実を述べただけだった。

 また再びの沈黙。おかしい、いつもの二人であれば、どちらからともなく、ソフトボールを投げ合うような軽口を叩けるのに。普段とは違う装い、雰囲気に圧倒されて、何も言葉は思いつかなかった。


 もどかしい感覚が限界を迎えようとした時になって、素直は消え入りそうな声を遥に投げかけた。


「えっと、覚えてる? あの……メテオの、こと」

「もちろん覚えてる。残念だったよな」

「うん。しょうがないっていうのは、わかってるんだ。交通事故で死んじゃうことって、よくあることだから」


 メテオは、淡黒の体毛に覆われていて、所々に茶色い毛の混じった子犬だった。帰宅途中に訪れた校舎裏の空きスペースに、心細そうな鳴き声を撒きながら迷い込んできたところを、遥と素直が発見した。

 まだ人間に対する警戒心が育っていなかったのか、逃げようともせずに、訴えかけられているような鳴き声をあげ続けていたため、いけないとは思いつつも、素直は弁当の残りを分け与えた。

 遥はその行為を咎めることはしなかった。


 それ以来、時折校舎裏に小さな友達を見に行くことが二人の日課だった。

 遥と素直の姿を見つけると、尻尾を振り乱し流れ星のような勢いで飛びついてくること。そして真っ黒い体毛の随所に、茶色の模様が浮かんでおりまるで夜空に浮かぶ星のようだと遥が感想を漏らした。結果として、子犬はメテオと名付けられた。


 ともあれ、親とはぐれてしまったのか、エサをくれることを学習したから居場所の一つに設定したのか、メテオは校舎裏に居続けていた。

 遥と素直は、自分たちの行なっていることが、絶対的にいい行いであるとは思ってはいなかった。けれど秘密を共有する快感や、生き物を育てているという錯覚からメテオの元に通い続けていた。


 ある時、いつものようにメテオに会いに行ったのだが、甲高い鳴き声も、力強く大地を蹴っている足音も聞こえてこなかった。ようやく認識してきた名前を呼んでも、反応はない。

 そんな日もあるだろうと思い、素直と帰路についた途中、メテオを発見した。

 正確には、メテオとして生を受けていたものを、二人は発見した。


 遥は、自らが汚れることも構わずに、メテオを近くの空き地に埋葬した。母親が失踪したことで、当たり前だった存在の喪失には耐えられた。けれども、死に直接触れたことは、初めてだった。

