エピローグ 遥か彼方から

 カーテンで締め切られた薄暗い一室で、キーボードを叩く音だけが響いていた。ここ数年で飛躍的に研究の手が伸びている、素粒子iについての論文をまとめ上げていた。初めてタイムトラベルを行なってから二年間が経過し、素粒子iに対する扱いも、随分と変わってきた。実際に時間移動が出来る事実が認められた今、研究者の間では誰もがこの不可思議な物質に希望を見出していた。

 素粒子iの第一発見者かつ、世界最初のタイムトラベラー、今宮カナタは研究所の間でも一目置かれる存在となっていた。かつて天才少女と持て囃された才覚は、否定的な意見も少なくはなかった。しかし、実際に時間移動を実演した以上、頭の固い上層部連中もカナタのことを認めざるを得なかった。

 しかし、あくまでタイムトラベルが成功しただけだ。そのメカニズムや性質が完璧に明かされたわけではなかった。知れば知るほど、また新たな謎が増えていく。うんざりするような発見の連続で、カナタの日常は目が回りそうだった。


「えっと、今日の日付は……12月25日。そういえば、クリスマスだったっけ」


 そして、特に誰かに明かしたこともないが、ちょうど二十歳を迎える誕生日だった。






 幼い頃に、事故で父親が亡くなってから、カナタは内に籠りがちとなった。活発で明るかった性質はなりを潜めて、無口で物静かな少女へと変貌した。父親の死が与えた影響は大きくて、幼い心に罪悪感の重みは深刻なダメージをカナタに与えた。

 毎日朗らかだった表情も、動かなくなった。ずっと引きこもり、時に本を読んで過ごすようになった。暇を持て余した結果、今までそっぽを向いていた分野にも興味を持つようになった。物語の世界は自由で、空想の中ではなんでも出来るようだった。

 カナタがタイムトラベルに興味を抱くようになるまで、そう時間はかからなかった。とあるSFの小説を読んだことで、タイムトラベルという概念を知り、自らにも出来るのではないかと希望を見出した。

 勉強に勉強を重ねて、時間というものの存在について問い続けた。宇宙について学び、物理学について視野を広げ、化学への見聞を深めた。

 天才少女などと持ち上げられても、カナタの心は満たされなかった。母親に不満があるわけではない。ただ父親に対する罪悪感は、ずっと心の奥底に溜まっていて、何をしても消えていくことはなかった。父親を亡くすにはまだまだ幼すぎた。もっと撫でて欲しかった。もっと抱きしめて欲しかった。

 でも、カナタ自身の不注意のせいで命を落とした父親に、愛される資格なんかない。そう思っていた。






 ある時、父親の片手がどうして不自由なのかたずねたことがあった。両親からは、事故にあったからだと聞かされた。学生時代のデートの最中、地震により落下した看板に押しつぶされ、怪我をしたことがきっかけだった。そしてその前に性行為をしたことがきっかけでカナタを身篭ったと、その事実は酔った勢いで祖父が教えてくれた。カナタは、その出来事を、何らかの天罰のように感じていた。結婚という過程を経てから子供を授かるべきという、一般的な価値観は持ち合わせていた。それを破った大好きなパパとママのことを、少しだけ嫌だと思った。

 そして、事故により父親は還らぬ人となった。自分自身の浅はかさも後悔していたけれど、カナタはもう一つ悔やまずにはいられないことがあった。

 父親の手が自由に使える状態であれば、死んでしまうことはなかったのではないだろうか。馬鹿げたもしもの話ではあるけれど、その可能性を捨てきれなかった。

 もしも過去に戻れるのなら。

 カナタは、そんな想いをずっと抱えて生きていた。






 研究所に誘われ、実験の機材や研究の設備を得てからは、目まぐるしく時は過ぎていった。時空を超える鍵は光の速度を超えることだと仮説を立て、この世で最も早い光を超える方法を模索した。数えきれないほどの実験と観測を繰り返しているうちに、結合や分解を繰り返す奇妙な物体を発見した。後にそれは、素粒子iと名付けられた。大半の研究者は光を超える速度に懐疑的であり、ましてや人が伴っての時間移動なんて不可能だと吐き捨てるような反応だった。もし本当にタイムトラベルが可能になってしまえば、歴史の改変や不当な支配が巻き起こる可能性があると、成功してしまうことに危惧しているようだった。

