1ー6 ハルカナ、飛ぶ

 いつのまにか雨はあがっていたため、遥に続いて素直も遊具から外へと出た。寒風が吹き付けてきたけれども、火照った体を冷ますには、心地よく感じた。

 お互いに何を話したらいいかわからず、無言のまま並んで歩いた。先程触れた唇は熱くて、言葉をつなぐには適していないようだった。

 顔を見たくても見れない。自分の顔を見なくてもわかるくらいに紅潮してるだろうし、素直の顔も見るまでもないくらいに、赤みがさしているのだろう。

 セントラルで味わった喧騒が嘘みたいに、静寂はわずかな音も強調した。二人分の足音が奏でられることが、少しだけ嬉しい。

 けれども、わずかに胸に迫る痛みを、感じていないわけではなかった。


「遥くん、まだ悩んでるでしょ。多分、そんな顔をしてるよ」


 心境を読み当てられ、遥は動揺して足がもつれかけた。素直の表情を一瞬だけうかがうと、優しげな言葉とは裏腹に、余裕がなさそうに強張っている。

 素直は決死の思いで言葉を絞り出したんだと思う。なら自分が変にためらうことは男らしくない。心の中で気合いを入れて、けれども強張りを持つのではなく、ただありのままに


「正直、これでよかったのかって思ってる。なんていうか、素直さんの覚悟だってあったんだから」

「うん、あのね、めちゃくちゃ恥ずかしかったんだよ」

「いや、その、ありがとうございました」

「ここでお礼なんだ。でも別にいいんだよ。遥くんだって、わたしのことを考えてくれたんだから」

「なんていうの、そりゃ男としては、ねえ」

「でも最終的にはわたしのためだったって、わたしは思ってる。だから、ありがとうっていうのはこっちだよ」


 無理はしているのかもしれない。やりきれない思いがあるのかもしれない。そう感じるのは、遥自身も心残りに思っているからだった。

 やりきれなかった分が、おそらく今の素直との心の距離なのだ。今は離れているだけで、その距離は徐々に縮めることはできる。そんな予感を感じていた。

 ふと、聖夜の雰囲気にあてられて、恋人の真似事をしてみたくなった。

 触れようと素直に左手を伸ばすが、体温を分け合う寸前で止まる。胸を触った記憶があっても、手を握るという行為がすんなりといくわけではなかった。

 振り絞った勇気が気恥ずかしさを上回った瞬間。

 突如として、世界が揺れた。


「きゃっ」

「うああ」


 悲鳴を上げつつ、遥は素直を胸元に引き寄せる。地面は意思を持ったかのように脈動し、木々に連なる枝葉は縦に激しく揺さぶられていた。ところどころから悲鳴があがる。

 地震だって、こんな時に。

 立っていられないほどではないが、下手に動くほうが危険を伴う気がして、遥はひたすら上下する振動に耐え忍んだ。建物をひしゃげさせるほどではない。しかし、恐怖心を煽り、危険を認知させるには十分な揺れが続く。

 一分ほど揺らぎに耐えたぐらいになり、ようやく振動は止まる。耐震構造に力を入れているマンション群は折れることなくそびえ立っていた。


「地震、怖かったね」

「超怖かった……素直さんは大丈夫だった?」

「わたしは、大丈夫だけど」


 遥の立つほんの数センチほどの背後で、金属が激突する音に気を取られた。遥と素直は音のした方に振り向くが、地面に傷が浮かんでいただけで、何がぶつかったのかはわからなかった。

 何か嫌な予感がする。危機を感じたことで呼び起こされたのか、感が働いているように感じた。

 もう一度、同様の音が響いた。先ほどよりもはっきりと聞こえた音は、やはり何かがぶつかる音だ。

 落ちてきているのなら、出どころは、空か?

 遥は勢いよく首を逸らし、空を仰ぎ見た。


「っ!」


 うまく言葉にはならなかった。

 全貌はわからないが、錆びついた長方形の物体が落下している。光が乏しくて、何かの看板ということしかわからない。詳細不明たる無機質な落下物は、まるで物言わぬ死神のように思えた。かろうじて認識できたこと。重力に従い落ちてくる先にいるのは、自分と素直。


「危ないっ」


 考えるよりも先に体が動いた。素直を勢いよく突き飛ばした。思いのほか強い力が加わって、素直は二、三歩よろけて転んだ。ただおそらく、驚異の圏外には追い出せたはずだ。


 そこで安堵してしまう。素直さえ無事ならという可能性が出た瞬間、遥は力が抜けていく感覚に身を委ねていた。

 誰かを助けて終わるのなら、まあそれでもいいのかもしれない。

 視界に写る時間が、遅れているように見えていた。死の寸前に立たされた時、時間が全てスローモーションになるという話を思い出していた。遅くなった世界の、正確な時間はわからなかった。一秒もないコンマゼロ秒以下の世界の移ろい方に、感動と諦観すら覚えていた最中。


 心を裂くような慟哭が聞こえた。


「遥!」


 迫る死の象徴からは目を離した。

 手を伸ばして駆け出していたのは、ここにいるはずのないカナタだった。そういえば、約束の時間を超えてしまっていたことを思い出した。いい加減約束の場所にこない遥のことを、カナタは探しにきたのだろう。

 でも、ごめん。もしかしたら、ダメかもしれない。


 命をあっさりと投げ捨てるかもしれない。そんな馬鹿みたいだと笑ってしまうような素直の不安は、案外正しかったのだと、こんな場面ですら遥は苦笑した。

 目を閉じる。恐怖心や後悔から目を逸らすために。できる限り見ないで済むように。諦められるように。


「飛ぶよ!」


 カナタの声は聞こえていたが、意味はよくわからなかった。

 次の瞬間、確かな実体が朧げになっていく感覚を、遥は感じた。

 まるで体が一本の糸となり、引っ張られて形を変えていくような触感。自分自身が崩壊していく様は、不思議と痛みは伴わない。けれども確かに形を保ってはいなかった。

 目を開けてみると、世界が螺旋を描いて混ざり合うように回っていた。空間が歪んでいるというものなのだろうか。

 体躯は金粉のように輝きへと変質した。解体は進んで、考えがまとまらなくなり、思考は飛び飛びに活動し、途切れた。

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