エピローグ 遥からカナタまで

「準備完了だ。それじゃあ行くぞ」

「ああ。運転はお願いするよ」

「今日の遥に運転を任せたら、どうなるかわかんねえからな。安全運転で急ごう」


 遥は暁と共に車に乗り込んだ。上司にどうしてもと頼まれた出張中に破水したと聞かされた時は、どうなることかと心配した。無事に分娩は終わり、母子共に健康という報告を受けて歓喜に震えた。聖夜に誕生した愛しい我が子には、奇跡に護られているような誇らしさを感じた。出張先で一泊する予定もキャンセルし、ようやく戻ってきたところを、暁に車で拾ってもらった。

 結婚してから二人の時間を過ごし、二年の歳月を経て子宝に恵まれた。妊娠したと聞かされた時には、嬉しさのあまり眠れない夜を過ごした。

 付き合ってからの日々、結婚してからの日々、妊娠してからの日々と、様々な思い出が駆け巡っていた。食事がまともに摂れなくなったと思えば、精神的に不安定な様相を見せる場面もあった。遥はできる限り妻のサポートを行い、やれる範囲で気遣いを欠かさなかった。本当に苦しいのは自分ではなく妻の身だと考えると、仕事にも一層身が入った。

 いよいよ妻と子供との対面が近づいてきて、ふいに遥は妻との会話を思い出していた。それは妊娠がわかった時、まだ見ぬ子供へと思いを巡らせた時のことだった。


「男の子と女の子。どっちが産まれるかな?」

「わからないけど、どっちでも構わないよ。でも女の子だったら、つけたい名前があるんだ」

「男の子だった時の名前も考えてあげようよ」

「その通りなんだけど、なんでかな。最初の子は絶対に女の子が産まれる。ただの勘だけど、そう思うんだ」


 産まれてきてくれたのは、案の定女の子だった。妻は相当驚いていたけれど、遥にとっては当たり前のことだった。だって、彼女がそういっていたのだから。

 それで、その彼女というのは誰のことだっただろうか?

 いくら考えても、やっぱり何もわからなかった。


 遥はまだ見ぬ我が子について思い浮かべた。対面した時のことを想像していたら、顔はにやけてコントロールできなくなった。病院に着くまでにはなんとかしなければと焦った。


「それにしても災難だったな。せっかくの日に出張なんて」

「仕方ないといえば仕方ないんだけど、正直側にいてあげたかったなって思うよ」

「まあその気持ちがあるだけでも及第点か。でも喧嘩した時は覚悟しとけよ。あの時きてくれなかったって、拗ねられるかもしれないからな」

「父さんは身に覚えがあるの?」

「……ノーコメントで」


 幼い頃にいなくなった母を思うと、胸の奥がざわつく感覚があった。印象はだいぶ薄くなってしまったが、寡黙でよくわからない母親が、少女のように拗ねる姿を想像すると、なんだかおかしかった。

 いつからだろうか。長年母親とは会えていないにも関わらず、体温や柔っこさは時々思い返された。まだ子供だった頃は不安で不安でたまらなかったはずなのに、今は確信を持って信じていることがある。今も昔も、ずっと母親は自分のことを見てくれていた。きちんと愛されていた。今もどこかで、ひっそりと祝福をしてくれているのだろうと、根拠もなく信じられた。


 病院の前に到着すると、遥は車を降りて、妻の待つ部屋に向かった。暁は車を停めて、それから向かうからと遥を先に降ろした。父親の気遣いに感謝しつつ、受付を済ませた。病室は5階にあると教えてもらい、エレベーターを待つことも億劫で階段を登った。

 一歩二歩と踏みしめる度、ワクワクが大きく膨れ上がっていくようだった。子を成すことは初めての経験なのに、何年も焦がれていたような、不思議な感覚だった。その気持ちの出所は、自分自身もわからなかった。

 大きく腕を振り乱し、階段を登る。左手の手首から光が射した。いつも肌身離さず身につけている、出所不明のブレスレット。シンプルなデザインはとても気に入っているのだが、一体どこで手に入れたのかは、思い出せなかった。


「どうしてなんだろうな」


 ブレスレットを視界に映すたびに、胸が高鳴る。温かみに安らぐ。そしてちょっぴり切なくなる。それなのに、何も思い出せなかった。

 遥は時々夢を見る。出てくるのは決まって不思議な女の子だった。表面的な記憶の殻には存在しない、優しくお転婆。そしてとっても甘えたがりな女の子。よく知っているようで、何も知らない。けれども、そんな夢を思い出した朝は、ちょっとだけ心が潤って今日をがんばれる気がしていた。