 カナタは、一人で研究を進めることにした。時折、協力的な研究者の助けを得て、苦心の末にタイムペンダントを開発した。

 誰にもいわずに、カナタは一人で行くことにした。考えられる危険をいくつか想定し、倉庫の奥で眠っていた怪しげな道具もいくつか持ち出した。

 立てた仮説によれば、タイムトラベルが成功しても、その時点で過去が別の未来を辿る。カナタがいかなかった世界とカナタが現れた世界に分かれる。つまりタイムトラベルは新たな未来を生むだけで、現在の改変は行われない。現在に影響がない以上、タイムトラベルなんて無意味な行為であるという仮説を立てたゆえに、カナタはタイムトラベルを実行した。

 直前まで、いつの時代に行くのか悩んだ。そんな時、母親がいっていたノロケ話を思い出した。

 高校生の頃の父親は、とてもかっこよかったんだよ。

 高校生時代の父親は、ちょうど母親と出会い、性行為を行ったはずだ。そして、事故により後遺症を負った。

 かっこいい父親に興味があったことと、事故の発生を防ぐための手助け。その両方が理由となって、タイムトラベルの時空を決めた。

 そんな行為が成功したところで、自分の父親が生きかえるわけがない。むしろ生きかえってしまうようなら、タイムトラベルなんて危険な行為は、完全に禁じられる。

 だから、仮説が正しいことを信じることにした。そして、せめて別の世界の父親にだけは、元気に生きていて欲しいとカナタは願った。






 過去に囚われていた頃の自分自身は、一種の興奮状態にあったのではないかと考えていた。カナタは、改めて過去での自分自身について思い返していた。幼馴染という関係性を選んだことに、さしたる理由はなかった。ただ、クラスメイトよりは近しくて、兄妹よりは距離を置ける。遥の近くにいることが不自然ではなく、完全に寄り添うほどではない。丁度良い距離感のように感じたからだった。

 天鳥という名字は、ただ単に響きが気にいったからだった。アトリという名前の鳥がいることは知っていて、なんとなく印象に残っていたのかもしれなかった。もっとも、漢字として花鶏と表記することは、後で知ったことだった。

 普段は無口で物静かな性格になってしまっていたにも関わらず、遥の前では元気な姿でいられた。時に世話を焼き、時にお姉さんぶるように振る舞った。そして、思い出すと恥ずかしくなるほどに、甘えた姿も見せてしまった。頭を撫でてと甘える自分の行動が、正常であるわけがなかった。今でも遥との思い出が想起されるたびに、柔らかい何かを無限にぼかすか殴りたくなってしまう。それほどまでに、カナタはかつての自分に羞恥心を感じていた。

 同い年だったとはいえ、相手は父親だ。もう会えないと思っていた父親と会えたことに、舞い上がっていただけなんだ。

 そうやって理由をつけても、恥ずかしいものは恥ずかしかった。

 しかも、あろうことか実の父親とキスまで交わしてしまった。自分で蒔いた種とはいえ、性的な行為も許してしまいそうになった。病的なまでに錯乱状態だったゆえの暴走だった。恋愛感情を抱かないための予防策として、毎日「わたしのことを好きになっていないか?」と意味不明な問いかけをしていたのに、この体たらくだった。好きという気持ちは、時に人を狂わせるのだと、身をもって知ることができた。カナタにはもう両親の行為を、軽はずみなものだと批判できなかった。想いが倫理を凌駕してしまうことを、実感してしまったのだから。結果的には、遥と苦難を乗り越えて、怪我を負うことなくタイムトラベルを終えることができた。幼馴染としての情報が消えたことで、カナタに関する記憶も全部なかったことになっているはずだ。過去にできる限り干渉をしないという方針に則った、パーフェクトに近い結末だった。カナタは、今回の結果については研究者として誇りに思っていた。これ以上にないくらい、実験は成功を収めたのだ。