 素直は子供のように泣きじゃくっていた。大粒の涙を隠そうとせずに、呻くようなしゃっくりを流しっぱなしにしていた。


 それ以来、メテオのことを二人で語らったことは今までになかった。触れちゃいけないタブー。そんな気がしていたのだ。


「実はメテオのことを、ちょっとだけ後悔してる」

「それは、最初にエサをあげちまったことか?」

「うん。もっというとね、野良の子を、人に慣れさせちゃったってことを、後悔してる」

「それって、どういう」

「もしかしたら、人間を怖いと思わなくなっちゃったから、人のいるところに来ちゃって、事故が起きた。そうだったのかもしれない」

「それは、たらればの話だと思うが」

「そう、遥くんの言う通り……だけど、そうかもしれないって思っちゃってから、罪悪感って消えないよ」

「それでも、俺は素直さんが悪いなんて、思えねえよ」


 遥は本心から言葉を絞り出した。真実かどうかは別として、素直の言ったことは正しい。

 けれど、その正しさが素直を傷つけ続けることを考えれば、この場限りの慰めだとしても、そういわずにはいられなかった。

 それは偽善だと思う。根底の解決に至らないと思う。

 それでも、素直の悲しむ顔を見たくないという感情を優先したことを、遥は自覚していた。


「遥くんは優しいね。ぶっきらぼうで文句ばっかり言ってるけど、みんな知ってるよ。遥くんの優しさを」

「そんなことねえよ。正しさより、その場で聞こえのいい言葉を選んでるだけだと思う」

「ううん。それで……いいの。正しくて、真っ直ぐな言葉よりも、あの時の私は、聞こえのいい言葉が必要だったから」

「素直さん」


 素直は、初めて意図的に遥へと近づき、体を密着させた。遥は反射的に体を離そうとしたが、その行動は叶わなかった。

 素直の両腕が、遥の腰あたりに回されていたからだ。


「素直さんっ」

「知らなかった。命って、あんなにあっさりと失われてしまうんだって。それが、とても寂しいことなんだって」

「素直さん……」


 回された手はより強く、より熱く遥を包む。失うことを、恐れているように、強く。


「わたしは、怖いんだ。ちょっとした出来事で、あっけない幕切れで、遥くんを失ってしまうんじゃないかって」

「さすがに考えすぎだって。そんなことは」

「ないって、言い切れるの? 遥くんが優しいのは、損得について考えてないからなんだよ。遥くんが偽善だっていう、その場限りの都合の良さは、全部相手のため」

「そんなこと」

「相手が喜ぶこと、相手にとって都合のいいことを考えすぎて、自分のことを考えていないよ。もし自分の命を犠牲にして、私を助けられるっていう場面で、自分を優先することができる?」


 できる、と即答出来なかった。

 畳み掛けるように、素直は思いを吐き出し続けた。


「わたしは遥くんを失いたくない。大袈裟だってわかってる。でも、怖い。遥くんが、どこか遠くに行っちゃうんじゃないかって。自分の命だって、あっさりと投げ捨てちゃうんじゃないかって思えて、怖いんだよ」


 素直は身を乗り出して、遥の胸元に顔を埋めた。鼻腔をくすぐる香は年頃の女の子を表現していて、理性を奪われているようだった。

 素直は遥の腕を掴んだ。ためらいがちに一度静止し、決意を表すかのように、自らの胸元へ遥の手のひらを導いた。

 夢にまで見る柔らかな感触を認識した時、遥は心臓が弾けるような音を聴いた。



「ちょっ素直さん。自分が何をなさってるかわかってますか?」


 動揺のあまり、自然と敬語になった。


「……わかってるもん」

「いやいやわかってんならなんでいきなり」

「遥くんには、カナタちゃんがいるから」

「カナタは、仲がいいだけでただの幼馴染だ。恋愛感情はお互いにねえよ」

「わたしもそう思ってた。それは今でも理屈としてはわかってる……けど、どうしてなのかはわからないけど、遥くんと仲良くしているカナタちゃんを見ると、不安で、羨ましくて、仕方がないんだよ」

「仲良くしてたのは、ずっと前からのはずなんだが、なんで今更」

「わたしにもわかんない。わかんないけど、わたしは遥くんのことが好きだよ。誰にも、取られたくない」


 遥の視界には、遊具入り口から漏れた明かりに照らされた、素直の顔が映っていた。

 潤んだ瞳から、今にも雫がこぼれ落ちてしまいそうで、悲痛さすら感じた。気持ちの昂りから呼吸は早く、喘ぐような音が漏れ出している。

 初めて見る、女性としての鈴森素直。遥と素直という高校生同士のやり取りと称するのは相応しくない。より原始的な欲望。

 男性と女性としての行為が、遥の脳裏に選択肢として生まれた。


 それでもまだ、臆病な理性は意識を失ってはいなかった。


「素直さんダメだって」


 そうはいってみたものの、一体何がダメなのか自分自身でもわかっていなかった。

 理性と欲望がぐるぐると渦巻き、遥は行動が取れなくなっていた。素直は焦れたように、自ら上着を脱ぎ去り、バックの上におろした。

 より肌と肌の距離が近づき、素直は真正面から遥に抱きつく。

 遥は柔軟な女性としての部分を、よりダイレクトに感じて、こびりついている理性は剥がされていくようだった。


 素直は、目一杯の思いを、たった一言に込めた。


「いいよ」

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