4ー9 どちらかを選べ

「おはよう遥」


 目が覚めると、目の前にカナタの顔があった。微かではあるが、甘さを連想させる香りが鼻についた。以前どこかで嗅いだことのある香りだが、寝起きの頭では思い出せなかった。


「お、おはようカナタ。なんか近くないか?」

「そうかもね。まあいいじゃない。お休みだし」


 よくわからない理屈を言いながら、カナタはソファーに寝転がった。せっかく先に起きていたのに、また寝転がっては意味ないんじゃないかと、お節介気味に思った。


 遥は、昨晩思い浮かべたことについて考えていた。

 未来に帰らずに、ずっとカナタと暮らしていく。

 馬鹿げている可能性だと、自分でもわかっていた。けれど、帰還した瞬間に危険が迫っていることに、やはり恐怖を感じる。だからこそ、逃避にも取れる選択肢にすがりたいんじゃないのか。

 それに置いてきた父親や素直のことを考えると、安易に帰らないなんて選ぶわけにはいかない。

 相反する考えがぐるぐると回り、思考がうまく定まらなかった。じっとしてられなくて、とりあえず外に向けて歩き出した。カナタは休日だからといって、未だソファーで寝転がっていた。


「はるかーどこ行くの?」

「ちょっと散歩。カナタも行く?」

「行かなーい。私は今日もお休みモードだよ。帰ってきたら、また構ってねー」


 手を振って外に踏み出す。冷やされた外気は、火照った頭を少しだけさましてくれた。

 山道に沿って歩き、すれ違うご老人に挨拶を交わしながらも、遥はずっと上の空だった。

 昨日にも増して、心に浮かんでくるのはカナタのことばかりだった。元いた時代にも、大切なものは多くはないけれど、あったはずだ。真面目で優しい父親、好意を抱いてくれる素直、そして、カナタとのこれから。

 戻らなければいけない理由はたくさんあった。あとは方法を探し続けるだけ。

 けれど、今の状況が世界の終わりの形であるなら、どこにも行けないなら、それはもう仕方がないことじゃないだろうか。

 閉じられた世界で、四日間しか猶予がなくても、リムも暁もいる。雑歌夫妻とも関係を築ける。何より、カナタとは記憶も思い出も、これから共有していけるのだ。

 終わってしまった形が繰り返すことなら、永遠に続いていくかもしれない日々は、魅力的なものだった。カナタがいるなら、きっと苦痛ではない。

 それなら。


「鳩さんアタック!」

「いってぇ!」


 後頭部に痛みを感じて、思わず頭を抑えてうずくまった。二発目がこないことを確認すると、立ち上がって周囲を探した。すると、見つけた。新緑が初々しい若木の枝に、人語を操るくすんだ鳩がふんぞり返っていた。


「鳩さん、アンタか。いきなり何するんだよ」

「何するんだやあるかい。随分と景気の悪いツラしよって」

「景気悪いツラは元からだよ。それにしても、鳩さんに心配される俺って……」

「もう何周目かは知らんけど、なかなか苦戦しとるんやな」

「そうなんだよなあ……って鳩さん、なんで知ってるの!?」


 遥は鳩に手を伸ばしたが、掴む前にさらに高い枝に移られてしまった。


「にいちゃん、いきなりワシを捕まえようとは、いい度胸やないか」

「ご、ごめんなさい。驚いたもんだからつい」

「まあワシは心が広い。今回は不問にしといたるわ」

「ありがとうございます。っていってる場合じゃない。鳩さんは、この事象について、知ってるのか?」

「知ってるってほどではないけど、ワシも記憶のリセットは受けてないんや。境遇としてはアンタらと同じようなもんや。それに二周目の時にいうたやないか、今は何もいえんて。ワシの記憶が消えてたら、そんなセリフいわへんやろ?」


 鳩のいうことは、もっともだった。最初の周と次の周は、ほとんど同じ行動をとっていたにも関わらず、鳩だけは思わせぶりな口ぶりだった。にも関わらず、貴重な変化に気づかず、何周も時間を重ねてしまっていた。


「気付かなかった俺がバカでした。ところで、何か俺に用事が?」

「せやせや。ワシの役目は、お助け役やからな。ワシも詳しいことはいえへんのやけど、最近のあんたたちは停滞しとる。そうやろ?」

「……まあ、否定はできないけど」


 正直なところ、状況としては手詰まりといえる。思いついたことは試した挙句に、失敗を重ねてきた。失敗をするごとに心の重みは増していき、気力が削がれて形を無くしていった。沈殿したストレスは自信を砕いて、絶望と呼ばれる感情へと変わっていった。だからこそ、カナタがあそこまで爆発してしまったのだ。

 二人の関係性は修復できたけれど、状況は何一つ好転してはいなかった。


「それで、この世界の観測者様も大層心配されててな、助け舟を出したろうということで、ワシがこうして現れたっちゅうわけや」

「世界の観測者様? そんな奴がいるのか? いってしまえば、神様みたいなものか?」


 鳩は三度ほど首を曲げ、ゆっくりと吟味するように話し始めた。


「神様……っちゅうのは正確にはニュアンスがちゃうなあ。まあでも、この世界においてはそういうことでええんかもしれんな。時空が捻れて、閉じられた状態にしたのは観測者様やからな」


 思わぬ発言に、遥は驚愕し声を荒げた。


「この状況は、その観測者様が作った人為的な状態だっていうのか?」

「人為的っちゅうのも、おかしな表現やな。誰かの意図で作られたいうんなら、そうかもしれんが、ただの人にこないな大規模なことはできんでな」

「神の奇跡とでもいえばいいのか。まあ呼び名なんてどうでもいいか。聞きたいことは山ほどあるけど、今日は助け舟を出しにきてくれたんだろ。どこまで助けてくれるんだ?」

「うむ、ようやっと本題や。観測者様からのお慈悲でな、元いた時代に帰したるよ」

「本当か!?」


 突然の提案ではあるが、藁にもすがりたい現状には、希望の光のようだった。ふいに垂らされた蜘蛛の糸に、飛びついてしまいそうになる。

 帰らない選択肢が頭をよぎっても、理性では帰らなければいけないと心を決めていた。それに、自分自身だけならまだしも、カナタにだって戻ってからの生活もあるのだ。現代に帰ってからでも、関係性は続いていくと信じられるからこそ、帰らなければならないと思う。


「おっと、喜ぶのはまだ早いで。うまい話にゃ裏がある。それはもはや社会での常識やで」

「鳩さんに語られる常識って……痛み入ります。確かに都合よすぎる展開もどうかと思うし。それで、裏には何があるんだ?」

「うむ。ワシはもったいぶるんは苦手やし、率直にいうで」


 鳩さんは、決めポーズのように、羽を広げて遥の方へかざした。


「元の時代に帰れるんは、遥かカナタの、どちらか一人だけや」

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