 けれど、理性とは方向性を別とする、心の一部分はこういう。

 大好きな遥ともう会えないことは、寂しい。

 思い出してもらえないことは、辛い。

 痛む心が精神の不安定さを導いているのだとしても、カナタは心の声を無視し続けた。






 気がつけば、かつて寝ぐらにしていた洞穴の前で佇んでいた。いつの間にか降り出した雪に冷やされて、とても寒い。けれども、じわじわと染み込む感情に囚われて、ここから動けなかった。

 二十歳になったことで、かつての約束を思い出した。お酒が飲める年齢になったら、一緒に飲もうといってくれた。遥との約束。絶対に叶うわけがないとはわかっていながらも、奇跡を信じていた自分は、とてつもなく乙女だったのだろう。

 けれど、そんな果たされない約束を思い出して、お酒を買ってしまっている自分も、結局は成長していないのかもしれない。お酒の良し悪しはわからなかったため、飲みやすそうなカクテルを購入した。甘そうだったし。


「誕生日おめでとう。私」


 洞穴を眺めながら一人、カクテル缶を掲げる自分は、間違いなくアホそのものだろう。

 かつての思い出は、一時的に心を温めてくれた。繋げていった思い出は、寂しさを瞬間だけ埋めてくれた。

 けれども、回想を終えてここにいる自分は、残念ながらひとりぼっちだった。


「……遥は、元気にしてるのかなー」


 カナタが大好きだった、あの遥がどうしているのか、気になってしょうがなかった。素直との性行為は行われなかった。怪我をする事故は回避できた。それだけで、カナタがいる時代の出来事とは、随分と違っている。きっとここの遥とは、全く違う人生を送っているだろう。そう信じている。けれども、もしかしたら回避した行為なんて意味がなくて、大好きだった遥も運命に嫌われて死んでしまうことだって、充分にあり得る。人が亡くなる原因は、何も事故だけではないのだ。知ることが出来ないことはわかっている。それでも、その後の遥がどのような人生を送ったのか、カナタには気がかりで仕方がなかった。


 カナタは、遥から貰った髪飾りに触れた。タイムトラベル以降、髪飾りを付け忘れたことはなかった。遥とカナタを繋ぐ、唯一の絆のように感じていた。

 触れていると、撫でられた感触も同時に思い出して、体全体が熱くなってきた。撫でられて、抱きしめられて、好きだっていわれた。父親としてじゃなくて、男性としての言葉だった。想いに応えられないと決めていたにも関わらず、嬉しくて仕方がなかった。帰ることを放棄する未来を、思わず描いてしまうほどに。

 首を大きく振って、恥ずかしい思考を飛ばした。パパと結婚するなんていっていられるのは、精々幼稚園児までの特権だ。もう年齢上は大人になったのだ。

 けれども、大人になったからといって、寂しさを埋めてくれる理由にはならなかった。


「遥……会いたいな」


 呟いた願いは、実態となり、輝きに変わった。

 鳥型の髪飾りはふいに光を放ち、カナタの視界を一瞬にして奪った。理解を超える出来事に恐怖心を感じて、体を丸めた。一体何が起きているのだろう。今まで髪飾りが特別な力を発したことはなかったし、そもそもただのアクセサリーであったはずだ。何かしらの細工を行わない限り、不思議な現象が起こりうるはずはない。

 まとまらない思考を探っていくと、一つだけ心当たりがあった。遥とカナタ。それ以外にもう一人だけ、カナタの髪飾りに触れた者がいた。人類を凌駕する能力を持った、息子が大好きなカナタのおばあちゃん。

 星八リム。

 その名に思い至った時、強烈な光は収まり、やっと視界が戻ってきた。

 最初に見えたものは人影だった。おぼろげだった景色は徐々に形を取り戻した。クリアになっていくに連れて、人影の正体は鮮明になっていった。

 その人物を正しく認識した時、心に落ちた衝撃で、言葉を忘れた。ただ本能だけが動き出して、ドキドキと鼓動が止まらなかった。


「あれ、なんでこんなところにいるんだ? 帰ってカナタの誕生日パーティをしなくちゃいけないのに」


 困ったように頭を掻いているのは、大人びた雰囲気の男性だった。顔つきや髪質から40代ほどであると推測できた。少し顔つきが精悍なものへと変化していたが、優しい雰囲気の面影は残っていた。きっと毎日美味しい料理を食べて、ワガママで甘えん坊な娘に振り回されているのだろう。