 階段を登りきると、息は切れて一瞬目眩に襲われた。仕事明けに体を動かした反動か、倒れてしまいそうになったが、なんとか堪えた。妻と我が子を見るまでは、倒れてたまるか。

 小走りで廊下を進むと、子供から母親になった人たちと何人もすれ違った。自分もここから、親になっていくんだと思い、身が引き締まる思いだった。

 清潔感溢れる純白の部屋に足を踏み入れると、愛する妻がベッドに横たわっていた。その瞳は慈愛に満ちていて、大きな仕事をやりきった姿には貫禄すらも感じた。


「素直、よくがんばったな!」

「わたし、すっごくがんばったよ。偉いでしょ」

「ああ。本当にすげえや。ありがとう。そしてお疲れ様」


 素直のもとに駆け寄り、その手を握った。繊細で脆い印象だった手のひらも、今ではしっかりと力が込められていた。不安や不幸に翻弄される少女から、強く大きな母親の手に変わっているようだった。


「わたし、これでお母さんになったんだね。それで、遥は今日からお父さんだね」

「なんだか不思議な感じだけど、まだうまく出来るかちょっぴり不安なんだ」

「わたしも実はすっごく不安なの。だから、二人でがんばって乗り越えていこうね。これからも、よろしく」

「ああ、よろしくな」


 二人で笑い合うと、先への不安が少しだけ和らいだ。一人ではできないことも、二人だったら乗り越えていける。月並みで当たり前のようで、実はとても難しいこと。共に歩んで行こうと、改めて誓った。

 気持ちを新たに決意をして、部屋を見渡してみる。子供用の小さなベッドは空になっていて、愛しの我が子の姿はなかった。


「そういえば、ラブリーマイエンジェルちゃんは?」

「その言い方はおかしいね。今は看護師さんがお風呂に入れてくれているところ」

「そうか。待ち遠しいな」


 素直のことを労いながら、遥は我が子が戻ってくることを、今か今かと待ち続けた。十秒も待たずに何度も時計を眺めて、そんな姿を素直に笑われた。羞恥心を感じたけれど、それでもそわそわは治まらなかった。早く会いたい気持ちはあるけれど、最初はなんて声をかければいいのだろう。パパだよ? パパです? パパをさせて頂くことになった遥です?

 グルグルと思考は定まらなかった。急に不安と緊張の方が強くなった。心臓がばくばくと暴れ出した。こんなに緊張しているのは、素直の両親に挨拶に行った時以来だった。

 やがて、廊下から響く足音と、甲高く天使みたいな声が聞こえた。近づいてくると知るたびに、心臓を掴み取られたように痛く、熱く感じた。

 そして、ついに我が子と対面を果たした。


「あらあら素直さんの旦那さんですよね。ほらほらパパですよー」


 赤ん坊を抱きしめた若い看護師は遥に近づき、眼前で屈んだ。一瞬視界に映ったネームプレートは、雑歌と記されていた。その名前には、見覚えがあるけれど思い出せなかった。


「あ、ああ」


 第一声はとても間抜けなもので、意味のある言葉にはならなかった。まだ世界の形に収まらず、無垢な姿は純粋を体現したようだった。体の奥から、湧き出るように感情がこぼれ出した。言葉になんて、なるはずがなかった。圧倒的な感情に押しつぶされて、思わず涙が出そうになっていた。


「ゆっくり、抱いてあげてくださいね」


 看護師から受け取り、体温を直接感じた。熱く、柔らかい。しわくちゃな顔も、小ちゃな手足も、天使のような声も、みんなみんな愛おしい。この世の中で、これほどまでに愛情を掻き立てられる物があるのかと、驚きで満たされた。ほんの少しだけ、父親の気持ちがわかったような気がした。我が子のためであれば、自分のことなんて犠牲にすることも厭わない。何を失ったとしても守りたい。自分以上に大切な存在に、こうして出会うことができた。


 もう我慢なんかせずに、遥は涙を流した。きっと順風満帆な日々だけではなくて、予想もつかない困難や苦労があることだろう。うんざりとして投げ出したくなるような、思わぬ不幸にだって見舞われるかもしれない。それでも、負けるわけにはいかない。これから絶対に守っていくんだ。幸せにしてやるんだ。

 幾千もの思いを巡らせながら、父親としての最初の言葉を、愛しの娘に贈った。


「産まれてきてくれてありがとう。カナタ」

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