第5章 全てが進む時
5ー1 悲しい歌に誘われて
行くあてもなく、一人で洞穴まで移動した。洞穴はそのままの姿で口を開けていて、木製のドアは見当たらない。もちろんカモフラージュのための山壁もなかった。
短い間でも、様々な思い出の詰まった場所に腰を下ろした。いつも流れていた呑気な声は聞こえない。風が通り抜ける甲高い音、木々のざわめき。それらは物悲しい響きに聴こえた。
一人を実感すると、余計に寂しさは絡みついてくるようだった。人は本質的に一人なのだとしても、誰かの温もりを知ってしまった後に、一人を実感することはとても辛い。
遥は、心が思うままに歌った。音程もあっていないがむしゃらな声で。歌の質になんて気を配らなかった。少しでもこの寂しさを紛らわすことができれば、それだけで充分だった。
一曲歌い終わり、膝の間に顔を埋めた。泣いてはダメだと奮い立たせる。ここで泣いたら、また止まらなくなる。
パチパチ。
ふと、音が届いた。控えめな拍手だった。それが誰からもたらされたものかはわからなかった。
「誰か、いるのか?」
「うん」
反響した声には、聞き覚えがあった。徐々に輪郭が露わになり、訪れた人物の姿が映し出された。薄暗い中からも、誰が佇んでいるのかわかった。
聞き間違えるはずのないその声は、リムのものだった。表情までは見えなくとも、発する声と雰囲気は伝わってくる。
「君は、どうしてこんなところに?」
押し倒してしまう展開がなかったから、この場においては初対面だろう。遥としては何度も言葉を交わした相手だけれど、発言には気をつける必要があると感じた。言葉に気をつけて問いかけると、リムからも返事があった。淡々と、事実のみを述べる形で。
「歌が、聴こえたから」
「へえ。君も歌が好きなの?」
「まあまあ」
「そっか。でも、女の子が一人でこんなところにくるのは、物騒だ。早く出て行ったほうがいいぜ」
「行かない。ここにいる」
「君とは初対面だと思うけど。見ず知らずの男の側にいる理由なんてないはずだろ」
「歌が、悲しそうだったから」
遥の促しも聞かず、リムは遥のすぐ隣に腰をかけた。赤く腫れた瞳を見られるのが恥ずかしくて、顔を逸らした。顔を見れなくても、チリチリと焼かれるような視線は感じて、どうにも落ち着かなかった。静寂に満ちた洞穴内では、小さな鼓動ですらも響いてしまいそうだった。
リムは、何をするわけでもなく、ただその場に座り続けた。生物の営みを眺め続ける星のようであり、子供が泣き止むのを待つ母のようでもあった。肯定も否定もなく、ただそこにあるだけ。言葉でも動きでも表現されない。何を求めるわけでもなく、何かを与えるわけでもない。
ただ一緒にいるだけ。
それだけの行為が、とても尊いと感じた。何かから許されたような錯覚。ここにいていいんだという、安心感。
時間の感覚すら曖昧になり、いっそのことずっとこのままあり続けたいとすら願ってしまう。
いつしか涙も枯れて、心の波も物静かになった。
「うちに、くる?」
心を撫でられたような優しい声色だった。
たったそれだけで、心を解きほぐされてしまった。
「……うん」
伊坂山を下り、駅や学校などの主要施設が立ち並ぶ中心街から離れていった。地方都市特有の街づくりのためか、五分もせずに獣が闊歩しても不思議ではない田舎道が開けた。周囲には田んぼが広がり、水路は網目のように続いていた。
そんな中に、ポツンと浮き出たように立っている家が、リムの自宅だった。ノスタルジックな光景に割り込む、ログハウスのような建物は周囲から浮いていた。
二階建てでバルコニーまで完備してあり、まるで避暑地の別荘のような装いだった。
家の中に招き入れられると、驚きの光景を目の当たりにして、思わず疑問が湧いてきた。
「なんだか、物が少なくないか?」
「あまり物は持たない主義だから」
最低限の家電製品は揃えられていたが、装飾品や娯楽品はほとんどなかった。年頃の女の子がよく持っている、ちょっとした収納が出来る小物や写真たてもなく、漫画やゲームの類も見当たらなかった。生きていくために必要な物のみで構成されているように感じた。そこに個性や色彩を見出すことは困難だった。
「どうぞ」
「どうも」
「おいしい」
「そう、それは良かった」
「世話になっちゃって、ごめん」
「別に、いいよ」
発展性のない言葉の交わし合いは、会話というには乏しく思ったが、淡々とした受け答えに、リムらしさを感じていた。思えば、幼い遥がどんなことをまくし立てても、返ってくる返事はシンプルなものばかりだった。簡素な答えだったけど、いったことに言葉を返してくれるだけで嬉しかった。
遥は湯のみを噛みしめるように握った。
部屋の中を観察していると、何やら違和感におそわれた。生活感が薄いどころか、他の人物の残滓すらも見えないことは、異常なことであるように思う。ましてや、今のリムは高校生のはずだ。
「ここには、一人で住んでいるのか?」
「うん。ずっと一人」
「聞いてもいいことかはわからないけど、両親はどうしてるんだ?」
「ここにはいない。詳しいことはいえないけど」
「……そっか」
そう拒絶されてしまうと、この話題については聞きようがなかった。
仕方なく、別の疑問をぶつけた。
「一人暮らし、で間違いはないのか?」
「そう。別に今のところ問題はない」
「いつ頃からここで暮らしてるんだ?」
「ここにやってきたのは、今年の7月24日。高校には二学期から通っている」
「今は高三だっけ。随分と変なタイミングに転向してきたんだな」
「ここにきたタイミング的に仕方なかった」
質問を重ねても、謎が増えていくだけのように感じた。そういえば、父がたの祖父母には会ったことはあるが、母がたの祖父母のことは存在すらも知らなかった。暁は親戚づきあいを積極的に行う方ではなかったとはいえ、何も知らないことはおかしいのではないか。そう思い記憶を探ってみても、何も思い出せることはなかった。
「遥は、どうしてあんなところで歌ってたの?」
質問が返された。できるだけ事を明かさずに、なおかつ嘘にならない答えを探した。
「俺の歌を好きっていってくれた人がいて、ずっと隣で歌を聴いてくれた人もいたんだ。今はもう二人ともいなくて、ちょっと寂しくてさ」
「遥は、一人でいると寂しい?」
寂しくない、と強がる選択肢もあった。
けれど、リムの前では感情を隠す必要はない。そう感じた。
「もちろん、寂しいさ。君は、そうじゃないのか?」
「寂しいっていう感情があることはわかるけど、それがどんなものかは、よくわからない」
「随分おかしなことをいうんだな。なんていうか、同情で俺を連れてきてくれたんじゃないのか?」
「同情というよりは……愛情かな。だけど愛情の代償もタダじゃない。遥には、大切な仕事がある」
「もとより断れる立場じゃないけど……大切な仕事って、なんなんだ?」
リムは変わらない表情で、至って大真面目にいいきった。
「私にも愛情をくれること。基本的には遥の自由だけど、私が必要とした時はいうことを聞いてもらう。愛には愛で、応えてもらうわ」
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