 左手にはかつて付けてあげた思い出が宿っている、シンプルなブレスレット。


「君は……どこかで会ったことがあるような」


 遥はへたり込んだカナタの姿を発見し、頭を抱えて悩み出した。カナタは、突然現れた遥を見て、動くことが出来なかった。ドキドキと心臓は激しくて、溢れる感情は頭を沸騰させていた。もうどうすればいいのかわからなかった。

 カナタは、遥が言葉を紡ぐまで、じっと待ち続けた。舞う雪が世界を白く染めていく。沈黙を貫く遥は、何を考えているのだろうか。耳に結晶が触れて冷たい。けれども、遥を目の前にして動くことも出来なかった。カナタはただ、時間と共に変わる景色を受け入れ続けていた。

 そして。


「……久しぶりだな、カナタ」


 感情は爆発して、灰色の世界は色を持った気がした。

 カナタは、目の前で起きた事象に説明をつけようと思考した。リムが髪飾りに遥の情報を保存。発動する時間を指定し、保存した遥の情報を元に、別時空からカナタとかつて過ごした遥を割り出した。そして素粒子変換と時空移動を同時に行って、この時代に遥を呼び寄せたのだろうか。

 加えて気になったことは、心の奥深くに眠っているはずの記憶が、なぜ蘇ってきたのか、という疑問だった。記憶自体は消えているわけではない。となると、リムが遥を呼び寄せた際に、きっと記憶の底からカナタに関する出来事を掴み取った上で、この時代に遥を再構成したのかもしれない。

 なんとなく説明のつきそうな理由を考えてはみたけれど、事実はどうでも良かった。

 カナタにとって重要なことは。

 大好きな遥が目の前にいる。

 それだけだった。


パパ!」


 カナタは駆け出し、かつてより年月を重ねた、遥の胸に飛び込んだ。世界中のどこよりも安心できる、カナタにとっての特等席だった。この場所で温められて、優しい言葉のスパイスがかかれば、それだけでもう何もいらなかった。


「遥! 今日でね、私は二十歳になったんだよ」

「そうか。うちのカナタは、もう中学生になったんだ。最近は彼氏でも作ろうかなーとかマセたことをいって困ってるよ」


 カナタは遥の近況を聞いて、安堵に包まれた。きっとそっちの世界のカナタは、捻くれることなく明るく人生を謳歌しているのだろうから。

 自分のやってきたことは、決して無駄じゃなかった。遥の力になれていた事実が、とても嬉しかった。


「私ね、いっぱいいっぱい頑張ったんだよ。だから、褒めてほしいな」

「ああ、もちろん。カナタは本当によくがんばったな。いいこいいこ」

「えへへへー」


 頭を撫でられて、それだけで幸せな気分になった。買ってきたお酒も、無駄にならなくて済みそうだ。

 すぐに消えてしまうであろう、泡沫うたかたの奇跡であることは、ぼんやりと理解していた。けれども、今だけは優しい夢に身を委ねることにした。

 色を失くしたようだった世界が、色彩豊かな素晴らしいもののように感じた。かつて一人で塞ぎ込んでいた幼い自分が、笑顔を取り戻していくような、そんな錯覚を見出していた。

 ワガママと罪悪感に満ちた、寂しがりやは大人になった。笑ってしまうような奇跡が終われば、過酷な現実が待っている。

 けれども、どんな苦労が訪れても、カナタはきっと大丈夫だと感じていた。遥と過ごした夢のような日々と、心を満たす思い出を築いたから。これからの苦難も、乗り越えられるような気がしていた。

 遥か彼方から訪れた奇跡は、凍てついた心に雪解けをもたらした。

 だからきっと、これからも大丈夫だ。

 なんたって。

 ハルカナコンビは無敵なのだから。

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遥から彼方まで 〜またママに会いたかったけど、迫られるのは予想外〜 遠藤孝祐 @konsukepsw

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